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2024/04/18

1812【豊後水道で地震】東京湾内に現存する原子力発電戦艦で近未来の関東大震災は超悲惨

 

東京湾内にある巨大核発電所

また地震だ、また核発電施設がある、困った日本列島だ。
 

2024年4月17日南予で震度6弱の地震発生 伊方は?

 ●伊方原発の近くで大地震

 昨夜、もう寝ようかなと思ったとたんに、ラジオから聞いたことのある不穏な心を掻き立てる音、チャランチャランチャラン緊急地震速報です緊急地震速報です!!
 眠気が突然去ってしまい聞き続けて、南予だって、え~?、あの辺りにはまた核発電所があったなあ、なんて言ったっけなあ、なんてうつらうつら深夜の時報を聞いたあたりで眠ったようだ。

 朝起きて新聞みればまだ書いてない。ネットを見れば、右のようにたくさん登場する。書き方がいろいろあって興味深い。大きな被害はなかったらしいとはわかるが、気になったのは、核発電所の伊方原発についての表現である。先般の能登半島地震での志賀核発電所(わざと原発といわないのだ)のことがあるから気になる。

 「問題ない、安全だ」から「事故があって発電能力が下がった」まで、各様である。能登と違って運転していたが、一部事故で出力が下がったまま発電を続けている様子である。「だから安心しろ」とその筋は言っているらしい。それは事故ではないのかしら?

 でもねえ、地震あるたびに核発電施設の心配をしなけりゃならない現実は、その心配する人間が自ら作ったものである。地震に伴って起こる津波や山崩れの自然災害ではないのだ。心配当事者が自ら作り出した心配であるところがおおきな問題である。そしてこの災害原因を除去することをしないままに過ごしていることが、さらに大きな問題である。いや、しないままどころか、もっと心配の種を増やそうとしているのだから、困ったものである。

 ハザードマップには核発電施設の存在が書いてあるのだろうか。洪水とか津波とか火山噴火とかと並んで書いてあるのだろうか?、もしも書いてないとしたら、大失態である。すぐに核発電所とか核のゴミのような核物質関係施設も重要なハザードとしておくべきだろう。

●東京湾内に現存する核発電施設

 さらに核兵器も書き込むべきだ。え、日本には核兵器はないハズと言うかもしれないが、いや、れっきとした核兵器があるのだ。神奈川県横須賀市のUSA ARMY BASE(米軍基地)の核発電施設を載せた巨大軍艦の空母ジョージワシントンは立派な兵器であり、これの動力は核発電が搭載されている。これが核兵器でなくて何であろう。

 もしも東京湾に巨大津波が押し寄せてきたら、巨大な航空母艦は核発電所を抱えたまま東京湾をさかのぼって、横浜川崎東京を襲うに違いない。それは3・11で東北地方の各海岸部に船が陸に上がった風景を見たのが、ここでは核発電所が陸に上がるのである。どんな事故が起こるか想像すると、身の毛もよだつことだ。関東南部は壊滅するに違いない。


 そうならば、わたしの住む横浜のハザードマップには、横須賀港にあるUSA軍の空母と潜水艦などの核発電施設がハザードとして書いてあるはずだ。そう、書いてあるに違いない。

●第2次関東大震災で東日本壊滅

 神奈川県のサイトには、下記のようなページがある。これは「防災。緊急情報」とあるから、怖いことなのである。今ここに大地震・大津波が来たらどうなるのだろうか?
神奈川県の「米原子力艦寄港情報」ページhttps://www.pref.kanagawa.jp/docs/bz3/cnt/f417274/index.html

 航空母艦は令和5年11月19日から(っていつのこと?、去年かな)潜水艦は令和6年4月18日から(っていつのこと?、今日かい)、どちらも私の住み街の近くに居座っているようだ。怖い怖い。戦争の道具として怖い震災の拡大原因として怖い、それなのにだれもそれを言わないのは何故かしら?、言っても無駄とあきらめているのか、素人の杞憂か?
これが関東大震災で核発電航空母艦だったら?  3・11岩手県大槌町赤浜

 この次の関東大震災は、これらの核兵器戦艦が津波に乗って東京湾を遡上して、その抱える核発電施設から核毒を関東全体に振りまくにちがいない。超悲惨なことになり、すくなくとも関東、いや東日本は壊滅するだろう。
 わたしにできることは、その前にこの世からさっさと退散することだ。それが唯一にして最も効果のある、そして完璧なる防災対策だ。

(20240418記)

本ブログの関連記事

2008/09/29・045【世相戯評】地震に強いかも原子力発電船https://datey.blogspot.com/2008/09/nuclear-carrier.html

2014/08/10・980福島原発なみの東京湾巨大原発が稼働中https://datey.blogspot.com/2014/08/980.html

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2024/03/21

1805【震災ミニ訓練】能登の次は関東で大地震があるような気配で今日は断水訓練

●次は房総半島地震だろうなあ

 なんだか最近は関東あたりが震源の地震が多いような気がする。今日2024年3月21日、朝9時頃に地震があった。うちの横浜あたりは震度3だったが、埼玉県では震度5という結構なレベルで揺れたそうだ。

2024年3月21日9時過ぎの地震の震度分布図
 何しろ今年は北陸では元旦から大揺れだったが、そのあたりではそれよりもだいぶ前から子鯰が群発していたそうだ。関東でもこのところ群発しているから、能登のように今にドカンと親玉鯰が登場してくるに違いないと思う。

日本列島過去100日間の震央分布図

 上のここ100日間の日本列島東半分での震央の分布図を見ると、元旦に起きた能登半島大地震のあたりが特に目立っている。それに次いで南関東あたり特に房総半島がにぎやかであるのが、同じ半島として能登並みになる恐れがありそうだ。できればわたしが死んだ後で来てほしいものだ。大地震が来るよりも先に死のうと、ただいま競争状況にある、か。

●計らずも自宅でミニ被災訓練

 能登震災地ではいまだに水道が開通しないところが多いらしい。実は今日はわたし住まいでも、朝9時から上水道が停まっている。なんとなく能登の被災者気分をちょっぴり味わっている感じであった。災害ではなくて、住まいのある共同住宅ビルの上水道給水ポンプ取り換え工事だから、事前通知により昨夜汲み置きの水で十分間に合ったが、ミニ訓練にはなったかもしれない。

能登の震災地では苦境が続く 20230421東京新聞


断水通知チラシ 
文中に「※不足の事態が・・」とあるが、たしかに水不足事態ではある

 給水がないということは、下水に流せないということで、便所の利用が不便であった。使うたびにバスタブに溜めた水を洗面器に汲んで便所まで持って行き便器に流す。その間4mほどだが、途中でこぼさないようにするのに疲れた。そんな震災ミニ訓練していた朝に、本物地震に出くわしたのであった。

 キッチンには薬缶や鍋に汲み置いておいた。今までにまる1日中をこんなことをやった記憶がない。これが災害で長く続くと、それだけのために避難することになるだろう。人間は水がないと生きられない生物である。


●断水、停電、波、断食など

 ふと思ったのは、水が止まると「停水」でなく「断水」というのはなぜかということ。電力が止まると「停電」といい、「断電」と言わぬのは何故か。電波が止まると「断波」じゃなくて「停波」と言うような気がするなあ、ガスが止まると断か停かどっちだろうか?

 そうか、「断」は水のようにそれがないと、すぐに生きられなくなるものに使うのだろう。「停」は、電力のようにそれが無くてもとりあえずは生きられるものに使うのだろう。
「断食」はまさにそうだなあ、でも「断気」とは言わないなあ。

(20240321記)

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2024/03/11

1802【3・11記念日】この13年間に書いた東日本大震災論考・提案・迷言・オチョクリ200件読み返し

 今日は3月11日、つまり東日本大震災が2011年のこの日に発生した災禍記念日である。直接被災したのではないから、それがどうしたと言われればグーの音もない。しかしまあ、人間は何かを思い出すため、忘れたくないために記念日なるものを発明したのだろう。

 わたしはこの日を思い出すためではなく、この災禍についてただただ好奇心で、この13年間にたくさんの駄文記事を【災害日本オロオロ日録】と題して、このブログに書き記してきた。初めは勢い込んで毎日書いていたが、次第に間遠になり忘れそうになっていたが、能登半島震災が呼び覚ましてくれた。

 このブログに書いたのは、真面目な提案・論考・紀行もあれば、迷言・妄言・オチョクリなどなど、約200件もの駄文である。自分でもよくも書いたと思うが、まあ、ボケ防止対策でもある。このような駄文はいくらでも書くことができるのは、下図に見るように種は尽きない地震列島に住むからである。

地震列島近現代歴史図 202403011東京新聞朝刊

 今ここで【災害日本オロオロ日録】を読み返しているのだが、初めは勢い込んで毎日書いていたのでなかなか面白い。特にわれながら面白いと思うのは、発生すぐの3月21日に「福島原発を世界遺産にしよう」と提案していることだ。その後にそんな話もちらほらネットに登場したが、今は忘れられているらしい。

 この地震最大のイベントであった福島第1原子力発電所の水素爆発については、わたしはネパールでTVを見て知り、大いに仰天したものだ。日本はこの地震で停電続きの日々だったが、ネパールでは停電は日常的な電力事情であるのにも驚いた。

 東日本大震災の現地に初めて入ったのは翌年の11月だった。この時は「森の長城」と称する緑の防波堤づくりボランティアとして、どんぐり拾いに行ったのであった。その時に拾ったドングリは、今はどこかの森の長城の一員としてのシイやタブの木となって、防潮堤の上に育っているに違いない。

 現地を知らないのにネット情報だけで、盛んに復興案の批評・論考・提案をしているのが面白い。今読むとどれ一つとして実現した提案はないようなのは、机上の空論だからだ。だがわたしにはずいぶん勉強になる自主作業だった。
 その一つに有名な陸前高田の松原と一本松に関する論考を書いているが、さて、現実はどのような姿になているのだろうか。

 大きな震災地に復興支援の手伝いで初めて入ったのは、2004年の中越震災の時だった。10年ほども継続した現地入り活動については、【法末集落復興日録】と題してこのブログに載せている。しかし東日本大震災現場へは、復興支援ではなくて何回かの野次馬見学であった。それでも中越の時と同じように学ぶことが多かった。

 2013年4月には仙台から釜石までの津波被災地をめぐってきた。津波のエネルギーの強大なことに、既存防波堤や防潮林の破壊ぶりに見て仰天した。机上の都市計画のもろさも知った。2014年9月にはようやく福島核発電所事故被災地へ入ることができた。目に見えない被災を見つめ、発見し、考える旅であった。核発電の恐怖を身近に見て感じて、観念的でない核発電反対を言うようになった。福島県ではいまだに核毒から逃げて大勢が避難している。

今も核の毒から避難する人が大勢いる 東京新聞20240311

ここを最終処分地にするしかない!、ここを福島県から分離すれば県外処分だ!?

 あれから13年、毎年のようにこの前日の3月10日から、人災と天災について考えるのだ。特に今年は元日の能登震災から始まったので、記憶の底になりそうだった東日本震災時にあれやこれやと考えたことの記録を読み返したのであった。われながら面白い。4冊のブックレットも作っているのだ。

 さて、来年もまた読み返して考えることができるかどうか、地震ならぬ自信のない年齢になってしまった。いや、来年早々にも大地震が来るだろうから、きっと読み返すだろうと思う。それは自分が被災してあの世に避難してしまっていなかったならば、、いや、被災の前にすでに自主避難完了かもしれない。

 アッ、そうだ、まさかと思うが大人災が起こって、【戦争の記憶】も読み返すことになるだろうか。ウクライナ、パレスチナ、さて次は東アジアのどこか?、いやだいやだ、やっぱり早期自主避難しかないな。

(20240311記)

参照ブログ記事災害日本オロオロ日録

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2024/03/02

1799【コロナ10波越え房総に地震】願わくは花のもとにて春死なむその房総になゐ振る前に

●コロナ第10波がピークを過ぎたらしい 

 2月から3月へと移行したが、とたんに天候が変わるわけでもないのに、なんだか春になったと感じるのがおかしい。今月は桜の花見できるぞと思うだけで、春になったことは確実だ。そこで毎年詠う本歌取りのうた。

 願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月のコロナ

 西行のこの元歌は旧暦2月詠であり、今は3月に詠うべきだから、まだあと1カ月はコロナが消えない限りはこの歌の効力はあるのだ。コロナ以来この4年、毎年毎年詠うのだが、実現しないままだ。

 と思っていたら、どうやらもうこの歌も今年で終わりらしい。それは、コロナ第10波が山を迎えて下り坂に来たからである。もちろん11波も12波のあるのだろうが、このところどうも歌に詠うほどの迫力がコロナに失せてしまったのが、残念、いや、喜ぶべきだな。



●能登半島の次は房総半島か 

 コロナが終わろうとしたところに、能登半島大地震がやってきて、災害日本いや災害地球を如実に感じている。さらにそれを強調するかのごとくに、今度は房総半島の沖で地震が群発しているとのことである。そういえばうちでも昨日も揺れたなあ。房総半島のナマズが能登半島のナマズに負けてはならないと、暴れ出したらしい。

 わたしの住む横浜の東京湾を挟んで東にあるのが房総半島だから、能登半島に対する金沢の立地に似ている。能登並みに房総が揺れたら、こちらも安泰ではない。コロナに続いて、まだまだ心が休まることがない。というか、あれこれと心が忙しくて、これではボケていられないと年寄りは思うのである。もしかしたボケ防止には災害がイチバン効果あり、?

●東京湾の核発電所は大丈夫か

 ところで能登には志賀町に核発電所があるごとく、東京湾にも巨大核発電炉があるのだから心配だ。これって、もしかしたら忘れている人が多いかもしれない。これが大地震が来たらどうなるのかしら。10年前にわたしはこのブログにこんなことを書いている。

 あるネットページにはこう書いてある。
 原子力空母ジョージ・ワシントンは、米海軍の主力空母ニミッツ級の6番艦で、1992年に就役。通常型空母キティホークの後継として、2008年に横須賀港を事実上の母港として配備された。全長332.85m、満載排水量10万2千トンと、軍艦としては世界最大の大きさを誇る。加圧水型原子炉2基で駆動する4基の蒸気タービンを主動力とし、最高速力は30ノットを超える。戦闘攻撃機、哨戒機、ヘリコプターなど約70機の航空機を搭載し、乗組員はおよそ5500人
USA軍横須賀基地と核空母停泊場所

 今はUSAで改造中なの東京湾にはいないが、今年中に戻ってくるらしい。つまり5500人の生活を支えつつ10万トンもの軍艦や70機もの軍用機などを動かすほどの大エネルギーを生産する2基の核発電炉が東京湾上にあるのだ。これが地震で事故を起こさない保証はあるのだろうか。例えば能登のように海底が盛り上がってきて、空母が座礁したらどうなるのか。よくわからぬが、東京圏ではものすごく怖いことが起きるだろう。

 そこで本歌取り狂歌   (注:「なゐ振る」とは大地が揺れることの古語)

願わくは花のもとにて春死なむその房総になゐ振る前に

(20240302記)

参照
2014/08/10/・980福島原発なみの東京湾巨大原発が稼働中https://datey.blogspot.com/2014/08/980.html

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2024/02/21

1795【みちのく潮風トレイル】太平洋岸の自然と文化を辿る旅路から福島第1原発を除外は何故か

 今日の東京新聞夕刊1面に「みちのく潮風トレイル」なる長距離遊歩道の紹介記事がある。環境省の仕事で、北は八戸から太平洋海岸伝いに松川浦までの1000km、その間の自然と文化をたどるそうだ。

 おお、あの福島原発事故現場も当然にトレイル上にあるはずだ。あの原発爆発写真は世界に知られているから、多くの外国人もトレイルを辿りに来ていることだろう。ましてや日本人はゆきたいだろう、なかなか良い仕事だ、さすが環境庁だ。

 と思って、ネットで公式サイトを見たのだが、どこにも福島第1原発あたりの地域をめぐる話はない。おかしいなあ、あれこそ超有名なみちのくの名所なのに、なぜ出てこないのかしら?

 環境庁サイトにはこう書いてある。
 「森、里、川、海のつながりから生まれた自然とそこで紡がれた物語は、このトレイルだけが持つ美しい魅力。そしてこの道から人々の暮らしが伝わり、やがて未来へと続いて行くことを願っています。どうぞ、東北を、この道を歩いてください。それが東北の復興の歩みとも重なっていきます。」

「みちのく潮風トレイル」のルート図に赤で福島第1原発を書き込んでみた

 東北の復興を言うのなら、あの3・11を辿るルートであるはず、それならその最も重要な場所のフクイチを外せるわけがない、しかも環境省の仕事ならなおさらのことだ。
 ところが、みちのく潮風トレイルには、どういうわけか、福島第1原発事故関連の場所も情報もないのだ。

 そのルートが八戸から南下して終点は松川浦であり、浪江町やいわき市へは届かないのだ。もしかして、みちのくとは松川浦から北であったかと調べると、いやいや、福島、宮城、岩手そして青森までを含む地域を言うのだ。

 みちのくの太平洋側海岸地域で、現在最も注目すべきところは、福島第1原発事故の地であることは、だれも異存ないはずだろう。これはどうしたことか。
 もちろん現地の中を通ることは無理としても、近くで眺める位置までは、みちのく潮風トレイルに含めてやってほしいと、切実に真剣に思う。

 わたしは3・11発災から3年目に、その第1原発を北から眺める被災地の浪江町請戸地区まで行ったことがある(ブログ記事参照)。漁港集落は津波に一切合切をさらわれてその時は草原になっており、向こうの丘陵上に原発が見え、手前の草原には漁港から流れて浮いた何隻もの漁船が転んでいた。廃墟となった小学校のみが建物らしい建物だった。

集落跡の草原に廃船や廃車、左向こうの丘陵の上に事故原発の煙突3本が見える

 この請戸地区は、結果は比較的放射線量は低かったのだが、発災時はそんなことは誰もわからず、放射線ゆえに救助隊が集落に入ることを阻まれて、地震と津波の2重被害で倒壊した家屋の下敷きになった多くの人々が、苛烈な死に方をしたのだった(ブログ記事参照)。

 今は人が住まない地になっているようだ。この請戸までみちのく潮風トレイルを、何故に伸ばさないのか。松川浦から30キロほどのところだ。今もあるかどうか知らないが、福島第1原発の煙突が3本立つのが見えており、被災地の苛烈な風景を忘れられない。

 トレイルが歴史文化を訪ねることも強調しているのだから、この原発事故という稀な人災という文化的巨大事件こそは、みちのく最大の歴史文化記念の地である。現在の今も歴史文化を築きつつある貴重な風景にあるのだ。これを除くルート設定をする理由がわからない。原発による危険な区域だけをバスによるトレイルとしてでも取り込むべきだ。そこだけをバスルートにすることに大きな意味がある文化イベントそのものになるのだ。

 ここで遊歩の道がいったん途切れるということさえも、それこそが3・11以後のみちのくの歴史文化として重要なのであることが、訪ね来る人々によくわかうことになる。みちのくの南端までトレイルを伸ばしてほしい。あ、もしかして只今整備工事中かもしれない、そう出すに違いない、そう思おう、さすがに環境庁だ、、、?

 ついでに書いておくが、わたしは3・11事故があってすぐに「福島第1原発を世界遺産に登録しよう」との提案を、このブログに書いている。今もそう思っている。

(20240221記)

災害日本列島おろおろ日録
https://datey.blogspot.com/p/blog-page_26.html

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2024/01/20

1783【遭難用語】避難は疎開へ死者は犠牲者へと言い換える言葉いじりが犠牲者を生む

 大災害が起きた時に、新聞がたたびたび使う用語で、ずっと前から気になっている単語がいくつかある。ここで「避難」と「犠牲」を取り上げたい。

●避難と言うな疎開と言え(昔)

 能登地震に遭難した中学生高校生たちが、加賀にある大きな施設に集団避難して、戻れるようになるまで短期時滞在して、もろるまで集団生活をするそうである。はたしている戻れるのか、この機会に故郷を離れるものが多いような気がする。

 これを読んで思い出したのは、太平洋戦争末期に行った学童集団疎開である。そのことについては、すでに1月16日の本ブログに書いたが、ここで別に言いたことは、ほぼ同じ行為であるのに戦中は疎開と言い、現代は避難というはどうしてだろうかということである。

 ウィキペディアの「避難」に下記のような記述がある。本当かどうか出典がわからないが、ありそうなことなのでここに引用する。

 当時の政権が「避難」や「退避」という言葉を正直に使用しなかった理由は、当時の軍部が撤退・退却を誤魔化して「転進」と表現したのと同様、「軍事作戦の1つであり、決して逃げるのではない」と糊塗する(ごまかす、取り繕う)意図があったとされ、それゆえ当時の新聞紙上等においては外国で行われた(外国政府による、外国人の)疎開について、「避難」「撤去」「疎散」などと表現している。

つまり人災である空爆の焼夷弾を避けて難を逃れる意味の「避難」は、戦火から逃げ出す意味となり、戦意高揚に差し支えるというのである。実際にもバケツリレーと火たたきで消し止めろと指導し、実際にも空襲下に屋根に上って火消しに努めて多くの死者を出した。まことにもってバカな用語遣いであった。

 それもそうだが、疎開と言う言葉をまさに戦中疎開があった頃から当事者として知っていたが、長じてその言葉にどうも違和感を持っていた。使い方を間違っているようなのだ。
 そもそも疎開とはその字のごとく疎らに開くことであり、人を集団で移転させるのとは全く違うだろう。そうだとしてもあまりにも派生の派生すぎる。避難ではなくて疎開を使われたのは、軍部による横やりであったと知ると、なるほど違和感があるはずだ。

 コロナから避難するときはようやく去ったようだが、疎らに開くならコロナ三密制限こそがそれにふさわしい言葉であったのだ。そのことはすでにコロナ疎開という言葉が出てきた2020年にこのブログに書いた。
 今は素直に避難と言ってよい世の中になったこを素直に喜ぼう。もっとも避難なんて言葉を使うことがない方がよいのだが、もしかしたら戦中よりも使うチャンスが増えているかもしれない。

●誤用された疎開という言葉

 ここまで書いてはじめて気が付いたが、そもそも戦時中の児童疎開における疎開の使い方は言葉として全くの誤用であると思う。疎らに開いて空間を設けるのが本来の意味だから、建物疎開のように空襲の延焼を止めるための空地を、鉄道などの重要施設のまわりの建物を壊して空地にすることには、言葉として疎開は正しい。

 しかし、元の学校には児童がいなくなって疎らに開いた施設になったからこちらは疎開だが、避難先はむしろ密になったのだから疎開とは言えない。田舎に避難させた児童を疎開児童と言い、避難先を疎開先と言うというのは明らかに誤用である。

 たぶん、建物疎開が先にあり、その後に児童避難が始まる時に、軍部が避難を使わせないために行政側がしかたなく疎開を転用してしまったのであろう。避難元を疎開地と言うのは正しいが、避難先や避難児童に疎開を使うのは、まったくの誤用である。このあたりのことはどこかに研究者による調査があるかもしれない。

(追記20240220)こんな報道があった。ウクライナでは「疎開」といっているだろうか。


●死者を犠牲者と言うな

 災害による死者を一律に犠牲者と新聞は書くのだが、本当に犠牲者と言うべきだろうか。この疑問もすでにこのブログに書いているので繰り替えさなない。要するに天災なのだから、誰かが何かために犠牲になったと言うべきではないのだ。

2013/02/17・722戦死者も津波被災死者も犯罪被害死者もどれも犠牲者と呼ぶ風潮に引っかかる。https://datey.blogspot.com/2013/02/722.html

2015/04/18・1081【言葉の酔時記】津波被災者は誰の何の「犠牲」になったのか?https://datey.blogspot.com/2015/04/1081.html

 1995年の阪神淡路震災追悼記事でも今回の能登地震でも、死者のことを犠牲者とマスコミ報道に書いてある。もしかして行政関係者もそうかもしれない。今や辞書にも大災害での死者のことを犠牲者と言うと書いてあるが、違和感を拭えない。それならば地震は人為によるものとなり、死者たちは生き残った者たち全員の犠牲になったことになる。そんなはずがない。

 どうやらそこには忌み言葉として死を避ける世間の風潮(他界、成仏、逝去、、)が、言葉について厳密であるべきジャーナリストにも影響をもたらしているような気がする。そうした言葉遣いが、生き残りの者たちに無用の心理的負担をさせていると気が付かないのだろうか。もしもわたしが生き残りになったならそう思うに違いない。なぜそこまで考えないのだろうか。いや、もしかして私の考え過ぎなのか?

 もちろんだが、例えば3・11における福島原発の不作為による核毒拡散事故とか、手抜き工事で地震倒壊した建物による被害のような場合は、被害者は犠牲者である。この時に死者だけをそういうのではなく、人為による被災者は誰もが犠牲者である。大災害が来るたびにこの言葉で考え込んでいる。言葉の意味が時代とともに変わるとはわかっているが、これでよいのか。

(20240121記)

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2024/01/16

1781【能登集団生徒避難】天災も人災も遭難後避難よりも事前避難したいが予測不能の難

 今年の元日の起きた能登地震で被災した中学生と高校生たちを、被災のない地域に集団避難させるそうだ。

 これを読んで昔々も、震災ではなくて戦災を逃れて集団避難したことがあったと思い出した。それは「集団学童疎開」と言って、太平洋戦争中の末期の1944年からから45年8月までのことだった。あの時は国民学校初等科(今の小学校に相当)3年生から6年生までの学童だが、今回は中高生たちだから「集団生徒疎開」あるいは「集団生徒避難」というべきだろう。

 今回の集団避難は、すでに起きてしまった能登地震災害の遭難した生徒たちのうち、希望者たちを安全な地域の施設に一時移転させるという事後避難である。かつての集団学童疎開は、すでに遭難したものもあるが、多くはまだ連合軍の空からの爆撃を受けていない都市住民の子供だったから事前避難であった。強制ではなく勧奨であったそうだ。。

 この疎開と避難とは、事前と事後いう大きな違いがある。疎開を事前避難にできた理由は、人災であるから、ある程度予測可能であったのだろう。連合軍の空爆は被害の増大を効率的に行うために大都市に限られていたから、空襲爆撃されるこちらも都市住民を避難させようと事前に予測ができる対策であったのだろう。

 一方の天災の地震による震災避難は、地震がどこでいつ起きるか予測できないから、事後避難にならざるを得ない。事前に知ろうとする研究は長年にわたってなされてるが、これだけ何回も大地震が来ても、いつどこで起こるかいまだに予測がつかないままである。そこにかつての疎開と今の避難の基本の違いがある。しかし能登では2007年に大きな地震がありこの数年間は群発地震の巣だったから、事前避難をすることもできただろうと思う。そのような計画はなかったのだろうか。

 能登で始まった集団生徒避難は、かつての戦中集団疎開には多くの悲話が語られてきた反省の上に立っているのだろうか。今回は中高生にしたのは、疎開児童が幼すぎたことへの反省か。あの時とは物資も情報も段違いによいのだから、この長期修学旅行は良い成果をもたらすことを期待する。

 ところで、わたしは戦中疎開の当事者だったのだ。と言っても、都会から田舎に疎開した児童だったのではなく、都会からやってきた疎開児童を受け入れた田舎の児童だったのだ。高梁盆地にあるわたしの生家は神社だったから、12畳間が二つある広い社務所の建物があったので、そこが集団疎開児童たちの寝泊まり場所となり、日中の学習には近くの寺院に通っていたのだ。疎開児童たちは盆地内のいくつかの寺社に分かれて滞在していた。

疎開児童学級が滞在した御前神社社務所
 児童たちが戦火を避けて集団でやってきたのは1945年の7月、芦屋市精道国民学校初等科6年女生徒20人と職員1名だった。この子たちがいない間の芦屋は、連合軍の空爆で大被災したから、まさに事前避難が役に立ったのである。なかには孤児になった児童もいたと聞く。その8月15日に敗戦となって、もう空襲はないが遭難破壊都市へとそそくさと戻っていった。それから半世紀後の阪神淡路大震災で、精道小学校の児童複数が遭難死したそうだ。

 その8月15日にはこの疎開児童に関係する記憶がある。その日の真昼、疎開児童たちがいる社務所の玄関前に、近所の人々と疎開児童たちが集まり、一台のラジオ受信機をとりまいた。当時ラジオを持つ家はまだ珍しく、この疎開学級にはあったのだ。神社の森の中に降りしきる蝉しぐれとともに、大人たちは音の悪いラジオ放送を聞いていた風景を思い出す。

 その放送が終わると、近所の人々は黙りこくって参道の石段を一列となって下ってゆき、供出されて鐘のない高楼の鐘撞堂のそばを通り、神社の森からとぼとぼと抜け出て行った。晴れて暑い日だった。国民学校3年生のわたしが敗戦と知るには幼なすぎたが、その時の大人たちの静かすぎる行列を、なんだか不審な感じで見送った記憶がある。月末に父が小田原の兵営から帰宅してきた。

 さて、人災も天災も増えるばかりである。それらが予想できるようになり、事前避難できるようになるのはいつだろうか。それよりも先に、災害を起こさない、起こらないようにできるのは、いつだろうか。それは、天災と人災のどちらが先になるのだろうか。人災も天災も事前予測も事前防災も、どちらも永遠にできないのが実は正解かもしれない。
 わたしにできることは、あの世に事前避難することだけだ。

 (20240116記)

当ブログの能登震災関記事

2024/01/03【災害日本】ほぼ10年ごとに大地震が発生する日本列島の次はいつ?https://datey.blogspot.com/2024/01/1774.html

2024/01/04【能登はヤバいよ土までも】地震と原発そして北の隣国から脅威にさらされる半島立地は https://datey.blogspot.com/2024/01/1775.html

2024/01/10【能登はやばいよ続編】あな怖や地の底海底北国に揺すられている核毒半島 https://datey.blogspot.com/2024/01/1778.html

2024/01/16【能登集団生徒避難】天災も人災も遭難後避難よりも事前避難したいが予測不能の難 https://datey.blogspot.com/2024/01/1781.html

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2024/01/10

1778【能登はやばいよ続編】あな怖や地の底海底北国に揺すられている核毒半島


 能登地震の被害は次第に判明してくると、ますます増大拡大する。昨日も大きな余震が佐渡の沖であったから、能登から佐渡へ越後へと広がるのだろうか。となると、志賀と柏崎刈羽の二つの原子力発電所を心配になってくる。

 気象庁のサイトに、これまで群発している能登地震のそれぞれの震央の位置を示すマップがある。今年の1月から今日までの期間の、それらを分布地図を取り出して、原発の位置との関係を見た。

2024年1月1日15時から10日9時半までの発生地震の震央分布と二つの原子力発電所





 能登の志賀町西海岸に建つ志賀原発については、外部電源のひとつが切れているが大丈夫
とか、高さ3mの津波が来たと後でわかったが大丈夫、なんて情報が五月雨的に出てきている。そんな情報の出し方が、本当に大丈夫かしら、と思わせるのだ。

 で、マップを見ると、う~む、素人にはよくわからないがという言い訳けつきだが、志賀原発はなんだか実に危うい位置にあるのだなあ。すぐそばに震央がある。地震の大軍隊がじわじわと志賀原発めがけて押し寄せてきているようだ。
 見ようによっては、志賀原発は実にうまい立地に建っている、能登の地震の巣からちょうど外れた位置を探して建てたのだなあ、よくまあそんなきわどい立地を探し出したものだ。

 2007年の夏、上の地図にもある柏崎刈羽原発の、北方16kmほどの海中が震源の「中越沖地震」があった。この時はこの原発は火災を起こした。さらにその3年前の2004年の秋、この原発から東20kmほどの内陸で「中越地震」があった。
 中越地震時にたまたま輪島の宿にいて大揺れに遭遇(参照→奥能登100キロウォーク)、その翌年からわたしはNPOスタッフの一人として、被災山村集落の復興支援のお手伝いに10年ばかり通った経験がある。参照→法末集落復興日録

 その時に入った集落の位置が、柏崎刈羽原発から20キロ圏にある。地震の程度によっては原発事故となれば逃げ出さねばならない距離だ。福島で起きたように核の毒が降り注ぐ被害の地に自分はいるのだと、身に染みて怖いと思った。
 そのころボランティア拠点として取得した民家の電気代を支払う銀行口座に、柏崎刈羽原発事故による迷惑料のような性質の金が、東電から振り込まれていた記憶がある。

 もしも志賀原発がフクイチ並みに事故となったらどうなるのだろうか。今の伝わる交通状況では、半島から避難することがかなり困難であるようだ。道路は地震で寸断、港湾施設は津波で壊されたり、海岸は土地隆起で陸地になったりで、陸も海も逃げようがない。

 さらに問題は、志賀原発は半島の首のあたりに立地しているから、風向きによっては半島脱出の逃げ道をふさがれてしまう。参考のために、能登半島と福島第1原発事故の時に核の毒が降り注いだ地図とを、同じ縮尺で並べてみよう。能登半島はすっぽり入る大きさであることが分かる。さて、どこにどうやって逃げるのか?
 
   能登半島と志賀原発     福島原発事故の核の毒が降り注ぐ図 (同縮尺)

 3・11のフクイチ事故の時は、内陸へと逃げるいくつかの道はあったが、その重要な道のひとつが核の毒の放射性物質が降りそそぐ方向が一致していた。それに気が付かずに、飯館村へと多くの人たちが逃げてゆき、多くの被爆者が出た。ふさぐべき道がふさがれず、被災の道になった。
 その教訓は能登の場合はどう生きるのか。柏崎刈羽と志賀との両方の原発で事故が起きたらどうなるのか。杞憂か?

 さらに気になるのは、朝鮮半島の北部から日本海へ飛んでくるミサイルなどがしばしばあるが、間違って(故意にでも)こちらに飛び込んでくることは、絶対にないのか。もしか日本政府はすでに仰撃ミサイルとかの配置をしているのかもしれない。そうなると志賀原発があることが能登に戦争を招く可能性になる、なんてことまで思ってしまう。杞憂か?

 こんどの災害救助で能登半島に大量の自衛隊員の投入があるらしいが、もしかしてそれはそのまま北辺の守りと称して居つき、能登は軍都になるのかもしれない。これこそは半島の北の国への挑発となることだろう。怖い怖い、杞憂でありますように。

 そうか、わかった、能登半島は日本列島の縮図なのだ、と。

(20240110記)

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2024/01/06

1776【新年忘れ物】自民派閥ネコババや旧統一教会問題やらを忘れさせている能登地震

 能登地震で被災の方々にお見舞いを申し上げます。ネットに登場する被災者自らの状況の書き込みに、胸の内にこみ上げるものを感じつつ読んでいる。
 新年早々からこのだ事件の話題で、マスコミもネットももちきりである。日々この話題ばかりで、去年から続くニュースは戦争もあるが、何か忘れているような気がしていた。

元日からこの話題ばかりの新聞

 なんだか隙間風が吹いているような気がしてならなかったが、あ、そうだ、あの自民党巨額裏金事件と旧統一教会巨額寄付事件のニュースが、どちらもパッタリと消えていることに気が付いた。
 そうだそうだ、そうだった、この巨大地震発生で驚愕する中で、これらの関連の人たちは、ほっとひと息ついてお正月をお過ごしに違いない。

 去年の暮れまでは毎日あれほどにマスコミを騒がす日本の2大事件だったのに、元日のの能登地震にすっかりお株を奪われたままだ。今年になってもう1週間になろうというのに、これらの件に関して新聞でもネットでもこれら関連記事を見聞きしたことがない。TVを見ないからそちらはどうか知らないが、たぶん登場してないのだろう。これはどうしてだ。

 もちろん能登震災の報道が重要で大切なことはわかっている。だが、あの安倍派だの二階派だの、裏金だのキックバックだの、何億円の金をネコババしたという政治スキャンダル話は、今年になってからいったいどこに行ったのだろうか。このマスコミに追いかけられないでいる間に、一生懸命になって繕いをやって時間を稼いでおられるに違いない。

 自民党のネコババ関連のお方たちは、いま、能登に足を向けて寝るなんて、とてもおできにならないであろう。だからと言って、この際だからキックバックかネコババだかの全額を、能登震災の救援復興に寄付するって、いや、なさらないよなあ、そんなことしたらせっかく世間が忘れかけていたのに、また思い出させるだけだものねえ。

 もうひとつの安倍暗殺事件のもとになったコリアン発新興宗教巨額寄付事件はどこに行ったのだろうか、その新興宗教団体を解散させるって手続きとか訴訟とかはどうなってるのかしら。この件は昨年暮れのあたりもなんだかこのごろニュースを見ないって感があったのが、今年になって能登地震でますます世の中から忘れられている。

 このさいだからとて、あの集めた巨額な献金を、能登地震救援と復興に役立ててくれと、ど~んと寄付してくるとか、宗教団体であればこそこのようなことを積極的に行うものだと思うが、そのあたりはどうお考えなのだろうか。いや、しないだろうなあ。
 自民党と旧統一教会にとって、能登地震はしばらくは救いの神の仕業になっているかもしれない。 (20240106記)

(20240107追記)今朝の新聞に久しぶりにネコババ議員1人逮捕のニュース、ヤレヤレ。

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2024/01/04

1775【能登はヤバいよ土までも】地震と原発そして北の隣国から脅威にさらされる半島立地は

●地震の緊急放送
 
 能登地震のことを考えているとどんどん不安が募り、今やわたしの恐怖になりつつある。
 元日にTVで叫んでいた女性の声が、耳から離れない。津波からに緊急避難を声をからしていたが、あれは声を出すプロの演技であって、地震に関する一般的な情報になると、突然に冷静なNHKアナウンサーになるのが、不思議と言うか、怜悧と言うか、さすがプロと言うか、これは3・11の教訓なのだろうなあと思いつつ、声が枯れないのかなあと聞いていた。

 「津波が来ますッ、今すぐ逃げてくださいッ、大津波警報が出ましたッ、すぐ避難してくださいッ、決して戻ってはいけません・・・」のような言葉を繰り返していた。
 もしもその時にこんなフレーズが付け加わっていたらどうだったろうか、と後で思ってゾーッぞとしている。

大津波警報が出ましたッ、その範囲には志賀原発が入っていますッすぐ逃げてくださいッ、放射性物質が降ってきますッ、

 もしもこれが叫ばれていたら、能登半島を逃れ出ようとする人々で大パニックになったことだろう。もちろん実際には放送されなかったのだが、それは実際に必要がないから放送しなかったのか、パニックを引き起こさなぬためにワザと放送しなかったのか、いずれだろうか。もしもこの次に実際に必要になっても、集団パニックを起こさないように、放送しないだろうか。考えていてだんだんと怖くなって来た。

 311を思い出すのだ。あの時にこんな放送をすべきだったのだ。でも、しなかった、いや、できなかったのか。あの3・11の時のことは、震災核毒騒動日録として、このブログに書いた記事をまとめている。これに能登のことも書き加えていくのだ。もう一つ別の震災騒動日録「法末集落復興日録もあるのだ。

 実は1月1日のTV放送を見聞きしていた時のわたし(TVを1時間も見ていたのは3・11以来だ)には、志賀原発のことは頭になかった。だが、能登半島の人々はよくご存じのことに違いないと思うのだ。それでも逃走パニックを起こさなかったのは、目前の地震動による大騒動に気をとられてたのだろうか、それともみんな沈着だったのだろうか。

 おりしも次の日には燃える日航機から、400人近くもが18分でパニックもなく避難した。能登半島はまるで航空機のごとくに逃げ場が限られる空間だ。もしも志賀原発で、3・11のフクイチ原発事故のようなことがおこると、日航機からの様に南の加賀に向かって、あるいは周りの海上に素早く避難できるものだろうか。逃げる道は山崩れ出し、海は津波などで楽で安全に逃れ道ではないのだ。

●地震の巣の半島立地の原発

 志賀原発は、実は無傷ではないことは公表されている。安全だと言えるのではあるまい。初めに少しの情報があったが、その後は何も情報がないのが、かえってオカシイ。
 能登ではもう3年のもわたって群発地震の巣になっているので、今回はその中の最大級が起きたのであり、群発地震がこれで収まるのではなく、更に超最大級が起きないとは誰も言えない。それがフクイチ並みの事故を起さないとは誰も言えない。上の震央の分布図に見るように、次第に志賀原発に近づいているのが不気味だ。

 そんなことを思うと言いたいことがある。これはもしかしたら誰もが言いたいが言ってははならないタブーかもしれぬが、わたしのようなノンインフルエンサーは敢えて言う。
 能登の人々はもはや能登から加賀へとエクソダス、国家的プロジェクトの時である。

 だが、実のところは、わたしがこんなことを言わなくても、この地震を契機として、能登の人々は加賀へと確実に移っていくことだろう。地震が来なくても人口減少が急激に進むのだから、地震と原発がその後押しをするのだ。いや、先導をするという方が正確だ。

 実は2011年震災の時に東北地方の町や村から、仙台へと人々は移るに違いないことを思い考えて、このブログにも書いたことがある。そしてその通りになっている。半島の能登は東北よりもその勢いは絞り出されるように急に進むだろう。

 わたしは2004年に、能登の街や農漁村を5日間にわたって、100キロもの長距離を歩いたことがある。そしてつぶさにその生活圏や植生の有様を眺めたのであった。特に農村の過疎化は目に見えていたから、あれから20年ででさらに進んでいるだろう。農村と漁村と比べて、漁村の方が衰退が遅いように見えた。あの美しい「間垣の里」はどうなっているだろうか。

 あのときに歩いた村里は、この地震で今はどうなっているだろうか。その時にも思ったのだが、地震が起きると地形的に漁山村は孤立が起きることだ。歩いた数日前に集中豪雨があって、寸断された道を歩いたのだったが、その時に痛切に孤立のことを思った。まだマスコミには出ないが、能登でそのような状況にある人々はかなり多いはずだ。
 参照→奥能登100キロウォーク

 地理的に孤立する宿命、地質的には地震の巣、巨大な毒の塊の核発電所、これら内的脅威に加えて、北に隣接する半島や大陸諸国からの外敵脅威もありうるこの能登半島に、どのような明るい未来がありうるのだろうか、とさえ思うのである。

 能登には縁があって七尾には何度も行った、実にいろいろな意味で実に素敵な街だった。古くから「能登はやさしや土までも」と言うと聞いたことがある。だがその土の下の地下から揺すられて、今やその土に裏切られている能登、「能登は厳しや土までも」と言い換えねばなるまい。

(20240104記)

ーーーこのブログの震災関連記事ーーー
・2011年~3/11の記録震災核毒騒動日録
・2004年奥能登100キロウォーク
・2005年~法末集落復興日録
・2000~2006年七尾:能登はやさしや土までも

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2024/01/03

1774【災害日本】ほぼ10年ごとに大地震が発生する日本列島の次はいつ?

●戦災に加えて震災も火災もある新年

 昨年はウクライナからパレスチナへと戦乱が拡大して、困った年のままにくれたが、開けたとたんになんと日本の能登半島あたりで大地震発生である。困った新年出発だ。戦乱は人災であるから何とか止めようがあるかもしれないが、震災は天災がもとだから人間には止めようがない。ひろがるのを防ぐしかない。

正月早々の新聞の第1面は災害記事から開始

 災害は更に続くのだ。次の2日には飛行機が衝突炎上とて、全く世の中に災難の種は尽きない日々である。ところがその飛行機事故は、どうやら能登震災が東京羽田にが飛び火したものらしいのだから困ったものだ。

 衝突炎上して死者5人を出したほうの海上保安庁機は、海上保安庁が能登地震への救援物資などを載せて運ぶものだったという。能登地震が無ければ起きなかった災難である。天災が人災を招いた。海保の死者は気の毒であったが、もう一方の日航機のほうは全員が辛くも逃げだすことができたとのこと。

●災害転倒ビルの風景

輪島市内の転倒ビル ネットで拾った
 災害写真でいつもいくつか目を引くシーンがいくつかあるものだ。今回は輪島
市内の7階建てビルの転倒である。基礎から完全に転げてしまっている。死傷者が出ていることだろう。転倒ビル写真を新聞で見て、これはネットで転倒前の姿を探しだすことができそうだとやってみた。輪島市の中心部をグーグルストリートであちこち動かしていて、見つけた。

上の転倒ビルの転倒前の姿 グーグルストリート
 その周りを見ると、転倒した方向に3階建ての建物がある。高さから見てもろに覆いかぶさる位置である。そこでネットニュースをあちこち見たら、なんとその黒い建物を下敷きにしてしまったとある。まさかということが起きてしまった。反対側とか後方の建物の人たちは口には出せないがホッとしているだろう。

 あれほどきれいに基礎から転んだビルの写真を、2011年の東日本大震災で見た記憶があるので、ネット検索したらあった。ところがこれは輪島のそれと大違いは、横から襲ってきた津波で倒れたのだった。輪島の転倒は地震動のみによるのだろうから、基礎工事の欠陥だろうか、地盤に問題があるのだろうか。1995年の阪神淡路大震災の時は神戸市内を訪れて、たくさんの傾いたりへたり込んだりした建物を見たが、横倒し建物を見ることはなかった。

●地震の名前に元号つける歴史否定感覚

 このたびの能登での地震を、気象庁は「令和6年能登半島地震」と名付けたそうだ。ヤレヤレ、またこの地震も何年前に起きたのか分からなくなるんだねえ、どうして「2024能登半島地震」と名付けないのかねえ。

 そういえば2011年の東日本大震災の時の地震は、なんという名前だったのか、その前の2004年の中越大震災の地震名は?、その前の1995年の阪神淡路大震災の地震名はなんというのかねえ、やっぱり元号が付いているのかしら。そう思って気象庁サイトをみたら「気象庁が名称を定めた気象・地震・火山現象一覧」があった。

 それによると、「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」、「平成16年(2004年)新潟県中越地震」などと言うのが正式らしい。元号和暦にカッコで西暦をつけるのだから、「令和6年(2024年)能登半島地震」と言うのが正式なのだろう(この一覧には載ってない)。長たらしいから西暦だけにしなさいよ。「2024能登地震」にすればよろしい。

●ほぼ10年ごとに大地震発生の日本列島

 この一覧表を見て変なのは、1968年から78年までの8件の地震には西暦だけである。どういうわけか82年から併記に変わっている。このときになにがおきたのか、保守系政治家が気がついて命名ルールを変更させたのかしら。さすがにさかのぼって変えさせることはできなかったらしい。

 さらに変なのは、台風や豪雨などは西暦併記はなくて元号のみであることだ。定見のない気象庁である。とにかく地震や台風に元号をつけて呼ぶ庶民を知らない。元号で有名な地震は貞観地震だけだが、一体何年前のことだろうか。

 そもそも元号だけだと、今から何年前に起きた災害か分からなくなるでしょ、災害の歴史を忘れさせようって政策だろうか。わたしが覚えているのは1995年、2004年、2011年そして2024年の各大地震である。この数字を見るとほぼ10年おきに大地震が起きていることがわかるでしょ。元号では分からないでしょ。天皇制と地震とはなんの関係もないでしょ。

 地球の日本列島あたりはほぼ10年ごとに震えあがっている、だから次は2035年前後に大地震が来ますよ、その頃はわたしはこの世にいないからどうでもいいのだけどね。

(20240103記)

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2023/09/01

1703【百年目の日に想う】次の巨大地震は巨大津波に加えて巨大核毒を伴って現れるはず

 昨日、久しぶりに映画を見てきた。「キャメラをもって男たちー関東大震災を撮るー」と題して、撮影者に焦点を当てた映画であった。その道の人たちには面白そうだが、被害の様相を見たいと思って行った私には生煮えであった。そのせいもあり、明日は震災中に起きた朝鮮人虐殺「福田村事件」を見に行ってこようと思う。 

 ●今日は関東大震災百年目

 今日2023年9月1日は、ちょうど百年前の今日1923年9月1日の昼、神奈川県を震源とする巨大地震が発生した日である。「関東大震災百年」とて特別なイベントがあちこちであるようだ。

 その発生ゆえに多くの人間が死んだからとて、その日から地球が太陽を百周回したとて、生物的にあるいは物理的には何の意味もあるまい。
 だが文化を持つ人間の側では、覚えやすい日に意味づけをする。初七日とか誕生日とかも同じことらしい。多くの人間が死んだことがなんと言ってもその日を100年間とかの節目に思い出すことになる。「関東大震災」で死んだ人間は約10万5000人だそうである。

 ではその「関東大震災」なるものは、地球上の人間のどれほどに影響を与えたのか。地球全体の人類から言えばそれによって影響の度合いはどの程度か。
 その頃の地球人口は約20億人だったから、105千人の死は誤差範囲である。一方、日本人口は約5800万人だから0.18%となる。このように大局的な数字で見るのは意味がなさそうだ。つまり、人間の側が思うほどには地球の側には大したことではなさそうだ。

●近現代日本巨大震災の比較

 では人間側の問題として見ることにして、近現代の日本での大地震による被害を比べてみよう。この表を見て、死者数と被害額(GDP比、GNP比)では、関東大震災がダントツにもの凄い事件であったと分る。

 こうやって比べると記憶に新しい東日本大震災被害額が、意外にランクが低いものだと不思議である。被災区域の広さでは多分ダントツに広かったであろうが、大都市を含まないとこのように評価されるのかと、興味深い。

 ということは、今話題になる次の関東大震災は、この100年で東京一極集中より富が集中しているから、これまでと比較にならない巨額の被害になるだろう。
 その一方で100年前の関東大震災よりも死者は少なく見積もられているのは、100年前と比べて都市人口は増えたが、耐震耐火建築が多くを占めているということなのだろう。

●震災とは地震+津波+核毒

 ただし、ひとつだけこれまでの大震災とは決定的に違うことが起きそうなのは、核問題である。12年前の福島原発事故が今も国際的な問題を引き起こしているように、次の地震でどこかでも同様なこと、あるいはそれ以上のことが起きると、復興は実に複雑なことになる。

 巨大地震が振動による被害だけでなく、巨大津波を伴う水害を引き起すが、これに加えてもうひとつの引き起こす巨大災害に核毒拡散があることをわれわれは知った。
 振動や津波被災は国内で済むが、核毒拡散は海外にも広がるし、その被害発生時間が一時的なものではなくて、人間の生命を超える時間を要することに、われわれは対処できるのだろうか。

 現に最近になって起きた国際問題は、フクイチの核毒汚染処理水の海洋放出に対して、大陸やオセアニアの諸国が懸念や反対を示していることである。とくにチャイナは日本の海産物輸入禁止に至って、経済問題から外交問題へとことは広がりつつある。

 ということは、日本国内時だけじゃなくて、大陸や半島諸国にある核施設において巨大震災が起きると、日本が被災国になる恐れが十分ありうる時代が来ているということだ。
 次の巨大地震でもこの新たな核毒問題が起きることを前提に考えなければならない。さて、それを考えて対策があるのだろうか。これはもうお手上げのような気がしている。

 おもえば100年前の関東大震災も、28年前の阪神大震災も、12年前の東日本大震災もその時は絶望的な被害だったが、なんとか復興しているのだから、人間は偉いものである。
 だから、つぎの関東大震災が来ても何とかなるのだろうと思う、というか、そう思うしかないのである。ただし、その時はこのわたしはもうこの世にいないはずである、というか、そう思いたいのである。            (20230901記)

参照:地震津波核毒おろおろ日録


2023/08/26

1702 【核毒オロオロ】福一核毒汚染処理水放出って尾銅山鉱毒事件・水俣チッソ水銀中毒事件を連想させる

 2011年3月に東日本大地震で大事故をおこして廃止となった福島第1原子力発電所(「福一」という)は、それ以来12年経ってもいまだに廃炉作業中である。メルトダウンした核施設の廃炉というほぼ前代未聞の仕事だから、いつまでかかるのか誰も分からない。

  こういう仕事をしている人たちは、働くことへモチベーションをどう保つのだろうか。労働賃金がかなり良いのだろうか。あるいは誰もやったことにない先進的な仕事という動機づけがあるのだろうか。それにしても、何かを創造するのではなくて、危険な核のゴミを作り捨てる仕事だから、どう考えてもむなしくなるだろうと思う。

 核施設廃炉という超特殊な仕事は、これからどんどん需要が発生する。つまり現在のいくつかの核発電施設が次々と廃炉の時期を迎えるからだ。ここで仕事をした人々は、その専門家として次々と求められる人材になるのだろう。それは世界中の核発電施設にも言えることだ。まさにダーティワークであるが、世の中に必要なことだ。

福島第一原子力発電所と汚染処理水放出先

 さて「福一」はこの8月24日から海に小便のお漏らしを始めた。この敷地に降ったり流れてきたり湧いたり利用されたりして核毒に汚染された水を外に流すことは汚染拡大になるからできない。だから敷地内にタンクをいくつも作ってどんどん溜め込んできたが、溜まりに溜まってもうタンクの置き場がなくなってきたという。いわば膀胱に小便がたまって我慢できなくなって、お漏らしせずにいられなくなったのだ。

 ところが「福一」小便はいろいろな核の毒が含まれている「汚染水」なので、この毒を除去する処理をした「処理水」に変換し、それを更に海水でで薄めてから、敷地の外に漏らすそうだ。つまり「核毒汚染処理薄め水」であるが、みじかく「処理水」というらしい。。それもいきなり海岸に漏らすのもはしたないとて、1キロほど沖まで地中に管を通して放出するそうだ。

 その海には放出処理水を飲みながら生れ育つ魚はいないのだろうか。漁民からは処理水放出大反対の声があるのだから、とうぜん魚はいるのである。
 わたしは2014年9月に「福一」の北隣にある請戸漁港に視察に行ったことがある。地震と津波と核毒の三重苦に襲われて、集落も港も田畑も荒れ果てていた。漁船が陸上の草原に何隻も浮かんでいた。
 その漁民たちは東電からどのような補償を受けたのだろうか。いままたこの「核毒汚染処理薄め水」で直接あるいは間接の漁業被害が生じる恐れがあるらしい。

 これで思い出したことがある。30年以上前のことだが、瀬戸内海の沿岸部の広大な土地に、レクリエーションリゾート地を開発するという公的な仕事に携わったことがある。このリゾートから発生する汚水を三次処理した「処理水」を海に放出する必要があった。
 反対する漁業者と行政当局と事業団体との調整により、いくばくかの解決金を漁業組合に支払い、排水は海岸から1キロ先まで地中に排水管をのばして海に放出した。福一の処理水と同じである。

 そして開発完了オープンから1年後に訪ねて聞いた話に笑った。その処理水放出のあたりの海面に、養殖カキ筏が集まってきているとのことだった。それは3次処理しても残る有機物が養殖カキのエサになるのであった。もちろん元は糞尿だから畑の下肥を同じである。
 まさかこの福一処理水に魚の餌になる物質が含まれるなんてことはあるまいが、核毒が魚類の遺伝子に作用して、巨大な魚が捕れるようになるなんてことは、、あるまい。

 あの請戸漁港と集落は復興したのだろうか。復興して漁業をやっているのだろうか。ようやく復興したら、今度は「核毒汚染処理薄め水」がやってくる。これが東電が言うように本当に魚に影響なくて、それを食う人間に影響がないと言えるのか、それはいつになればわかるのだろうか。廃炉がいつ終るか分からないのだから、こんご毎日毎日「処理水」がやってくる。薄められた核毒は、あのチッソ水銀中毒事件のように、魚類に濃縮蓄積されて有毒になるということはあり得ないのか、誰も分からない。

 そもそも排出以外の処理方法はないのだろうか。これが最も安い方法なのだろうか。例えば水蒸気にして空中に放出方法はあるのだろうか。あるいは敷地全部を大きな湖にして水をためる方法はどうか。この前例は、足尾銅山鉱毒事件で、銅山から流れ出る鉱毒水を溜めるために作った巨大な人造湖の渡良瀬遊水地である。このことは10年前のブログに書いている。参照:https://datey.blogspot.com/2013/12/875.html

福島第1原子力発電所と渡良瀬遊水地の同スケール比較

 「福一核毒汚染処理薄め水」をボトルに詰めて、福一名物で売るのはどうか。ふるさと納税の返礼品にしてはどうか。どなただったか政府自民党の偉い方が、その処理水は飲めるとおっしゃったとのことだから、これもありうるだろうと思う。(20230826記)

参照:地震津波核毒おろおろ日録

2022/10/03

1649【朝日歌壇の歌人】カリフォルニア夫婦歌人が苺と核を詠み共に入選


2022年10月2日の朝日新聞「朝日歌壇」に、アメリカ在住知人二人の歌が入選している。

 <高野公彦選>
 遺伝子の組み換えなきころ匙の背で潰して食べた苺うまかった
            (アメリカ)大竹 博
 <馬場あき子選>
 被爆者の証言こそが抑止力になるとて今日もズームで証言
            (アメリカ)大竹幾久子

この二人は夫婦であり、どちらかがちょくちょく、たまには二人そろって入選している。夫君はわたしの大学同期、細君はまた別の同期仲間の妹である。この二人の歌については、このブログで何度も書いてきたが(文末を参照)、久しぶりに書く。

朝日歌壇を長らく見てきているが、家族である詠み人たちが若干いる。大竹夫妻のほかにはM姉妹やY姉弟がいる。M姉妹の小学生時代から歌を読み、今は姉は社会人1年生になり、読者として続き物短歌として面白いが、選者がいちばん面白がっている様子だ。家族親戚歌人とわかるのは歌の内容と氏名からだけだが、ほかにもいるかもしれない。

わたしでも知っている著名な夫婦歌詠みは、与謝野晶子鉄幹そして河野裕子永田和弘(現・朝日歌壇選者)である。選者の馬場あき子には岩田正という歌人がいた。

与謝野夫妻も永田夫妻も歌を通じて結ばれた歌人たちであるが、大竹夫妻は歌よりも前に結ばれた仲であろう。そして夫唱婦随ならぬ婦詠夫随から始めたらしい。4年ほど前までは朝日歌壇登場は幾久子詠ばかりだったが、いまや博詠入選数が互角に追い上げている。

大竹夫妻の歌の特徴は、日本とアメリカとの文化の違いあるいはその間のギャップを主題として詠うところにある。例えば二人のこんな歌がある。

 浴衣着た人は右前左前スニーカー履きロスの盆踊
             (アメリカ)大竹幾久子
 コロナ禍のアジア人われスーパーで目をそらす人避けていく人
             (アメリカ)大竹幾久子
 アメリカに帰化せし後の訪日は身は「行く」なれど心は「帰る」
             (アメリカ)大竹 博
 空輸にて届きし友の新米ぞ我いまパンを好むとは言えぬ
             (アメリカ)大竹 博

特に幾久子詠には彼女でなければ読めない大きなテーマが貫かれている。以前の朝日歌壇入選にこんな歌がある。

 原爆死の父は机上で笑みており娘が米人となりしを知らずに
             (アメリカ 大竹幾久子)
 父は死に我は生きたり原子雲の下で二キロを離れただけで
             (アメリカ 大竹幾久子)

彼女は幼い日の1945年8月6日、世界最初の核爆弾を体験した身でありながら、その実行国アメリカに定住した。それをチャンスに核爆弾被災者語り部となる。実母の生々しい体験の言葉を記録して日英両語で出版もしている。作歌はその延長上にあり、最新詠が今回入選の馬場あき子選の上掲歌である。おのずから社会性が色濃い歌になる。

いま、ウクライナのプーチン戦争で、核兵器登場の惧れについて生々しい状況があるらしい。現実的には核兵器使用の前に、ウクライナの核発電施設をロシア軍が占領管理下にあり、これが事実上の核戦術兵器として効果を既に発揮している。日本も有事にはそうなる核発電国である。

今回の幾久子詠「被爆者の証言こそが抑止力になるとて今日もズームで証言」は、明らかに今の世界事情を詠み込んでいて、恐怖感さえ覚える。気候変動による災害も怖い、アメリカはハリケーンで大災害らしい。もちろんコロナも怖い。

一方の博詠では、昔々日本で匙(スプーンじゃなくてサジ)でつぶしつつ味わった苺を、「うまかった」と無邪気に懐かしむふりをして、じつは遺伝子組み換えに対する疑惑の砂入り苺を嚙ませてくれる巧みさである。面白さでは博の勝ちだな。

2019年までは毎年日本に顔を見せていた大竹夫妻、来年こそは来てほしいものだ。あちらもこちらも共に年齢がいつまでも待ってくれそうにない。
そうだ、大竹夫妻に歌のリクエストをしておこう。ぜひとも相聞歌を読ませてほしいものだ。

●これまでわたしのブログに書き込んだ大竹夫妻の歌のことなど
2011/09/26・カリフォルニア歌人…https://datey.blogspot.com/2011/09/500.html
2012/07/31・日本人は5度目の…https://datey.blogspot.com/2012/07/648.html
2012/11/12・原発事故調報告を読んだ…https://datey.blogspot.com/2012/11/688.html
2013/01/07・カリフォルニア歌人…https://datey.blogspot.com/2013/01/705.html
2013/12/23・カリフォルニア閨秀歌人…https://datey.blogspot.com/2013/12/879.html
2015/10/18・いまなお原爆と向き合っ…https://datey.blogspot.com/2015/10/1134.html
2018/08/12・カリフォルニア夫婦歌人…https://datey.blogspot.com/2018/08/1156.html
2018/12/23・カリフォルニアの旧友…https://datey.blogspot.com/2018/12/1175.html
2019/03/03・カリフォルニア歌人登場…https://datey.blogspot.com/2019/03/1191.html
2019/08/11・戦争の八月広島核爆弾…https://datey.blogspot.com/2019/08/1414.html

         (20221003記)



2022/06/18

1625【核毒被害に国家は無責任】核毒が降る日々十年コロナ来てはや二年余こんどは戦争

●国家に賠償責任はない核発電核毒加害

 日本の核発電施設の事故による核毒被災について、国に加害責任がないから損害賠償は加害者の電力会社だけで負担せよとの最高裁判決が出た。3・11の福島核毒被害者からの賠償請求が却下されたのだ。

 この判決については、諸問題を含むようだがそれはさておき(いや、さて置くのはおかしいが論ずる能力がないので)、では、われら庶民はこれからどう対処するべきか、それが気になる。

狂歌<庶民の心得>
国家さえ責任無いと言う核発電  覚悟してスマフォ炊飯洗濯

 とにかく核発電所の事故で周辺住民などが核毒被災しても、その発電事業者に補償させるしかないとなると、その額があまりにも莫大で大変、それは現在も続く裁判が示している。 電力事業者は賠償能力を備えなければならないとなると、事業的に成り立つのか。もしもこれから核発電事業を始めようと考えるものがいるだろうか。

 もちろんその補償金となる原資を、電力使用料金に含めて広くから徴収して超足するのだろうが、当然に料金値上げがものすごいことになるだろう。それが企業や生活者などの電力使用者に負担可能なのだろうか。
 国が保証金負担しないとなったからには、電力事業者の責任が膨大に重くなったことになる。事業者はその責任に耐えられるのか。
 東京電力が現在の当事者だが、使用料金を大値上げするだろう。東電の電力を使っているところは、どこもその値上げ重圧に耐えなければならない。

●どこか核発電所の無いところに移住するか

 耐えられないとなると、東電管内から逃げ出して別のところに移住するしかない。でも行く先でも核発電所があるから、同様の事故は起きて、同様な値上げになる可能性は十分にある。逃げ場はないのか。

 核発電所からはるか遠くに住んでいれば、その事故の影響を受けないかと言えば、電力使用料金でしっかりと影響を受ける。
 となると核発電所を持っていない沖縄電力の管内だけが安全なのだろう。沖縄に移住しようかな。

日本列島とその周りの核発電施設分布状況

 あるいは核発電でない発電施設をもって供給する電力事業者と契約するのがいいのだろうか。再生エネルギ発電が良いのかしら。安定供給できるのかしら。よく分らない。
 自家発電という方法もあるか。屋根の上に太陽光発電設備を載せるのは昔からあるが、その発電量はどれくらいだろうか。
 敷地内を川が流れる土地を買ってそこに水力発電施設のある住宅を建てる。小さな水力発電設備があるらしい。
 いろいろ考えるが、分からないことばかりだ。

 ウクライナのプーチン戦争によって、チェルノブイリとかザポリージャとかの核発電所が戦場となったニュースがある。
 チェルノブイリでは敷地内に塹壕を掘っていたロシア戦闘員が放射線障害で倒れたらしい。核発電施設の管理は、ウクライナ側の専門家に保たれているらしいが、戦争激化すればそのまま核兵器になる可能性は高い。

 日本でも核発電所が無いのは沖縄電力のみだから、九州から北海道まで核兵器配備の列島である。怖いことである。
 でもそう考えると、日本の核発電施設に国として責任がない、と言いきってよいのだろうか。もっとも、責任持つからとてじゃんじゃん設置されるのは、もっと怖いけどね。

 これは3・11以前から考えていたが、核発電施設を地上に作るのではなくて、核発電船にすればよいのだ(参照:このブログの2008年9月記事。航空母艦のようなは巨大な船が核発電で動くのだから、民生用の巨大核発電船を作ることはできるだろう。
 船ならば事故があっても、海洋汚染はあるとしても、生活や生産の兄影響は少ないだろう。電力需給の地域的アンバランスにも、必要な地域に移動して電力供給すればよいだろう。地震で津波が来る前に、遠い海洋に移動して避難すればよろしい。あるいは津波を乗り切ることができるかもしれない。

 なんにしても、核発電施設の無いところに逃げ出したいものだ。簡単なことではないが、実はわたしには比較的簡単に逃げ出すところが用意してある。超高齢のわが身には遠くない時期にあの世が待っているのだ。
 だから、核毒・コロナ・戦争と続けさまにやって来るとは、地球は狂っているらしいが、どこか気楽であるのが、われながらオカシイ。

●コンテンポラリーアートとしての福島核発電所事故

 核施設事故で思い出したことがあるので、書いておく。
 先月末にChim↑Pom展を六本木の美術館で観て来た。福島核発電所事故がらみのコンテンポラリーアート2作品が展示されていて、どちらも興味深く観た。

 その一つは水素爆発直後の現地アート活動映像。水素爆発の直後のまだ立ち入り禁止措置が出されていないとき、近くの山上展望台に核毒の危険を冒して登り、そこに日の丸を模して作った真っ赤な核物質マークの旗を立てたのだった。すぐ近くに爆発で歪んだ核発電施設が見えており、強風に中の核毒が降り続くであろう現場、それは弾丸が降りくる戦場の旗のようだ。アーチストたちはもちろん真っ白な防護服である。
 その時の映像が出品されていた。社会問題に切り込む現代アート活動の神髄である。

 Chim↑Pom作品のもう一つ核関係展示は、まったく何も展示されていない大きな展示室である。そこは人の声だけが流れていて、いま、福島の帰還困難区域指定されて誰のいない集落の民家数軒に、数名の現代アーチストの作品(Chim↑Pom、艾未未など)の展覧会が行われてることを伝えている。ここに存在しない作品を展示しているのだ。


何も作品展示の無い展示室 Don't Follow the Wind(Chim↑Pom)

 その集落が指定解除になったら展覧会は公開されるそうだから、もしかしたらもう見ることができるのかもしれない。
 こうして、立ち入り禁止地域の中で、あえて展覧会を開催すると行為自体が、社会に深く介入し告発するコンテンポラリーアート作品である。面白い。
 真っ白な箱のままの部屋の大きな窓の外に東京の風景が広がる、その先に福島があるのだろうか。思いをはせるしかない。
 他にも面白いChim↑Pom作品を観て来た。

狂歌<ヤレヤレ、>
核毒が降る日々十年コロナ来てはや二年余こんどは戦争

 (20220618記)

2021/12/10

1598【核毒世界遺産】10年にしてようやく地元から起きた「福島第1原発を世界遺産に」の動き

 ネットで見つけたのだが、福島の地元の人たちから、福島原発を世界遺産に登録しようという声があがってきたそうだ。
福島第一原発を "世界遺産" に~地元住民たちの思い~(NHK仙台)2021年12月03日https://www.nhk.or.jp/sendai-blog/social/458031.html

 NHKニュースの抜粋

11月14日、東京電力福島第一原子力発電所、通称「1F」(イチエフ)を世界遺産に登録することを考えるシンポジウムがオンラインで開催されました。これまで、地元自治体は福島第一原発をさら地に戻すことを求めてきていますが、地元の住民たちが「廃炉にする際、原発の建屋の一部を残し、その周辺地域を含めて、世界遺産にしたい」という声を上げ始めたのです。そこには、事故の教訓を後世に伝えたいという強い思いが込められていました。

先月、オンラインで開かれた「1F廃炉の将来像を考える」シンポジウム。参加したのは、地元住民をはじめ、環境や社会学の専門家など、100人以上に上りました。

住民たちの声。「私が、この地域が世界遺産登録の価値があると感じたのは、この浜通り地区というのは地震、津波に加えて原発事故ということで多重災害を受けたと。世界で本当に唯一この地域だけだと。」(遠藤さん)

「原爆ドームが1945年の8月に見る人を連れていけるように、1Fも見る人を2011年の3月の福島に連れていけるような、想像力を飛ばせるような、そういう遺構になって欲しい。」(小磯さん)

「次の世代に伝えていくことが私たちの世代では大切だと思っていて、震災について形にして残すものが何かないなといけないなというものを感じています。」(梅津さん)

 わたし(このブログの主である伊達美徳)は、既に福島第1原発に核毒バラマキ大事件がおきた2011年の3月に「福島第1原発を世界遺産にしよう」との記事を書いている。
福島第1原発を世界遺産に登録しよう2011/03/21
https://datey.blogspot.com/2011/03/408.html


 当時そんなことを言うものはわたしだけであったはずだ。その頃にネット検索してみたら、世界遺産マニアらしい人が、その制度的可能性を論じていたくらいなものだった。
 私の提案は、よくあるような観光資源として世界遺産をとらえるのではなく、人間愚行の負の文化遺産として積極的に世界遺産登録を言うのだが、同調する人はいなかった。

 そしてわたしはその2年後2013年2月に、さらに詳細な論考を掲載している。それは東浩紀や津田、藤村などの論客たちが「福島第1原発観光計画」なるもの(素案だったようだ)を発表したことに刺激を受けたからであった。その計画案へ批判もしたつもりであった。
再び唱える「福島第一原発を世界遺産に登録しよう」2013年2月25日
http://goo.gl/kEtO9

 2013年11月になり、東浩紀たちが「福島第1原発観光化計画」(東、井出、梅澤、清水、津田、速水、藤村)なるダークツーリズムプランを発表して話題となった。
“福島第一原発観光地化計画”とは何か (2013年5月地域安全学会梗概集
http://isss.jp.net/isss-site/wp-content/uploads/2019/02/C04%E4%BA%95%E5%87%BA.pdf
 なお、そこに世界遺産登録の提案もあるらしい。「あるらしい」というのは、わたしはその計画全文を読んでいないからである。ネット記事も出版物も有料だが、わたしは原則として有料記事を読まないのだ。

 思えばようやく地元からの発案として福島第1原発世界遺産登録案が出て来たのは、津波被災10年にしてその関連遺産の保存継承が具体的になってきたのに刺激されて、もうひとつの核毒被災10年目にしてその関連遺跡の保全継承に目が向いてきたのであろうか。

 地球上にはチェルノブイリ事件という巨大核毒飛散事件があったが、その原発の世界遺産登録申請のニュースが今年の3月に載っている。事件発生は1986年だから、35年目にしてようやくそこまで至ったということらしい。
チェルノブイリ原発、世界遺産申請へ(読売新聞)2021/03/19
https://www.yomiuri.co.jp/world/20210319-OYT1T50194/ 

 福島原発が申請に足るまでにはまだまだ時間がかかりそうだが、前例ができると意外に早いかもしれないとも思う。ようやくに客観的に核毒事件を見る目が地元にも出て来たのだろうから、大切にしてもらいたいと思う。(2021/12/10記)

参照地震津波核毒原発おろおろ日録https://datey.blogspot.com/p/blog-page_26.html

2021/10/08

1591【関東大地震か】緊急はコロナだけではないのだと思い出させる地震速報

 昨夜、布団に入って寝ころび読書中の10時半過ぎ、おお、揺れた揺れた、台風の難破船みたい、とは誇張し過ぎだが、寝ていて建築構造物の揺れが目に見えた。凄かったなあ。わが横浜空中楼閣はそれでも何も被害なし、びっくりして脳に刺激があり、若返ったかも。

 頼まないのにスマーフォンから緊急地震速報の大声、おおそうだ、コロナばかりかこっちからも緊急事態到来か、困った世だ。弟と息子と旧友たちから見舞いメールや電話あり。

 狂歌<関東大地震か>
緊急はコロナだけではないのだと思い出させる地震速報

 昨日の徘徊中にひょいと目に入った「トイレ非常用袋」なるもの、これは断水で便器を使えなくなった時に、臨時に便器にはめて用を足す袋。首相が変わると天変地異が起きるかもしれないと思い、これを買った。

 昨夜はそれがさっそく役に立つかもと、わたしの予知能力の高さに驚きつつ断水を待ったけど、役に立つところまでいかなったのが残念。
 何か用意すると災害が起きるらしいので、これからは何も用意しないようにしよう。