2014/09/24

1001【福島東電核毒地帯徘徊3】核毒に明け渡した飯館村を核毒除去産業が占拠している

飯館村は福島原発事故による核毒被災地の中でも、特異なというか、典型的というか、悲劇のメイン舞台であったらしい。
 核毒発射地の福島第1原発に近い地域の南相馬市や浪江町の人たちが、少しでも遠くへと逃げ出して、とりあえず30km圏のここまでくれば安心と避難の場を求めた。
 飯館の村民たちは、原発のことは何も情報がないままに、避難民たちをとにかく援けようと、せっせと働いた。

 そのころ、東電の核毒は北西風に乗ってやってきて、この村の空から雪と雨になって濃厚に降り注いでいたのだが、そんなことはだれも教えてくれない。目にも見えない臭いもしない。
 村民たちは、雪の村中を駆け回って避難民の受け入れをしていた。だから村民たちは、避難民たちよりももっと深く被曝したのであった。
 東や南からやってきた避難民たちは、よりによって核毒の降り積もる村に逃げこんで、また更に被曝を重ねたのであった。(その頃の核毒状況地図

 そして今、核毒まみれの村は避難指示区域に指定されてしまって、6000人余の村民は核毒に村を明け渡して、村外に追いやられている。
 それでも村内に住まなければならない人たちがいる。村の中心部にある老人介護施設の入居者60人ほどである。介護老人は動かせにくいという事情だろう。
誰も住まない訪れない飯館村なのに、こんなに駐車しているのは、向うに見える
立派な老人介護施設だけは入居者60人が住んでいるから、その見守りや介護人たちの車。
それについて、わたしも老人だから思うのだが、わが身をこの地の核毒に侵されたとしても、それが命に係わる頃はこの世に身はないはずだ。だから、わたしはここに住んでもよいのだが、都会好きだから住めない。核毒被害については年齢差がありそうだ。

 夜はダメだが、昼間は居てもよいことになっているから、一部の工場等は操業しているいるらしいが、従業員の確保が困難らしい。だれだって核毒まみれの土地で働きたくないだろう。
 核毒に追い出されてしまった今、市役所も学校も図書館も、なにもかも空き家である。
立派な村役場や図書館、中学校、広場、エコハウスなどのある村のセンターは、
降り積む核毒の中の一時避難の場とはなったが、今は役場管理の一人だけの超閑散
稔りの秋なのに田畑で核毒入り作物しかつくれないから、農業絶無である。
 でも、わたしのような高齢者は、少々の核毒入り米でも野菜でも、たいした問題はないと思うのだが、どうなんだろうか。

 では村の中は森閑としているかというと、実は人や機械やトラックの動きが実に活発である。たぶん、核毒村となる前よりも活気があるだろう。
 それは除染という核毒除去の作業が、村中でなされつつあるからだ。田畑の中にも民家の庭先にも森の縁辺にも、働く人影は多く、大きな重機が動き、トラックが走り回り、大きな真っ黒な袋がそこいらじゅうにおいてある。
 草を刈り取り、樹林を切り、落ち葉をかき集め、地表を鋤取り、村中が大掃除の真っ最中である。除染という核毒産業が村を支配している。
村のどこもかしこも黄色い幟がはためき、真っ黒な核毒袋があり、
大きな土木重機が身を振り回し、作業員が黙々と草刈りをしている
 おや、稲の穂が黄金色に輝いている、、、って、これは真っ赤な嘘風景!

 実際の風景はこうなのである↓


村には今、核毒がもたらした活気が満ちている。いや、活気とか満ちているという言葉には、未来への明るさがあるのだが、はたして飯館村の活気にはそれがあるのだろうか。とりあえず今は、除染雇用もあるかもしれないから、村に金は落ちているかもしれない。
 降り積もった核毒をこうやって袋に詰めて、どこかに持ち出し、その跡にどこかの山を崩して取ってきたキレイな土を敷きつめると、毒のなかった昔に戻るのだろうか。

 あれからもう3年半、これから何年後に昔の村に戻るのだろうか。
 たとえ村は昔にもどっても、その間にも人間はどこかで生きなければならないし、成長するし、老いるし、死ぬから、決して核毒以前の村が戻ることはない。
 そう、日本の人口減社会のなかで各地の村落が次第に消滅していく過程を、核毒が早回しさせることになるかもしれない。
               (つづく、除染のことをもう少し考えてみる

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

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