2008/10/09

050【能楽鑑賞】能「摂待」をみて「安宅」と比較すると面白いと思った

 この10月5日の観世会秋の別会は、「摂待」という珍しい演目があった。能の解説本にもないし、印刷物の謡曲全集にも載っていない。
 「安宅」と同じように、義経が弁慶たちと12人の山伏姿に変装して、奥州平泉に落ち延びる途中の出来事であるが、史実とは異なるらしい。

 「安宅」では、安宅の関所で不審尋問され、弁慶が機転を利かせて主人義経を棒で滅多打ちして主従でない証拠と見せかけることで、義経一行と見破られずにようやく関守から解放される。もっとも芝居の勧進帳では、関守が知っていて逃がしたとしているようだが、。
 ところが「摂待」では簡単に見破られて、白状してしまうのである。

 義経一行は、落ち延びる途中に福島あたりの民家で行きずりの山伏をもてなす接待の席を訪れる。
 そこで接待役の老婆(シテ:野村四郎)とその孫(子方:小早川康充)に、弁慶(ワキ:宝生閑)も義経(山階弥右衛門)も供の者も見破られてしまうのである。

 官製の安宅の関所はいい加減だが、こちらの私設関所のほうが厳しいのである。
「安宅」の弁慶は武士を相手に強いのに、「摂待」では女・子ども相手にまことに弱いのである。
 この弱さの原因は、実は義経はこの老婆と孫に借りがあるからだ。
 老婆の息子つまり孫の父親は義経の家来の武将であったが、八島の戦で義経の身代わりに立って矢に射られて死んだのである。

 老婆は、義経たちがこのあたりを通って逃げてくると聞いて、道端に山伏接待所と掲げて誘い込む算段をして、義経たちを待ち受けていたのである。
 弁慶はものの見事にこれに引っかかった。
 待ち受けるのは「安宅」と同じであるが、こちらでは見事につかまえて正体を暴き、子を返せ、父を帰せと義経に詰め寄るのである。
 が、いかんせん、頼朝に戦犯にされて追われ逃走中の義経は、彼らに何の補償することもできない。ただ悲しいと嘆くばかりのだらしなさである。

 親子の愛、親への孝、主への忠、敵への仇、これらの間で苦悩するという古典的な仕掛けであるが、「安宅」が忠をテーマにしているのに対して、「摂待」は忠よりも愛を主題にしている。
 子を殺された母親が犯人である領主に子を返せと迫る「藤戸」にも似ている。藤戸では母親は補償を受け問い、供養をして仏教的な救いにエンディングを納める。

 ところがこの「摂待」のエンディングはちょっと意表をつく。
 子が突然に、親の敵(かたき)を探すために義経たち山伏一行について行く、と言い出すのである。
 親の敵はすでに屋島で討ったと教えられているのに、そう言い出すのは幼少だから聞き分けないのだといえば、そのままだが、これはもしかして本当の敵は義経だと知ったからかも知れない。
 いい所に旅に出て、義経を討とうと決心したのだろう。忠より孝である。
 一同あわててなだめすかして、逃げるように出て行くのであった。

 「安宅」では、大勢の山伏たちがすわや戦いかとばかりに緊張感を盛り上げる集団演技があるが、「摂待」では全員がほとんど座ったままで、舞台に壁をつくっているばかりある。
 シテは悲しみの口説きばかりだが、ワキは戦の場面を朗々かつ切々と語って、シテよりも演技どころがある。
 また子方もかなりのせりふと演技があり、この「摂待」はシテよりもワキと子方に負うところの多い演目であり、その点でも珍しい。

 舞もなくて名優野村四郎でも、老母の悲哀だけの演技では、こちらがついつい期待するその華麗さがないが、どこか立ち居に足弱な感じがしたのは老いの演技だろうか。

 この別会では、ほかに「栗焼」(野村万作、野村万之介)、「江口」(木月孚行)、「道成寺」(岡久広)があった。
「道成寺」の間(アイ)に野村萬斎がいて、「摂待」の山伏に野村昌司がいたから、野村家3兄弟とその息子たち合わせて5人の出演であった。

 万之介は野村4兄弟の末っ子なのに、久しぶりに見た顔は一番の老けだった。大病が癒えないのか。
 萬斎も顔色が悪いが、もしかして忙しすぎるのか。売れっ子になっても能楽堂に本職できちんと出演するのがエライ。

参照→能楽師野村四郎師
   →わたしの能楽入門