2018/04/20

1330【2018花見旅その2】信州高遠は城址公園だけが花見じゃないし城下町の風景もある

 
関東の桜が花見時期を過ぎたので、甲州の桃源郷花見旅を経て、信州の高遠へと花見旅の足を延ばした。
 信州伊那谷の高遠、名所の高遠城址のコヒガン桜の林は、まだ花が開いていたが、それでも散り時を迎えており、花吹雪鑑賞をしたのであった。満開もよいが、散る桜もよいものだ。
 朝早く訪れたので、花見客にまだ踏まれない地面に、花びらを敷き詰めたピンクの絨毯がひろがり、花の天蓋からピンクの雪が降るのを楽しみ、人々が多くなる前に退散した。
花散り敷く朝の高遠城址公園
城址公園の外に出たところで、高遠美術館に久しぶりに入ろうかとおもって、大きな今日の展覧会案内看板を見たら、「矢代亜紀展」とある。ハテ、だれだっけ、唐突に頭の中に「♪誰も知らない素顔の八代亜紀♪」と出てきた。ああ、演歌歌いだったな。演歌みたいな絵なら、私の好みじゃないから入らなかった。
 いま、WIKIで見たら、矢代はたしかに演歌歌いであり、「誰も・・・」を歌ったのは嘉門達夫とある。矢代はフランスのなにやらに入賞する腕前の画家であるそうだ。
 ほんとうは上手い絵描きなのに、まったくの偏見で入場客をひとり逃したことになる。

 今年は信州でも、いつもよりは7日ほど早く咲き散る花見だったようで、期せずして散る桜を求めて、団体バスが次々とやってきていた。団体客の流入が満開タイミングを逸したので、今年の地元観光産業は当て外れだったらしい。
 
 だが、高遠の桜は、城址公園はそれなりの名所ではあるが、わたしの好きな高遠の桜の風景は、町のもっと別の内外にあることを知っている。それは、わたしがこの町を訪ね、泊まのはすでに7回、そのうち花見は4回にもになっているからだ。
 旧友夫妻がここに第2の生活拠点となる家を構えていて、そこに2、3泊させてもらうのだ。10年ほど前、古民家を買い取って改装し、川崎の第1の生活拠点と行き来して過ごしている。いつ訪れても、ゆったりと暮らしている。

 その家から花の名所の城址公園まではゆっくり歩いて15分ほどだが、その喧騒とは無縁ながらも、その家のまわりにはごく自然に桜の花が咲いているのである。



わたしは花の高遠に訪れるといつもフラフラと徘徊して、その途上で行きあたりばったり出会うそこここの桜を愛でるのである。
 特に高遠湖の周りをぐるりと回れば、穏やかな農村風景に桜花が、美しい点景をつくりだしていて、それが次々と展開していくのを眺めつつ歩くのは実に楽しい。
 それは歩けばこそ楽しむことができる風景であり、車の速度ではほとんど意味がない。坂を上り下りするから、自転車でもよいかもしれない。
 東京上野公園や高遠城址公園の満開の桜の下の狂気の喧騒を嫌いではないが、静かに桜花をめでつつ徘徊するのも、実にいいものだ。





 高遠って城址公園の桜が有名過ぎて、この町で観るべき風景は、桜花しかないように思われている節があるが、実は城下町としての歴史があるから、それなりに街並みも見るべき風景を持っている。
 そのことは、「高遠:天下一桜と歴史的街並み(相羽満里子 1988)」と題する雑誌記事に詳しいので、そちらに譲ることにする。

 今年の高遠花見旅は、甲州からまわったので、茅野駅で下車、花の季節に通う高遠行路線バスに乗って行った。急な杖突峠を越えて行くルートには、処々に桜が色を添えていて、それも愉しいのであった。
 もちろんこのバスばかりではなく、この季節の列車の旅は、窓から桜や桃や杏や梨などの花見ができるから嬉しい。行き帰り共に窓からの花見をしていて、暇つぶし用に持っていた文庫本を、3ページも読まなかったのであった。
 団体バスや乗用車であわただしく来て、名所をいくつかあわただしく見て、あわただしく帰るのではなくて、バスや列車で行き帰りにゆったりと花見しつつ、ゆったりと宿泊してはどうかと思うが、それは閑老人の勝手な言い分である。
花咲き山笑う街道脇
あ、そうだ、高遠さくらホテルの大浴場に、真昼間にゆっくりと、ほぼ借りきり状態で入ってきた。風呂を特に好きではないが、露天風呂が実によかった。
 露天風呂から城址公園も見えるが、浴槽脇に桜の花が咲いていて、はらはらと舞い散る花びらが、わたしの裸の肩に降りかかり、湯面に花びらが散り群れて揺れ、湯を掬うと花びらが掌を彩る。
 そう、花と混浴したのであった。さて花は何と思っただろうか。

 花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の咎にはありける
         (西行作 能『西行桜』世阿弥作より)

 さて、信州高遠の花見の後は、まっすぐ帰ろうと思っていたが、時間があったのでまた甲州に途中下車してのであった。そこで面白い景観に出会った。
(つづく)  

2018/04/17

1329【FACEBAKA与太記事4月前半】花見、自衛隊隠匿情報、横須賀再開発探訪、甲府から見る冨士山、楽な役人仕事

2018年4月4日
「お花見限定 芝生内にお入りいただけます」
こう書いてあるけど、見ただけで読まないで、
「入っていけない」と書いてあると思い込んで、だれも入っていない。

4月8日
【ほのぼの自衛隊】
へえ~、自衛隊って、お優しいんだね~、
「探せ」って命令を、こうグダグダ書くのかあ、
「おつかれさま」なんて、元来の使い方を知らない
ガキの使うネット言葉だと思ってたら、
今やれっきとした官庁の公用文書に使うのかあ、
 もしかして、「おつかれさまです、恐縮ですが、
これから戦争しますので、戦っていただけますか、
よろしくお願いいたします」って、
戦争を始めるのかなあ、
まあ、威張る軍人になっては困るから、
これで安心しましたけどね。
 ただね、どこか常識が無い感じもあるなあ、
イナダウヨクネエチャンも、こんなのを相手じゃあ、
困ったんだろうなあ、同情します。


4月9日
【横須賀汐入再開発の前と今】
1985年
2018年

4月9日
【横浜三渓園花見】
花吹雪の三渓園、お似合いツインタワーは健在

4月13日
【甲州の霊峰富士を甲府で眺める】
甲府城鐡門前から眺めているが、
これは甲斐の国らしい迫力ある景観だなあ!、、?

甲府城址天守台から眺める、近景と遠景の対比、
水平方向と垂直方向の調和なんて、
なかなかによくできた景観計画だと思うよ、、、?。

4月13日
【高遠で花見】春はやっぱりここだ
城址公園では、散りゆく花、花の天蓋、花の絨毯、花の吹雪
薬師堂の枝垂れ桜はいまが満開

2018年4月14日
【国会モリカケ・イラク日報論議】
日本の政府の仕事って、こんなにも忘れっぽい人たちとか、
こんなにも文書管理の下手クソな人たちでも、十分に勤まって、
あんなにエライ地位になるんだから、
高給で楽な仕事なんだな、羨ましいなあ

2018/04/15

1328【2018花見旅その1】関東の桜が散ったので甲州の桃源郷へ


 今春の花は、去年よりも10日くらい出足が早くて、慌てた。いや、慌てるほど重要なことでもないが、うっかりすると1年待つことになるから、どうも慌てたくなる。
 なにしろ来年があるかどうか怪しい歳になったのだから、できる能力あるうちにやっておくのだ、なんでもね。
 まずは3月25日、北鎌倉に宝庵開きに行き、ついでに明月院にも寄ったが、ちょっと早すぎた。谷戸の奥の春は遅い。 
宝庵春景色

 次は母校キャンパスで去年よりも1週間早い3月28日、これは満開だった。
母校キャンパスの静かなにぎわい

 その次が4月1日、隅田川の堤に行ったが、ほとんど散って葉桜だった、早すぎる。カメラにSDカードが入ってなかったドジ。
 そして4月3日、横浜三渓園に花吹雪を見ようと出かけたら、まさに散る花びらが美しく、でも枝垂れ桜はちょうど満開、なかなか良かった。
わたしが好きな三渓園ツインタワー風景、桜が池に吹雪に散る

 もう近場での桜の花見をあきらめて、4月10日に甲州の穴山に桃の花見に出かけた。ここらあたりは桃源郷である。見上げると視界は桃の花でピンクに染まり、足元は菜の花の黄色で染まる。更に梨の花が真っ白に咲き誇る。
塩山あたりの梨の花

 桃の花は花見のために咲かせるのではなくて、桃の実を栽培するために咲かせる。そのためには目いっぱい咲いた花を適当に間引きする。その摘花後は花の密度が下ってちょっと薄くなるが、それでも一面の桃源郷である。
桃の木を手入れ採取し易く横に広げ、摘花して粗い花密度にする

 毎年、昔仲間が集まって、花の下の菜の花の草原で、自前の天ぷらを揚げながら、山賊の花見宴会をするのだ。もう何年やっているだろうか。
 そうそう、初めのころは駅から1キロ余り歩き、更に高さ50mくらいの新府城址に登って、ピンクに広がる桃源郷を見下ろし、雪の八ヶ岳を遠く望みながら、天ぷら宴会をやっていたものだ。
元気に新府城跡に登っていた頃の宴会場からの桃源郷風景

 そのうちに城跡まで登るのが辛くなってきて、その麓の畑の中でやるようになった。
 それがいまでは、駅近くの畑の中でやっている有様だから、歳は争えないとはこのことである。
花見宴会場全景  菜の花の中に座り込む


実は毎年の穴山花見のホスト役をやってくれる森博士は、視覚障碍者道案内ロボット研究者だから、花見はその一年間の研究成果の発表会になっている。花見で遊ぶだけではないのだ。
 ロボット開発の始めはコンピューターつき自走式電動車椅子だったのが、研究が進むにつれてコンピュータつきは変わらないが、手押し式車椅子になり、手押し式3輪車になり、今は手押しババ車になり、次第に軽装簡易化する進化過程を経てきている。
森博士による路上走行実験と資料検討する花見男たち
毎年の花見をいつも同じところでやっていると、花は毎年同じでも、こちらは確実に変化していることを自覚する。動きが鈍いのだ。
 昔の人が言ってたなあ、「年々歳々花相似 歳々年々人不同」ってね。この漢詩の意味は、花見とは自分の老い具合を見に行くことだ、と覚った。
 実はこの後につづいて信州の花見に行くのだが、そこでもこれを感じたものだ。
つづく

2018/04/05

1327【FACEBAKA与太記事2018年3月後半)雪見、花見、茶席「宝庵」開き、ガンモドキ治癒、アホバカスマホ、

2018年3月後半 フェイスバカ与太記事まとめ


3月19日
ある四半世紀差の風景
(いいね!のひと15人、悲しいね!のひと2人)


3月20日
「日光角化症」の塗り薬治療、去年から8カ月も続いたけど、19日に最後の診察で治癒との診断、ヤレヤレ、やっと終わった。別に辛い治療じゃないけど、一定ルールで長期間にわたって薬を塗るって、面倒だし気になるし憂鬱だった。
 でもなあ、陽を浴びたのがいけない、それが癌の元になるから治せなんて、今ごろ言われてもなあ、昔は太陽にあたれって言われたもんだぞ。
 まったく偶然に発見したガンモドキ、陽に当って遊んだあなたもアブナイかもよ。

3月21日
おお、雪だよ、吹雪だよ、お彼岸の中日だってのに、
政治のあまりの乱れに、天も嘆いて氷の涙を降らせるか、、



3月23日
ふ~ん、どこか知らないけど、投票するひとたちって、
なんだか奇妙な面白いお方を、当選させるものだねえ、

3月25日
また言葉狩りかよ~、痴呆を認知と変えて妙なのに、こんどは徘徊をいけないという、
迷い人とでも言うかい?、徘徊を目的に歩く私はいけない人?

3月25日
【北鎌倉 宝庵】プレオープン
幸せな茶室建築である。1934年にできてから84年、、初代オーナー関口さんと2代オーナー榛沢さんに愛され、大切に維持され使われてきたが、このたび3代目のオーナー浄智寺さんもこれを愛し、日本の伝統文化の活動の場として、一般に公開して活用なさるとて、化粧直しをして今日はプレオープン、4月1日正式オープン。
●宝庵由来記(伊達美徳)https://sites.google.com/site/dateyg/houan

3月26日
上手い答弁

スマホアホバカ

3月27日
【茶席宝庵開き茶会】それにしても、客も裏方も女性ばかり、男はわたしの連れが3人、他にチラホラ見えたが、圧倒的に和服アマゾネス軍団であった。茶会とは今やそういうものなのか。
 たしかに、歌舞伎も能楽や文楽も見物やお稽古には、圧倒的に女性が多いから、日本伝統芸能文化は女性によって支えられていると言って過言ではない。
 そのアマゾネスのひとりに、山口文象ファンがいたのには驚いた。デザイン系の学生という可愛い乙女は、久が原の山口邸を訪れる機会があって、それを契機に文象ファンになったという。
 建築家山口文象そのものが忘れられるときに、これはまた通の好みだねえ、良い趣味だねえと、ちょうど一緒にいた山口文象高弟の小町和義さんと共に、老爺ふたりは嬉しくなり、大いに褒め讃えたのであった。
https://datey.blogspot.com/2018/03/1326.html



3月27日
ウチの桜も御室の桜、花(鼻)低く過ぎて、眼下に見下ろす




2018年3月28日
 昨日は絶好の花見日和でした。
 母校キャンパスは花盛り、ウッドデッキの花の広場は、若い母親に連れられた幼児たちが走り回っています。車椅子の老人たちもいます。わたしたちのようなヨロヨロ老人もいます。頭にすっぽりとムスリムのスカーフをかぶり、華やか色彩の民俗衣装の女性たちもいます。
 上野の山のような非日常の超俗っぽい花見もキライじゃないけど、この花のキャンパスは、なんだかいつも桜が咲いてる日常の場のようで、ゆったりとする空間です。満開の花の狂気が薄い。
 咲くには咲いても、さすがに齢60数年の老化著しいヨレヨレ桜のせいか、花の密度が薄い感がします。花と花の間が透けていて空が見えすぎるのです。まあねえ、歳だもんなあ、しょうがないか。

2018/03/26

1326・2018年4月に開く茶席「北鎌倉 宝庵」は山口文象作品では「黒部川第2発電所」と並ぶ幸せ建築だ


初代オーナー関口泰氏自筆の夢窓庵の図(色紙)
●春の谷戸に茶席「宝庵」を開く

 北鎌倉の浄智寺谷戸の奥に、「宝庵」(ほうあん)と名付けた茶席が、このたび公開された。1934年に山口文象設計で建った茶室建築2棟、一般公開して茶会等の催しに貸し出すことになった。
 2018年4月1日からの正式オープンに先駆けて、3月25日プレオープンに招かれて行ってきた。
 昨年12月に40年ぶりに訪れた時は、紅葉が美しかったが、今は若葉が芽吹き時、椿の花が美しいから、「椿茶会」と名付けてのプレオープンイベント、天候も絶好の春日和、もてなしが行き届き、招いてくださった島津克代子さんに感謝。

2018年3月の宝庵
2017年12月の宝庵


 常安軒の四畳茶室で、久しぶりに抹茶の席に連なった。ところが、謡の稽古経験20数年だったから、普通にできていたはずの正座をしようとしたら無理無理、謡いを止して長いからなあ、しょうがないから椅子を使ったのであった。なさけない。
 この四畳間は、初代オーナーの関口泰氏が、書斎として使っていたようだ。広椽に出ると左向うに、梅の古木を透かせて吉野窓の夢窓庵を見る。
 あの丸窓から吉野太夫のような、美しい女性が顔を出すことを妄想したのは、その日のわたしではなくて、昔日の関口氏だった。この日は、多くの美しい女性がいたから、待っていれば関口氏に代って、その願望をかなえたかもしれない。
夢窓庵

●山口文象ファンという乙女に出会い喜ぶ

 午後には常安軒の8畳間で、煎茶のお点前を鑑賞し、味わったのであった。こちらは立礼だから脚の問題はないのがありがたい。
 煎茶の席は初めてだったが、このような茶道の流儀もあるのだと、歳のゆえに遠慮がないから、興味津々の質問を宗匠にしたのであった。同席の女性客たちに哂われた。
 それにしても、客も裏方も女性ばかり、男はわたしの連れが3人、他にチラホラ見えたが、圧倒的に和装アマゾネス軍団であった。茶会とは今やそういうものなのか。
 たしかに、歌舞伎も能楽文楽も見物やお稽古には、圧倒的に女性が多いから、日本伝統芸能文化は女性によって支えられていると言って過言ではない。

 その和装アマゾネスのひとりに、山口文象ファンがいたのには驚いた。デザイン系の学生という可愛い乙女は、久が原の山口邸を訪れる機会があって、それを契機に文象ファンになったという。
 建築家山口文象そのものが忘れられるときに、これはまた通の好みだねえ、良い趣味だねえと、一緒にいた山口文象高弟の小町和義さんと共に、老爺ふたりは嬉しくなり、大いに褒め讃えたのであった。ゴホウビにわたしが作った冊子「宝庵由来記」(まちもり叢書別冊)を差し上げた。

●実はこの茶室建築にも変転があった

 昨年暮に来たときと比べて、季節の変化は当然だが、庭師が入って谷戸がずいぶんさっぱりしていた。斜面に繁っていた蔦や潅木類が切り払われて、切り岸とよばれる岩壁も現われたら、俄然、鎌倉谷戸風情になった。
 関口氏のときの作庭らしい崖途中の横井戸、そこからの滝、そして庭に引き込む小川などの跡が現れた。でも、滝も小川も一日で枯れてしまったとの話だそうだ。

 庭師の松中さんからいろいろと聞いた話が面白い。松中さんは、2代目オーナーだった榛沢さんと少年時から親しく、この茶席の話をいろいろと聴いている。
 初代関口氏による配置は全体に東よりだったが、関口氏亡き後、今の別棟を関口夫人が建て、また敷地の南東の一部を他に分割のため、常安軒だけを西寄りの現在位置に移築したとのこと。
 1970年頃に2代目オーナーになった榛沢さんは、常安軒の南西の今の位置に夢窓庵を移築し、どちらも解体修理して、復元修復を1972年頃に完成したしたとのこと。
 つまり、二つは対の関係にあるのに、アサッテに向いた状態がしばらく続いたらしい。それを関口氏が常安軒から眺めたように夢窓庵を移して、配置関係を復元したとのことで、これには驚いた。
これは当初の2棟の配置(位置は変わっても配置は今も保たれている)
この茶席建築は当初のままにここに建っているとばかり思っていたが、この谷戸小宇宙の中で移動して、かなりの変転の運命を辿っていたのであった。
 だが、わたしが1976年に当初設計者の山口文象さんについてここに来たときに、彼はそのことにまったく気が付かなかったらしいのは、その訪問時に言わなかったし、後に雑誌に喋っている記事からもわかる。
 それは一方では、榛沢さんの渾身の復元手腕のものすごさを物語るものである。
 例えば、解体移築修理となれば、当初材料は傷んだものも多いから、あちこち似たような材を探して入れ替えるのが当たりまえ。
 山口が見つけた時の苦労話をしている四畳茶室の赤松の床柱は、榛沢さんの時には傷んでいて使えなかったので、実は同じようなものを苦労して見つけてきて替えたものだそうである。
 そうやって、山口作品は今に伝わっているのであった。
常安軒四畳茶室の赤松床柱

●山口文象作品では黒部と並ぶ幸せ建築だ

 プレオープンイベントで大勢の人たちが茶室に出入りする風景を観ていて、ここの建物のスケールが、実はかなり小さいことに気が付いた。
 人がいないときには、普通の大きさに見ていたのだが、人がいると普通の建物よりも軒が低く屋根もずいぶん低く見える。実際に建物の脇を歩くと、分っていながらも軒先やら雨どいやらに頭をしょっちゅうぶつける。
 別棟も入れて3棟とも、全体プロポーションとしては普通の大きさに見えるのだが、実際はかなり小さな建築であることを知った。大きいと思ってみていた夢窓庵の茅葺屋根も、実はプロポーションから見て大きいのであり、現物としては小さなものだ。
 わたしは常安軒四畳茶室に椽から入ったのだが、入る時はよかったが、出るときに吊り障子に頭をぶつける無作法をやってしまった。 

左:常安軒    右:夢窓庵
それにしても、これは幸せな茶室建築である。
 1932年にベルリンで関口泰氏がこの茶室づくり構想を山口文象氏に語り、1934年に完成してから84年、初代オーナー関口さんと2代オーナー榛沢さんに愛され、大切に維持され使われてきた。
 それが、このたび3代目のオーナーとなった浄智寺の朝比奈恵温さんもこれを愛し、日本の伝統文化の活動の場として、鎌倉古民家バンクの島津克代子さんの運営で一般に公開して活用される。
 山口文象の戦前木造作品で現在も当初の姿の建築は林芙美子邸があるが、今はその小説家の記念館となっている。もちろんそれは意義のあることだが、本来の使い方ではない。
 それに比べてこちらは、こちらは茶室本来の使い方が続くのだから、山口文象建築作品の中では、いちばんの幸せ建築と言えるだろう。木造ではないが当初の姿で本来用途が今も続く建築には、黒部川第2発電所もある。

参照関連ページ
宝庵由来記 https://sites.google.com/site/dateyg/houan
山口文象アーカイブス https://sites.google.com/site/dateyg/