2017/07/25

1277【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド8】明治生命館は今や丸の内では超一級重要文化財、自社オフィスなのに一般公開しているのがいまどき偉いなあ

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド7】からのつづき
東京駅周辺ガイドマップはこちら
●東京駅周辺ガイドルート(グーグル画像マップ)

 では、馬場先通りを西へ、堀端の方へ歩きましょう。
 この日比谷通りと馬場先通りの角地に立つのが1934年に建った「明治生命館」です。重要文化財指定の建築です。
 丸ノ内の重文指定建築と言えば、最初の東京駅がそうでした。そして三菱1号館美術館は重文なりそこね、鳥取藩池田家上屋敷表門は今は上野の山にお出かけ中ですね。
明治生命館(馬場先通り側)
この明治生命館の後ろに超高層ビルが建っていますが、2004年に完成した「明治安田生命ビル」名です。
 ここには千代田ビルがあったのですが、その土地と明治生命館の土地をひとつの敷地に合併し、明治生命館はそのまま保存した上で、その上空の未利用容積率をこちらの新ビルに載せて超高層にしたのでした。
 更にそのときに、明治生命館が重要文化財なので、それを保存した場合はその床面積分を容積率にボーナスとすることができる制度があるので、その分が加わって、ここでは一般は1300%のところを1500%で建設しています。特定街区という都市計画制度です。
 そういえば重要文化財の東京駅も容積移転していますが、これは特定街区制度ではなくて、特例容積制度によるものですから、重文による特別な割り増しはありません。

 この明治生命館はすごいですねえ、こんな本格洋風建築はもうできませんね。生命保険とか銀行とか、他人のお金を預かるところは、見た目も安心するような立派なビルにする必要があったのでしょうね。

でもこのような様式建築の最後のものと言ってもよいでしょう。設計した人は、岡田信一郎と岡田捷五郎という兄弟建築家でした。兄の岡田は様式建築のベテランでしたが、明治生命館のできる前に没したのでこれは遺作ですね。
 1970年代までは丸の内にはこんな真正面に太い柱の立ち並ぶ、なんとも権威主義的なビルがあちこちにありました。
 この馬場先通りでは三菱銀行本店がそうでした。他に第一銀行、日本赤十字、農工銀行(第一勧銀宝くじ部)、農林中金などでしたが、みんな消えました。

 それにしても、この新超高層ビルはペラペラガラス張りで、ドッシリ石張りの明治生命館とずいぶん違うデザインなのは、立派過ぎる先輩に敬意を払ってわざとそうしたのでしょうね。でもねえ、ここまで逃げなくても、なんとかできなかったもんですかねえ。
 その点では、後で見る予定ですが、「第一生命館」の後ろの超高層建築は、それなりに抑制と共に調和しているデザインだと思います。
馬場先通り側の明治生命館と明治安田生命ビルのとりあい
日比谷通り側から見る明治安田生命ビルと明治生命館


 では、日比谷通りを渡り、馬場先門があったところの堀を渡ってから、馬場先通りを振り返ってみましょう。
馬場先通りの西端は、左に明治生命館、右には建替え中の東京商工会議所(1960年)ですが、これには冨士ビル(1962年)と東京会館(1971年)も共同の建替え事業です。
2017年7月 馬場先門から馬場先通りを観る
 さてこの右側にはどんな歴的な景観を見せるビルができるのでしょうか。だって、この明治生命館と対をなす建築ですし、設計はこのあたりの大地主の三菱地所せすから、それなりの景観デザインをするに違いありません。2018年竣功なので期待しましょう。
 と思ったけど、公表されている計画だと、こんな姿のようです、う~ん、ヘイヘイボンボン、いわゆる墓石型、、ま、いいか。
公表されている計画模型写真

 それじゃあ、ここの昔の景観はどうだったか、タイムマシンでさかのぼりしょう。

2017年7月 左は明治生命館、右は建替え中の東京商工会議所
2004年
1987年
1974年(『都市住宅』1974年5月号所収)
1951年(『縮刷丸の内今と昔』(三菱地所1952)所収)
1930年以前の馬場先通り赤煉瓦街景観(一丁倫敦)帝都名所絵葉書
 左は三菱2号館で1930年に取り壊して現明治生命館に建替え
右に東京商議所、左の三菱2号館の向うは5号館と1号館
 では明治生命館に入って見ましょう。中には立派な広間があるので、歩き疲れたからちょっと休憩しましょう。
重要分文化財として内部も一部公開されているのです。そう、東京駅も公開されているけど、あれは駅なので当然ですが、こちらは企業のオフィスビルだから、セキュリティが厳しい近ごろは珍しいことですね。
 三菱一号館美術館の中庭オアシスもいいけど、こちらの豪華な屋内オアシスもいいですよ。外も立派だけど、中もすごいですねえ。しかもゆったり憩う空間として公開しているって、いいですねえ。ここで音楽会が開かれたりしています。
 ふらりと入ってこんな建築空間に出会うことは、めったにありませんね。
 ここのとなりは平日は営業室として使っています。このようなオフィスで仕事をする人たちは、いったいどんな気持ちなんでしょうねえ。それともなれっこかな。
新旧ビル間の公開空地パサージュ
左が明治生命館、右は明治安田生命ビル
 




 丸ノ内では第一生命館が、日本が戦争に負けた1945年から連合国軍最高司令官総司令部に接収されてマッカーサーがいたことが有名です。この明治生命館もアメリカ極東空軍司令部として1956年まで接収されていました。
 だからいろいろ改変れていたのを、修復復元したそうです。
(つづく)

◆当日のまち歩き資料は:東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版

2017/07/22

1276【日本橋首都高撤去話】懐かしや、またぞろ登場、でもねえ、高度成長開始期日本記念碑としてここだけは保存してはいかが?

 
  今は2重橋になっている東京の日本橋、この下の段の20世紀初期の橋だけ残して、上の段の20世紀中期の高架橋を取っ払おうって話である。
 懐かしや、小泉内閣の時にそのブレーンだった伊藤滋さんが音頭を取って、構想を練っていたのを思い出す。
 ソウルのチョンゲチョンに先を越されて、悔しかったらしい。なんか、妙なテーマパークになったような構想図が出てきたことを思いだす。
 でも、あの時は、地下案移設ではなくて、まわりのビルを再開発してそこを貫く空中移設案だったような。

 日本橋の首都高撤去については、いろいろ言いたいことがある。
 ひとつは首都高を地下に潜らせることで撤去を可能にするというのだが、そんな大金をかけて地下道路をつくるなんて、いまさら必要なんだろうか。
 もう、都心部の高架高速道路橋そのものが要らない時代に来ているような気がするが、これは交通専門家たちに任せることにする。でも、交通屋さんたちは首都高不要とは絶対に言わないだろうなあ。

 わたしが気になるのは、2重橋を下の段の橋だけにしても、もう、昔の景観には決して戻らないことである。景観とは人々の記憶の積層である。
 首都高ができる直前の1950年代の景観に戻したいなら、高層ビルの撤去もしなけりゃなるまいが、まさか、そこまで考えてはいないだろう。
映画「三丁目の夕日」に出てくるCGによる1950年代日本橋風景
同上

実はいたずらで日本橋の首都高高架橋を撤去した画像を作ってみたことがある(こちらを参照)。それで分かったのは、撤去してもそれほど素晴らしい景観が戻ってこないことである。
戯造日本橋風景  DATEY
むしろ首都高の横一文字高架橋があることにより、景観が引き締まって見える?、、皮肉なものだ。

 この2重橋の上の段を建設する頃、わたしはたまたま日本橋を通りかかって、川の中で水中に高架橋の柱の下の基礎を支えるコンクリート杭を打ち込んでいる風景に出くわした記憶がある。
 真っ黒なヘドロの中に太いコンクリートの丸柱のような杭が、ズブズブズブと挿しこまれていって、その頭を大きな茶筒形の鉄の錘が上下して打ち込んでいく。始めはズブズブ、やがてドカドカ、そしてカーンカーンと、打ち込み音が変っていった。

 あれから60年以上、いまやこの2重橋は東京のひとつの風景になってしまった。日本橋とは大きな銘盤がかかる首都高高架橋だと思っている人が多いような気がする。
大きく日本橋と書いてある首都高の高架橋はニセモノ日本橋だよ
実はその下に本物の日本橋があるんだよねえ
でも、今や首都高の方が本物日本橋って思われてるかもなあ
 あの景観は、高度成長期出発の頃の負の遺産の様に言われているが、本当にそうだろうか。
わたしはむしろ、高度成長期出発日本の記念碑としての2重橋・日本橋になったように思うのである。
 かつての風景を知る人よりも、今の風景を記憶の風景とする人の方が多いだろう。それを簡単に撤去してよいものだろうか。撤去論者たちは負の遺産か正の遺産か、考えたことがあるのだろうか。

 もちろん、わたしは下の日本橋を渡る時、上の日本橋から降ってくる騒音と排気ガスが無くなることを歓迎し、その点での撤去には大いに賛成である。だが景観としては撤去すればよいものかと、考えこまざるを得ない。
 首都高高架橋を撤去しても、この日本橋の2重橋だけは、記念的文化景観として保存してもらいたい
 そして、下の橋に対抗するというか調和させようとの誤解デザインだろうが、妙に着飾った今の高架橋ではなく、できた当初のような素朴な飾り気のないダイナミックなデザインの高架橋に戻してほしいものである。
ヘンに着飾る前の日本橋上空の首都高高架橋 1987年3月4日撮影DATEY
そう、東京が悲惨な戦争被害から立ち直って、新たな世界都市へと踏み出した記念碑として上の段の鉄造日本橋、そして江戸から変った東京が近代化を遂げたときの記念碑としての下の段の石造日本橋、これら日本の二つのエポック記念碑が、見事に重なった景観はこそは、保存して後世に伝えて保存するべき現代遺産に値すると思うのである。
 東京駅が復原の美名のもとに、戦争と復興の記念碑の姿を消滅させた愚を繰り返さないでほしいものだ。

 なお、チョンゲチョンも高架橋の柱だけを3本、そのままに川の中に保存している。
ソウルのチョンゲチョン上空の高架橋を撤去した跡に残した3本の橋脚
あ、そうだ、首都高撤去して景観を戻したいなら、いっそのこと、江戸時代の木橋に戻してはいかがでしょうか。
木橋の日本橋
参照:ディズニーランド化する歴的景観の保全(2006年 伊達美徳)

2017/07/17

1275【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド7】明治建築を再現したんだから次は丸の内に昔あって今は上野にある江戸大名屋敷黒門を連れ戻しましょうよ

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド6】からのつづき

●1丁倫敦メインストリート馬場先通りの景観

 さて、三菱1号館美術館の南側の通りは、江戸城の馬場先門に続く通りなので、
馬場先通りと呼ばれています。実は丸ノ内でこの通りこそがメインストリートだったのです。三菱地所がロンドンの街を真似して作って、赤レンガ建物が軒を接して立ち並んだ景観は、「1丁倫敦」と20世紀の初めに謳われたのでした。
馬場先通り一丁倫敦を西に見る景観
右手前が三菱一号館
いちおうそれらの建物名をあげておきましょう。上に載せた絵葉書で、右手前が第1号館で再登場した現・三菱1号館美術館ですね。その向う西隣に第4号館、そのまた向うに第5号館(現・MYプラザ)、そして堀端には第2号館(現・明治生命館)が並びました。
 左側の手前から第3号館、その向う西隣りに第12号館(3号と12号館合わせて現・新東京ビル)、更にその向う隣りは第30号館(現・冨士ビル)、そして堀端には東京商業会議所(現・東京商工会議所)です。
 これに左手前の更に手前の現・東京国際フォーラムのところに東京府庁舎の赤レンガ建築もあり、馬場先通りは壮麗だけどロンドン直輸入景観ができあがっていました。

 今の馬場先通り景観はごらんのようですが、見れば左向う堀端の東京商工会議所と手前の冨士ビルがまとめて工事中です。
 さてどんな建物が現れてくるのでしょうか。もちろん超高層建築でしょうが、三菱一号館美術館に対応して、赤レンガ景観を一部再現するのでしょうか。
馬場先通りを西に見る 2017年7月撮影
右手前が三菱一号館美術館、その向こうがMYプラザ
左は新東京ビル、その向こうは建て替え工事中の冨士ビルと東京商工会議所
そうしてその次はたぶん、三菱1号館美術館の南前あたりのビルの建て替えでしょう。
 このあたりを見渡すと、建替え工事中の東京商工会議所と冨士ビル、その南隣の帝劇と国際ビル、新東京ビル、新日石ビル、新国際ビルなど、1970年代に建った31m高さのビルが、けっこうたくさんありますね。
 これ等を次々と超高層ビルに建替えることでしょう。

●次の歴史建築再登場は大名屋敷「黒門」か

 となると、三菱一号館美術館に続いて、今度はどんな昔のビルの再現をしてくれるのか、楽しみです。あれは明治時代の建築再現でしたから、つぎはきっと江戸時代の建築再現をしてくださることでしょう。
 そうです、大名屋敷ですよ、江戸時代は丸ノ内は全国の大名屋敷の街でした。その名のごとく大名小路が今もあるのですから、そこに大名屋敷がまた出現なんて、面白いですねえ。もちろん、その浦島大名も浦島一号館のように、超高層ビルという玉手箱を抱えて戻ってくるでしょう。

 じゃあ、どんな大名屋敷がいいかですが、実はものすごい代物があるのです。江戸時代の大名屋敷の一部が現存すのです。三菱地所はご存じでしょうか。わたしがここにご披露いたしましょう。
 そう、こんどこそ本物の重要文化財の出現です。もちろんレプリカじゃありません、真実本物なんです。
 大名屋敷の本物ってあるのかと、お疑いでしょうが、上野の国立博物館が今までちゃんと保存してくれているのです。それを返してもらって、丸の内に持って来ましょう。
国立上野博物館にある鳥取池田家上屋敷表門(中央下に横長屋根)

詳しく言うと、馬場先通りの南側、東京国際フォーラムの西側、大名小路から西の現4街区を全部まとめて、鳥取藩池田家の上屋敷でした。なお、三菱1号館があった街区は同じく池田家の中屋敷でした。
 その鳥取池田家上屋敷表門だった建物が、東京国立博物館に重要文化財として建っているのです。その門は大名小路に面していたようです。
上野にある鳥取池田家上屋敷表門だった黒門
幕末の丸の内における鳥取池田藩上屋敷(松平相模守)の位置
現在の新東京、冨士、東商、国際、帝劇、新国際、新日石の各ビルの4街区分
(江戸切絵図・御曲内大名小路絵図の一部 1865年発行)
ここが1869年から明治政府の軍用地になりました。そして1890年に政府はこの地を三菱に売却し、翌年に表門は芝高輪の皇族関係施設に移築されたそうです。
 ということは明治政府は、池田家上屋敷だった建物をしばらくそのまま使っていて、表門もあったのでしょう。それを高輪に移築したのは明治政府だったのでしょうか、でも皇族の御殿に中古建築を使うなんて、財政逼迫だったのでしょうか。
 高輪から上野に移築したのは1949年のことだそうですから、この表門は明治大火にも関東大震災にも戦災にも負けなかったことになります。
1883年測量図に見る軍用地(陸軍軍監部)となった旧池田上屋敷地
屋敷や池のある庭をそのまま使っている
上の地図の明治政府陸軍軍監部の頃の旧池田家上屋敷表門
両脇の出番所の前に白い歩哨小屋が建っている(『View of Tokyo』所収)
 現存の表門は長屋門型式ですが、1856年以前は冠木門だったとわかっていますので、それより後の建築であろうとの考証があります。
鳥取池田藩上屋敷と冠木門だった頃の表門
(『泥絵で見る大名屋敷』平井聖監修、浅野伸子著より)
なんにしても東京都内にある大名屋敷の表門は、これと本郷の加賀前田家上屋敷の赤門の二つのみだそうです。池田家の表門は黒漆塗りなので黒門といわれています。
 この黒門は、丸ノ内に出自をもつことが明確な実に由緒ある建築であり、上野ではなくて丸ノ内にあってこそ意義のある重要文化財ですよねえ。仮住まいの上野から丸の内にお帰りいただくのは、歴史文化の継承として実に意義深いことです。
 馬場先通りを挟んで、北に三菱1号館、南に池田家表門が向かい合うと、さてどんな景観でしょうかねえ、どなたかCG技術をお持ちの方が作ってください。
大名小路を南に見る 右は三菱1号館美術館、向こうは新東京ビル
大名小路を北に見る 左は新東京ビル、向こうに三菱1号館美術館
この左あたり4街区が鳥取池田藩上屋敷だったから表門が戻ってくるといいなあ


 という幕末丸ノ内ウンチク断片ですが、こんなことは三菱さんは当然にご承知でしょうね。三菱1号館では失敗したけど、今度こそ本物の重要文化財帰還計画を、既に着々とすすめていらっしゃるに違いないでしょうから、130年ぶりに戻ってくる浦島大名屋敷門を楽しみにして待ちましょう。

 はい、では次は馬場先通りの西に歩いて、堀端の日比谷通りに出ましょう。
つづく

◆当日のまち歩き資料は:東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版

2017/07/11

1274【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド6】丸の内に40年ぶりに浦島太郎が美術館になって戻ってきた理由はなんだろうか

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド5】からのつづき

●三菱一号館再現登場の意義を考える

 さらに三菱1号館独断偏見ガイドを続けます。
 低層建築の「三菱一号館」を壊したのが1968年、その跡地に建てた高層建築をまたもや壊したのが2006年、そしてその跡地に登場したのが低層建築の「三菱1号館美術館」です。
 19世紀末の建築である「三菱一号館」という浦島太郎は、あたりの風景を見てさぞや、ビックリしてるでしょうね。
 どんな玉手箱を持って返ってきたのか気になって見れば、なんと乙姫様はものすごい箱をもたせてくれましたねえ、超高層の丸の内パークビルという巨大な箱ですよ、え、まさかあれを開けたら、白い煙が出てきてあたり一面を燃やす、つまり関東大震災再来ってんじゃないでしょうね。

 この美術館を設計して建てたのは三菱地所ですが、昔のコンドル設計の三菱一号館とソックリに作ったのだそうです。単に見た目の姿だけじゃなくて、煉瓦造、木造屋根などの作り方も昔のままにしたとか、ご自慢です。
最初の設計者J.コンドルが描いた三菱一号館立面図
ご自慢の中でもその赤レンガ、その数なんと230万個、昔風の焼き方するには日本じゃ無理とて、中国で手づくり生産、そしてレンガ職人が一個づつ積んだそうです。
 でもさすがに昔の設計のままのレンガ造では地震で倒れるので、地下に免震構造を設けて、建物をゴムの上に乗っけている。まあ、地面が揺れても関係ないように浮いているんでしょうか。
 もちろん美術館として使うためるには、昔は無かった階段とか冷暖房設備とかが新たにくっついていますし、内装も2階はぜんぜん違うそうですから、完全に昔そっくりではありません。しかし、それにしてもよくやるもんです。 

 そんな努力して昔そっくり再現をしたのは、三菱地所にどんな意図があったのでしょうか。
 三菱地所の再現担当のお方に、トップから昔の三菱一号館を再現建築しろとの命が下ったのだそうですが、じゃあ、なぜそのようなことをやろうとトップは思い付いたのでしょうか。
 もちろん三菱一号館が、三菱地所の丸の内不動産事業の出発点の記念建築だったことがあるでしょう。かつてそれを保存して重要文化財にとの学会から声に反発?して、無理矢理取り壊した事件を知っているトップにとっては、もしかして罪滅ぼし感覚もおありだったのでしょうねえ、たぶん。

●不動産業としての意義はどうか
 
 独断偏見ガイドはまだまだつづきます。三菱地所は丸の内の大地主、大家主として、19世紀末からの建築を1930年頃からドンドンと建て替えをしてきました。
 ボロビルを保存なんてしない、効率よいビルを建てて、高い家賃を取る、これが不動産業としての使命ですから、当然のことでしょう。
 そしてその建て直しビル群は、決して建築界とか不動産業界の先端を行くような現代先進的なデザインではなくて、四角な頑丈な箱で使いやすい管理しやすい、文字通り保守的な姿勢で、堅実そのもの建築でした。
 でも、丸の内という立地が幸いし、それは大成功の不動産業でした。

 そうやって来たのでしたが、はたと気が付けばありふれた事務所ばかり作って、休日はだれも通らない寂しい街になってしまった。
 そう、昔の丸の内は、日曜日やお正月はほんとにゴーストタウンでしたね。わたしは人がいない丸おうちを歩いてみたくて、わざわざ正月にここに散歩に来たこともあります。
 これではいけないと三菱は考えた、1990年代からでしょうか、仲通りを中心に高級ファッションブランド物販店中心の商店街つくりに力を入れて、休日の人寄せに成功しました。仲通りも樹木を植えて、歩行者優先にして、気持ちよいモールになりました。ビジネス街が商店街にもなったのです。もっとも、わたし縁のない店ばかりですが。
丸の内仲通り 2009.7.25
でも、10年ほどしてまた気が付けば、文化が無い街と気が付いたのでしょうねえ。美術館も博物館もない、三菱所有の歴史的な建物もひとつも残っていない。
 丸の内にある重要文化財の建築は、明治生命ビルと東京駅、歴史的な姿の建築は日本工業倶楽部と銀行協会ですが、どれも三菱地所の建物ではありません。
 たくさんあった赤レンガ建築をこわしては、四角な変哲もないビルに建てなおしてきたのでした。三菱所有の中では、丸ビルが比較的最近まで残っていた歴史的建築でしたが、これも学会の保存要請に眼もくれずに建てなおしましたね。
東京駅の前から皇居方面を眺めて、左側にあった丸ビルが無くなった珍しい写真
右の新丸ビルはまだあるが、丸ビルを建替えのため壊した直後の1998年9月撮影
 ところが、ライバルの三井不動産が、すぐ近くの三井の本拠地とも言うべき日本橋地区では、大規模な再開発を進めて超高層ビルを次々と建てている。
そこには超高層ビルだけじゃなくて、保存した重要文化財の三井本館や美術館もあるのに、こちらにはそれらしいものがなにもない。
 これはいかん、企業イメージで負けてしまう、なんとかしようと三菱地所のトップは思ったのでしょうね、たぶん。
三井の本拠地日本橋にある重要文化財の三井本館 2005年10月撮影
で、昔壊した三菱1号館という重要文化財指定直前だった建築を、そのままそっくり再現すれば、もしかしたら重要文化財になるかもしれない、そして美術館にすれば三井本館に負けない文化イメージがつくぞ、重文指定になれば容積ボーナスがつくだろう、なんて思ったかも。あ、私ならこう思うってことですよ。
 ついでに言えば、昔々、三菱が丸の内開発計画を描き始めた19世紀末の頃、コンドルが描いたが実現しなかった建築計画には、劇場とか美術館の文化施設もあったそうです。三菱の丸ノ内開発は、120年ほど後にようやくに文化に到達したのですね。

●三菱一号館美術館は歴史的文化財か

 その作戦は成功したでしょうか。まず、重要文化財指定は無理でした。そっくりに作っても新築ですから、指定の基本にある築50年以上になりません。だからこれによる容積ボーナスは無かったのです。
 でもねえ、どうも不思議なのは東京駅が重要文化財指定になっていますよね、あれって実は3階と屋根は新築再現建築だから、ざっと見て半分はここと同じでしょ。
 それであちらは重文指定、こっちは100%新築再現だから重文指定はできないってことなら、じゃあ何%まで当初部分が残っていれば重文指定になるんでしょうか、気になります。

 それでも美術館にしたので文化施設としての社会貢献評価で100%ボーナスが付きました。それと東京駅からの移転容積が130%、それに地域冷暖房施設で35%を足して計265%を、基準容積率1300%にして合計1565%としたのです。
 美術館は昔の姿で3階建てですから、これらの容積のほとんどは同敷地内の丸の内パークビルに盛り上げたので、あの太くて高いビルになったというわけです。
盛り上がる丸の内パークビルと足元にうずくまる三菱一号館美術館
いまの三菱一号館美術館界隈の賑わいを見れば、レンガの美術館と緑の中庭は大成功でしたね。これで休日も人々が遊びに来てとどまっていますからね。昔の寂しい休日とは比較になりません。
 でも、建築専門家やマニアはともかくとして、普通の人がこの新美術館は昔そっくり再現建築だと分るのでしょうか。東京駅と合わせて見れば、ディズニーランドの日本版なんて思うでしょうね。

 素人が分らなくても、こんなに力を入れて三菱地所草創期の記念建築を再現することに企業としての意義があるのだとすれば、それはまことにごもっともなことです。歴史を視覚的に伝え、近代日本における建築技術継承という、まさに文化的事業です。

 ところで、1968年の取り壊し事件への反省があると、更に歴史的深みが重なると思うのですがねえ、どこかにその経緯を書いた看板でも立ててありますか、三菱さん。
三菱一号館抜き打ち解体事件ニュース 1968年3月26日朝日新聞
(つづく)

注:三菱1号館美術館については下記の「まちもり通信」(伊達美徳)記事に詳しく書いているので参照されたい。



2017/07/07

1273【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド5】40年前に重要文化財指定を嫌って取り壊した三菱一号館が美術館になって出戻り

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド4】からのつづき

 さて、では大名小路を南に歩いて、「三菱一号館美術館」に行きましょう。
 この通りは名前のごとくに、江戸時代は日本各地の大名の屋敷が並んでいました。德川将軍がいる江戸城周りをがっちり固めていたのです。
 しかし実は今も、現代の大名である巨大企業が丸の内に居を構えて、天皇のいる皇居のまわりを昔と同じようにがっちりと固めていますね。歴史は続いています。

●大名小路の景観変化を観る

 まずはJPタワー横あたりから南方向を眺めまししょう。
 右手前は三菱重工ビルで、昔、この有名な軍需産業への極左の爆弾テロ事件が、ここであり死傷者が出ましたね。
 その向こうの角に白い塔のようなものがある赤っぽいビルが「丸の内パークビル」、そのむこうに赤っぽい壁の低くて黒っぽい屋根の建物が「三菱一号館美術館」です。どちらも2009年完成です。

 この二つのビルには、なかなか面白いいわれがあるのです。
 ちょっと、この写真を見てください。2007年に撮影したのですが、同じ角度からですね。
右の三菱重工ビルは同じですが、その向こうにある白いビルのところに今の丸の内パークビルが建ち、さらにその向こう隣りの高層ビルのところが今の三菱1号館美術館になっています。景観の変化がよく分るでしょう。

 角の白い塔のようなものはなんだか似ていますね。そう、新しい丸の内パークビルの角に、元あったビルの一部をコピーしたものらしいです。
 この塔のようなものがある白いビルは、1928年に建った「丸の内八重洲ビル」でした。けっこう立派なデザインのビルで、重要文化財になってもおかしくない風格を持っていましたね。
 丸の内地区では、どのビルも角地のところに塔のようなものを設けるのが、昔の街並み景観づくりの手法だったようですが、今ではこんな形でしか思い出せなくなりました。

 その八重洲ビルの向こうに高いビルが見えていますね。これは三菱商事ビルで1971年に建ちました。これはいまの三菱一号館美術館になっています。
 実を言えば、手前の丸の内パークビルとこの三菱一号館は、ひとつの敷地内に建っています。つまり八重洲ビルと三菱商事ビルの二つを壊してこれ等を建てたことになるのですが、もっと正確に言えば、ここからは見えない右の後ろになるのですが、そこにあった1968年にできた古河ビルもこわして一つの敷地にしました。つまり新ビル大小2つを建てるために、3つの巨大ビルをこわしたのでした。 
2003年 丸の内八重洲ビル
思い出せば、丸の内八重洲ビルは歴史的建物と言ってもよいくらいだったし、他の二つのビルは完成後40年ほどでまだまだ使えるような立派な建物でしたが、それらを壊して建替えする巨額投資をしても、不動産として採算が合うんですねえ。
 こちら丸の内パークビルは、ものすごく太くて高い超高層ですが、下層階の角には以前ここにあった八重洲ビルの塔を模してつくり、1,2階には腰巻の様に元の石を張り付けてあります。この街の歴史を記憶する仕掛けでしょうか。
 このパークビルには、東京駅からの容積移転先6ビルのひとつで130%割増しになっています。
 
馬場先通りの三菱1号館あたりの景観変化 
上から、20世紀初、1970年代、2009年

●三菱一号館と三菱一号館美術館
出現したばかりの三菱一号館美術館と丸の内パークビル
 
 さてここが「三菱一号館美術」館です。ご存じでしょうが、これは「三菱一号館」と言って、19世紀末から76年間ここに建っていた建築を、再現したものです。
 たとえて言えば、小田原とか掛川とか城下町で城を再現しているようなもんですね。東京駅も3階と屋根は新築再現ですから、似たようなものです。
今の「三菱一号館美術館」の場所にかつて建っていた「三菱一号館」
かつて「三菱一号館」の場所に現在建つ「三菱一号館美術館」
 昔の「三菱一号館」の設計をした人は、東京駅を設計した辰野金吾の師匠のジョサイア。コンドルです。東京駅もこれも赤レンガ造りってのが時代を感じさせますが、この三菱地所設計「三菱一号館美術館」は2009年に昔の姿で再登場したのです。これから20年も経つと19世紀からここに建っていたと思う人が多くなるでしょうね。

 こんな超高層街の真ん中に、なんでまたこんな古臭い低層建築をわざわざ建てたのか、そこが面白いところです。
 三菱地所はこんな金かけた超高層ならぬ超低層建築をつくっても不動産屋として儲かるのか、なんてお思いでしょうが、たぶん儲かるんでしょうね。それはこういう仕掛けです。

 「三菱一号館美術館」は、法的にはもっと高く建てられるけど、同じ敷地に超高層「丸の内パークビル」を建てて、そちらにこちらの空中権を移動したのですね。東京駅の様に頭の上の空中権を他の敷地に売ったのじゃなくて、同じ敷地内で移動したってことです。二つの建物は互いに離れられないカップルなんですね。
三菱1号館美術館と丸の内パークビルの超低層超高層カップル空中風景
更に美術館という公開する文化施設を作れば、都市計画の容積率割り増しのご褒美があり、それで100%乗せています。先ほど話した東京駅からの移転とこれと併せて230%割り増しですね、文化でちゃんと実利を取ってますね。
 だから低層建築にしたからとて、法定容積率を消化できなくて損しているのってことは全くないのですね。三菱一号館だけでは採算が取れないけど、丸の内パークビルとの合わせ技で採算成立というわけです。

●昔の三菱一号館取り壊し事件のこと
 
 それにしても美術館をつくりたいなら、こんな建物じゃなくて、超高層ビルの中にも植えていいだろうに、なにを考えたのでしょうね。
 そこで思い出すのは1968年のこと、ここにあった三菱一号館という赤レンガ建築を、三菱地所はあっと言う間に壊した事件です。
1968年取り壊し直前の三菱1号館の姿(撮影:平井聖)
そのころ建築学会と文部省の文化財保護委員会は、明治期の建築を重要文化財にしようとして日本銀行、赤坂離宮そしてこの三菱一号館を重要文化財指定しようとして、三菱地所にも打診していました。そのさい中の出来事です。ことの意外ななりゆきに関係者は唖然としたのでした。

 では三菱地所はどうして壊したのでしょうか。公式な回答は、前の道の大名小路地下に作られるJR横須賀線の工事に構造的に耐えられないから、ということでした。
 でも、おなじレンガ造の東京駅は横須賀線が地下に入っても、ちゃんと建っていますから、それは杞憂でしたね。というより、こじつけ詭弁だったかも。

 たぶん、本当の理由がこううだろうとわたしは推測します。そのころ日本の高度成長時代が来ていました。このあたりの大不動産屋の三菱地所は、目地以後の低層赤レンガ建築を、近代的高層ビルに建替えてきていました。
 1966年、丸の内で初めての超高層ビルである東京海上ビルの計画が出されて、皇居を見下ろす超高層反対、いや日本も超高層時代だなどなど、世間にいわゆる美観論争が起きていました。その後のことは今見る通りに超高層時代の勝利です。
 
 その頃の三菱地所としては、その所有する高層ビルの多くは高さ31mのビル群でした。これは私の推測ですが、せっかくここまで営々として建てて来たのに、超高層が流行したら不動産価値が下がると思ったのでしょうねえ。三菱は超高層反対派にまわりましたね。
 でも今は全く逆で、三菱地所は超高層をどんどん建てていますから、時代は変わった。

 でも、とにかく不動産競争に負けていられないとて、会社としては記念的な三菱一号館も高層ビル化して行こうと考えていたところに、重要文化財指定でビジネスチャンスをつぶされてはたまらない、はやく壊してしまえってことだったのでしょうねえ、たぶん。
 壊した跡に建てたのが三菱商事ビルでした。それは超高層ではなかったけれど、それまでの三菱地所が建てて来た31m8階建てを超えて、45m15階建の巨大ビルでしたね。

 1960年代の丸の内のあたりは、高層ビルが建ってたのは東京駅のあたりだけで、南半分から有楽町にかけての三菱村には、赤レンガ建築が建ち並んでいました。
1950年年代初の丸の内赤煉瓦街 左上の堀端の高層建築は明治生命館(撮影:平井聖)

わたしは若いころに、その赤レンガの建物で仕事していたことがあるのです。有楽町からここまでの中間あたりに、仲4号館という2階建ての赤レンガ建築の中に勤め先があました。外はレンガでも内部は床も階段も木造でしたから、歩くとガタガタ音がしてうるさかったな。
 その仲4号館の写真がこれで、子どもがいるのは三菱地所の社宅ががあったからでしょうね。フラフープなんて懐かしい遊びしていますねえ。仲4号館の中にも管理人の住宅があり、こちらが仕事で徹夜していると、うるさいと叱られたものです。
三菱仲4号館(『丸の内百年の歩み』(三菱地所)より引用)

注:三菱1号館美術館については下記の「まちもり通信」(伊達美徳)記事に詳しく書いているので参照されたい。