2017/08/18

1283【戦争を思い出す8月】悪名高い大敗北「インパール作戦」から生還した中越山村の最長老の物語

戦慄の記録 インパ―ル」という、つい先日の8月15日にNHKが放送したTV映像をネットで見た。
https://youtu.be/DTsRiFeTOIo
 この映像は海賊版だろうか。海賊版なら早晩消えるだろうが、「インパール作戦」という稀代の大敗北戦の悪名は、その企画段階から反対されながら、実行段階では部下から反旗を翻されても、途中で負けると分っても無理矢理に突き進んだ、牟田口廉也司令官の名と共に消えはしない。
 
わたしはこの悪名高い戦場からの数少ない生き残り帰還者に出会って、その戦場体験の一部始終を聴き、オーラルヒストリーとして記録し、了解を得てネットサイトに掲載した。
大橋正平戦場物語
https://sites.google.com/site/hossuey/home/ohashi-syohei

 わたしが話を聞いたこの方は、越後の山村の最長老で、その村は2004年の中越大震災で全村避難するほどの被災だった。震災復興お手伝いのマネゴトで、その村に10年ほど通った。
 ある日、田んぼ作業の休憩中にその最長老と話をしていたら、インパール作戦の生き残りであるときいた。ちょうどそのころ、わたしは父の戦争記録をまとめていたので、興味が湧いてインタビュー記録を作ったのだった。
 
 その話とNHK映像と比べてみて矛盾はないのだが、NHKが全く触れなかった重要な大事件がある。
 インパールとともにコヒマという街を攻撃して敗退するのだが、NHK映像にはこちらの戦いも登場する。話を聞いた長老はこのコヒマの戦場に加わっていた。
 戦局は明らかに大敗方向だったのは、武器も食料も後方からの兵站が全くなかったからだ。牟田口司令官は後方からの支援をまったくしないで、ただただ攻めろと指令するのみだった。

 しかしコヒマ攻撃の第31師団の佐藤幸徳師団長は、現地での戦局を判断して司令官の命令にもかかわらず、独断で撤退を命じたのだった。もちろん、軍法会議ものだ。
 現地師団が司令官に反旗を翻したインパール作戦の有名なこの事件を、NHK映像ではまったく触れなかったのは、なぜだろうか?
 わたしはNHKの映像を見つつ、そうかこんなところだったのかと地勢と戦時映像を眺めつつ、話を聞いた村の最長老がよくまあ生き残ったものだとつくづく思った。

 なお、軍法会議モノの抗命をした佐藤は、左遷されたが軍法会議にはかからなかった。軍がインパール作戦大敗北の真相解明を避けたからだった。だれも責任取らないのだ。
 牟田口は生きて帰還し、7万人の死なせた大敗北を謝るどころか、作戦は正しかったと死ぬまで主張した。

 なお、ネット検索したら、もうひとつインパール作戦の映像があった。
【太平洋戦争】なぜ、負けた? ② インパール・コヒマの戦い
https://youtu.be/XjJ8onQqHa8
 ここには、佐藤の抗命事件が詳しく記録されている。

 ついでに、わたしの父のことだが、父は満州事変、支那事変、太平洋戦争の3度延べ7年半も兵役につき、はじめの2回は中国戦線から無事帰還した。
 太平洋戦争の時は、南方戦線に行くベく船を待っていたが、(幸いなことに)輸送船が次から次へと沈没、父の乗る船はこなかった。
 そこで本土決戦とて、小田原に上陸するであろう連合軍を迎え撃つために、山腹に陣地をつくる穴掘り作業中に敗戦を迎え、8月末に無事に帰宅してきた。
 1995年に亡くなって遺品の中から、戦争手記などが出てきたので、その戦争記録を「父の十五年戦争」としてまとめた。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/15senso

 毎年8月になると、戦争の話を書いているなあ。

2017/08/15金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏
http://datey.blogspot.jp/2017/08/1282.html
2016/08/22父は三度の戦地から生還したが兵器となった釣鐘は戻らない
http://datey.blogspot.jp/2016/08/1209.html
2010/08/17戦後60年の靖国神社に野次馬で行ってきた
http://datey.blogspot.jp/2010/08/30460.html
2013/08/16靖国神社は日の丸小僧・コスプレ親父など右傾き風景
http://datey.blogspot.jp/2013/08/821.html
2011/08/1566年目の空襲と疎開
http://datey.blogspot.jp/2011/08/474.html
2010/08/17戦後60年の靖国神社に野次馬で行ってきた
http://datey.blogspot.jp/2016/08/1209.html
2014/08/16終戦記念日の靖国神社の喧騒と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の静寂に思う
http://datey.blogspot.jp/2014/08/983.html
2014/08/20戦争でも死んでしまえば敵も味方もないと地域別戦没者数を見る
http://datey.blogspot.jp/2014/08/984.html
2014/08/23少年の戦争の日を語るアラキジュ仲間生前遺稿集でも作ろうか
http://datey.blogspot.jp/2014/08/986.html
2009/08/15【ふるさと高梁】夏の日の鎮守の森で
http://datey.blogspot.jp/2009/08/166.html
2011/08/16無差別空襲の日々
http://datey.blogspot.jp/2011/08/475.html

2017/08/15

1282【敗戦記念日定点観測】金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏

 なんだか涼しい真夏の日である。今日(2017年8月15日)は靖国神社に敗戦記念日定点観測徘徊に行ってきた。3年ぶりである。

この前の2014年の記録、その前の2005年と2013年の記録もある。

 九段坂の途中にいつもはたくさんの“ウヨク屋台”が出ているのに、今日は雨もよいのためか、なんだか少ないがいつものヤツも見える。
 わたしがギョッとしたのは、若い大学生あるいは高校生とも見える女性たち5人、並んでパンフを配りながら、黄色い声をてんでに張り上げているその声であった。
 「憲法9条を廃止しましょう
 「憲法9条を廃止しましょう

 それは、まるで毎春の大学にみられる、新入生たちへの部活入部勧誘のノリである。
 え、君たちそんな若いのに、そんなことをいうのかい、どこの子たちだろ、恋人を戦場に送り出す気なんだね、。
 いや、もしかして、アルバイトのティッシュ配りの延長なんだろうか、それにしてもねえ、、、少女のような子たちが、てんでに明るい声で、そんなビラ配りをするのを眺めていて、あまりのギャップ感に当惑し、坂を登ってちょっと汗ばんだ身がうすら寒くなり、呆然として写真撮り忘れた。

 憲法九条廃止コールの乙女らよ明るすぎれば驟雨が包む

 大鳥居をくぐって入る人や出てくる人たちが、今年は少ない感があるのは、雨模様だからだろうか。
 若者が多いのが気になる。来るたびに年寄りが減るのは当たり前としても、若者が増えるのがブキミである。
 参道途中に張ってあるテントの中では、おりしも何かの講演会が始まるらしく、椅子に座って待つ人たちが200人以上は居るが、見渡せば若い人たちが結構多い。どういう人たちなんだろうか。

 いつもの軍人コスプレの男たちがいる。3年前は中年以上の男ばかりだったのに、今回はあきらかに20代の若者が数人いる。新世代をスカウトしたのだろう。
コスプレ若者軍人が鉄砲かついでオイチニオイチニと歩いている。
 いつも見る長老らしきコスプレ軍人がいて、金モール軍服長靴コスプレの若者が直立不動で雨傘をさしかけている。あとで別の場所でこの若者が、ひとりでスマホをいじっていた。
 ナチスの制服らしき姿も見かけた。この毎年登場するコスプレ男たちは、いったい、何者だろうか。

 金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏






そこで思い付いた、これらは神社の祭礼によくある出し物かもしれない。
 このコスプレ男たちも、九条廃止少女たちも、河野談話取消おばさんたちも、靖国国立化親父たちも、いずれも日本の昔からの習慣のお祭り屋台であり、見世物であるにちがいない。
 遊就館はその見世物の常設小屋であるとすれば、これらは明確にコンセプトが統一していいることがわかる。そう、これはなかなかによくできた祭りの出し物である。どこかにウヨク系香具師の元締めがいるにちがいない。

 わたしはそれらを見回っていて、哂いたくなりながらも、だんだんと怖くなってきたから、これらはお化け屋敷群である。夏らしくてよろしい。今日は珍しくも涼しい日だったから、うすら寒くなってきた。
 普通なら、これだけ人出のある祭りの神社には、わたあめ、金魚すくい、射的、焼きそばなどなどが懐かしい屋台が出ているものだが、ここには全くないのが不思議である。やはり特別な香具師の世界らしい。

 雨の中で傘をさして本殿に参拝する列が長く続くのを眺めると、そこにも若者たちの姿が多い。靖国神社のコンセプトに共鳴する若者たちが増えているのだろうか、それとも単なる夏祭りのお遊びだろうか、なんだかブキミになってくる。

そのうち雨が土砂降りになってきたから、さすがに軒下や休憩所に移るものが多くなる。わたしも休憩所で1時間半ほど、雨宿りしつつ文庫本を1冊読んだ。
 遊就館も入館無料のミュージアムショップだけ見た。



雨が小降りになったので九段坂をくだれば、道路に日の丸の旗行列がえんえんと続いている。ウヨクさんたちのデモ行進らしいが、数百人は居た様子である。
 歩道から拍手する人々が多い。雨の中をなかなかのご盛況のようで、怖い。
歩道で見ていると周りから拍手が

右にカーブして戻ること禁止なんだけどなあ
 ということで今日のウヨク見世物お化け屋敷群野次馬靖国徘徊は、真夏なのにコワくて寒くなったのであった。

参照:2014年8月15日靖国神社の記録
   2005年と2013年の靖国神社の記録

2017/08/10

1281【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド.10】DNタワーの設計者たちと歴史的建築の保存と再生の表現

【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド・9】のつづき

●DNタワーの設計者ー渡辺仁
 この超高層のある「DNタワー21」の設計は、清水建設設計部とアメリカの建築家ケビン・ローチによるものです。
 しかしここで注意したいのは、外観保存した第一生命館は1938年にできたものであり、この設計者は渡辺仁と松本與作でしたから、この人たちも設計者としておかねばならないことです。

 更に、この第一生命館の東隣にあった1933年にできた農林中央金庫ビルは、取り壊して DNタワー21の東面にイメージ保存したのでしたが、この設計者は、渡辺仁であったことも記憶するべきでしょうね。
 渡辺仁はどんなスタイルのデザインでもできる建築家で、現存する有名な建築は上野にある国立博物館の本館、銀座の和光、横浜のホテルニューグランド本館です。
渡辺仁設計 農林中央金庫有楽町ビル 1933年
渡辺仁設計 東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)1937年
●DNタワーの設計者ー松本與作
 松本與作は、第一生命館の計画から設計、監理を行い、事業主である第一生命相互会社の営繕課長だった建築家です。
松本は、今の工学院大学の前身の工手学校を1907年に卒業して、辰野金吾の弟子になりました。そして東京駅の設計の初めから工事が終わるまで携わって建築家となりました。
 その後にやはり辰野金吾設計の京橋の第一生命相互館の設計監理をしました。その縁で辰野の死後に第一生命に入社したのでした。
辰野金吾設計 第一相互館 1921年
 松本は古典的な様式建築が得意だったようです。第一生命館の計画は松本によるもので、その外観の案は西北南の3つの面に、古典的なオーダーのついた太く高い列柱の回廊が巡る姿だったそうです。
 第1生命館の敷地が決まったのは1931年で、実施設計が終ったのは1933年です。このあたりでその頃までに既に建ち、あるいは設計中や工事中の大建築は主に銀行でしたが、どこも外壁に西洋古典様式の列柱を立てていました。
 例えば、日本橋では三井本館、日本銀行、東京銀行、丸の内では第一銀行、三菱銀行、明治生命館、そして隣りの農林中央金庫もそうでした。
 松本もその例に倣いながらも、それを超えてみたかったでしょう。道路に面する3面とも列柱をたて、しかもそこを回廊とするのは、それまでの例にはありませんでした。 

松本は営繕課長として当然のことに、第一生命館の計画から設計そして監理まで一貫して行うつもりだったのでした。松本を全幅に信頼していた矢野恒太社長もそのつもりだったようです。
 ところが、世間がなかなか許さない雰囲気でした。これほど大きな建築の設計をするには、帝大出の建築家によるべきとの声が、多方面から陰に陽にあったのでした。

 松本は大いに悩みました。そして社長と松本が相談して、そのころ帝室博物館のコンペ一等になって評判だった渡辺仁を、松本の共同設計者として起用したのでした。
 渡辺は帝大出です。隣りで先に工事が進んでいた農林中央金庫の設計者だったことも、起用の由縁かもしれません。
 いずれにしても、どんなに優れた能力を持っていても、世間には学歴でしか人を判断しない人々は、昔も今もいるものです。
 渡辺は帝室博物館で忙しかったようですが、二人の弟子たちを設計監理に出したのでした。
 ですから松本與作は、建築家でありプロデューサーの立場であったことになります。
 
 そしてできあがったのが今に見る姿で、三方の古典様式列柱回廊は西側だけになり、南北は柱型だけになっています。しかも丸柱はオーダーが消えて、ズンドウの太い角柱になりました。
 帝室博物館の様に瓦屋根を載せるまではいかなかったけれど、丸柱を角柱にしたのは皇居に面するので日本的なデザインにしたからだと、後に松本は回想しています。

 でもねえ、日本古建築での列柱回廊ならば、唐招提寺金堂でも法隆寺でも丸柱ですよね。こんな組積造のような鈍重なデザインはしませんよ。
 わたしが思うには、その頃に起きてきたモダニズムとナショナリズムを、渡部仁の流儀で合体させたようです。西の列柱回廊の姿を見ると、ドイツ・イタリアのナチス・ファシズム建築的な物々しい臭いがあります。
松本與作と渡辺仁設計の第一生命館 1938年
DNタワーの西の回廊の両脇壁に銘盤を取り付けてあります。右にある銘盤には第一生命館の設計監督として、渡辺仁と松本與作を並べて書いていますね。普通は施主側の営繕担当者を銘盤に刻むことはないでしょうが、ここは特別ですね。それだけオーナー側には松本に対する信頼があったということでしょう。世には渡辺仁だけが第一生命館設計者としてとおりがちですが、松本與作を忘れてはいけません。

 施工受託者・清水組とあるのも注意してください。普通は施工請負ですが、ここは施工受託となっているのは、第一生命館の施工は請負方式ではなくて、第一生命による直営の実費精算方式であり、施工を清水組に委託して行ったという意味です。
 直営方式にした理由は、京橋の第一相互館が清水組の請負だったのですが、工事中に第1次世界大戦のために資材高騰で、請負側に大きな負担がかかりトラブルが起きたことを教訓にしたのだそうです。

●DNタワーの設計者ー清水建設+ケビン・ローチ
 DNタワー21の設計者は、清水建設が計画段階から担当し、設計にはアメリカの建築家ケビン・ローチを共同者として起用しました。
 清水建設は、元の第一生命館を施工受託した建設会社ですし、隣りの農林中金ビルも清水建設の請負施工でしたから、当然にありうることでしょう。
 でも、なぜ更に加えてケビン・ローチを起用したのでしょうか、オーナー側の意向だったのでしょうか。

 1989年から共同作業に入ったそうですが、その頃、日本はバブル景気の頃で、建築界では外国人建築家をデザイン担当として起用することが流行していました。アルド・ロッシ、レム・コールハウス、ジョン・ジャーディ、などを思い出します。
 DNタワー21のケビン・ローチもその流行のせいでしょうか。施工会社の設計では、表向きにもうひとつパンチに欠ける感がある、この際、他に負けない外国人有名建築家を持って来れば、だれも文句を付けられないだろう、なんてね。
 これって、かつて第一生命館で松本與作の共同設計者として渡辺仁を起用したときと、なんだか似ている感じがします。歴史は繰り返す、かな、どうでしょう。

 なお、設計は共同でしたが、行政やオーナーへの対応や工事監理については、清水建設が主体的に行ったそうです。
 ケビンローチは、ボストンで歴史的建築のクィンシーマーケットのリニューアル設計していますから、それも起用の理由だったのでしょうか。同じ頃、ケビンローチは汐留シティセンターを日本設計と共同で設計しています。
清水建設とケビン・ローチ設計のDNタワー21 1995年
●特定街区と歴史的建築物の保存
DNタワー21のデザインのテーマは、計画設計者の清水建設によれば「歴史的建築物の保存と再生」だそうです。
 保存と言っても、第一生命館の外観と、内部の6階にあるマッカーサー執務室と貴賓室がその対象で、そのほかの平面や内装を大きく変更、構造躯体も付加、変更、補強、改造しています。
 内部でいちばんの見せどころであったと思われる1階の営業室はなくなりました。明治生命館とは大きな違いですね。
 もちろん様式建築として第一生命館よりも華やかだった農林中央金庫ビルはすべて取り壊しました。石の柱の頭と脚部だけを保存して一部に再利用しただけです。だから、「保存」だけではなく、「再生」がついているのでしょう。

 でも、再生するならば、全部取り壊してしまい、イチからこのDNタワーと同じものを建てる方が、たぶん工事が楽だし工費も安価だったに違いないと思います。そうしなかった、あるいはできなかったのはなぜでしょうか。
 ここで最も歴史的に有名なのは、マッカーサーがここで仕事していた部屋があるということでしょうね。それは現物を保存しておきたい、これはオーナーの意向だったのか、それとも設計者の考えだったのか、社会の要請だったのか、どうなんでしょうね。なにしろ6階の片隅にあるのですからねえ、難しい課題に対応する結果が、こうなったのでしょうか。

 北側の外壁の東半分を、壁一枚だけ保存したのも、なかなか大変なことだったでしょう。壊して同じものを作っても良さそうに思うのは、南側の外壁の東半分が新築であることと比較すればれば分るでしょう。言われなければ、南北の壁の違いはほとんど判別できませんね。
DNタワー1階にみる保存と再生のプラン
DNタワーになった第一生命館の断面に見る保存と再生
ほとんど別ものとなっている
 そうやってもなおかつ現物保存することにしたのは、「歴史的建築物の保存」というテーマを掲げたからでしょうが、一方ではそれによるメリットがあったからでしょうね。メリットとは、保存することで建築容積率のボーナスがついたことです。
二つの敷地を合わせて、特定街区として再編成し、第一生命館の西半分と北半分外壁を歴史的建築として保存をし、西側列柱回廊とホール部分を公開空地とすることで、基準の容積率1000%のところに230%のボーナスが付きました。
 230%を床面積にすると約16000㎡ですから、これはビル経営としては大きい値ですよね。保存にかかった工事費がそれに見合うのかどうか、わたしは分りません。

 こんなにも保存の努力をしたのに、これが国指定重要文化財ではなく、東京都認定の歴史的建造物である理由はなんでしょうかね。外観と骨組みは保存したけど、内部はあまりに大改変したことにあるのでしょうか。
 ひとつのビルの中に、半分保存しながら、二つの金融機関を別々に入れるという、かなり難しいクイズを解くようなプランニングをしているので、内部の大改変をせざるを得なかったのでしょう。

 それにしても、イチから建てるのなら下から順に作ればよいところを、梁も柱も床もある既存建築の中にはいって、下から上まで壊したり造ったりくっつけたり、いやはやご苦労な仕事だったでしょうねえ。
 明治生命をMYプラザにしたのと比較すると、外観は似たようなものですが、造り方は実はずいぶん異なっているのでしょう。

 ではその列柱回廊と公開空地のホールに入ってみましょう。
西側列柱回廊 実はかなり狭い
この玄関ホールは、もとの第一生命館の1階営業室の一部にあたりますが、このインテリアデザインは全く新しいものですね。
 でもねえ、わたしの好みで言えば、まわりの壁も床も全部が灰色の御影石ですから、なんとも陰鬱ですねえ。それに休憩したくても椅子がなくて、喫茶店に入るしかないから、明治生命館とは大いに違いますねえ。もうちょっと親しみやすい空間にしてほしかった。
 どうして元の第1生命館営業室のデザインを、イメージとしてでも保存しなかったのでしょうか。
元の第一生命館の西側回廊から入ったところの1階営業室

DNタワー21の西側回廊からの入口ホール(屋内公開空地)
ではそろそろ、次に参りましょう。
(つづく)
●参考文献
・「谷間の花が見えなかった時 近代建築の断絶を埋める松本與作の証言
          (伊藤ていじ著 彰国社刊 1982年)
・「DNタワー21(第一・農中ビル) 歴史的建築物の保存と再生
          (清水建設著 丸善刊 1996年)
・「都市住宅 特集・丸の内」1974年5月号 鹿島研究所出版会刊

◆当日のまち歩き資料は:東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版

2017/08/08

1280【癌かもしれない日々・1】紫外線のせいで顔が癌になりそうな診断だけどさてどうなるか身体ゲームのはじまり

●顔癌ガンガンかもしれない
 今日も暑い日々が続く。数年前から顔の3か所(右眉の中、両こめかみ)に、小さな丸いピンク模様ができて、ちょっとかゆい。
 いずれも眉毛と頭髪の陰になるので、人相に影響ないのだが、気にはなっていた。
 近くに長者町ファミリークリニックという皮膚科の医者が開業したので、昨日、そこに行って診てもらった。
 女医さんが言うには、両こめかみの症状は、どうも皮膚がんの可能性があるような、これは大きな病院で診てもらえと言う。
 エッ、とうとうわたしも癌かよ~、おお、ようやく病気らしい病気にありついたのか。

 ということは、かなり悪いのか、もしかしてかなり酷いのだけど、ショック与えないように曖昧に言っているのか、いや、専門外だから分らないからか、
 そのあたりを聞くのだが、チラチラと専門用語らしい語彙が入るので、それは何かと聞くのだが、答えてもらっているうちに、またわからなくなる。

 どうやら、日光のせいでできる、癌になるデキモノらしいことだけわかった。今では初期なら薬で治すこともできるし、症状によっては切除する場合もあるという。
 とにかく紹介状を書くから大病院に行って、検査・診断してもらえとのことで、まあ、いいや、行けばわかるだろうと引き下がった。薬共で680円。

●以前のクリニックではアトピー診断だったのに
 実は、この顔のできもの診察は初めてではない。昨年夏、軽い前立腺炎にかかって治療してもらった石橋泌尿器科皮膚科クリニックで、ついでにこれも診てもらったのだった。
 診断はアトピーだとて、塗り薬をくれた。今年の1月に薬が無くなったので、また診察に言って薬をもらった。

 またまた薬が切れたが、昨日はあんまり暑いので、近くのクリニックに初めて行ったら、なんとまあ、診断がこうなのだった。
 石橋クリニックでは、こんどのようなことはなんにも言ってくれなかった。見た目の症状は今と変わらない状態だったのに、どうしてなんだろうか。ヤブだろうか。

●どうも紫外線に当たり過ぎた人生のせいらしい
 ということで、明けて今日午前中、大きな病院である横浜市立大学市民総合医療センターの皮膚科に行ったのだった。10時に入って出てきたのは午後1時だった。
 二人の医師が別々に診てくれたのは、それだけ難しい症状だろうか、それとも一方は研修医だったか。
 顔写真を撮られ、さらに「拡大して診ます」とて、なにやら特殊な肌に接するカメラで、文字通り接写された。問診に30分くらいかけて、かなり丁寧だった。

 今日のところの結論は、紫外線が原因で生じる皮膚病「日光角化症」だそうだ。くれた解説パンフによれば、「高齢者の顔や頭など、日光がよく当たる部位にみられ、多発することもあります。1~2センチ程度の大きさで、表面がすこしカサカサした淡紅色~紅褐色の病変としてみられます」とある。
 そうか、わたしは1センチ丸型、薄いピンク、表面カサカサ、おお、そっくりである。どうして石橋医師は分からなかったのかなあ。
 
 日光角化症は珍しい病気ではなくて、多くの患者がいるとのことで、安心したというのもおかしいが、そんな気持になった。だが、進行すると有棘細胞癌になり、リンパ節などへ転移することもあるとか。
 もっとも、こちとらはもう歳が歳だから、もう癌でも結核でもちっとも怖くなくて、ポックリ逝く手段みたいなもんだと思っちまうのだ。
 まあ、しょうがないよなあ、若いころからたくさんの紫外線に当たってきたからなあ、大学山岳部時代にいちばん吸収しただろうから、今の主原因になったかもしれないなあ。

●以前に誤診された大病院にまた通うか 
 次は、その症状部分の一部を切り取る「皮膚生検術」ってのをやるから、月末28日午後にまた来いとの、医師のお達しであった。
 なんだか物々しい手術・麻酔・検査・処置同意書を書かされた。あ、思い出したけど5年ほど前の白内障手術の時(その顛末はコチラ)もそうだったなあ。

 この市大医療センターには、10年ほど前に1年間ほど通ったことがある。
 それは「大腿骨骨頭壊死症」なる、不治の病の治療であった(その顛末はコチラ)。ところが1年後に分ったことは、それは大誤診で実は似たような症状の骨頭委縮症という他の病であり、自然治癒したのであった。

 その自然治癒までにかかった医者は4人であった。自然治癒したのを診た4人目の医師が、これは病名が違っていたと言った。どのお方もヤブだったのだろうか。
 まあ、どの医師もそうとは限るまい。しばらく通うことにして、これまで医療保険料ばかり払っていたのを、すこしは取り戻すことにしよう。一昨年の自転車から落ちて腰椎圧迫骨折(その顛末はコチラ)以来の、保険料回収作戦開始である。

 本日の支払いは1230円、先月までは3割負担だったのが、今月から1割負担になったんだ、よかったなあ。
 次は28日の生検、その次は来月9日の処置、さてどう転ぶか医師と患者のゲームのお楽しみ。
(つづく)

2017/08/03

1279【日本の家展と超高層建築群】近代美術館で「日本の家」展を見てきたが、なんとも“建築家”好みであったなあ

 暑い日々の中で涼しい日となった昨日(2017/08/01)、突然に思いついて江戸城あたり定点観測徘徊に行ってきた。今日なら熱中症になるまい。
ついでに近代美術館に立ち寄って、「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」展を見てきた。結論から言うと、“建築家”好みの企画で、あまり面白くなかった。

タイトルの「1945年以降の建築と暮らし」に惹かれたのだ。「戦後の…」と言わないところが、そうか、ようやく「戦後」を克服したんだなあと思わせた。
 そして「建築と暮らし」というのもよろしい。建築だけじゃなくて、「暮らし」もあるんだね。

 でもねえ、展示はいわゆる建築作家主義、建築作品主義で、“建築家”はお好きだろうが、スレッカラシ老境のこちとらには、あ、まだこうなのか建築界は、の感であった。でも近美だからこれは美術展なんだな。
 「家と暮らし」ならば、例えば日本住宅公団の団地がない、ハウジングメーカーの“商品”がない、モダンリビング時代の庶民住宅がない、などなど、気に入らない。暮らしはどこにあるんだい。
 でもまあそれが企画者の意図ならそれでしかたないが、事前に調べて来れば、見料1200円返せの気分にはならなかっただろう。
 
 ちょっと面白かったのは、清家清設計「斉藤助教授の家」(1952年)を、原寸大模型にして展示していたことである。
 実は清家建築の実物を見たことはないが、写真では何度も見ている。そうか、これかあ、写真そっくりだなあ、住宅はスケール感が分りやすいからなあ、と、としげしげとみたのであった。動く畳ってこれだったかあ、など家具も興味深い。
 もっとも、製作費がないとて、全体の6割くらいしか作ってなくて、水回りは無かったのが惜しい。そして「暮らし」はここにも見えない。

この企画展会場を早々に出て、常設展の近代名画の類いを久しぶりに懐かしく観て、こちらの方が面白かったが駆け足で済ませて館外に出た。
 本来の徘徊を始めるために、すぐそばの北桔梗門から江戸城本丸に入る。
 江戸城天守跡からまわりの景観の変化を眺め、百人番所へ歩き大手門から出て、先ほど眺めた大手町超高層建築群を横目に、江戸城前広場をへて祝田橋から有楽町へと、定点観測徘徊をした。

門をくぐって超高層ジャングルへ
 この10年くらいで、大手町から有楽町にかけてのスカイラインは、かなり変化した。とくに大手町と丸ノ内の北半分は、びっしりと建って高層建築群が、そのままびっしりと超高層建築群に置き換っている。
かつてこのあたりに超高層建築がぱらぱらと建つ頃、超高層建築ってそれぞれ勝手な姿でそれぞれ勝手な方向を向くものなんだと見ていたが、これだけびっしり建つと下町の密集市街地引き伸ばし拡大版である。

次の10年後には丸の内の南と有楽町あたりが、スカイライン高さ120~140mの超高層建築群でこぼこ壁になっているだろう。
 江戸城前あたりから遠くに眺めている分にはよいが、超高層建築のジャングルに入ると、けっこう鬱陶しいものである。
 先ほど見てきた「日本の家」展のチマチマした住宅模型群とはずいぶん違う世界がやって来ているんだなあ。

2017/08/02

1278【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド・9】キメラ建築DNタワーがになう歴史的景観の背景にある日本の戦争

1278【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド・9】キメラ建築DNタワーがになう歴史的景観の背景にある日本の戦争

【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド8】のつづき

東京駅丸の内独断偏見ガイドは、明治生命館の跡は日比谷通りを南に歩いて、DNタワーに参りましょう。
明治生命館の前の馬場先門から南に日比谷通りを見る
白い超高層ビルがDNタワー(2007)
この新聞記事をごらんください。1945年の日本人たちをビックリ仰天させた写真が載っています。そう、もうすぐ敗戦記念日ですね。
1945年9月29日朝日新聞より

●戦争の中枢機構に巻き込まれた第一生命館
DNは「第一生命」、は「農林中央金庫」で、つまり二つの金融企業が共同して建てたビルの名前です。どちらも戦前からここに「第一生命館」と「農林中央金庫有楽町ビル」をそれぞれ持っていました。
第一生命館(右に農林中央金庫ビルの一部が見える)
農林中央金庫有楽町ビル(左の南面は丸柱、右の東面は角柱)
 1995年にこのように改築して、ひとつに合わせたビル名がDNタワーだそうです。超高層部分だけをタワーと言っているのじゃなくて、全部合わせてそういうらしい。
DNタワーを西から見る 
 DNタワーをよく見ると、東半分は新しい超高層が建っていて、西半分は昔からあった第一生命館というビルです。このやり方って明治生命館と同じですね。
でも明治生命館はギリシャ風の柱が並んで優美な感もあるのに対して、こちらはごつい石張りの太い四角柱が立ち並んだ回廊なんて、どうにも厳めしいですね。
 
 第一生命館というと、なんと言っても、ここにダグラス・マッカーサーなる超有名なアメリカ人がいたことです。そう、1945年、戦争に負けた日本を統治するためにやってきた連合国軍の最高司令官です。
 DNタワーになる前のこの西半分の第一生命館が、その総司令部GHQのオフィスになったからです。だからここは、その頃の日本で最高権力者の館だったのです。その執務室を「マッカーサー記念室」として、6階に当時のままの姿で保存してあるそうです。

 最初に見せた新聞は、そのマッカーサーとならんで撮られたものです。
 1945年9月27日、神様の天皇がアメリカ大使館をわざわざ訪問し、直立不動の姿勢であるのに対して、マッカーサーは腰に手を当てて楽に並んで立つなんて、「日本は負けたんだ」とだれもが芯から思わされたのでした。
 ついでに、こんな写真もあります。これは新聞に載った写真を撮ったGHQ専属の写真家が後に本に載せたものですが、3枚撮った残り2枚がこれだそうです。マッカーサーが目をつぶっていたり、天皇が口を開けていたりしていて、没にしたそうです。でも、この左の写真の方がよかったような気もしますねえ。
「マッカーサーの見た焼跡」(ジェターノ・フェーレイス著)より
 第一生命館は、1938年に完成したのですが、日中戦争が泥沼になり、戦争が日常にも及びつつある時ですね。その工事中の現場に日本陸軍関係者がやってきて、非常事態に備えて特に鉄筋やコンクリートを増やして頑丈にするようにとの、事実上の命令が来たのだそうです。
非常事態とは空爆のことで、爆弾が落ちても耐えるようにしろとの意味です。そこで各階の床スラブ厚さ合計が4.5mにもなるように設計し直して施工したのだそうです。
 DNタワーにするときに改装のために調べたら、屋根スラブ厚40センチ、1階床スラブ厚60センチ、外壁は型枠として打ち込んだ石を除いても厚さ45センチもあったそうですから、頑丈な上にも頑丈で、横にしても立っていそうです。

 だから、1943年からは東部軍管区司令部の本拠となり6階以上を占拠、地下には内閣情報局や内務省防空総本部をはじめ6省の分室が陣取り、NHKの第二放送所および新聞社の電送写真の設備などもされたそうです。
 更に屋上には、高射機関砲4基が据えられました。これは特に皇居を空襲から守るためでしょうが、5月25日の大規模空襲で皇居も東京駅も燃えたので、役に立たなかったのですね。
 第一生命は自社ビルから半分以上追い出されました。軍の命令ですから否応なしです。頑丈に作ったために、このビルは戦争に駆り出されたのでした。
 1945年8月に敗戦を迎えました。ここにあった東部軍管区司令部の司令官は、その司令官室でピストル自殺したそうです。
 
 戦争が終わって、日本陸軍は引き揚げていき、これで本来の本社ビルになると思ったら、こんどは連合国軍がやってきて、その総司令部として地下を除いて、1945年9月15日から接収されました。これも敗戦国として否応なしです。
 第一生命は京橋の第一相互館に本社を移し、また戻ってきたのは接収解除された1952年7月のことでした。第一生命にとってはここまで長く続いた戦争でした。
 ここの他の丸の内のビルもたくさん接収されました。隣りの農林中央金庫ビルも接収されたのでした。先ほど見た明治生命館もでしたね。なにしろと日本統治機構がそっくりやってくるのですから、間接統治とはいえ、その事務所や宿泊、住宅など、膨大な施設が必要だったのです。
 
●3つの相貌を見せるキメラ建築DNタワー

 その第一生命館は1938年にできたのですが、今の姿はDNタワーの一部になっていて、Dは東側の日比谷通りに昔のままの姿を見せています。
元の第一生命館を保存したDNタワー

Nのほうの農林中央金庫との共同建築になったのですが、その農中の建物はどこにあるのかと言えば、東側に回ると分ります。
 ほらこの仲通りに面した姿は、東側とまったく違ってギリシャ風の柱が並ぶ様式建築ですよ。だから東の第一生命館とこちらの農中ビルとをくっつけて、その上に超高層ビルを乗せて建てたんだと思わせますよね、でも違うんです。
DNタワーの東側の姿 農林中央金庫の旧ビルの様式的な柱列を
そのまま再現ではなくてイメージを継承してデザインした

DNタワー東側の農林中金玄関 
これらの柱頭と柱脚だけは本物だがその他は元の建物に似せてつくった
 第一生命館と農中ビルとはもともとは別の敷地の別の建物として隣り合って建っていました。第一生命館の方が北と西にL型に建ち、その南東に農中ビルが建っていて、それらの敷地を合併して共同ビルに建てなおしたのがDNタワーですね。
その時に、L型の第一生命館の東ウィングを壊して西の方だけを残し、農中ビルのほうは全部を壊してしまいました。1933年にできた農中ビルは、東と南の道路に面してはギリシャ風の柱が並んで明治生命館のような姿の様式建築でした。

 今のDNタワーの東側にも様式建築の姿ですが、実はこれとは若干違う姿だったものを、似たような姿に再現したのだそうです。そのとき、石の柱の根元と頭のところの装飾だけを、もとの農中ビルから外してきて、ここに見る柱のくっつけたそうです。
 完全なコピーではないので、イメージ保存というらしいです。見た目の印象は似ている様にしたってことでしょうね。
 
 DNタワー低層部の外回りの東、南、北は第一生命館の意匠、東は農中ビルの意匠というハイブリッドデザインですね。
 なお、北側の全部の壁は元の第一生命館の壁だけを保存していますが、南側の壁の西半分は元のまま、東半分はもともとは農中ビルがあったところに、北側と同じ姿に新しく作りました。
DNタワーの南側 壁面の左半分は元の第1生命館の壁保存
右半分はそれに似せて新築した壁 北側も同じ姿だがそちらは全面保存
南壁面の色違いで保存部分と新築部分の境界が分る

 こうして各面を見ると、いずれも左右対称になっています。みかげ石張りの硬いテクスチャと共に、それがこの建物をいかめしく見せています。

その硬さは超高層建築部分にも見えます。このあたりの超高層ビルのほとんどが、ガラスやアルミなどで平滑な軽い姿なのに、ここの壁は石張りでガラス面とは大きな面差があり彫の深い姿を見せていますね。
 これって、彫の深い四角な石柱を見せる第一生命館の立面の硬いイメージを超高層にも持ってきたのでしょうね。

 DNタワーをどう作ったか見ましょう。

第一生命館と農林中金ビルはこのように立っていました
 二つのビルをこのように保存と解体
「DNタワー21 歴史的建築物の保存と再生」(清水建設著)より一部画像引用
 ということで、DNタワーの建築の姿は、現物保存、コピー再現、イメージ再現、新規イメージ継承という4様の手段で造った造型、柔構造と剛構造という異なる建築技術、これらをひとつの建築に混合して統合するという、じつに複雑なる姿なのです。面白いですねえ。
 まるで、キメラです。ギリシア神話に登場するライオンの頭と山羊の胴体、毒蛇の尻尾を持つ怪物のことです。生物学では体内に異なった遺伝情報を持つ個体のことです。
 それにしても、相互の間に違和感がなくて、けっこう上手なデザインのキメラになっていると思います。見た目としては、明治生命のMYプラザや東京中央郵便局のJPタワーと比べると、保存・継承・再生の姿はよくできていますね。
つづく

◆当日のまち歩き資料は:
東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版

2017/07/25

1277【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド8】明治生命館は今や丸の内では超一級重要文化財、自社オフィスなのに一般公開しているのがいまどき偉いなあ

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド7】からのつづき
東京駅周辺ガイドマップはこちら
●東京駅周辺ガイドルート(グーグル画像マップ)

 では、馬場先通りを西へ、堀端の方へ歩きましょう。
 この日比谷通りと馬場先通りの角地に立つのが1934年に建った「明治生命館」です。重要文化財指定の建築です。
 丸ノ内の重文指定建築と言えば、最初の東京駅がそうでした。そして三菱1号館美術館は重文なりそこね、鳥取藩池田家上屋敷表門は今は上野の山にお出かけ中ですね。
明治生命館(馬場先通り側)
この明治生命館の後ろに超高層ビルが建っていますが、2004年に完成した「明治安田生命ビル」名です。
 ここには千代田ビルがあったのですが、その土地と明治生命館の土地をひとつの敷地に合併し、明治生命館はそのまま保存した上で、その上空の未利用容積率をこちらの新ビルに載せて超高層にしたのでした。
 更にそのときに、明治生命館が重要文化財なので、それを保存した場合はその床面積分を容積率にボーナスとすることができる特定街区という制度があるので、その分が加わって、ここでは普通なら1000%のところを1500%で許可を取って建設しています。500%のボーナスの内、重要文化財保存へのご褒美分は280%だそうです。
 そういえば重要文化財の東京駅も容積移転していますが、これは特定街区制度ではなくて、特例容積制度によるものですから、重文による特別な割り増しはありません。

 この明治生命館はすごいですねえ、こんな本格洋風建築はもうできませんね。生命保険とか銀行とか、他人のお金を預かるところは、見た目も安心するような立派なビルにする必要があったのでしょうね。

でもこのような様式建築の最後のものと言ってもよいでしょう。設計した人は、岡田信一郎と岡田捷五郎という兄弟建築家でした。兄の岡田は様式建築のベテランでしたが、明治生命館のできる前に没したのでこれは遺作ですね。
 1970年代までは丸の内にはこんな真正面に太い柱の立ち並ぶ、なんとも権威主義的なビルがあちこちにありました。
 この馬場先通りでは三菱銀行本店がそうでした。他に第一銀行、日本赤十字、農工銀行(第一勧銀宝くじ部)、農林中金などでしたが、みんな消えました。

 それにしても、この新超高層ビルはペラペラガラス張りで、ドッシリ石張りの明治生命館とずいぶん違うデザインなのは、立派過ぎる先輩に敬意を払ってわざとそうしたのでしょうね。でもねえ、ここまで逃げなくても、なんとかできなかったもんですかねえ。
 その点では、後で見る予定ですが、「第一生命館」の後ろの超高層建築は、それなりに抑制と共に調和しているデザインだと思います。
馬場先通り側の明治生命館と明治安田生命ビルのとりあい
日比谷通り側から見る明治安田生命ビルと明治生命館


 では、日比谷通りを渡り、馬場先門があったところの堀を渡ってから、馬場先通りを振り返ってみましょう。
馬場先通りの西端は、左に明治生命館、右には建替え中の東京商工会議所(1960年)ですが、これには冨士ビル(1962年)と東京会館(1971年)も共同の建替え事業です。
2017年7月 馬場先門から馬場先通りを観る
 さてこの右側にはどんな歴的な景観を見せるビルができるのでしょうか。だって、この明治生命館と対をなす建築ですし、設計はこのあたりの大地主の三菱地所せすから、それなりの景観デザインをするに違いありません。2018年竣功なので期待しましょう。
 と思ったけど、公表されている計画だと、こんな姿のようです、う~ん、ヘイヘイボンボン、いわゆる墓石型、、ま、いいか。
公表されている計画模型写真

 それじゃあ、ここの昔の景観はどうだったか、タイムマシンでさかのぼりしょう。

2017年7月 左は明治生命館、右は建替え中の東京商工会議所
2004年
1987年
1974年(『都市住宅』1974年5月号所収)
1951年(『縮刷丸の内今と昔』(三菱地所1952)所収)
1930年以前の馬場先通り赤煉瓦街景観(一丁倫敦)帝都名所絵葉書
 左は三菱2号館で1930年に取り壊して現明治生命館に建替え
右に東京商議所、左の三菱2号館の向うは5号館と1号館
 では明治生命館に入って見ましょう。中には立派な広間があるので、歩き疲れたからちょっと休憩しましょう。
重要分文化財として内部も一部公開されているのです。そう、東京駅も公開されているけど、あれは駅なので当然ですが、こちらは企業のオフィスビルだから、セキュリティが厳しい近ごろは珍しいことですね。
 三菱一号館美術館の中庭オアシスもいいけど、こちらの豪華な屋内オアシスもいいですよ。外も立派だけど、中もすごいですねえ。しかもゆったり憩う空間として公開しているって、いいですねえ。ここで音楽会が開かれたりしています。
 ふらりと入ってこんな建築空間に出会うことは、めったにありませんね。
 ここのとなりは平日は営業室として使っています。このようなオフィスで仕事をする人たちは、いったいどんな気持ちなんでしょうねえ。それともなれっこかな。
公開空地のアトリウム
左向うが明治生命館 手前は明治安田生命ビル

新旧ビル間の公開空地パサージュ
左が明治生命館、右は明治安田生命ビル
ここも公開空地の元営業室


今も営業している公開空地の執務室
公開空地等の説明版
 この後で行きますが、丸ノ内では第一生命館が、日本が戦争に負けた1945年から連合国軍最高司令官総司令部に接収されてマッカーサーがいたことが有名です。
 この明治生命館もアメリカ極東空軍司令部として1956年まで接収されていました。
だからいろいろ改変れていたのを、修復復元したそうです。
(つづく)

◆当日のまち歩き資料は:東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版