2017/04/06

1259【お花見宴会】母校キャンパスの満開桜の下で楽しむ花見を来年もできるだろうか

  同期仲間5人を誘って、ふらりと母校の大岡山キャンパスに、春の花見に行ってきた。去年やってきた4月1日は満開だったのに、今年の4月5日は7分咲きだった。
花見には絶好の本館正面広場は、いつもの春のように花見客が大勢すわりこんでいいる。特に走り回る幼児を連れた母親たちが多くいのが目立つのは、ここが飲酒禁止のキャンパスだからだろう。わたしたちのような年寄りもいる。子どもにも老人にも好かれる花見の場である。なかなかよろしい。
 花は美しいが、その花を咲かせる桜の木が、黒々とした太い幹、あちこちにコブや穴があり、枝はよじれて地を這うよう。昔々この庭で山岳部トレーニングしたころは、細くて背丈ほどだったのになあ。
 人の少ない桜を求めて、キャンパスを貫通する呑川河畔は満開の花、そこにかかる木橋の上にちょうどよい枝が伸びている。

おお、ここは川の上だからキャンパス外にちがいない、禁酒じゃあるまいと勝手に決めて、持ちよりの酒やつまみを橋の上に広げて宴会開始。
 天気よし、花よし、酒よし、仲間よし、酒と肴に花びらが散りこむ。 
 宴半ばにガードマンらしき二人の男がわきを通る。もしもし、構内は飲酒禁止です、あー、はいはい、ご忠告ありがとう。でも宴会は続く。

◆◆

 本館前の新図書館の横、この場所には名建築家・谷口吉郎設計の出世作「水力実験室」が建っていた。
 今は取り壊されて空き地である。実験のために使った水銀汚染が残るので、取り壊さざるを得なかった。
 でも、わたしはそこにあった実験用のプールで泳いだよなあ、いいのかなあ、ここまで元気に生きたのは、水銀のせいかもなあ、やっぱりよくないか。


 水力実験室はなくなったが、そこから本館寄りには、谷口設計の70周年記念講堂が建っている。そして本館そのものも、若い時の谷口が関わったデザインで健在である。
 桜名所の本館前広場には、谷口吉郎の一番弟子の建築家・清家清設計の大学本部や、その弟子の篠原一男の設計になる百年記念館もある。
 更にその篠原の弟子である安田幸一設計の新図書館が最近の広場の建築であるが、それは一部しか地上に顔を出さずに、多くを広場地下にいれている。
 こうして花見で師弟四代にわたる建築を見ることができるのである。

参照:1183【花見と老木】願わくば花の下にて春死なむ卯月朔日想い出の地に

2017/03/24

1258【横浜ご近所探検隊】戦後復興期まちづくりの防火建築帯について若い人たちが地域に入って研究する時代が来たのは嬉しい

●横浜戦後復興都市建築の歴史化

 横浜の伝統的都心部(関内と関外)まちづくりの歴史というと、一般の人々には開港時から戦前の歴史的建築のことをイメージし、都市や建築の専門家たちはさらにそこから飛んで20世紀も終り頃の「みなとみらい」とか都市デザイン行政とかになるようだ。

 ところが、関内と関外の都心景観を現につくっている主流は、その頃ではなくて20世紀半ば1950~60年代につくられた街並みである。
 つまり、第2次大戦でいったん壊滅した横浜都心部を、そこから復興したときに新たにつくった建築群が今の横浜都心の姿なのである。それを載せる基盤となる道路や街区は、関東大震災復興でつくったものである。

 20世紀初めの都市基盤に20世紀半ばの建築が乗っているという、考えようでは歴史がないし、いや、今となってはそれも歴史になる時が来ているとも思える。
 さすがに21世紀ともなれば、それらの変化が著しくなり、さらに消滅も珍しいことではなくなってきている。その変化と消滅と再生は、まさに都市のダイナミックな歴史の動きそのものであり、研究対象として面白そうだ。
市街地再開発事業で再生した防火建築帯 日ノ出町駅前

事務所と強度住宅に建て替えした防火建築帯 長者町3丁目

●研究は大学の机の上から街の中へ

2017/03/22

1257【横浜ご近所探検隊】横浜市市街地環境設計制度による公開空地を公開しないで緩和された床面積や高さ部分を食い逃げしてるビル二つ

 陽気がよくなってきたので、今日も今日とて、横浜都心関内徘徊がはかどる。
 立派なオフィスビルや共同住宅ビルが立ち並び、道には歩道もあるけど、さらに歩道から建物を引っ込めて、歩道状や広場状の公開空地も多くて気持ちよろしい。さすが横浜市のまちづくり指導はちゃんとしているんだなあ。

 なんて思いつつ横浜球場の近くにふらふら、立派なビルが二つ並んでいて、公開空地が広くとってあって、おお、なかなかよろしいと、近づいてみる。
 ひとつは「帝蚕産関内ビル」なる事務所ビル、もうひとつは「ヴィルヌーブ横濱」なる共同住宅ビル(いわゆるマンション)。

帝蚕産関内ビル」にはハローワークがはいっている。歩道につながって敷地に広い歩道状の空地があり、植え込みもある。

近づこうとしたら、あれまあ、道路と敷地の境界にロープが張ってあり、公開空地に「立ち入り禁止」の札がぶら下がっている。工事中の様子もない。
左上の植え込みの中に公開空地表示掲示板が見える

 アレッ、ここは誰もが入ってもよいと、法で決められた公開空地ではないのか。
 変だなあと見回すと、植え込みの中に公開空地表示の掲示板があり、立ち入り禁止を侵して、ロープをまたいで近寄って見れば、チャンと書いてある。
「この公開空地は横浜市市街地環境設計に基づく建築物の許可条件として設置されたもので、どなたでも日常自由に通行又は利用できるものです。
  平成7年2月 横浜市中区北仲通5-57 帝蚕倉庫株式会社」

さてさて、「どなたでも日常自由に通行又は利用」が正しいのか、それとも「立ち入り禁止」が正しいのか、帝蚕倉庫株式会社はいかがなものでしょうか?
 「横浜市市街地環境設計に基づく云々」、と書いていあるから、ここは法による公開空地としか考えられないよなあ。
 ここままだと、横浜市市街地環境設計制度に違反しているような気がするのですが、どうですか帝蚕倉庫さんよ~。。

 この制度は、建築や都市の法律により、建築物を建てるときに誰もが利用できる公開空地を整備して街の環境を良くすることに貢献するのと引き換えに、都市計画の容積率制限や高さ制限を緩和して建築物の床面積を特別に大きくすることを許可するのである。つまりそれだけ不動産収入が増えるのだ。
 そして建物のオーナーは、この公開空地を公開するという誓約書を、市長に出している筈である。この制度にそう書いてあるから、帝蚕倉庫さんもお出しでしょうね。

 このビルは20年ほど前にできたが、そのときから立ち入り禁止にしているのかどうか分らないが、これはどうも違法行為であるとしか思えない。それとも何か特別に立ち入り禁止してもよいと許可を取っているのだろうか。
 帝蚕倉庫会社と言えば、横浜港の絹貿易と共に歩んできた伝統ある名門企業だろうに、これでよいのかしら、ハローワークという公共機関が違反建築に入っていてもよいのかしら。
 公開空地を「公開」しないのだから一方的に儲けただけ、緩和の食い逃げですよ。
 緩和を受けて基準よりも増えた床面積や基準を超えた高さの部分の建築物を削り取る必要があると思うのだが、どうなんだろうか。
 
 と、頭をかしげながら、隣の「ヴィルヌーブ横濱」なる共同住宅ビルに来た。
左上に見える黒いものは首都高速道路
この柱の向こうのピロティも公開空地のはず


 こちらのビルは、一階に歩道状空地があり、更に建物の一階の一部はピロティ広場になっていて、これらが「どなたでも日常自由に通行又は利用」との公開空地の表示看板がある。

ところが、違反行為は伝染するものらしい。ピロティに入ろうとすると、どの柱と柱の間にもプラントボックスが置いてあり、そこに「関係者以外立ち入りご遠慮ください」の表示があるのだ。
 おやおや、大きなビルが並んでそろって違反だよなあ。

こちらは歩道状空地は自由に通行しても良いらしいから、帝蚕倉庫よりも若干は違反度が少ない。
 それでもピロティの公開空地に対応する床面積と高さの緩和部分の建物を削り取る必要がありそうだなあ。それとも特別にピロティは公開しなくてもよい許可を取っているのかなあ。
 
 なお、「ヴィルヌーブ」ってなんだろうって、ネットで調べたら人名が出てきたが、それではあるまい。フランス語で気取って「Ville neuve横浜」つまり「新町横浜」かなあ、ふ~ん、。
 「帝蚕倉庫」というのも珍しいが、もとはたぶん「帝国蚕糸倉庫」といったのだろう、絹糸貿易の保税倉庫のことかしら、連想したのは「帝国人造絹糸」のテイジン。
 「ハローワーク」も珍妙なネーミングであるよなあ、むかしは公共職業安定所といっていたなあ、。
 もっと珍妙なのが「マンション」であるよなあ、なんともはや、ウサギ小屋(この揶揄も今や通じなくなったかも)共同住宅ビルを、マンションmansionとは、よく言うよ。
 
 さて、徘徊でタマタマ違反建築2件が並んでいたのを見つけたが、じつは他にもいっぱいありそうだなあ。
 こういう緩和措置の食い逃げ行為は、誰が取り締まるのかなあ、建築警察とかってあるとは聞かないなあ。食い逃げ得なのかなあ。
 今年の徘徊は、都市計画違反建築発見を目的にしようかなあ、あ、目的があるのは徘徊とは言わないんだな、。

●参照⇒横浜ご近所探検隊が行く

2017/03/18

1256【オペラ見物】モーツアルト「魔笛」を勅使河原三郎演出で観てきたがバレエ・ミュージカルだったなあ

 う~ん、川瀬賢太郎指揮のオーケストラの出来はわからないけど、勅使河原三郎の演出・装置・照明・衣装は、よいともわるいとも、なんとも言い難いなあ。
 今日、神奈川県民ホールでモーツアルトのオペラ「魔笛」を観てきた。忘れぬうちに感想を書いておこう。


勅使河原の演出については、全体にバレー・ミュージカル(というジャンルがあるのかどうか知らないが)だった。つまり舞踏と歌唱がメインで、歌手に演技というか芝居を求めないオペラだったのである。
 だから、歌手に台詞を一言もしゃべらせないで、ダンサーによる日本語ナレーション(佐東利穂子)で繋ぐのであった。
 佐東の語りの発声とダンスはよかったのだが、語り内容そのものがなんともつまらなかった。なんだか高校生に初めてオペラを見せて解説しているいるみたいな内容だった。この支離滅裂オペラには、支離滅裂ナレーションの方がよろしい。
 歌手にセリフを吐かせないから、シチュエーションごとの演技もほとんどなくて、歌うばかりなのであった。見るこちらも不満だったが、オペラ歌手のほうも不満だろう。

 分りやすくしようとてこうしたのなら、これってちょっと違うよなあ。トントンと歌とセリフが勢いよく進むのがモーツアルトオペラだろうに、このナレーションでたびたび一時停止するのが、いらいらする。
 もともとこの魔笛ってオペラは、はっきり言って支離滅裂、コミックもシリアスも、恋愛も憎悪も、宗教もニヒルも、もうなんでもありのパッチワークめちゃめちゃバラエティ番組だから、スジなんかどうでもいいのである。これは見世物つき音楽なのである。
 わたしもそのあたりをどう演出するか見たいとは思わなくて、とにかく魔笛の素晴らしい音楽を聴きたくて行ったのである。
 今回はそれにバレエダンスがついていたので、そこの見世物演出はなかなかよかった。もっともわたしはバレエダンスの上手いも下手も全然わからないので、単に視覚的な興味だけで言っている。

 勅使河原の舞台装置は、巨大な金属質のリングが、舞台の上に吊り下げられて登場する。直径が5m位のが9個、20m位のが1個、状況に応じて出たり入ったり、並んだり重なったり、垂直だったり傾いたり水平だったり、いろいろに変化して登場する。
 舞台に不思議な奥行きを与えて面白く観たが、はじめから終いまでこれだから、そのうちに飽きてきた。
 そのほかは照明によって舞台上に格子や道の形を映し出すだけで、魔笛によくあるおどろおどろしい装置は何もなかった。紗幕への映像投影もなかった。

 おどろおどろしいと言えば、最初に登場してオドロオドロ芝居だぞって見せる大蛇は、灰色のバレエダンサーたちが列になって舞う演出なので、全くオドロしくない出だしであった。まあ、いいでしょう。
 衣装でオドロオドロシかったのは、モノスタトスと神官で、珍妙な着ぐるみで苦笑してしまった。これと3童子が、モーツアルト好みのオドロだった。これらの着ぐるみはどういう意味なんだろうかと、首をかしげつつ苦笑した。
 特にモノスタトスのあの珍妙さは、魔笛芝居のユルキャラ狙いかよ~。
 だのに、タミーノとパミーナは、まったく普通の街着のような衣装、もうちょっとなんとかしたらどうだ~。

 パパゲーノの衣装が、定番のあのモジャモジャバサバサ鳥の羽じゃなくて、なにやらえらく格好のよい真っ白な毛皮のようだった。
 パパゲーナの衣装もそれに対応していたが、それよりも彼女の歌の出番が、パ、パ、パ、パの歌のたったの1回だけ、セリフがないから例の老婆から美女に変身する面白い場面がなくて、つまらん。
 狂言回し役のパパゲーナとモノスタトスからはセリフを奪わないで、しっかり芝居させてほしかった。
 まあ、ゴチャゴチャイチャモン付けているが、全体的には音楽は素晴らしくて、オペラを楽しんだひと時だった。
◆◆◆
神奈川県民ホール3階席から舞台を見る
 今回、はじめて県民ホールの天井桟敷とも言うべき3階の最上部どんつまりの席だったが、音も視野もけっこうよかった。
 舞台装置のリングの変化と人物の動きとが重なって見えるのは、なかなか楽しかった。これからも3000円の最安席に限るなあ。
この前にここに来たのはいつだったかなあ、あそうだ、2年前の「オテロ」だった。

 これまでに劇場で見たモーツアルトの歌劇は「ドンジョバンニ」だけである。魔笛について知ったかぶりして書いているが、実は劇場じゃなくて、TVとyoutubeによるものである。なにしろ西洋オペラは、見物料金が高くて貧乏人にはとても無理だ。
 わたしのオペラ見物は、もっぱら日本伝統オペラ、つまり能楽ばかりで、こちらはこれまで100回以上見ている。もっとも、近ごろは能楽も高価だなあ、いや、こっちが貧乏になって相対的に高価になったか。
  
 これまで観た西洋オペラを思い出してみる。
 ドンジョバンニ(ウィーン・フォルクス・オパー、これは2階の真ん中あたりで3000円ほどだった)、ローエングリン(新国立劇場)、マダムバタフライ(横須賀芸術劇場)、オテロ(神奈川県民ホール)、オルフェーオ(神奈川県立音楽堂、東京北とぴあ)、カーリューリバー(神奈川芸術劇場)、こうもり(2回見てるけど、どこでだったかなあ)、椿姫(神奈川県民ホール)、他にあったかなあ、、少ないなあ。
ウィーン・フォルクス・オパー ドンジョバンニ公演の夜景 1994年 
ついでにミュージカルとバレエも思い出してみるか。
 キャッツ(新橋?キャッツシアター、ニューヨークのどこか忘れた劇場)、ヘア(ニューヨークオフブロードウェイ)、レミゼラブル(帝劇)、42nd Street(帝劇)、、、白鳥の湖(よこすか)、くるみ割り人形(よこすか)、、、、他にあったかなあ、、。
 でもまあ、現代ではありがたいことに、youtubeにほとんどのオペラでもミュージカルでも登場するので、貧乏人には嬉しい時代に人生が間に合ったものである。

2017/03/09

1255【五輪騒動】新国立競技場設計騒動が鎮静したら次は絵画館前サブトラック常設でまたひと騒ぎありそうで楽しみだなあ

 おお、これも揉めるぞ、たぶん、景観保存原理主義者たちが、ケシカランと騒ぐだろうなあ、久しぶりにまたヒマツブシにもってこいだな。
神宮外苑創建時の絵画館玄関より見る広場と銀杏並木
現在の絵画館前広場と銀杏並木
●今度は絵画館前広場にサブトラック常設とか?

 2020オリンピックの陸上競技会場になる新国立競技場は、競技期間中に使うサブトラックを絵画館前広場に仮設すると聞いていた。
 昨日の新聞によると、オリンピックばかりか、大きな陸上競技会をやるにはサブトラックが必要なので、陸上業界(というのか?)が言うには、オリンピックが終わってもそのまま常設施設にしてくれと。
サブトラックに?

 そうか、競技する側としてはごもっともである。あんなにでっかい新競技場にサブトラックがない方がオカシイと、わたしも思う。
 建築で言えばオペラハウスを作ったのに、大ホールはあるがリハーサル場がないようなもんで、これじゃあ半端物だな。

 さて常設となると、これまたひと騒ぎありそうだ。陸上業界じゃなくて景観業界(っていうのか?)からイチャモンつける人たち登場するに違いない。
 明治神宮外苑は明治大帝の偉業を顕彰する場であり、聖徳記念絵画館なる聖なる施設の前庭を、騒がしい運動競技の場にするとはけしからん、戦前そうであったように美しい芝生の広場に戻せ、、、とか。

 ようやくあの生ガキデザイン新国立競技場を駆逐して、不十分ながらも日本的デザイン競技場に変えることにしたのに、今度は高層ホテルが建つとて、聖徳絵画館の背景景観が乱れようとするところに、更にまた前面景観も運動場になって乱れるとは、なにごとであるか、、、とか。

 なによりもかによりも明治大帝に申し訳ない、、造園設計者の折下吉延にも申し訳ない、、とか。
 歴史的景観を大切にして、昔の姿に復元するべきだ、あの東京駅のように、、、とか。
 
●さて、これからどんな騒ぎになるか楽しみ

 でもなあ、あの絵画館前広場は敗戦直後に占領軍に接収されて静かな芝生じゃなくなって、今やもう70年以上も経ったのだよなあ。静かな芝生期間の戦前20年よりも、戦後こっちの歴史がはるかに長いよなあ。庶民の運動広場だよなあ。
 おまえはそういうけど、あの東京駅も昔の姿は30年間、戦後の姿は60年間だったのに復元したぞ、外苑だってそうするべきだよ、なんて、おっしゃるでしょうねえ、そうなんです、トホホ、わたしはその復原反対をずっと唱えて来たけど、蟷螂の斧で無視されたんですよ。

 景観も建築もなんでもかんでも最初の姿がいちばん良かった、昔に戻せ復元せよという風潮が世間を風靡しているけれど、これって復元帝国主義といいましょうか、景観原理主義と言いましょうか、なかなか思い切りがスゴイもんですねえ。
 なにしろ、それができてからあとの時代の影響というか要請による変化の歴史を、いっさい無視しようってんですからねえ。
 あ、帝国とか原理とか言ってますが、わたしはレーニンも秋水も読んだことないし、神学にも触れたことなくて、そのお、オチョクリムードで言っておりますです、ハイ。
どうせならなにもかも、ここまで復元しましょうよ、とか
あえて言えばあそこは、キチンとしたスポーツグラウンドになれば、兵士となる青年の体育に熱心であった明治大帝もお喜びでしょう。外苑にスポーツ施設をたくさん作った由縁はそこにあったのですからね。
 さらに言えば、入ってみたい気にならない絵画館だって、これをスポーツマンたちのクラブハウスとして有効に使えばよろしい。今ある絵画はそのまま展示してあれば、歴史文化に無関心なスポーツマンたちも競技会の度に大帝のご聖徳に触れる、、、これも大帝はお喜びか、、タイテイのことはお許しが出るのか、それともタイテイにせいってお叱り受けるのか、、な~んて。
スポーツクラブハウスに?
●立体公園決定を廃止して元に戻せという提言は?

 ところで、これは若干旧聞になったが、去年5月、新国立競技場と緑の環境のあり方について日本学術会議からイチャモンが出された。これはその後どうしてるんだろ?
 参照「神宮外苑の環境と新国立競技場の 調和と向上に関する提言
  http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t211-1-1.pdf
 ザハ案に合わせるために立体公園制度の趣旨に反して無理矢理公園変更したのを、白紙見直し案に沿って元に戻せ、更に渋谷川を復活せよ、と言うのである。
 ごもっともである。

 わたしはやり直しコンペに応募した2案を眺めていて、どちらも立体公園にしなくても済むような配置に気が付いて、そうか、立体公園をやめるだと思った。
 てっきり当然そうするのかと思ったら、なぜだかそうしなかった。
 白紙見直しの看板を掲げながら、新競技場のために新規や変更決定した公園計画や都市計画は一切見直さないという、実に奇妙な白紙見直しだった。白紙じゃなくて灰紙だな。

 この公園緑地系の学者たちの異議申し立ては当然であるが、さて、事業者がそれを受けてどうするのか、その後はなんにも聞かないから、言いっぱなし、言われっぱなしなんだろうか。
 設計者としてしゃしゃり出る隈研吾さんも、大学の学者建築家なんだから、何とか言うとかなんとかするべきだろうに、だんまりを決め込んでいるのは何故か。工事はどんどん進む。

 さてさて、これらばっかりじゃなくて、近いうちに青山通り沿い大企業用地に外苑容積移転で超高層開発騒ぎが起きるんだろうなあ、神宮球場と秩父宮ラグビー場の土地交換も面白そうだなあ、超高層ホテルつき神宮球場ができるかもなあ、当分まだまだ楽しみがあるなあ。
最も景観が変りそうなラグビー場とその隣の青山通り沿い
 オリンピックにゃ興味はないけど
便乗騒ぎにゃ興味津々

参照記事●五輪騒動瓢論集:新国立競技場と外苑再開発
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html

2017/03/01

1254【横浜水上徘徊(1)】寒の船で川巡りして見上げる関東大震災復興橋梁から想う水の都だった横浜

 天気の良い冬の日、川風も穏やかな船遊び、横浜の関内と関外をとりまく川を、船に乗って巡るまち歩きイベント(2017年2月25日、JIA建築祭)に参加した。
 狙いは関東大震災復興時に架けた橋梁群を、川面から見上げようというのである。いつもの陸上徘徊とは全く異なる視点でみる橋と街は、建築家の笠井三義さんの該博知識によるガイドで実に面白かった。

●横浜の復興橋梁

 関東大震災復興事業の時に架けた橋は「復興橋」と称しているが、東京と横浜に今もたくさん存在する。東京で有名なものは、隅田川の清洲橋や御茶ノ水の聖橋などである。
 横浜の復興橋は178か所を架け、今も横浜駅あたりや関内と関外を囲むあたりの川には、補修・改修されながら健在である。
 橋の見どころは、基本的には建築と同じで、その構造と意匠の構成である。わたしは構造的なことはよく分らないから、ここでは意匠的なことだけ観よう。その意匠の中でも、渡る時にいちばん目につく親柱に眼を付けよう。

 一般に、橋には「親柱」というものがある。橋の渡りはじめの両側に建つ柱状のもので、橋の名前や作った年月が書いてあるのが普通である。
 名前の通りに柱の形の場合が多いが、高いのや低いのや、板状とか団子状とか、彫刻だったり、その形はさまざまである。
 中には凝った形もあって、橋を渡るときに親柱のデザインがちょっと気になったりする。もっとも、親柱が全くない橋もあるから、機能的に必要なものではない。
 橋ごとにどれもこれも異なっており、しかもモダンデザイン風の姿であるのが面白い。ここに横浜復興橋の親柱の姿を載せておこう(『横浜復興史』1932年)。

これらの親柱は、いったい誰がデザインをしたのだろうか。橋梁設計の土木技師ではないだろうから、建築家あるいは画家彫刻家によるのだろう。
 横浜の復興橋は、内務省復興局によるものと、横浜市によるものがあるが、復興局のものならば建築家の山口文象が担当しているものがあるかもしれない。山口文象が戦後に主宰したRIAの山口文象アーカイブスには、横浜の復興橋梁の工事写真が何枚かある。

 山口文象は復興局橋梁課の嘱託技師であり、土木技師のための橋梁設計代替案検討資料として、全体完成予想透視図を何枚も描く作業をしていた。また親柱、高欄、照明などの附属物の設計をしていたが、これにはその頃に主宰していた創宇社建築会の仲間がアルバイトで加わっていたという。

●橋を見上げる
 船で廻ったのは、右の図の濃い水色の川である。V字型に関内と関外を囲っている。ようするに、この範囲が入江であったのを埋め立てたのである。薄い水色は今は埋立てられた水路。
 さて、船から見上げる橋は、いつもと違う視点である。解説の笠井さんが、親柱を見るときに、いつものように橋の上だけではなくて、そこから下に続けて水面までを観よと言う。
 観ればなるほど、親柱は橋の上で終わるのではなくて、実は水面まで続いているのだった。いや、親柱は水底から水面を突き破って、塔のごとくにすっくと地上を超えて立ち上がり、まるでこれで橋を支えている姿である。
 それは橋台と(ときには橋脚と)一体になって立ち上がるから、それでこそ親柱という名に値する。

わたしは橋の構造的なことは知らないが、もともと親柱とは、昔の木橋の桁や梁を支えて水底あるいは礎石の上に建つ柱のことを言ったのであろう。構造的には橋の上までなくてもよいが、いつしか地上にも突出させて欄干を支えるようになったのだろう。
 それが構造材料も形態も変っても、いまも親柱という名が形骸化しながら伝わっているのなら、水面からみる復興橋梁の親柱に、その原型の姿の継承を見たことになる。橋の上にちょこんと立つものではないのだ。
水上から見る谷戸橋は左右の親柱が橋を支える姿
谷戸橋は海と川の間にある門構えだった
地上から見る谷戸橋は左右の親柱はゲートの姿
 そうか、もともと橋というものは、陸上のものであると同時に、水上のものであったのだが、わたしはそれをすっかり忘れていた。
水上のものは水上からデザインされるべきだから、親柱が水の底から立ち上がる塔状であるのは当たり前、だから橋の設計者は水上からの視点に向けて設計をしていたのだ。
 昔の橋の写真を観ると、川から見るそのプロポーションが美しく、また橋桁側面や橋台など、川の方に向けて装飾がしてあるものが多い。それは橋を渡るものには見えない。橋は川から観てこそ生きるデザインだと、あらためて気が付いた。
この橋は横浜ではないが、親柱の基本的意味を表現する例として挙げる
東京の山手線の橋が外堀に架かっているが川に向けての姿を美しく装っている
 今はほとんどなくなったが、かつては水上からの視点が、陸上からの視点と同じように存在していたのだった。
横浜は港町であるから、関内と関外を取り囲む大岡川、中川、堀川にはもちろん、今は埋め立てられた派大岡川などの運河には、たくさんの艀が水上に浮かんでいた。
 そこには家族で住む水上生活者たちがいたし、水上ホテルという安宿もあった。水上の街があったのだった。
1940年、中川に停泊する多くの艀
●水の都だった横浜

 ここで思い出したのは、東京の日本橋の妻木頼黄によるデザインについて、建築評論家の長谷川堯がその名著『都市回廊』(1975年)のなかで書いていたことだった。
「妻木はこの橋の総合的なデザインを、人や電車が快活に通り抜ける橋の表面(道路面)から構想したのではなく、実はひそかに日本橋川の河面からイメージし、その視覚的基盤から橋を一つの巨大な空間的構築物として発想して、それに関するすべての「意匠」を決定しようとしていたのではないか、という点に思いあたるのだ。」

 それはつまり、旗本の末裔の妻木にとっては、江戸の町がいくつもの運河がめぐらされていた「水の都」であったのに、明治維新でやってきた薩長などの田舎者たちによって「陸の東京」に変えられつつあることに悲憤慷慨し、日本橋のデザインに水上からの視点を据えること抵抗者の立場を表現したと、長谷川は言うのである。
東京・日本橋 1911年竣工
 さて、横浜の関内関外という都心部も、まさに水であったことを思いだす。もともと海の入江を埋め立てたのだから、水はけのために水路が網の目にめぐらされていた。それは埋立地の排水路であり、農地の灌漑用水路であり、港とつながり運輸交通路であり、水上生活者たちも多かった。関内関外は水の都であったのだ。
 関東大震災で破壊した多くの橋を、内務省復興局と横浜市と分担して架け替え、1930年頃にはほぼ完了した。

 その頃は、まだまだ水路には船が多く動き回り、水路の岸には荷上げの場が随所に設けられていた。橋の上の陸上を往来する車や人と、水上を往来するそれ等は同じくらい重要だった。
 橋というものは、陸上では単に川という暮らしの障害物を越えるための施設であるのに対して、水上ではそこで働き暮らす人々のためのランドマークであった。
 横浜都心の最も重要な位置に、1911年に2代目吉田橋が架かった。現在の吉田橋の先代にあたる。この橋は、まさに東京日本橋と同じ年に竣功したのだが、水の都の江戸に負けない水の都横浜のこの橋も、水に向かって華やかな装飾性を誇るデザインだった。
これは復興橋梁の以前の吉田橋の1911年竣功時の姿
横浜都心の最も重要な位置の橋として川に向けての過剰なる装飾意匠
1922年 関東大震災の時の横浜の水路
(つづく)

2017/02/14

1253映画「MERU」を観たがヒマラヤ超難関絶壁登攀をテーマにしつつ、なかかよくできた人生ドキュメンタリー映画だった

 映画「MERU]を観た。インド北部のヒマラヤ山脈にあるMERU(メルー)中央峰にそびえる“シャークスフィン”となづける岸壁を直登するドキュメンタリー映画である。
 街を徘徊していたら映画館の前にでて、ものすごい岩壁にクライマーがいる写真ポスターを発見、ちょうど上映開始時刻、昔山岳部員だった記憶に背中を押されて、フラフラと入った。映画館なんて3年ぶりか。

 映画「MERU]は、なかなか良いできだった。
 製作・監督ジミー・チンが、クライマー、スキーヤー、写真家そして映像作家であり、メルー登攀チームのメンバーだから、長い歳月をかけて多くの撮影をしてきたらしく、入念に編集してある。
 3人の登攀者の葛藤を、単に山岳登攀劇としてではなく、人生の目的追及とその転機を見事に撚り合わせるドキュメンタリー映画だった。

 何も予備知識ないままに観はじめた。
 初めのうちは、登攀者たちやその関係者たちが、幕間の解説みたいに何度も登場してきて、うるさいなあ、はやく登攀の現場を見せろと思ったものだ。
 そのうちに、この映画は登攀を見せるには、そこに至るまでの登攀者やその関係者の人生と、登攀に関連して起きたいくつかの事件を見せるのだと気が付いた。

 普通の山岳映画のように、登攀の技術的苦労を見せようとする映画ではないらしい。
 コンラッド・アンカー、ジミー・チン、レナン・オズタークという、3人のクライマーたちの過去の人生と山での事件を克明に描く。
 巨大雪崩に巻き込まれて友を失いつつも生き残って長く悩みぬくジミー、親友だった山仲間を遭難で失ってその家族を支えるコンラッド、頭がい骨が露出する瀕死の重傷から驚異的なリハビリで復帰するレナン、それぞれの映像が劇的である。

 もちろんMERU登攀場面はすごいのだが、劇映画のような俗っぽい悲劇やら失敗が起るのではないから、山岳登攀の手法を知っているとそのテクニックなどが実に面白いが、そうでないと映像は美しいと思っても登攀の苦労はそれほどでもないと思うかもしれない。
 それにしても現代の登攀用具は、岩場に吊りさげるテントといい、各種道具類と言いすごいものである。ただ、生身の人間だけは変わりようがない。

 登攀者本人が持つカメラ撮影だから、当然のことに劇映画のように、トップをいくクライマーが登ってくるところを待ち構えて撮った映像は無い。あるいは岸壁に取り付くクライマーをヘリコプターで撮ることもない。
 しかし、プロの映像作家が登攀者本人であり、そのプロによる撮影だから、ドキュメンタリーとして劇映画にはない現実的迫力がある。変りゆくMERUの姿の長時間露出映像が美しい。

これは山岳映画というテーマで3人のクライマーの人生を浮き彫りにしたドクメンタリーである。彼らの人生とクライマーとしての数々の事件が面白く、時間をかけて多くの場所で撮影し、巧みに編集して、できのよい映画となった。
 
 それにしても映画館はなんてさびしいのだろ。まあ、平日の昼間だからなあ、年寄りの男ばかり、、でも若い女性がちらほらいたのは、山好きなんだろうか。

●参照
http://meru-movie.jp/
http://eiga.com/official/meru/

2017/02/09

1252【東京駅周辺徘徊その8】東京駅八重洲口の開設は十河信二の都市計画法抜け穴突破策略にはじまるらしい

東京駅周辺徘徊その7】のつづき

●東京駅開業から38年目にして八重洲口駅舎完成

 東京駅の東側にあった外堀が戦後に埋め立てられた。東京駅は京橋、銀座胃、日本橋などの江戸以来の市街地と陸続きになった。外堀の埋立っで生れた新たな土地には、八重洲口駅前広場が開設され、八重洲口駅ビルがやいくつかのビルが建ち始めた。
 1952年に本格的な駅ビルを着工し、1954年10月14日に6階建て(後に増築して11階建て)の東京駅八重洲口新駅舎・鉄道会館が使用を開始した。10月21日にはそこに大阪から進出してきた大丸百貨店が開店した。
 わたしはその工事中に東京駅を初めて訪れて、足場の間を通り抜けた記憶がある。その後の地下街工事、新幹線工事、近年の建替え工事など、東京駅八重洲口はいつも工事中のイメージがある。
鉄道会館と国際観光会館 1958年撮影
 
 東京駅は開業時には帝都東京の玄関として西のミカドに顔を向けても、東の商都東京の商人の町には固く閉じて出入りお断りだった。
 それから15年目にして、震災復興でようやく小さな裏口を東に開けた。もう一度の災害の後、小さいながらもそれなりに駅舎を建てて、ようやく顔を向けた。だが、すぐに姿を消したのは、この地の霊魂が戦後になってもミカドの駅に固執したのか。
 さらに時が経ち、東京駅開業以来38年目にして、ようやく東京本来の街に東京駅も顔を向けたのであった。
 この後、1964年には東京駅に東海道新幹線が入ってきて、八重洲側がその乗降の場となって、東京駅はようやく帝都の玄関から商都の玄関となった。
 八重洲口に入ってきた新幹線といえば、十河信二がその父と言われる。十河が戦後に国鉄総裁になって1964年に大阪まで開通させたのだ。  
1988年製作「駅からマップ」東京駅とその周辺
この絵の建物のいくつが今も建っているか数えると面白い

●十河信二の策略による八重洲橋架橋
 東京駅に八重洲口の駅舎が、なぜこうも長い間仮のままであったのだろうか。その原因のひとつに、戦中の弾丸列車の東京駅乗入計画が絡んでいて、それが固まらないままに新駅舎をつくるのを躊躇していたのだろうと、勝手に推測してた。
 ところが、弾丸列車計画が出る1938年頃よりも前の震災復興当時にも、国鉄は八重洲口開設に消極的であったことが、十河信二の言にあることが分かった。
 八重洲口には十河が重要な役割を果たしている。それが奇妙に面白いので書いておく。

 1923年の震災当時は、十河信二は鉄道省の経理課にいたが、関東大震災後にできた内務省復興局に移って、経理部長として震災復興事業に携わっていた。当初の理想的な復興計画は、当時の政争のなかで保守派によって、余りにも縮小されたことは有名である。
 十河が復興局時代の思い出を語っている中に、東京駅八重洲口のことに触れている(『内務省外史』地方財務協会発行1975年)

 復興局で財布を預かる経理部長の十河は、復興計画を都市計画委員会に諮ると、政争による反対論によって、事業規模がどんどん縮小されていくのを苦々しく思っていた。
 そこで、都市計画法の抜け穴を考え出したというのである。
それは都市計画法によると、委員会にかけるのは道路計画だけで、橋というのは指定していない。だから橋は計画外になっておるのだという解釈で、材料を買って、政府の原案に従って橋だけ先にかける。これ以外にはどうにも方法がありません。」
「……それでいたるところに橋ができた。そのいちばん顕著なのは…東京駅の八重洲口、今は堀をつぶされておるけれども、あそこには堀があって、八重洲橋という橋を架けた。今、八重洲口を出ると広い道路になっておるが、原案にあの道路は無かった。当時、国鉄も八重洲口をつくることには賛成をしなかった。都市計画委員会は盛んに反対をしている。それを復興局の原計画に従って先にやってしまった。

 八重洲橋を架けたというか、架ける策謀をやったのは十河であるというのだ。乱暴なことだが、橋を先にかけてしまって、後から八重洲通りの道路計画を委員会に諮ったのか。そういえば八重洲通りも、超過買収方式で沿道まちづくりを同時に進める計画だったが、委員会で潰されて道路だけになったことも有名である。

 この十河の話のどこまでほんとうか、八重洲橋だけのことか八重洲通りも含むのかも分らない。本当ならば、復興橋梁がいまだに立派に評価されるのは、十河が橋梁だけは財布を絞らせなかったおかげということになる。
 我田引水的には、建築家山口文象が橋のデザインに関ることができたのも、十河の策略のおかげとなる。特に八重洲橋の設計図には、山口の当時の姓である岡村のサインがある。
八重洲橋設計図 岡村(山口文象)のサイン

●30余年にもわたる十河信二の機略による八重洲口
 鉄道省出身の十河のことだから、東京駅八重洲口の開設を前提にして(あるいは画策して)八重洲橋を架けたことは想像に難くない。
震災復興後の1930年の東京駅、外堀、八重洲橋

復興事業では外堀に八重洲橋が架かり、
立派な駅舎はできなかったが駅裏に電車専用乗降口が開設した

 国鉄が八重洲口開設を嫌がったのに、東京駅の八重洲口にしか用がない八重洲橋を架けて八重洲口を開設させたのが十河信二であり、後に国鉄総裁となって新幹線を入れて本格的八重洲口駅舎につくったのもこの十河であった。もしかして30数年を隔てても、十河には一連のことであったのだろうか。

 余談になるが、十河は震災復興局に後藤新平の要請で入る時に、土木部長として太田円三をひきいれて、財布担当と技術担当のコンビで復興事業に取り組んだ。だが復興局の用地買収贈収賄事件で太田は自死、十河は無罪になったが身を引き、復興事業を全うできなかった。
 戦後に十河が国鉄総裁になった時に、新幹線事業のために技師長として島秀雄をひきいれて、また財布と技術のコンビで取り組んだ。だが開業時には二人とも政治的な事情等で国鉄を退いていた。
     ◆◆
 東京駅のことは、昔々仕事としてわたしは調べていたのに、今を趣味で考えてみている。これから八重洲側が面白そうだが、こちらも保存と開発の問題が出て来るかしら。
 そしてまた、帝都玄関丸の内と商都玄関八重洲とを比較すると、聖と俗とか、官と民とか、三菱対三井とか、面白い対立的構図で我田引水社会論ができそうだ。 終わり

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
東京駅周辺徘徊その7】まぼろしの戦後初の八重洲口駅舎
・【東京駅周辺徘徊その6】控えめ過ぎる初代八重洲駅舎
http://datey.blogspot.jp/2017/01/1247.html
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 


東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2017/02/06

1251【言葉の酔時記:ムサコ】「むさしこすぎ」とは日本古語だと「むさ苦しい小杉」なんだけど「ムサコ」にすると?

 今日の新聞(2017年2月6日朝日新聞朝刊神奈川面)に、「ムサコなの?、小杉でしょ」と見出しがある。

 なんだよ、わたしが去年7月にもう書いてるんだけどなあ。
http://datey.blogspot.jp/2016/07/1206.html

武蔵小杉じゃないよ、小杉だよ
 なになに、「武蔵小杉最大の免震ツインタワー」だってさ、あんなところに超高層かい。
 あのね、ムサコってね、今はタワマンばっかりですよ。
 なんだい、ムサコってむさ苦しい、タワマンて撓まん、な~んてね。
 ケッ、武蔵小杉を略してムサコ、タワーマンションを略してタワマン。
 ふむ、ワイセツ語とも知らずに二子玉川をニコタマって言うようなもんだな、あのね、あの街は本当は小杉なんだよ、武蔵小杉ってのは鉄道駅の名だよ。町名に小杉一丁目はあっても、武蔵小杉なんて無いよ。東横沿線の人たちは武蔵なんてつけないよ。

         ◆◆
 「ムサコ」って、「ニコタマ」と同じに、若者の隠語が広がったものとばかりに思っていたら、なんと川崎市が2005年に街の愛称募集して、応募数1700件から選んだそうだ。
 選んだ当時は批判が多かったらしい。へえ~、、面白いなあ、隠語が顕語化する過程のひとつの例だな。
 そういえば「ニコタマ」はどうなんだろうか。こちらも世田谷区が公募して隠語を顕語にしたのか。

 でもなあ、「むさしこすぎ」でも「ムサコ」でも、なんともヘンな別の意味があるのだけど気が付かないのかなあ、ニコタマのようにね。
 「むさし」とは、いまでも「むさ苦しい」というように、古語では「不潔である。心ぎたない。卑しい」なんて意味である。
 狂言には「むさとした」という言葉がよく出る。「いいかげんな、うっかりした、つまらない」などの意味で、何かにケチを付けたり非難するときに使う。
 だから武蔵小杉の意味は、、、、まあ、なんでもよろしいが、たくさんの超縦細長アパートメントハウス(俗にタワーマンションという)が建ち並んで、なにやら「むさとした」街になってきているような気もする。

 なお、辞書にはこうかいてある。

むさ・し  形容詞ク活用
 活用{(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ}
 むさくるしい。不潔である。心ぎたない。卑しい。
 「塩籠(しほかご)にむさき事どもして」<出典西鶴織留 浮世・西鶴>
   [訳] (油虫どもが)塩籠に不潔なことごとをして。

むさ‐と  [副]《「むざと」とも》
 1 軽率にことをするさま。うっかりと。
  「やいやい、むさと傍へな寄りおっそ」〈虎清狂・蟹山伏〉
 2 いいかげんにことをするさま。やたらに。
  「松茸(まつだけ)なども、むさと食ぶるは」〈咄・きのふはけふ・上〉
 3 取るに足りないさま。
  「むさとしたる食物をつつしむべし」〈仮・東海道名所記・一〉

(追記 2017/02/07)
 この記事を読んだ旧友から、こんなことを昔聞いたがとSNS経由のコメント。
今の関東はかつて「むさ」と言って、その上の方を「むさがみ」即ち「相模」、下の方は「むさしも」即ち「武蔵」と言う・・これって本当?
 う~む、面白いなあ、まあ、京の都から見れば、「東の国々はどこもかしこも、むさくるしいところ」だったんだろうなあ。


2017/02/05

1250【言葉の酔時記:バンドル】食品量販店にあった新種?の魚の切り身


 かなり前のことだが、量販店の魚売り場、数枚の切り身がプラスチック皿に乗って透明シートで包まれている。
 書いてある魚の名は「バンドル」、はて、聞いたことがない名の魚だ。サバとかタイとかヒラメとかなんて書いてないのだ。
 どうでもよいのだけど、気になる。
こんな感じで、値段とか店名とか書いたシールが貼ってあった

 通りかかった中年男店員を呼びとめて、「このバンドルってどこで採れる魚なの?」と聞いた。男は、妙な顔をしてむにゃむにゃ言っている。
 「最近採れるのようになったの?」とさらに聞く。男はむにゃむにゃ、わたし「どうなの?」、男「もう勘弁してください」というと、そそくさと消えて行った。

 わたしはあっけにとられた。なにか聞いてはいけないことを聞いたのだろうか、バンドルって魚って実は採取も販売も禁止なんだろうか、、そしてそれきり忘れていた。
 いま、ひょいと思い出して、貧者の百科事典をひいて見たら、ありましたねえ、わかりました、バンドル魚の正体が、、こうなんですって。

 スーパーで使う用語http://fanblogs.jp/kobarutodesk/archive/54/0
 バンドル販売。これは、バンドル=束という意味で、いつもは1つずつ売っている商品を2個以上のセットにして売る販売方法です。これをするときは1個売りのときよりも、1個当たりの値段が安くなるように設定します。こうすることで、お客様の買い上げ点数が増え、売上高の増加に繋がります。

 なんだ、bundle(束)のことかよ、そういえばあの時のプラ皿には、何枚か違う色した切り身が乗ってたなあ、束にして売るとて「バンドル」としていたのか。
 でもなあ、それって売る方の業界専門用語でしょ、商品に業界隠語をつけて店頭に並べるって、どういうことなんだろ。魚なのになんで魚の名をつけないのだろう?

 買う方で「今日は魚をバンドルで買おう」なんて思うものかしら。日常で魚の切り身を買うことがないわたしだけが知らないけど、実はこれは常識なのだろうか。
 あの量販店中年男は、そのあまりにも常識的なことを聞かれて、この男客はオレをカラカッているのか」と思ったのだろうなあ、、う~む。
 でも、バンドルってのは、切り身の盛り合わせのことだって、世の中のみんなが知ってるんだろうか?