2012/10/17

678東京駅復原出戻り譚(その3)お供に引き連れて戻ったノッポビルに取りま巻かれて日陰者になったなあ

 わたしが1987~88年に撮った東京駅とその周辺の写真がある。これは国が行った東京駅周辺再開発調査(これで保存が決定)のときの資料だが、今の風景と見比べると実に面白い。
 髷を結い直し、簪を取り揃え、真っ赤に紅の厚化粧で出戻ってきた赤レンガ東京駅は、たくさんのお供を引き連れてのご帰還である。そのお供のどれもが大男(大女?)であるのが、ご自分の背が低いだけに目立つのである。

 まずは東京駅の真正面からの、出戻り前の姿である。

 出戻り前の姿の左端に見える2棟の超高層ビルは、大手町の東海朝日ビルと新日鉄ビルである。中央の屋根の左右に少しだけ黒く見えるのが、八重洲口の大丸百貨店(鉄道会館ビル)である。
 
 それが出戻りしてきた今は、5棟も超高層ビルを従えている。

 これらの中よりの2棟が、赤レンガ駅舎の不利用容積率を移転した八重洲側にあるビルで、まさに連れ戻ったお供である。

 連れ戻ったお供のっぽビルは、丸の内側にもたくさんいるのだ。
 東京駅のホームを越えて丸の内側を眺めよう。
 肝心の赤レンガ東京駅舎は、中央線ホームが高いので屋根しか見えない。

 この写真は、八重洲側の北にあるのっぽビルの下層部に移転した大丸百貨店の12階の便所から撮ったものである。この便所の窓は巨大な一枚ガラスで、小便しながらの眺めが実に宜しい。たいていの便所は裏のほうにあるのに、この便所の設計は素晴らしい。

 で、ご覧のようにこちらにはぞろぞろとノッポお供がいる。このうち赤レンガ東京駅が容積を移転した先は、左端の新東京ビル、その右隣のJPタワー、中央の丸ビルを飛ばしてその右の新丸ビル、このほかにJPタワーの陰にあるパークビル、これらの4棟である。
 だから八重洲側の2棟と合わせて6棟が、赤レンガ東京駅のお供である。

 では、4半世紀前の丸の内側を眺めよう。
 これは1987年10月に、八重洲口にあった大丸百貨店の屋上(10階か11階か忘れた)から撮った。

 東京駅の三角ドームと赤レンガ壁(赤ペンキ)がよく見えるのは、中央線ホームが今のように高くなっていないからである。
 周りはスカイラインが31mでそろっていることがよくわかるが、赤いタワーの東京海上ビルをはしりとして、スカイラインが崩れつつあることもよくわかる。

 これから25年、先の写真のようになったのである。わが身のお化粧代を稼ぐために、わが身を切り売りした結果が、ノッポお供に取り巻かれて、なんだかいつも日陰になってしまった。
  ♪ あれ、なにをいわんすか、あたしゃ日陰者じゃないわいなあ~

 では上空からの眺めを、1997年と2011年の比較をしてみる(google earthより)。
 まず1997年である。

次は2011年である。黄色い矢印が、敷地を超えての容積移転である。特定街区、特例容積率による移転例だが、ほかにもあるかもしれないが、全部は知らない。

八重洲側も大きく変化中である。さてどうなるのだろうか。

●参照→
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/15

677能「定家」を初めて見て主人公が救われない夢玄能もあるのだと知った

 あれ、シテの式子内親王が蔦に絡まれた墓に戻ろうとしているぞ、あの救いのない墓の中にまた戻るのかい、どうしてだよ~。
 能によくある、なにがなんでも主人公を成仏させてしまう救済が、この能にはないのか、珍しい。

 能楽を観はじめて20年くらいになる。わたしの観能記録によれば、はこれまで115曲を観ている。ただし、同じ曲を何回も見ているから延観能回数はこの3倍にはなるだろう。
 能の演目は650年も伝えて今も演じている古典は226曲、そのほかにまれに演じられる復曲や新曲もある。
 何度も観ている曲ももあれば(「清経」は9回、「葵上」と「隅田川」は8回)、有名な曲なのにまだ見ていないものも、けっこう多い。
 禅竹作の「定家」もまだ見ていない演目であった。作者の金春禅竹(1405~1471年)は、能楽のスーパースター世阿弥(1363?~1443年)の娘婿にあたる人である。

 2012年10月7日に、観世能楽堂で「定家 袖神楽 露之紐解 甲之掛」を、シテ:観世清和、ワキ:宝生欣也、地頭:梅若玄祥で観てきた。
 今回の演出はかなり特殊なものであるらしく、小書に関する解説の紙が一枚添えられていて、11件もの特別の演技や演奏が記されている。
 でも能の演出や作者のことは、よく知らないのでここであれこれ言わない。観てきた感想のみを書く。

 実は初めての「定家」なのだが、予備知識はなんでも定家蔓というツタの草があって、恋人の墓にまとわりついて悩ましている、そんな程度のままで特に予習して行かなかった。
 能楽鑑賞は予習したほうが断然よくわかるのだが、長いあいだ見ていると予備知識なしでどこまでわかるか、ときには実験をするのだ。予習した知識に引きずられながら見るのもよいが、自分で発見したいこともある。

 そして、今回は最後のどんでん返しに出会って、能の常識とは違うぞと驚いたのである。
 たいていの能は、主人公が死んでも成仏できない人が幽霊になって出てきて、旅の僧に救済を求め、僧が祈って成仏するのである。ほとんどこじつけで成仏させるものも結構ある(砧、通小町)。これが違ったのだ。

  「定家」の話は、式子内親王(1149~1201年)と藤原定家(1162~1241年)という、皇女と貴族の稀代の歌人同士の苦しい恋の因縁物語である。
 史実は真偽は怪しいらしいが、それらしい話は昔から伝えられていたらしく、その200年ほどのちに演劇としての能に仕立てたのである。

 身分の違いにありながら身を焼くほどの恋は、二人とも死んでからもつづいているごとくに、定家はツタ蔓になって式子(しょくし)の墓にまとわりついて離れずにいるのである。
 前場では、作り物の墓が灰色の引き回しにつつまれて草に覆われて舞台の中央に立つ。そこに雨が降っている設定だから、舞台は暗いのである。もちろん照明を落としているのではないが、後場となってそれがよくわかる。

 旅の僧の前に、里女の姿で式子の幽霊があらわれる。死んでからも定家が蔦蔓となって墓にまとわりついて苦しくてたまらないので仏の救済を求めて、墓の中に消える。
 僧は経文を唱え、墓の蔦蔓を切り開いてやると、後見が作り物の墓の引き回しを取り払う。なかから式子が華やかなときの姿であらわれると、にわかに舞台が明るくなった。もちろん照明が上がったのではない。時雨の墓場の暗い雰囲気が一転し華やかになる。

 式子はツタ蔓の墓から解放されて出てきて喜び、昔を思い出して賀茂の斎院であったころに舞った神楽を舞い、そして笛の異常に高い調子(甲之掛)での序の舞いとなり、前場の暗さと対照的な華やかさである。
 ところが舞を途中で止めて、涙をおとし、恥ずかしいと顔を隠して、墓の中に戻ってしまう。それもツタ蔓に再びまといつかれながら、沈み込むのである。

 え、どうしてなの、、せっかく解放されたのだから、僧の読経で成仏して消えてゆくのが、能の常道だろうに、またあの苦しみの恋のなれの果ての世界に戻るのは、なぜだろうか。仏による救済よりも永遠の恋の苦悩をとったのであるか、う~む。
 わたしは意表をつかれたのであった。悲劇のままで終わらせる有名な能は「隅田川」である。「道成寺」とその原型の「鐘巻」もそうである。
 これらは現在能だからそれもありとしても、夢玄能にも悲劇とする作り方もあるのか。パイオニア期の世阿弥と成熟期の禅竹との違いかしら、などと思った。

 世阿弥の「砧」とか「通小町」のように、なんだかわけがわからないうちに主人公を成仏させてしまうよりは、この禅竹の「定家」のほうがよほど正常だし、また近代的思考で考えさせられることがおおくて、観る楽しみがあると思う。
 また観たい能である。

定家 袖神楽 露之紐解 甲之掛
シテ  観世清和  ワキ 宝生欣哉  アイ 野村萬
大鼓 亀井広忠  小鼓 観世新九郎  笛 杉 市和
地謡 梅若玄祥 岡 久広 梅若紀彰 浅見重好 
    藤波重孝 清水義也 坂井音雅 木月宣行
後見 片山幽雪 木月孚行 山階彌右衛門
(二十五世観世左近二十三回忌秋の追善能 2012年10月7日 観世能楽堂) 

●能楽関連ページ
577能「船弁慶」を見た
http://datey.blogspot.com/2012/01/577.html
459義経千本桜を能の目で見る
http://datey.blogspot.com/2011/07/459.html
050能「摂待」と「安宅」
http://datey.blogspot.com/2008/10/noh.html
217野村四郎の能「鵺」を観る
http://datey.blogspot.com/2009/12/217.html
099能幻想の清水寺
http://datey.blogspot.com/2009/02/blog-post_22.html
280能楽師の死
http://datey.blogspot.com/2010/06/280.html
434横浜で琉球のゆったりとした時間
http://datey.blogspot.com/2011/06/434.html
134三代の能楽
http://datey.blogspot.com/2009/05/134.html
070高千穂夜神楽
http://datey.blogspot.com/2008/12/blog-post.html
501杉本博司演出の三番叟
http://datey.blogspot.com/2011/09/501.html
◆能楽師・野村四郎師サイト
http://homepage2.nifty.com/datey/nomura-siro/
◆能を観に行く
http://homepage2.nifty.com/datey/nogaku.htm

2012/10/13

676東京駅復原出戻り譚(その2)今や人気者東京駅の隣で誰も見てくれない気の毒中央郵便局JPタワー


 ようやく腰を上げて、昔の姿で出戻りした東京駅を見てきた。
 実はわたしは見なくても、20年以上の研究知識と近頃のネット情報で、どうなっているか分かっているのだが、一応は見ておかなばなるまい。

 で、現実にはわかっている通りであった。
 だが、ちょっと驚いたのは、なんだか見物客がやたらに多いことであった。南北ホールでは、顔やカメラを上に向けている人がやたらに多い。
 外にもカメラはもちろんだが、東京駅外観を絵を描いている人があちこちにいるのであった。

 たしかに見物に値する異様な景観が出現した。
 ディズニーランドが出張してきたようだというと、けなしていると思う人もいるかもしれないが、わたしは褒めているつもりである。よくぞまあ、コピーをここまで成し遂げたものだという意味である。
でも、わたしはあのホールのデザインは、なんだか好きになれない。前のパンテオンデザインのほうがはるかに良かった。(下図)
南北二つのドームがあるのだから、どちらかひとつは戦後復興の姿で「保存」してほしかったと思うのである。これを戦争直後に作り上げた人たちの努力は、すさまじいものがあったのに、それには敬意を表しないのだろうかと、わたしは不満である。
 参考までに、その人たちの努力を書いたわたしの記事東京駅復興(その1)を読んでください。

 ただ、わたしは思うのだが、わたしのような東京駅に特別の関心のマニア、あるいは建築史に精通した専門家は別として、ごく普通の人々の眼には、この復元した姿がどのように映っているのだろうか。
 こうやって再現した戦前の東京駅を見た人は今やごく少数であるが、戦災から戦後復興した東京駅を見た人は、ごく普通にわんさといる。

 だがさて、その戦後の姿を見てきた人々に、今の姿はそのどこが変わったのか、わかるのだろうか。
 なんだかキレイになったなあ、屋根を葺き替えて壁のレンガもきれいに洗ったなあ、なんてその程度であろうとおもうのだが、いかがか。現にわたしの息子は、そんなことを言っていた。

 これは世の庶民をバカにしているのではなくて、一般に建築への関心はそんなものである。これを読んでいる、専門でないお方たちに聞いてみたい。
 念のために、今回の復原前の姿を載せておく。冒頭の写真と比べてください。

 東京駅に人気に比べて、お隣の中央郵便局の改築(JPタワー)に目を向けている人は、皆無といってよい。誰も写真を撮らないし、誰も写生していないのである。
 こっちだって、あちこちから保存せよとなんやかや言われて、東京駅に負けない苦労して一部保存して、つい先日やっと復元したのに、この人気の落差はどういうことだ、こんなことならぶっ壊して立て直せば苦労しなかったのに、なんて、JPタワーは嘆いているに違いない。
 やっぱり芸者厚化粧姿の東京駅に、モダンすっぴん姿の中央郵便局が対抗しても、庶民の人気はとてもかないっこない、らしい。

 民営化した郵政会社がこれを壊して建て直すと発表したとき、ひと騒ぎあったことを、庶民のだれが覚えているのだろうか。
 建築の専門家たちが、中央郵便局は吉田鉄郎の設計で、日本モダニズム建築のお手本だ、だから保存すべきだと叫んだのだが、東京駅の時ほどの保存の声は庶民からは上がらず、しょせん専門家のコップの中の騒ぎであった。
               (2012年、東京駅と中央郵便局のどちらも復元工事後)

 と、そこに鳩山邦夫さんという切手マニア?が登場、中央郵便局は新発売切手を買いに通った親しい建築であった(?らしい)。
 彼がたまたま時の郵政所管大臣だったので、地位を利用してかどうか知らないが政治介入して、この郵政建築への愛着と保存を言い立てたのだった。
 これに、一般ジャーナリズムが飛びついて、郵政民営化騒動にからめて面白おかしく記事にした結果が、今の形での部分保存復元である。
      (2008年、東京駅と中央郵便局のどちらも復元工事前)

 でも、隣に派手な東京駅ができたら、一般ジャーナリズムはそっちに気をとられてしまった。東京駅はニュースにとりあげても、JPタワーをとりあげないのである。
 庶民はあの時の騒ぎは忘れて、なんだか超高層がもう一本立ったなあと思うくらいなものである。  

 復元した東京駅が好きな庶民は、このJPタワーにはほんとは感謝するべきなのである。
 だって、東京駅の余剰容積率の一部をこのタワーが買ってあげたから、そのお金であっちは復元できたのだからね、その功績者の写真を撮って、写生もしてあげたら、どうですか。
 復原した中央郵便局の内部もご覧ください。あの8角柱がちゃんと立ってますよ。
 
●関連ページ
101東京中央郵便局と保存原理主義
 105中央郵便局再開発と都市計画
522紙ヒコーキ超高層ビル
022文明批評としての建築
093歌舞伎座の改築
585出戻りお目見え近い東京駅姐さんと紙ヒコーキビル

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/10

675のどかな法末集落の初秋風景はいつもの秋と同じようだが実は変化してきている

2012年、初秋の10月初め、法末集落を訪れた。
 5月の田植えのあと、草刈りにも、9月末の稲刈りに来ることができなかったので、4か月ぶりである。
 その間で何かが変わるほどのこともあるまいと思うのだが、やはり変わっていることがある。もちろん自然や農業の風景は変わるのは当たり前だが、人間の営み風景が変わっているのだ。


 では、久しぶりに集落を一巡してこよう。
 わたしたちが現地活動拠点の家(通称「へんなかフェ」)がある地区名は「おじゃんち」と呼ばれる。小千谷道のことである。


              (おじゃんち地区の全景)

 
「おじゃんち」地区には6軒の住家がある。今年はそのうちの2軒の家で土蔵が消えた。豪雪で傾いたので取り壊したのだ。
 そして今年は住む人の一部も変わった。一軒の家では家長がなくなり、年老いた女性の一人暮らしが始まった。これはこの集落では珍しいことではない。互いに助け合って暮らしているし、近くの街に暮らす子や親せきがちょくちょくやってくるのだ。

 この家長が耕作していた棚田を、集落の他の農家やわたしたちの仲間で引き継いだのである。そうやって集落の人々で農耕地を維持していくのである。だが、いつまで続けることができるだろうか。

 おじゃんち地区の中の空き家に、都会から新たな住人が入ってきた。その家からピアノの音が聞こえるのは、法末の新しい息吹である。
 こうして、おじゃんちの6軒の家のうち、3軒は余所からやってきた人が住んでいる。こうやって集落は存続していくのかもしれない。

この続きと全文は「棚田の稲刈りが終わった初秋の法末風景
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hosse201210




2012/10/01

674東京駅復原出戻り譚(その1)これは「記憶を守る」仕業の「保存」なのだろうか

 東京駅の丸の内駅舎、いわゆる赤レンガの東京駅が戦災前の姿になって、今日から正式に出戻りのお目見えだそうである。
 これからしばらくこの「事件」について、世の人々があれこれ言うだろうから、わたしはそれらの世間のウワサをとりあげて、あれこれと戯瓢を連載することにした。

 わたしのこの事件についてのスタンスは簡単である。要するに「もったいないことをしたもんだよなあ」ってことである。
 その理由は「東京駅復原反対論」に書いているので、そちらを参照されたい。

 さて、今朝(2012年10月1日)の朝日新聞東京版には、2面見開きで東京駅の出戻り姿の広告が載っている。
 曰く「東京駅丸の内駅舎保存復原 誕生からまもなく百年。赤レンガ駅舎として親しまれてきた東京駅が百年の時を越え、創建時の姿に。これまでの百年を、これからの百年へ。」  

 あのねえ、これって「保存」って言ってよいのかしら。何を保存したのかしら。
 だって「創建時の姿」って言っても、1945年月20日に丸焼けになっって、残ったのはレンガ壁と鉄骨だけだったのだから、それを「保存」したのだとしたら、まあ、その通りではあるが…。
 だから「創建時」の「保存」はその程度であり、実はそのほとんどは「復原」と称するコピーレプリカである。

 わたしはコピーレプリカが悪いと言っているのではない。
 保全、保存、保護、復原、復元、コピー、レプリカなどなど、いろいろの言い方があるが、「保存復原」とはどういう意味だろうかと聞いているのである。
 ま、現物を見てくださいよ、これがそうなんだよ、ってことなんだろうが。

 でも、1947年にそのレンガ壁を再利用して修復した「復興東京駅」は、戦後復興にシンボルともいうべき存在だった。
 わたしはそれを「保存」してほしかったのだが、残念ながら「消滅」させてしまった。

 同じく今朝の朝日新聞の1面「天声人語」は、東京駅をテーマとしているのだが、このような一文があって、ちょっと引っかかる。
建造物の復元は、そこにまつわる無数の、そして無名の記憶を守ることである

 これは文脈からいって、東京駅の復元を賛美しているらしいが、ちょっと待ってくれよ。
 JRがいうところの「保存復原」という「復元」(ややこしい)によって、あの戦災の悲劇とそこからの復興という「そこにまつわる無数の、そして無名の記憶を」継承してきた記念的な姿を「守ること」なく、消し去ってしまった、わたしはこう思うのである。
 うっかりすると美名に聞こえる「復元」という言葉に、うっかりひきずられてはならない。

 とはいいつつも、今こうやって東京駅は創建時の厚化粧姿で出戻りして、歴代4つ目の姿で次の歴史を歩みだしたのである。
 それなりの歴史の記憶をひきずりながら。 おめでたいことである。

参照→東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/09/30

673赤レンガ東京駅が戦災前の姿に厚化粧して出戻りしてきたのはどうして?


 明日(2012年10月1日)から、東京駅丸の内駅舎が新しくて古い姿で正式登場だそうです。その東京駅については1988年に、建て替えて当然という時代の中にありながら、国の方針として保全継続使用方針を決めたのでした。

 それからず~っと、わたしが提唱してきたことは、保全継続使用にあたっては1947年からの姿を本旨とすべし、戦災前の姿に復元するな、ということでした。
 なぜなら、復元すれば、悲惨な戦火による焼失とそこからの復興という、日本のもっとも重要な時代の記念碑が失われる、わたしたちが生きてきた戦後の歴史の証人が消えるからです。

 それが今、継続保全せずに、なぜ戦前の姿のほうを選んで復原(復元)したのか、問題提起したいのです。
 1947年からの姿の歴史的意義を、きちんと評価したうえでの復古再現コピーの選択だったのでしょうか。

 あれは一時しのぎの仮の姿としてつくったから、ようやく本来の形に戻したのだという世間のウワサがあります。
 本当に一時しのぎの工事ならば、それがどうして60年も保ったのか不思議に思い、これを修復した人たちの苦労話を読んでみました。

 それは、あの戦争直後のまったく物資のない時代に、もう頭の下がる実に頑張りすぎるほどの大変な仕事ぶりでした。
 ご参考までにそのことを書いた東京駅復興(その1)(伊達美徳)をぜひ読んでください。  

参照
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/09/27

672男も女も電車でお化粧大道芸の時代が来たか

 地下鉄で座っていたら、前に立つ人が窓を見つめてしきりに、手を振っている様子である。
 外は暗闇なのになにしてるんだろうと見上げたら、若い男が手を振ってるのじゃなくて、窓ガラスを鏡にして、しきりに前髪をかきあげかきおろしして、いつまでも恰好を整えているのであった。

 おやおや、男も電車の中で化粧する時代が来たか。
 そういえば、そういう男を何回も見ている。カバンからやおら櫛と鏡を持ち出して、何やら遣り出した男の高校生らしいやつも見たことがある。

 それにしても、女が電車の中で化粧しているのを見るのは、楽しい。
 すっぴんのオカチメンコが、なんだかいろいろな道具や器械をカバンから取り出して、自分の顔に仕上げ工事をほどこしていくうちに、みるみるそれなりに見られる別の顔に変わっていく。
 これって、大道芸そのものである。
 
 こうなると男も電車の中で、オシロイをなでつけたり、つけまつげをいじったり(ペンチをつかっている)、口紅を塗りたくる日が来るのは近いな。
 毎朝、男女で競ってやっていただいて、電車の中を楽しませてほしい。芸の内容によっては、投げ銭をしてもよろしいですよ。
 そう、世は男女均等化粧時代なのである。

 実は白状すると、白内障の手術をして、視覚が明瞭になったら、鏡の中の自分の顔の老醜がはっきりと見えて、これは化粧するしかないかなあと、思ったのがつい最近のこと。
 そうだ、化粧品屋は男の老人を市場として開拓するといいですよ。
 そう、老醜の男も電車の中で化粧をするのである、、キモチワルイカ、。

2012/09/25

671やっぱり名ばかりマンションは地震被災の根源のような気がする

被災マンション解体滞る」との見出しが、2012年9月24日の朝日新聞東京版社会面にでている。
 東日本大震災で被災した区分所有型共同住宅ビル(いわゆるマンション)を、建て替えるために取り壊さなければなない(解体という言葉はおかしい)のだが、所有者の全員同意ができなくて、多くのその類の建物が立ち往生しているというのである。

東北6県の分譲マンションの6割が集中する仙台市では約210棟が全壊・大規模半壊となったが、解体が決まったのは5棟」とある。
 そんなことが起きるのは、とっくに阪神大震災でも姉歯事件でも経験して、だれもがわかりきっていたことである。
 所得、年齢、資産、加速構成、生活感など千差万別の、もともと知らないどうしの大勢の人間が、ひとつの運命共同体に無理やりに乗っているのだから、こういうことになれば一致するほうがおかしい。

 それなのにいまだに「分譲マンション」(正確には区分所有型共同住宅ビル)なるものをつくって売るやつ、ほいほい買うやつ、どちらもいけない。
 そんな「名ばかりマンション」(マンションとはもともと大邸宅のこと)を容認するどころか、容積緩和とか優遇税制などで支援する政策があるのが間違っている。

 日本の住宅政策はまったくなっとらん。即刻、「名ばかりマンション禁止法」をつくるべきである。
 だって、今度やってくる南海トラフとかいうやつの大揺れでは、これまでとは比べ物にならないほどの区分所有型共同住宅が被災するに違いないからだ。
 大量の「マンション難民」が発生する前に、即刻、禁止の手を打て!。

 で、解体できないのは全員同意の法律のせいだから、これを全員でなくても取り壊せるように法整備しようという動きがあるそうだ。
 でもねえ、全員同意しなくても取り壊すことができる様に法律的にはなったとしても、実際の現場はやっぱり調整は大変だし、それなりの買い取り補償金が必要だろうから、法を替えたって容易ではないはずですよ。そんな小手先技で解決する問題ではないだよ。

 そもそも、広い敷地をわざわざ猫に額ほどの持ち分に分割して所有する制度にするから、こういうことが起きる。
 そしてまた、賃貸借住宅に対して政策が冷たいからこういうことになるのだ。

 区分所有型共同住宅ビルは、区分所有を解除して組合による一体所有に転換して、管理所有一体型の賃貸借住宅に転換するする政策を推進するべきであると思う。それまでの区分所有者は組合員として持ち分相当の債権を持つのである。
 ここから先は私にはわからないから、これの実務的なことは専門家に考えてもらいたい。
 

 とにかく区分所有型共同住宅ビルは地震被災の社会的諸悪の根源である。
 言いすぎかな、だんだんと過激になってくるなあ、ほんとはね、ほれ見ろ、だから俺が言ってきたとおりじゃんかよ、っていいたいのだ。
 ●参照「くたばれマンションhttp://homepage2.nifty.com/datey/kyodojutaku-kiken.htm

 
(写真は本文とは直接には関係ありません、いや、あるかもなあ)  

2012/09/24

670半世紀ぶりの名古屋大学でキレイすぎる豊田講堂に再会

 先日(2012年9月13日)のこと、ほぼ半世紀ぶりに名古屋大学を訪れた。1963年の1年あまり、この近くのアパート暮らしをしたことがあり、散歩にちょくちょく訪れた。
 1960年に日本の建築界で話題となった名古屋大学豊田講堂ができて、建築家・槇文彦の日本での出世作となった。

 建築学生だったわたしも、そののびやかなスケールと、どこかル・コルビュジェを思わせるボキャブラリーにイカレタのであった。
 その現物が住まいの近くにあったのだから、訪れて感銘を受けたような気がするのだが、忘れていた。

 半世紀ぶりに訪れて思い出しつつ見る豊田講堂は、この間の歳月を忘れているような、あまりにキレイな建築であった。つい最近建てたかのように新しく、まるで原寸模型のようにシャキッと建っているのである。
 聞けば、最近のことだが大修繕したのだそうだ。荒れていた打ちはなしコンクリートの肌を、新技術で打ち直したのだそうだ。それが最も目につくのであった。

 そしてその再生打ちはなしのコンクリートの肌が、どうみても木目模様をプリントした壁紙を貼りつけたとしか見えないのだ。あまりにキレイすぎる。
 そもそもコンクリートの打ちはなし表現というものは、コンクリートという力強い素材をもって力学を視覚として表現するための手法だろうと思うのだが、こうもキレイでよいのだろうか。
 これを設計した槇文彦はどう思っているのだろうか。わたしは違和感をもって見たのであった。

 そのコンクリート肌の修復の技術そのものは評価するとしても、歴史的建築を修復するときの適用は、どう考えればよいのだろうか。豊田講堂ができたばかりの当時の姿を私は見ていることになるのだが、こんなにキレイであったかどうか記憶にない。
 だが、キモチが悪いほどのキレイすぎる修復はどんなもんだろうかと、見ながら思ったのであった。

 全体ののびやかな姿は、立地条件に恵まれて今も美しい。
 その遠目の構成はよいのだが、近くのよってみると、大仰な柱梁架構の表現が、大時代的な記念物の表現に見えて、わたしは好きになれない。
 柱と梁のナマな取り合いが、どうもこなれていない感がある。今の槇文彦なら、もっとうまく処理するだろう。
 機能的に新たなものが必要になったのか、裏側にガラスの建築がくっついている。講堂とはまったく異なる表現で、講堂への敬意をもっていることが宜しい。

 昔にわたしが散歩したころは、こんなに建物はたっていなかった。周りは雑草地に灌木がたくさん生えていて、野山の風景だったような気がする。
 いまはいかにも新しい建物もたち、大学らしいキャンパスになっている。でもわたしが参加したパネルディスカッションの教室は、かなり古そうであったから、半世紀昔に散歩したころにもあったのかもしれない。

 思い出せば、半世紀前に住んだその木造アパートは、東山動物園が近かったから、なにやら吠える声が時々聞こえる静かな住宅地だった。 2階の6畳間と3畳間のつつましい二人だけの生活は、やがて男の子が生まれて3人となった。
 申し込んでいた公団住宅の抽選に当たって郊外の新しい団地の2DKに移ったのは、アパート住まいが1年ほどたった後であった。
そのアパートあたりの半世紀後を見ようかと思ったが、時間がなかった。あのアパートが今もあるはずはないが、そばにあった千代保稲荷神社は健在であろう。    

2012/09/23

669東京のビルの谷間の由緒ある神社の夏祭りは再開発でどう引き継ぐのだろうか

 東京は文京区、後楽園ちかくの街の中、道端でピーヒャラドンドンとにぎやか、神輿が出ていて、獅子舞が踊る。江戸の伝統の太神楽もやっている。
 
超高層住宅ビルもあれば、木造の店や中小のビルが混在する街、大勢の大人は缶ビールと焼き鳥を握り、母親と子供はアイスやたこ焼きを抱えて、細い道やまちかど広場をうろうろしている。わたしもその一人となった


 聞けば白山神社という伝統ある神社の祭りだそうである。氏子中は広いのでどこにその神社があるかわからないが、あちこちの氏子町内で祭をやっているらしい。
 ここにも神輿は大小幾つも出ているし、各町内にそれぞれあるのだろうから、神様は身をいくつかに分けてお出ましとあって、忙しいことである。
 この街も実は市街地再開発事業が計画中とて、いずれ超高層ビルの街になるらしい。その時にこの祭りを空間としても新コミュニティとしても、どう引き継いでいくのか、興味深い。