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2024/04/04

1808【三島・湧水の街と観光と】富士の白雪が解けて流れて湧き出る街に生活と湧水の景観を見に

●ノーエ節の街へ

♩富士の白雪ゃノーエ~、富士の白雪ゃノーエ~、富士のサイサイ、白雪ゃ朝日でとける~、ソリャとけて流れてノーエ~、とけて流れてノーエ~、とけてサイサイ、流れて三島にそそぐ♩

 これは民謡の「三島ノーエ節」の出だしであり、幕末の野毛節の元歌であるらしい。この続きに三島女郎衆が出てくるのだが、まあ、鉄砲が出てくる野毛節よりは平和でよろしい。
 コロナ明けの春の初旅は、駿河の三島に行ってきた。あいにくの天候で富士は見えなかったが、その白雪が解けて地中を流れ下って湧き出す水の流れる街を見てきた。

●源兵衛川を歩く

 源兵衛川がその代表的景観であるらしい。そして観光の目玉であるらしい。わたしは観光的な場所には興味はないが、いくつかの生活と川のとりあい景観をのせる。

源兵衛川はの駅前の楽寿園の湧水を水源とする自然景観の流れ
川の中の遊歩道へ導入部 幽谷景観だが背景に高層建築があるように実は街の中


源兵衛川の修景された景観 暮らしと水の接点の井戸手押しポンプ

生活と水と接する仕掛けの橋、階段、石垣、かつての洗濯場等の修景的景観

源兵衛川下流部の水と生活とが背を向けあう原風景的景観 
無理矢理に通す
水路内を観光遊歩道が川を汚す行為を防ぐか

●蓮沼川を歩く

 三島の街の中には湧水の流れがいくつかあるので、少し見てきた。蓮沼川はいかにも街中の川らしい表情である。かつては家々に水を引き込んでいたかもしれない。あるいは家々の前に洗濯場があったかもしれないと、偲ばせる。観光の景観ではない。
生活景としての蓮沼川 源兵衛川と同水源で並行する流れだが全く異なる景観


蓮沼川には私設の橋が多く架かる 金沢の鞍月用水を思い出させる
 
蓮沼川の堰

●御殿川を歩く
 
 さらに、源兵衛川とは湧水源を異にする御殿川の上流部も見てきた。まさに街の中を流れる川で、生活景観の川であるようだ。

御殿川の水流、このビルは湧水の流れに囲まれる

白滝公園の御殿川の中の建物

御殿川と街並み景観 このありふれた修景が好もしい

●水の街の都市再開発

 もう一つ三島の街の水環境に関して重要な場所も通りすがりに見た。それは三島駅南口東街区再開発事業地区である。これが三島の湧水の水脈を断ち切るおそれがあると、市民の再開発反対運動に直面したことは、かなり前に聞いていた。いかにも水環境の街三島らしい再開発反対運動である。

 地元の知人の話では、富士からの水はポーラスな地下溶岩を透過して流れ下るのである。かつて駅の北側に大工場が建ったころに、あるいは新幹線ができたころ、三島の街の湧水が枯れたことがあったそうだ。それらの地下構造物を地中の溶岩を掘って作ったために、水流を遮断したのであった。再開発ビルも同じ恐れがあるということで反対運動になった。

 経緯は知らないが、ネット資料によると昨年2023年末に事業認可から権利変換認可までも進んだそうから、再開発工事にGOサインが出たことになる。その水流対策は再開発建築が地下水脈を切断しないように、地下の溶岩に建築基礎をのせるという。それよりも下の地中には建設をしないから溶岩内を流れる水を遮断しないということらしい。現地で外まわりから見きた現場の様子は、既存建築群を撤去中だったから工事に着手していた。これからは現地と周辺の湧水モニターが常に監視するのだろう。

●水の街とノーエ節と

 実はもう30年も前になるだろうか、三島の街を訪れて富士の湧水の様子を見たことがある。あまりに昔で記憶が薄れているが、三島グラウンドワークなる活動団体の案内であった。かつてどこの街でもそうであったように、三島でも湧水豊かに流れる水路はドブ川だったが、この団体が三島の水環境の再生活動を始めたころであった。

 その後はどうなっているか見たかった。グラウンドワークの活動は成功しているようで、美しい水環境の街として三島は有名になっている。そこで久しぶりに見たかったのは、特に水環境再生と都市生活そして街なか観光がどのように折り合っているのかであった。結果的には、眼で見ただけではよくわからなかった。

 なるほど三島は川の街として環境再生してるようであったが、そもそも水の姿は千差万別で空中、地表、地中を動き回り、動植物の体内を通り抜けて、産業や生活にあらゆる場面に登場し、眼で見てすべてがわかるようなものではない。富士山から三島に流れて駿河湾にそそぎ、また蒸発して富士の高嶺に戻り、また解けて流れ下り、、、。

 そうだ、これは冒頭に書いたノーエ節である。「♪富士の白雪やノーエ・・・娘島田は情けで解ける・・・解けて流れてノーエ・・・♩」というように、これがエンドレスの歌であるのは、水循環を意味していたのであったか、そんな意義深さをひそめる歌であったとは、、、さすがに水の街三島である。

 わたしが訪れた川の水と生活が融和する景観の街は、内外に多くあった。日本での印象的な街は、滋賀県高島市の新旭町飛騨古川町、福岡県柳川市などがある。外国ではベネチアは別格だが、印象に残っているのはアムステルダムトレヴィゾである。
 
トレヴィーゾ 街の風景 1995年

トレヴィーゾ 橋の広場 1995年

 三島の街なかを歩いているときに「農兵節資料室」と看板を掲げる店舗に出くわした。のうへいせつ?、アッ、そうか、おお、富士の白雪の~えのあのノーエ節は、実は農兵節と書くのであったか。店を覗きこんだら、なんとまあゴミ屋敷だった。あの有名なノーエ節の資料をたぶん私的に蒐集公開していらした川口洋服店の店主氏は、どこにどうされたのだろうか。
 ということで、エンドレス民謡ノーエ節に倣って、冒頭のその歌の話に戻った。(20240404記)

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伊達美徳=まちもり散人
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2024/03/16

1803【横浜寿町の変化】ドヤビル建て替え進化と一般共同住宅ビルの進入でドヤ街は変わるか

●横浜寿町ドヤ街のこと

 簡易宿泊所が多く集まる街「横浜寿町地区」は、横浜市中区寿町や松陰町などの都心部の一角を占める。ちょっと見ると安ホテルのような高層ビルが立ち並んでいて、普通の街に見える。

 だが、いわゆるドヤ街と隠語で言われるように、ホテルとは段違いに格が下がる超安価な宿屋ビルばかり立ち並ぶ地区である。その安宿に事実上は住み暮らす人々は約6千人、その約8割は生活保護対象の単身高齢男性たちである。その宿賃は標準的には1泊1700円だが、普通の宿屋と違うのは水光熱費は別支払いだ。

 この街がここに生まれたのは、いかにも横浜らしい戦後史を背負っている。かつては横浜港での働き手の若者たちの街であったが、そのまま老いて今は福祉対象の高齢者の街になっている。中層の古いドヤビルは次第に建て替えられて高層ドヤビルになりつつある。それは単に老朽化への対応ではなくて、居住者が高齢者に変化したことでの機能的変化への対応でもある。

 それにつれて街も次第に変化してきている。街路に面しては飲み屋も多いのだが、近年にになって特に増えたのは高齢者福祉関係施設である。これだけ多くの高齢者たちが集中的に住めば、介護関係施設が軒並みに登場するのは当然である。まさに高齢者しかも貧困層の街になっている。

 街の変化はドヤビルの高層建築への更新が顕著な一方で、別の方向も見られるようになってきた。それは一般住民対応とでもいおうか、いわゆる一般共同住宅ビルも登場するのが顕著にもなってきていることだ(参照ードヤ街のマンション)。それは区分所有型分譲共同住宅ビル(いわゆるマンションだが、わたしはこの誤用和製英語を使わない)、あるいは賃貸借共同住宅ビル(1棟の各住戸すべて賃貸借型住宅)である。ドヤばかりでない街に徐々に変わりつつある気配がある。

●ドヤ街に一般共同住宅ビル登場

 立地が横浜都心の一角であり交通も生活も便利だから、一般住宅需要があるということだろう。ドヤビルを立て直すにあたって、一般共同住宅に変化する傾向も見えてきた。寿町のまさに中心部である寿公園の斜め前の街区にあった3棟のドヤビルが、1棟の一般共同住宅に建て替えが進行中である。10階建て61戸とてたぶん分譲だろうがついにここまできたか。

左向こうが寿公園、手前右がドヤビル跡に建設中の一般共同住宅

 そしてつい最近、新しい賃貸借一般共同住宅が、寿町地区の南入り口の長者町通りに竣工した。その近くには新しい高層ドヤビルもあるのだが、明らかに姿が異なり、それがドヤ街地区の外観イメージを一般の街イメージへと変えていくことになるだろう。

長者町に防火建築帯ビル建て替え新築賃貸借共同住宅ビル 背後は首都高高架道路


 それが建つ以前のそこには、戦後横浜復興期の市街地建築である防火建築帯ビルが建っていた。3階建てで1階は店舗で上階は共同住宅であった。長者町通りにはこの種の防火建築帯ビルが軒並みに立ち並んでいたものだが、さすがに70年もたつと、ほとんどが建て替えられて、残るはもう10指にならぬくらいだ。

戦後復興期の防火建築帯ビルとして建っていた従前建築

 この新築賃貸借共同住宅ビルの敷地は、南側を底辺として北東と北西を2辺とする三角形である。そして出来上がった住戸のほとんどが北東と北西向きで、日当たりが実に悪いことだ。なぜ常識的な南向き住戸を避ける配置にしたのか。

左下赤枠が新賃貸借共同住宅ビルの敷地の位置 (上が北)

 それは敷地の南側には首都高速の上下2段2階建ての高架道路があるからだ。南面だから陰になるし、高架道路から騒音と排ガスが昼夜とも押し寄せて、相当にひどい環境である。もしもこの高架道路がなけば、そこには中村川が流れているから、こちらにこそ住戸が向くべきであったはずが、道路に乗っ取られてしまっているのだ。

 この環境では分譲住宅にしても売れないので、賃貸借住宅ビルにしたのであろう。この高架道路は寿街地区の南側を覆うように横たわるのだが、ドヤという底辺居住悪環境にはそれでも耐えうるものであったのかもしれない。いや、それだからこそドヤ街が成立しえたのかもしれない。

 ところが今や、都心部の住宅需要が伸長してして、このような悪環境でも需要と供給が成り立つ関係になってきたということだろうか。たしかに、ここより西部の高架道路沿いにいくつか新しい共同住宅ビルが建ってきている。さぞや、住みにくい住まいだろう。

 ところで、東京の日本橋のあたりの首都高速道路の高架を、地下に入れてしまう工事が進んでいるそうだ。それならば、その次は横浜のここ中村川上空の高架道路を、地下道路に改造するに違いない。そうすれば横浜都心部の居住環境は格段に回復する。おおいに期待をしている。(参照:横浜首都高地下化

(20240316記)

参 照
1690【横浜寿町の変化・1】横浜都心部の関外にある貧困ビジネス街はどう変わりつつあるか2023/06/10 https://datey.blogspot.com/2023/06/1690.html

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伊達美徳=まちもり散人
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2024/02/07

1790【マンション名称】建物をマンションと詐称するだけあって地名も詐称する共同住宅

  ずいぶん久しぶりに雪が降り、しかもうっすらと積もった。南関東あたりでは大騒ぎである。北国の人々にいつものように嗤われているだろう。
 わたしも中越の山村に行かなくなってもう10年くらいだろうか、あの山村の雪は4mも積もる豪雪そのものだった。雪国育ちでないわたしは、人間はこのような酷な気候でもよくもまあ暮らせるものなんだなあ、と感心した。

 ようやく天候回復で街並み探訪徘徊も再開だが、日々に足の力が衰えるのを感じる。コロナ後にようやく建設が動き出した感のある横浜都心部街歩きは、街並みの変化を楽しむのだ。今日は昔々の遊郭だった街の中心にある通りを歩く。

 中央分離帯には桜などが大樹となって、ミニ公園通りである。かつては両側は紅い灯でにぎわっていたのだろうが、今は静かな住宅街である。


 おや、こんなところに共同住宅ビルの建設が始まった。でもこの土地のまわりは、前面道路の側だけは空いているが、他の3方はどれも高層共同住宅ビルに囲まれている。この敷地に共同住宅を建てても、ほとんど日照を期待できないはずだ。

道路のほか三方(東西南側)を高層共同住宅で囲まれた敷地

 そのような住宅でも売れるのだろうか。「マンション」と誇大言葉で日陰住宅を売るのかしら。しかも、ここのあたりは70年前まで迄は横浜遊郭とて、いわゆる赤線街だったところである。今は静かで便利な都心部の住宅街だが、かつての地域イメージを拭うのはなかなかにむつかしい。

 このあたりはかつての仕舞屋風の赤線名残の家々は次々と消え去り、いわゆるマンションなる高層共同住宅に建て替わってる。歩きつつそれらマンションなるビルの名称を読んでいて、おもしろいことに気が付く。どうも地域名をつけるのを避けているらしいのだ。

 このマンションの類のビル名称のつけ方は、ある程度の約束事があるようだ。まずはカタカナでなにか高級そうな言葉をあてて、そのあとに地名を続けるのが、ポピュラーな方式であるらしい。ここが永楽町とか真金町とかいうおめでたい町名だから、ビルの名に積極的に使っているかと言えば、そうではないらしいのだ。

 とりあえず歩いている昔の遊郭外の中心の道路(なんという名称か知らない)に面する、共同住宅の名称を拾ってみた。上の写真のように看板を撮ったが他にもまだまだある。どうやら「大通公園」が人気地名であるようで、中には「・・大通公園南」とあるそばに「・・大通り公園西」と名付けるものもあって混乱する。

 これを見てわかるように、正しいここの地名をビル名に充てているのは「アブニール永楽マンション」と「スカイコート横浜真金町」2棟のみであった。そのほかにもたくさん採集したが「・・大通公園」とか「・・伊勢佐木町」とか、この町の外にある地名をつけている。

 大通公園は隣だが、この公園は元が川だから長すぎて位置決めにならない。伊勢佐木町は鎌倉街道を挟んで差に無効だから、かなり離れている。「関内」とつけているものもあったが、駅名にせよ地名(正式にはこの地名はない)にせよ、あまりに遠すぎる。それで初めての来客が迷うことはないのだろうか。

の位置に遊郭時代に大門があった 黄の位置に遊郭時代からの大鳥神社
この二つを結ぶ道が遊郭の中心部 共同住宅名はこの道沿いから採集

 マンション(庭園のある豪邸のこと)でもないのにマンションと詐称して売るのだから、地名だって大通公園とか伊勢佐木町とか、横浜でイメージが高いところを勝手に持ってきて、地域イメージも詐称するのだろうか。どこでもよいのなら「山手」とか「みなと横浜」とかつけてはどうか。普通の神経なら自宅をマンションというのも、わけのわからんカタカナも恥ずかしい。ファーストクラスとはすごいネーミングである。

 それにしても共同住宅ビル名は、わけのわからん外来語とカタカナ造語で不思議だ。わたしの住む高層共同住宅も、花の名前?らしいカタカナであるが、実は日常生活でその名を使うことはめったにない。地名と地番と建物番号で間に合っている。

(2024/02/07記)

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伊達美徳=まちもり散人
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2024/02/01

1788【コロナ三密忘却日本】東京圏に人口集中し観光地に外国人集中しコロナ再発容易な日本列島

●コロナ終わればまた集中する人間

 コロナが終わろうとして、またまたコロナ前の状況がいろいろと戻ってきているそうだ。それには割ることもよいこともある。
 その一つは、外国人観光客の流入が著しく増加して、またもや観光公害ーいまどきは格好つけてオーバーツーリズムというそうだがーが起きてきているという。これは短期的人口移動が繰り返し起きていることと言えよう。

20240118朝日新聞より

 観光事業者にはよいことだろうが、観光地に住む人にとては望ましくないことだ。わたしが鎌倉に住んでいたのは22年前までだったが、わたしの家のような谷戸の奥の住宅地にも、観光客らしい人々が来て玄関前で弁当を食うなんてこともあったようだ。

 もう一つの顕著になってきたことは人口の東京一極集中という長期的人口移動である。総務省の発表によると、2023年の東京圏の転入超過人口は、19年以来9年ぶりに10万人を超えて、東京一極集中が顕著になったとのこと。ま、仕方ないかな、コロナで移動の抑制が起きていたのが、タガが外れたということだろう。

 東京への一極集中は、生活環境が悪化して嫌われてきていたが、今や集中が集中を誘うのはなぜだろうか。集中生活圏形成の方法が上手になってきたのだろうか。例えば再開発事業のやり方とか、交通機関の新設とかだろうか。よくわからない。

(総務省サイトより)

朝日新聞2024年1月31日より

 上のグラフで東京圏の上への突出ぶりで、「東京・神奈川・埼玉」、「大阪」・「福岡」という3圏域集中状況がよくわかる。だが、気になるのはその反対の下に突出の様子である。つまり集中の反対の転出の超過する地域である。

 それらは集中よりも全国に分散しているが、それでも中国地方の広島と岡山、関西地方の兵庫、東海地方の愛知、静岡などの、その地方の中心的な県の人口転出ぶりが気になる。今後中央新幹線が開通すると、これらが更に進むのか、反対に鈍化するのか、どう変化するのだろうか。あるいは能登地震がどう影響するだろうか。

●コロナ禍の集中災禍を忘れた人間

 わたしはこのような状況から考える。人間はどんな災厄に出会っても、ほとんど反省しないのだなあ、ということだ。それはコロナパンデミックにおいて、最もよくないこと避けることは大勢の人間が密に集まることであったはずだ。三密なんて仏教用語を意味を替えてまで流行させて、密な集合行為を避けることを強要したのをもう忘れたのだ。

 観光産業振興とて、コロナにかかっているかもしれない外国人観光客を大勢招き入れて観光地に密に集中させているが、これはコロナ禍中は最も避けるべきことだった。しかし今はこれがもっとお必要なコロナからの復活策であるらしい。そういうものなのかしら。
 あるいは東京圏への顕著な人口集中が再び起きている。都市再開発を進めて人口集中をさせる政策促進は、コロナ禍のときは人口分散こそが災禍を避ける行動であったはずだ。

 つまり東京圏には居住者を一極集中し、全国各地にある観光地には観光客を集中し、日本列島は中心部の周縁部も三密状態が再現しつつあるというのだ。コロナから見ると再び蔓延への道筋をつけてくれていると喜んでいるに違いない。

 コロナが去った(らしい)とになると、とたん真反対の政策になってしまった。あの時の三密禁止は、コロナが存在するときにやればよかったことなのか、コロナがいないとその必要はないのか。もうコロナは地球上から消えたのか。

 次にコロナが発生したら、人間はまたもやあの時の騒動から始めることになるに違いない。それまで何年かあるるのだろうが、その間に人間はコロナを忘れて、繁栄すればそれで幸福なのである。これってもしかしたら、そろそろ地球上の人間が過飽和になろうとする時に起こる「終末期のヤケクソ行動」が始まっているのかもしれない。 そのあとに来るコロナでどうなろうと、今の人間は関係がないってことだ。

 それならそれで、わたしも今のうちに楽しんでおいてから死にたいものだ。(20240201記)

(2024/02/03追記)
 
今朝の東京新聞に、関東一都三県のコロナ感染者数につき、去年5月からの動向を示すグラフが載っている。昨年夏の第8波がおわり、12月から今年にかけて第9波が押し寄せているのだ。


 この右上がり尻尾のコロナ第9波は順調に上昇するにきまっている。だって、去年の第8波の時と違って、今じゃあコロナを忘れて街は三密だらけだものね。横浜中華街なんて超混雑して、店は食い物屋ばかりだし、だれもかれも歩き食いしているし、マスクしてる人はほとんどいないし、さてさてこの先がタノシミだなあ。

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伊達美徳=まちもり散人
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2023/12/14

1763【防火建築帯の変身】横浜都心部の戦後復興建築の建て替えに見る時代の変化

 横浜都心部は、戦災と占領で疲弊しきった街に活力を回復する街づくりをやっていた時期がある。政府は1950年前後の頃に、耐火建築促進法という不燃都市づくりの助成制度を作って、全国各地の中心部に共同建築による商住共存の共同建築建築を促進した。その帯状に煮立てて行った建築群を「防火建築帯」という。

 横浜市は都心部に計画的に防火建築帯を造成して、商業と居住の場を再生していった。生であり、いまも関内、関外に多く建っていて、街の姿の基本的景観となっているところもある。特に伊勢佐木町とか長者町などのメインストリート沿いに多い。そして時代の変化につれてそれらは徐々に建て替えられた来た。

 その中のひとつ「長者町8丁目共同住宅」が最近に建て替わった。もとは1~2階店舗、3~4階が県公社住宅であった。それはよく見ると、なかなかにモダンデザインであったが、あまりに汚れて一部には破損も見えていた。複数地権者による厩割共同ビルだから、建て替えるには話し合いが難しかったのだろうが、ようやく建て替え工事が終わり、開業したのだ。
 このビルのことはこのブログにかつて書いている。https://datey.blogspot.com/2013/06/797.html

建て替え前の長者町八丁目共同ビル 2013年撮影
 
上の共同ビルの建て替え後の姿
 建て替わったビルも地権者の共同建築かどうか知らないが、一体として8階建ての高層ビルとなった。上層部は住宅で下層部が店舗・事務所らしい。その使い方は基本的に元の共同ビルを継承していると言えるが、その都心立地がそうさせるのだろう。
 
 かつて都市の住宅難時代に対応して県公社住宅を上層階に、そして低層階には地権者たちの店舗などの商業施設であった。そして県公社住宅も地権者やその店員たちが優先して入居し、更に若い都市住民が入居したであろう。彼ら戦後復興を担った。県公社住宅はその後に地権者たちに譲渡された。
サ高住の看板

 ここでの建て替え後の住宅は、サ高住つまりサービス付き高齢者向け住宅である。かつては若者であったのが今は高齢者であるのが、これもまさに時代の要請である。
 サ高住のほかには、1階にはドラッグストアが入った。薬品、日用品、食料品などを扱っており、これも時代に対応する業態である。元あったような飲食店がない。ほかに何が入っているのか分からない。

 それにしても、サ高住のパンフを見ると、高価なものだなあ、歳取るのも大変だよと、身に染みてため息が出る。最も狭い18~19㎡の1人部屋で月に家賃等で15万円余、2人部屋55㎡で同27万円。もちろん食費は別である。
 それにしては建築デザインが安っぽくて詰まらないなあ。

 これまでのこのあたりの防火建築帯の建て替えは、多くが分譲型区分所有共同住宅(いわゆるマンション)で、一部に店舗がある床利用だったが、これからはこのような福祉型の施設が入る時代がきていると気づかされた。そういえば3丁目に数年前に建ったビルも、下にクリニックや薬局、上にナーシングホームである。

 そしてもう一つ大きな違いは、分譲型ではなくて賃貸型であることだ。実はこの近くでわたしが住む共同住宅も、伊藤全てが賃貸借方の住宅だ。わたしは分譲型には昔から大いに疑問を持っているから、21年まえに鎌倉の戸建て自宅から移転するときにこれ選んだのだ。
 そしてこの近くに、これも防火建築帯の建て替えだが、分譲ではなくて一棟全部が賃貸住宅の高層ビルが2棟も最近建った。都心徘徊途中に賃貸住宅と表示する工事中のビルがいくつかあることに気が付いている。これも今の時代をあらわす住宅の傾向だろうか。
(20231214記)
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伊達美徳=まちもり散人
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2023/11/24

1748【東京再開発】巨大再開発「麻布台ヒルズ」で荷風さんが愛した谷底の路地群が消えた

 東京の街は意外に起伏が多い。水はけがよくて乾燥している丘の上には金持ちが住み、水はけが悪くてジメジメした谷底や傾斜地には貧乏人が住む、という様に昔から住み分けてきたようだ。

 永井荷風が戦災で焼け出されるまで住んでいた「偏奇館」となづける家は、麻布市兵衛町の丘の上だった。その目の下には我善坊谷と呼ばれる谷底に小さな家々が身を寄せあう路地の街があった。荷風は愛人をその路地の奥に「壺中庵」と名付ける家に住ませ、三年坂を上り下りして通った。これついては当ブログに以前に書いた(「永井荷風をだました女」)。

 現代になって地価が高くなって、海を埋め立てて土地を広げるとともに、急傾斜地でも谷底でも土木技術で伐ったり埋めたりして街を広げた。この谷や丘の切り崩しは、いわば陸の埋め立てである。
 その丘や谷の埋め立て街づくりの典型が、六本木あたりでデベロッパー森ビルが進めてきた再開発である。その森ビル式再開発は初めは点だったが、次第に広くなってきた。

 今日の新聞に、「麻布台ヒルズ」なる超高層ビルが開業したとある。そして東京版には見開き2面広告「AZABUDAI HILLS」が載っている。
 このあたりは永井荷風が住みうろうろと坂道を行き来したが、きれいさっぱりと荷風の風景は消え去って、彼が毛嫌いしそうな明るすぎる風景が出現した。荷風とヒルズの取り合わせが面白い。

麻布台ヒルズの新聞広告 20231124朝日新聞東京版

麻布台ヒルズ開業記事 20231124朝日新聞東京版

我善坊谷谷底街へ下る三年坂は荷風さんが通いつめた道だったか 2013年7月10日
 

 わたしはこれに何も関係ないが、あのあたりの街には興味あってよく歩き回ったものだ。森ビルが次々を街の姿を変えていく様子を、その最初の「アークヒルズ」再開発のころからしげしげと見ていた。一時は森ビル主催の「アーク都市塾」の講師として通っていた。

 今日の新聞ニュースの焦点は、高さ330mの日本一高い「森JPタワー」ビルである。それが大阪の「あべのハルカス」を追い抜いて、東京に日本一のビルが戻ってきたという俗受けする話である。
 もっとも、直ぐ近所の「東京タワー」を地盤の高さのゆえに追い抜いたこととか、その日本一もそう遠くないうちに大手町に移ることを書いてない。高さは庶民に最もわかりやすい開発風景だ。

 これは単独のビルが建ったのではなくて、広い範囲の再開発事業として、3本の超高層ビルや道路や広い緑の空間を作ったのが特徴である。これは現今の話題の神宮外苑再開発と同じ手法の市街地再開発事業である(ただし内容は月とスッポン)。
 1989年に再開発に乗り出して、区域の広さは8.1ヘクタール、地権者300人の規模という。たぶん、日本での民間施行の市街地再開発事業では最大の規模であろう。公共団体施行再開発では、東京のでは江東再開発、大阪では阿倍野再開発などの、これよりもはるかに大規模な例はある。

 2012年当時に港区が発表した(実は森ビル作だろう)が、あのあたりの開発計画図がある。この図の下の方にある「虎の門麻布台地区」と「麻布郵便局地区」とをあわせた区域が、今回の麻布台ビルズ再開発の区域であろう。
 この麻布郵便局が森JPタワーのJPの所以であり、そのタワーの位置には郵政省の局舎が建っていて、それなりに歴史的建築であったが、新ビルの腰巻にでもなったのだろうか。



2017年に森ビルが公表した再開発計画図

 北の仙石山と南の麻布台という二つの丘とそれに挟まれる我善坊谷と呼ばれる谷間の街を一体的に計画している。丘の上はそれなりの街であったので、特に面白くもない風景であったが、我善坊谷は実に面白い街であった。

 この街が再開発で消えるとしたら、今のうちに記録しておこうと思いつき、2013年に何回か尋ねて歩き回って写真を撮り、このブログに載せておいた。記録しておいて、後で再開発で出現する風景と比較して遊ぼうと思うだけで、保存しようなどとの考えは全くない。

 そして今日の新聞に登場した広告写真を見て、やっぱりなあと我善坊谷の風景を思い出すのである。そのとんでもなく異なる風景の出現に、ちょっとは訪ねてみたいが、いやいや見なくても十分に想像できるいつもの超高層風景とも思う。

 ただ少し興味があるのは、これまで交わることなかった丘の上と谷底が一続きになったが、どうやって建築で谷底街を埋め立てたのか、その落差の行方を見たいとは思う。そのうちにグーグルストリートに登場するだろう。

 とりあえずここに、2013年に訪ねた記録のページURLを並べて置き、ときには繰って眺め、江戸期の下級武士たちと戦中に居た文士たちを偲ぶことにしよう。

◆東京路地徘徊・我善坊谷をゆく

●2013/07/12・806【1】谷底に緑に覆われる家々がひっそりと立ち並ぶ東京秘境
https://datey.blogspot.com/2013/07/806.html

●2013/07/16・807【2】谷底の落合坂を行く・近いうちに消えゆく街並み記録
https://datey.blogspot.com/2013/07/807.html

●2013/07/19・809【3】谷底の落合坂を行く・崖の上下の極端な出会いの風景
 https://datey.blogspot.com/2013/07/809.html

●2013/07/21・810【4】谷底の落合坂を行く・南の路地とその上のレトロ建築
 https://datey.blogspot.com/2013/07/810.html

●2013/07/25・812【5】谷底と丘上の交わらない二つの街の歴史 https://datey.blogspot.com/2013/07/812.html

●2013/07/26・813【6】我善坊谷の住人たちー永井荷風を手玉に取った女
http://datey.blogspot.jp/2013/07/813.html

●2013/07/28・【7】我善坊谷の未来を勝手に想像する
https://datey.blogspot.com/p/2013azabudai.html


(20231124記)
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伊達美徳=まちもり散人
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2023/11/19

1743【都市の高齢化率比較】歳取ればどの街に住むのが得なのかとZOOMで考えた

●年寄りにはZOOM同期会が適している

 リアルに出会ってやる飲み会とか同期会とかは、この4年間コロナで止められていたが、コロナが終わった(らしい)からもう解禁である。
 ところが、コロナ期間中に同期仲間は後期高齢者から末期高齢者に突入してしまった。そこで起きたのが、高齢化による身体やら家族やら、でいろいろな不都合なことである。コロナが終わっても、リアル飲み会の復活は無理になってきたのだ。悔しい、コロナの奴に腹が立つが、どうにもしょうがない。

 そこで登場したのがコロナ中にビジネス世界で大流行のZOOMである。それを動けぬ老人たちの遊びに取り込んだのである。ヒマツブシばかりではないが、それに近いことをだらだらと、同年のヨイヨイ同期生たちとPCに向かって話すのである。

 その老人無駄話ZOOMを、これまで1年ほどあれこれやったが、これははっきり言って、老人のボケ対策にまことに有効であると分かった。老人のボケ防止と言うか、ボケ進行遅延策と言うか、あるいは社会復帰の機会になるかもそれない。

 同じ釜の飯を食った大学寮仲間10人前後で、毎月2回の定例ZOOMである。話題はその時の持ち回り担当者が適当に決める。みんなにアンケートで話題を組み立てることもある。
 つい先日のZOOM話題は、「先般、敬老の日があったが、自治会とか自治体とかが、何かお祝いのようなことをしてくれたか」というものであった。

 参加者がそれぞれ自分の場合を話したのだが、内容はわたしのような「全く何もない」を最低にして、最高は「外国旅行券(くじびきだが)」というのまで、各種各様で地域の貧富の差というか、コミュニティの緊密度と言うか、それぞれだった。
 饅頭を10個ももらって老夫婦で20個もどうするかと問題にもなったとか、羨ましい話もあった。それらの話は措いておく。

 ZOOM参加者はみな85歳前後の後期高齢者どころか、今や末期老齢者になりつつあるものばかりである。本州の東から西へ11都市の11人、太平洋を越えたCALIFORNIAから1人であった。男ばかりというのが当時の理工系大学の様相だ。

●年寄り日本列島

 わたしが個人的に気になったのは、それぞれの暮らす街には、高齢者はどれくらいいるものかということである。そこでそれぞれの住む自治体の人口統計をネット検索して、参加者の住む都市の高齢者比率を比べてみることにした。それがこの表である。


 東から西へ並べた。大都市から小都市までそろっていて、高齢率も様々で面白い。久しぶりにこんな表を作った。少し驚きつつ、ほう、日本の高齢化はこうなのかと眺めてみた。なお、こっれらどの都市にも仕事か遊びで訪れたことがある。

 昔々、日本全体の人口のうち65歳以上が7%になると高齢社会に入り、その倍の14%になると高齢化社会に入ると、勉強したものだった。そしてある時14%になって、おやおやと思った記憶があるが、今調べたらそれは1995年のことだった。そうか、直接関係ないが、その年は阪神淡路大震災があったなあ、その年に死んだ父親よりも長生きしてるなあ。

 なお、7%を越えたのは1970年だそうだが、そのときの記憶はない。若くてあまり老人のことに気が回らなかった証拠か。2倍になるのに四半世紀かかって、今や28.22%だから酷いもの、いや、すごいものだ。
 なお、21%を超えると超高齢社会と呼ばれるそうで、わたしもそれに立派に寄与している。まさにその時代にいるのだ。

 高齢者を分類して、65歳以上~75歳未満を「前期高齢者」といい、75歳以上85歳未満を「後期高齢者」と政策的に言うそうだ。では85歳以上を何と言うか。政策的には超後期高齢者と言うそうである。
 でもこれはあまり聞かないなあ、わたしは語感から言って末期高齢者」と言えばよいように思う。末期とはマッキと読むが、マツゴとも読めるから適していると思う。

●年寄り比率の意外な都市

 こうして11都市を比較して見て意外に面白方。
 浦安市は高度成長時代に東京湾を広大に埋め立てて市域を5倍ほどにも広げ、隣接する東京都区内からあふれる人口を計画的に受け止めた。若い人たちやってきたから、いまも高齢者比率が低い。日本一の若い都市である。
 なお、わたしは1970年ころから10数年、浦安市の埋め立て地に何にもない頃から、都市計画の仕事として土地利用計画を作り、ディズニーランド周辺構想にも関わった。懐かしい街であり、それほどにも若い街であるのだ。

 関東の南近郊都市の横須賀市が、意外に高齢都市であるに驚いた。ここも80年代初から90年代末ころまで、仕事で都市計画にかかわった懐かしい都市である。
 この横須賀市に高齢状況が似ているのが、阪神の近郊都市の宝塚市であるのも意外だ。どちらもイメージが良い巨大都市近郊都市なので老後に住みに来る人が多いのだろうか。

 三鷹市宝塚市は地政学的に似た立地と思うのだが、宝塚市の方が高齢化率では大きくリードするのはなぜだろうか。
 同じ東海道筋の都市でも、三島市豊橋市の違いはなにだろうか。豊橋の方が若いのは工業化かによる違いか。
 韮崎市三次市は、いずれも地方小都市であり、予想通りにずれも日本の典型的な高齢化と人口減少中である。どちらも山間部の盆地都市であることが似ている。

 私が住む横浜市中区は、大都市としては古い都心部だから高齢化率が高いと思っていたが、意外にそうでもないのである。都心部だけに人の出入りが多いのだろうか。
 これらいろいろ私が意外に思うことは、人口学者には常識的なことかもしれないが、ちょっと興味をそそられている。

 年取るとどこの町に住むのが得だろうかと昔から考えていて、高齢者仲間に入ると同時に今のところに移り住んで20年になった。個人的には生活圏としては移転成功したと思う。
 しかし、あまりにも課題が多く積み残し過ぎているのが今に日本の居住政策だ。いや日本には住宅政策はあったが、居住政策はなかったし、いまもないと思うのだ。

(20231119記)

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2023/10/31

1725 【10月尽】あの超ダサかった渋谷が無国籍イベントのハロウィン騒ぎの場になる時代とは

 よそから人々に遊びに来てほしいとあれこれやっても、うまく行かない日本の各地がある一方で、こうやってよそから人々になにがなんでも来てほしくないと、条例を布き警察までも出てきて規制する街がある。

 どうして渋谷がハロウィンで騒ぐことになるのかわけが分からない。ただの駅前交差点とゴチャゴチャした商業の街だよ。まあ、あのゴチャゴチャが良いのだろう。

 ハロウィーンなんて今やまるっきり無国籍イベントなんだから、どこでやってよさそうなものだ。どこか寂しくて困っている村や町で、「バーローウィン」イベントなんてやってはいかがかな。
 それにしてもよく分からないのは、こうやってマスコミが来るな来るなと書き立てると、ますます人が集まるだろうになあ、来年からはマスコミ報道規制をするかもね。

 あ、そういえば最近のわたしの渋谷訪問は、2019年の暮のことだったから、もう5年も無沙汰であるのだ。そうか、この後に行っていないのはコロナパンデミックの故であるし、それに加えてわたしが年取ってヨレヨレになってきたこともある。コロナと年齢が協力して、わたしの渋谷だけではない外出活動の足を引っ張ったのである。

 その前はよく行ったものだった。コロナでもうパタリだ。今はどんな風景に変わったか、行ってみたいけど、いまやどうでもいいやとも思う。ある程度は知識として知っているのだが、どうせ超高層ビルだらけの、ありふれた都会になったのだろうなあ。見なくても分かっているような気がしている。
 
 わたしが初めて渋谷駅前に降り立ったのは、1957年のことだからもう66年も昔であったか。あのごちゃごちゃゴミゴミの街に、東急文化会館だけがいかにも都会的に建っていた。ほかに大きな建物は、東横デパートだけだった。

2008年 東急文化会館が断末魔のころの姿

 今、ハロウィンで話題の駅前交差点を渡った先の方は、ごちゃごちゃしてポッと出の田舎者が行ってはいけない感じの街だった。とくに今のハンズのあるあたりは、いわゆる連れ込み宿の街だった。そして新宿や池袋はもっともっと怪しげな街だった。
 その頃の渋谷は思い出すと、何となくダサいという言葉がぴったりだった。いつのころからか若者の街になったが。それは西武デパートが来てからだったろうか。
2011年 渋谷スクランブル交差点の面白くもない風景

2012年 東横線渋谷駅が健在だったころの姿

 そんな渋谷の変転を永らく興味を持って見てきたものだ。昔はブログなんてなかったから書いてないが、2012年からいくつか書いている。それでも読めば懐かしい。

●2018/10/09【渋谷アスレチックステーション】久しぶりに渋谷駅から外にでてみれば高齢者の足腰を鍛えるサービス充実を再確認https://datey.blogspot.com/2018/10/1165.html

●2016/11/18【東京・渋谷駅定点観測】日夜変わる渋谷駅で老人ウロウロ、立体迷路はら三途の川と黄泉の国へつながるかも  https://datey.blogspot.com/2016/11/1133.html

●2015/03/12 ただいま渋谷駅は巨大な立体迷路遊園地かつ健康ウォーキングランドでバリアフリーくそくらえ http://datey.blogspot.com/2015/03/1066.html

●2013/03/28玉久三角ビルから東横デパートへと渋谷の変わりゆく姿を追うhttps://datey.blogspot.com/2013/03/746.html

●2012/05/08渋谷駅20世紀開発は21世紀再開発時代 http://sites.google.com/site/dandysworldg/sibuya20120508

(20231031記)

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2023/10/28

1722 【横浜ドヤ街は変わるか】産業労働者の街から貧困高齢福祉の街へ、その次は都心共同住宅街か

 横浜都心名所の寿町地区はドヤ街といわれてきたが、なんだかジンワリと共同住宅ビル(日本型マンション)の街に変化していくようである。
 かつては産業労働者の街だったのが、この30年くらいで貧困高齢者福祉の街にすっかり変わったのだ。その人たちは簡易宿所なる安宿に住宅同様に寝泊まりするのだ。

 そしてこのところ、その高齢福祉の街に都市型共同住宅ビル(名ばかりマンションのこと)が入り混じろうとする動きが見えている。もしかしてこの横浜都心の一等地ともいうべき寿地区が、都市型住宅地に変わるのだろうか。日本型ゼントリフィケーションとでもいうことが起きるのだろうか。

 寿町地区を徘徊して、コロナ明けの建設風景を拾ってきたので、ここに記録しておく。
 寿町地区俯瞰写真に、最近の建設の動きを記してみた。


 この俯瞰写真の左方(正確には南西方向)の①には今年の初めに共同住宅(いわゆるマンション)が建った(下図)。寿町地区に周辺から攻めてくる共同住宅群の一つである。

寿町入り口から振り返り見る⓵の共同住宅ビル

 ⓵の隣の街区には、②の賃貸住宅の建設がたけなわである。これは簡易宿所(いわゆるドヤ)ではないらしい。この敷地の南西側には首都高の高架があり、24時間騒音と排ガスを出しているから、たぶん、分譲型共同住宅では売れないという判断だろう。なお、ここには下駄ばき住宅型の戦後復興期の防火建築帯が建っていた。

寿町フリンジの長者町1丁目の賃貸共同住宅ビル

 この賃貸共同住宅ビルの向いには、片方を高層ドヤビルに、もう一方を共同住宅ビルに挟まれて、高層共同住宅ビルが建設中である。ここも首都高高架に近いし、幹線道路沿いだからかなり騒音が激しいはずだ。
長者町1丁目に建設中の住宅ビル

 寿地区に入り込み、⓸に空き地が長らく放置されていたが、ようやく工事を始める気配である。ここは簡易宿所の建て直しであるが、斜め前に昨年できた高層ドヤビルと同じ経営者であるらしい名称が書いてある。高齢者対応を積極的に行っているらしい。

寿町4丁目の⓸簡易宿所建設現場

 寿町の真ん中あたりには寿公園があり、炊き出しなどを行っている小公園である。その斜め前にあった3棟の中層ドヤビルを取り壊して、新たに大きな敷地として新ビルの建設が始まった。ドヤ街の真ん中だからドヤの建て直しだろうと見れば、なんと共同住宅と表示が出ている。
 おお、ここの様にまわりがドヤと福祉施設ばかりの場所、寿地区でも最も寿らしい立地にも、共同住宅ビルが登場してきたのか。はて、どのような住民が住むだろうか、興味が湧いてくる。
寿地区の中心の松陰町3丁目に登場する⓹共同住宅ビル

 この共同住宅ビル工事現場の近くには、今年の夏に建て直してオープンした高層簡易宿所ビルがある。元は5階建てのドヤビルを建て直して、名前も松影会館なる寿地区らしい風格から、漢字もカタカナも全くないBayside Yokohamaとなったのに驚く。
松陰町3丁目のドヤビル建て替えの⑥BaysideYokohana

 この新ドヤビルの並びには、昨年に売り出した分譲型共同住宅ビルが建っている。このビルは多分寿地区では最大規模であろう。ここには以前には、下が企業オフィスで上階にはUR賃貸住宅があった。いわゆる下駄ばき住宅である。ドヤビルではなくて、ここがドヤ街となる以前からの企業立地であったのだろう。
 周りはドヤに取り囲まれていたから、建て直しが始まった時にはどのようなものが建つのか興味があった。結局は一般的な分譲型共同住宅ビルになった。面白いことにここも全く漢字もカタカナもない、ローマ字だけのネーミングである。前述⑥の高層ドヤビルももしかしたらこれを真似たのかもしれない。
 この大規模な強度住宅の出現が、その後にこの街の共同住宅化をもたらすかもしれないと思っていて、例えば⑤の出現はその故かも知れないと思うのだが、自信はない。
 なお、この共同住宅ビルについてはここに詳しく書いた
寿町地区内で最大の⑦新築共同住宅ビル

 寿町地区の右(正確には北東)のフリンジ松陰町1丁目にも、大型の高層共同住宅ビルの建設中である。
松陰町1丁目にも新築の⑧分譲型共同住宅ビル

 寿町地区の南東のフリンジ地区は、首都高の高架道路があるために、最も環境が良くないので、ほぼ共同住宅はないのだが、それでも一昨年に竣工した共同住宅ビルが2棟並んでいる。全く同一の姿だから、同一デベロッパーによるものらしいが、名称は異なる。ただ面白いことに、これら2棟とも全く漢字カタカナを使わず、ローマ字だけのネーミングである。
南東部フリンジの高速道路高架沿いの⑨共同住宅ビル

 寿町地区は横浜都心の一角の約6ヘクタールの広さである、いわゆる「ドヤ街」である。この街には、旅館業の中高層ビルが片寄せてびっしりと立ち並ぶ。素の宿泊室は約8000室、日常的にその宿泊室に宿泊して暮らす人たちが約6000人とされる。その宿泊室は5~10㎡でバスユニッはなくて、共同便所、コインシャワーである。

 主たる宿泊者は、高齢の単身男たちであり、多くは低所得で生活保護対象である。つまりそのような人たちが高密度(ヘクタールたり焼く1000人!)に暮らしている、住宅街である。そのような街になったのは、それなりに横浜らしい歴史がある。

 この街ももちろん歴史的には都心部の街として産業的な用途との対応で、普通の住民たちが住む中高層共同住宅も少数ながら存在してきたが、一方で厳然として低所得者のためのドヤ街としての歩みが続く。

 コロナ明けの横浜都心には、あちこちに共同住宅(日本語でしか通じないマンション)が建ちだしてきた。ある種の聖域的なイメージがある寿町地区にも、ビル建設の動きがあり、その中にはドヤ建設もあるのだが、ドヤビルを共同住宅に建て替える動きも起きつつある。

 近ごろのドヤ建設は、30年以上前に木造からビルに建て替えたころのドヤビルが、今や老朽化してきたことと、宿泊入居者の高齢化に対応する機能更新が必要になってきたことにあるらしい。
 その中には積極的に超高齢宿泊者対応に特に力点を置く例もあるようだ。かつては設けないことが普通だったエレベーターは当然のことに必須だし、中には介護はもちろんのこと、看取りさえも可能な宿泊室を設ける者もあるとのこと。詳しくは知らないが、一種の介護老人ホーム的になっているだろうか。

 これほどの高齢者が集住するとなると、街なかにはいろいろな福祉関係の自動車が行き交うし、メインストリートのドヤビルの軒並みに一階には、福祉介護関係施設が並ぶ風景が見られる様になったのは、この10年くらいのことである。この20年ほどで、労働者の街から、高齢者福祉の街へと変転した。


 その高齢者福祉の街が、じわじわと共同住宅の街へと変転していく気配があるのだ。寿地区の周辺あたりから強度住宅ビルが押し寄せるのはこれまでもあるし、今も見られるが、さらに最近になってドヤ街の真ん中あたりで共同住宅ビルの出現がみられるのだ。

 それらはたがいに排除するのか、どちらから優先するものか、うまく共存するものか、実はよく見えないのだが、興味のあることだ。
 次に起こりうる大型共同住宅の建設は、やはり高速道路沿い以外の3方のフリンジの地区からだろう。今のところ注目しているのは、南西部入り口あたり(長者町1丁目)にある向かい合った2軒のパチンコ屋閉店後の土地利用転換である。共同住宅建設が近いような気がする。

この左右の元パチンコ店がどのように建て替わるのだろうか

(20231028記)

●このブログの最近の寿町地区活計記事
・1690【横浜寿町の変化・1】横浜都心部の関外にある貧困ビジネス街はどう変わりつつあるか2023/06/10
・1687【横浜寿町・地域活動の社会史】(2)横浜市の都市政策における寿町の位置づけは? 2023/05/21
・1686【横浜寿町・地域活動の社会史】都市下層集住社会の課題解決に活動する人々に敬服するばかり 2023/05/19
・1622 【横浜寿地区観察徘徊】簡易宿泊所ドヤ街に登場した新築分譲共同住宅マンションのコンセプトは2022/05/30
・1380【2019初徘徊は寿町に】B級横浜ガイド・寿町・松影町あたり:デラシネ日雇労務者が高齢化定住した貧困ドヤ街2019/01/05

https://datey.blogspot.com/2019/01/1180b.html

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