2017/05/17

1267【東京風景GSIX】内に草間ツブツブ提灯がぶら下がり外に暖簾がかかる「銀六」大箱出現で銀座の空が狭くなった

●GSIXあたりは国際的ミーハー大混雑
 1年半ぶりに東京銀座に遊びに行ってきた。最近できた話題の大型施設「銀座シクス」を観てきた。6丁目にあるからシクスだろうが、安易なネーミングだよなあ、そうだ、わたしが粋な名づけをしてあげましょ、銀六って。
 とはいっても本当の目的は、その中にできた観世能楽堂で能楽を観るためであったが、当然のことについでに「銀六」も見てきた。
 再びとはいっても、買い物する気も金もないから、内部は能楽堂だけでよいのだ。どうせ大きな吹き抜けがあって、わたしには縁のない品物が並ぶだけのことだろう。
昔々、銀座松屋の吹き抜けをはじめて見たときビックリしたが、
いまどき、もうこんなことで驚かない
またまた、とはいっても、全く観ないのも徘徊ミーハーとしてシャクだから、能の休憩時間に地下3階から地上5階まで登って、吹き抜け空間のあたりの便所に行ってきた。
 案の定、エスカレーターが上り下りする大きなアトリウムがある常識的大規模商業空間である。
 今、人気沸騰の草間弥生模様の提灯がたくさんぶら下がる。わたしは草間の大量ツブツブ羅列ゲージツを観ると、じんましんが出そうになる。

 それにしても、この人混みは尋常ではない。ミーハーが増殖しつあるようで、しかも国際的である。表通りはヨチヨチ歩きでないと進めないほどの混みようで、アジア系外国人がいっぱいいる。平和な世の中だ。

●銀六は銀座伝統景観をフィーチャーか

 銀六出現で銀座景観がどうなったか、周りを歩いてみてきた。
 建物の高さは銀座ルールとか言って、建築の最高の高さを56mに抑えてあるので、今どきの墓石型超高層ビルではない。ほぼ敷地いっぱいにドデンと大箱が転がっている。
 立面と利用を上下2段に分けて、下3分の1は店舗、上3分の2はオフィスらしい。上層階は黒いガラス窓に階ごとに庇が出ているが、下層階も同じように庇を出しているが、庇の先にパネルを取り付けて、ダブルスキンにしているらしい。

 つまりこれは商家が軒先につるした暖簾だな、その証拠には暖簾に店の名を大きく書いている、Dior(縁がないなあ)とかCÉLINE(これも)とかGSIX(これは銀六のことらしい)とか。そのパネルがぺらぺらしているのは、暖簾だからだな。

 内部のテナントに対応して、縦割りに別々の暖簾デザインになっている。個別の店舗ビルが立ち並んでいる風情なのである。どうやら、銀座特有のコマ割りペンシルビル街並みをフィーチャーしたらしい。
 以前ここに建っていた松坂屋は、百貨店でございとデカく見せていたけど、こうやって銀座寸法に分節するのも、よろしい。
めいめいの暖簾をかけたファサード

かつての銀座松坂屋はこんな立面だった
これは、テナントの変更があったら、暖簾をかけ替えるようにパネルを取り換えるのだろう。おお、商家の伝統的発想であり、建築家谷口モダニストにそのような商才があるとはねえ。
暖簾ごとに光り方が異なる
●銀座の空が狭くなった
 今どきの超高層仕立てなら、上層階を下層階よりも壁面を引っ込めて高く立ち上がるのだが、ここでは高さ制限があるために引っ込めると床面積を損するとて、下層も上層も同じ壁面のズンドウ仕立てにして、容積を稼いだらしい。
 地下も6階まで掘っている。能楽堂も地下3階にあって、地下深く潜り潜って観に行くことになったし、しかも見所の幅が狭くなっったので、閉所恐怖症のわたしは、もう松濤にあった時のような観世能楽堂通いをや~めたッと。

 高さ31mがざっと2倍の56mの箱になって、それが横に転がっていると、さすがに銀座の空が狭くなった感を免れない。上層部を左右に分けて、あいだに隙間をつくって空を見せてくれると良かったのに。
 三原通りは広くなってセットバックもしているが、そのほかはほぼ道路いっぱいの壁面であるから、圧迫感がある。セットバックすればいいってもんでもないが、。
 超高層反対の銀座ルールも良し悪しである。 
三原通り
それで思い出したが、ずっと前にこんな戯画を作ったことがある。銀座の近未来風景である。なんだかつまらない。http://datey.blogspot.jp/2014/03/903.html

中央通りと三原通りの間にあった区画街路を廃止して、その道幅分を三原通り拡幅に付け替えたらしい。
 だがその自動車交通の排除をできなかったようで、ビルのまん中を串刺しにトンネル状に通路が抜けて車が通っている。つまり1階はあいかわらず以前と同じに二つに分かれている。せっかく共同化したのに、これじゃあ床の使い方がもったいないよなあ。
 交通機能からはこの貫通車動線を外せなかったのか、それとも完全廃道にするには近隣街区関係者の同意が得られなかったのか。
 建築の床利用計画にはかなり不都合なのは、現に銀座通りから入って能楽堂に行こうとしたら、いったん外に出てぐるっと三原通りまで回らされてしまった。
貫通道路
銀六を貫通した区画街路は更に三越も貫通する
●再開発事業のプランナーはだれだろうか
 この開発は14名の地権者たちによる、組合方式の市街地再開発事業であるそうだ。
 商業的超一等地でも共同事業だから、表と裏の大勢の銀座旦那衆権利者間の調整はけっこう大変だったろう。
 法定再開発だから行政手続きも面倒だっただろうが、だれがやったのだろうか。
 設計は谷口吉生と鹿島建設と公表資料にはあるが、この共同大事業のプロジェクトマネージャーは、いったい誰だったのか分らない。

 1昨年の工事中にこの前を通った時に、仮囲いに表示があり、設計監理は銀座六丁目地区市街地再開発計画設計共同体と書いてあったが、これは谷口と鹿島のことだろう。
 それに並ぶもう一枚の看板があり、設計プロジェクトマネージャーとして森ビルとアール・アイ・エーの名が書いてあった。この2者の役割が事業のマネージャーなんだろうが、公開されている資料には、どれにも見えないのはどうしてだろうか。


 このような大規模な事業は、設計に入る前に構想や企画や計画の段階がかなり長いし、それが設計の条件を決める重要な仕事なのだが、この種の公表資料には、最後の設計者の名は出ても、初めの企画者や計画者の名が出てこないのは、例えば新国立競技場でも豊洲市場でもそうであり、なんとも不思議である。
 プランナーの仕事をやってきたわたしには、不満である。
 まあ、日本では設計者の建築家の名が普通に知られるのも珍しいから、ましてやその前さばきをするプランナーって、そんなものが世の中に居るのかいって、そんなもんだろう。悲しいねえ。

●銀座4丁目あたりも変化か
 銀座と言えば昔は尾張町交差点、今は4丁目であるが、わたしは戦前の風景を見たことはない。1950年代半ば以降の記憶で言えば、服部時計店は相かわらず、三越が交差点角に顔を出してきたのは2010年だった。

 サッポロ銀座ビルは1970年に建ったが、このたび見たら建て替わっていた。
 なんだかもこもこした網目で、これってビール瓶が転んでも割れないように網目発泡スチロールでくるんだつもりのデザインだろうか。
 ただし、裏に回ると普通の壁になってしまうから手抜きであるよなあ。
向うに三越、手前にサッポロだけど網目模様が横や裏にはない
銀座三愛ビルが日建の林昌二の設計で建ったのは1960年のこと、それは建築界でも話題だったが、一般にもその姿が評判になった。
 建築自体が広告塔となり、戦後商業ビルとして成功の先端を行ったが、今もその姿が健在なのは服部時計店と同様である。
 これを見上げて、昔々その向こうにあった「森永ミルクキャラメル」地球儀広告を思い出す。三愛と比べて屋上ネオンサイン広告の迫力に建築と無縁の景観のいやらしさがあった。
 あ、今思い出したが、三愛ビルの足元の陰に、流政之作の小さな黒い招き猫が鎮座していたが、観てくるのを忘れた。いまも居るのだろうか。
こうや手見ると三愛ビルが有象無象の街並みを率いているようだ
人、人、人で埋まっている銀座であった。その半分以上は外国人観光客のような感じだが、昔々、日本人団体旅行の一団が、パリでもミラノでもロンドンでもニューヨークでも、わがもの顔に歩いていた時代があったのに、今は日本がその舞台になっていることを肌で感じる。
 まあ、平和で宜しいじゃござんせんか。
 7丁目のライオンビアホールは健在のようだから、近いうちに行っておこう。これもいつつ建て替えで消えるかわからないし、こちらがいつ消える身になるかもわからないのだから。

参照:銀座おのぼりさん徘徊と松坂屋の巨大再開発http://datey.blogspot.jp/2015/10/1132.html


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