2016/10/07

1220【続・法然院方丈襖絵事件】法然院の襖絵画家は狩野光信からなぜ孝信に変ったか、はたまた時信か謎は深まる

 

 このブログの1218【秋の京都文化財特別公開で、その特別公開案内サイトに、法然院の襖絵の作者が狩野孝信と書いてあるので、光信から孝信に変更になったらしいことを書いた。
 ふと思い付いて、その秋の非公開文化財特別公開事業の主催者である(財)京都文化財保存協会に、メールを出して変更になっている事情を質問してみたら、ご親切に丁寧な返事をいただいた(2016/10/05)。

 わたしから質問はこうである。

 2016年秋の非公開文化財特別公開事業の一覧の中で、法然院方丈の重要文化財襖絵の画家を「狩野孝信」と記してあります。しかし、これはこれまでは狩野光信とされていましたし、法然院のウェブサイトにもそのように載っています。
 孝信の記述は誤記でしょうか、それとも光信から孝信に変更された事情があるのでしょうか、お尋ねいたします。(以上)

 これに対して、いただいた回答の要旨を紹介する。

 法然院方丈の重要文化財の襖絵の作者は、従来は狩野光信筆にとされてきていたが、近年の研究で狩野孝信の作とする学説が出てきた。
 そして2015年に京都国立博物館での「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―」展覧会に出展した際に、作風から孝信である可能性が高いと判断され、狩野孝信筆として展示された。
 そこで京都文化財保存協会は法然院と協議した上で、従来の光信筆から孝信筆へ変更することにして、今回の特別公開においても、狩野孝信筆と表記した。
 狩野孝信筆となった根拠については、当該展覧会に図録「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―」の作品解説に記載がある。(以上)

 京都国立博物館での展示を機会に、専門家による鑑定が光信筆から孝信筆に変ったらしく、それは法然院も承知しているようである。
 面白いなあ、絵画専門家による鑑定で、作者が光信から孝信に今になってどうして変わったのか、新事実の出現に興味津々である。その上、わたしの56年前の説では時信である。
方丈襖絵桐図(1960年撮影:平井聖)
法然院方丈として移築前の後西院御所姫宮御殿では
Eの位置に柱が立っており、桐図の襖はEF間の1.25間幅だった

 襖絵ができてから法然院説では421年、わたしの建築考証では341年であるが、この80年の差を、科学的な分析技術で判定できる方法があるといいなあ。
とりあえず、その図録を図書館で探さねばなるまい。これはまたディレッタントヒマ老人のまことに文化的なヒマつぶしになるのである。

図録
唐人物図屏風 狩野孝信筆 2曲1隻 1613 仁和寺

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