2015/08/12

1117【山口文象研究:ブルーノ・タウトとの出会い(前編)】タウトが山口の結婚式に招待されて悩んだこと

●建築家ブルーノ・タウトの日本訪問のこと

 日本が戦争に入ろうかとしていた頃、ナチスのドイツを逃れて一人の建築家がやってきた。その4年間の滞在で日本の建築文化に足跡を残した。その足跡のほんの一部だが、山口文象(1902~1978年)も関わっている。
ブルーノ・タウト
 ブルーノ・タウト(1880~1938年)は、20世紀初めのドイツ表現派の建築家として、また、戦間期のワイマール共和国時代の政策であったジードルングと言われる中産階級向けの集合住宅の秀作を設計を多くしている。今もそれらは住まわれていて、一部は世界遺産登録になっていて有名である。

 タウトは一時、ソ連で仕事をしたことからナチスに睨まれて左翼の烙印を押され、逮捕リストにのったことを、あるルートからひそかに知った。その手を逃れて1933年にシベリア鉄道、ウラジオストック経由で日本にやってきた。
 そのときちょうど招請を受けていた「日本インターナショナル建築会」を頼ったのである。
 そして日本経由でアメリカに亡命するつもりが失敗して、1936年にトルコに去って行った。2年後、トルコで客死したのであった。

 日本でのタウトは工芸デザインに携わるしかなくて、建築家としてはかなり不幸な人生だったが、日本の建築や文化について多くの著作を出して、日本の建築家や文化人に新しい刺激を与えたのであった。
 タウトの日本での動静は、その詳しい日記で知ることができる。

●ブルーノ・タウトを悩ませた山口文象の結婚式のこと
山口文象

 タウトが日本にいたころ、山口文象は新進建築家として名をあげつつあった1930年渡欧の前は建築運動の活動家として知られ、1932年にドイツから戻ってきていきなり東京医科歯科専門学校附属病院(1934完成)のモダニズム建築で建築家として世に出た。
 日本でのタウトは、山口文象と何回か出会っていることは、タウトの日本日記で分る。

 その出会いは、どこか妙な具合もある。最初はどこであったのか分らないが、1933年11月初めに、タウトは山口から画家の前田青邨邸への招待状を受け取った。
 11月4日に日記。
「建築家の山口(蚊象)氏からも、岳父の前由青邨邸へ来てほしいという招きがあった。山口(旧姓は岡村)氏はすぐれた建築家だ、某氏のひどいあくどさを知らしてくれる(この男は正眞正銘のやくざ者だ)。山口氏は以前グロピウスに就いたことがある。」
 前田はその当時に山口文象が婚約していた前田千代子の父である。12月に蒲田に前田青邨邸を山口と共に訪れて、その純日本家屋の寒さ、静謐さ、美しさに驚き感銘した記述がある。
 タウトは後に展覧会を観に行って、日本画家としての前田を高く評価している。
前田青邨

 そして1934年1月16日に、山口から結婚式への招待状を受け取って、「思いがけないことだ。日本では初めてである。」と驚く。
 そして1月21日の日記。結婚式は1月26日に迫っている。 
 「山口(蚊象)氏の結婚式のことでいろいろ思い煩う。下村氏は、京都-東京の往復切符を私達に提供しようと言ってくれる、『面白そうだから構わずに東京へ行っていらっしゃい、しかしまたここへ戻ってこなくてはいけませんよ』。私がこの結婚式に出席したくない理由は、山口氏と建築家Ⅰ氏とは互に競争相手なので、どちらにも格別に親密な関係を持ちたくないからだ。結局下村氏も私の意見に同意し、またあとから上野君もこれに賛成した。
 下村氏とは、大阪の大丸百貨店の経営者で、上野君とは日本インターナショナル建築界の上野伊三郎であり、どちらもタウトを支援した人である。
 
 そして3月21日のタウト日記。
夜、建築家山口(蚊象)夫妻を訪ねる(同氏は、私が結婚の贈り物や祝電を取りやめたことについては何も触れなかった、それでもお互に格別気まずい思いをしないで済んだ。・・・」
 というわけでタウトは悩んだ末に、山口の結婚式にはかかわらなかったのであった。
 さて、タウトの日記に具体的なことは書いてないが、どのようなことで悩んだのだろうか。

●山口文象と石本喜久治の確執

 タウト日記の「某氏」や「I氏」という仮名になっているのは、元は実名が書いてあるのを、訳者の篠田英雄がそうしたことは、篠田自身がタウト日記の解説に書いている。
 私のかなり確度の高い推理では、この「某氏」と「I氏」とは、建築家・石本喜久治(1894~1963年)のことであろう。石本と山口は犬猿の仲であったのだ。そしてタウトはインタナショナル建築会の石本の世話になっていた。間にはさまったタウトが悩んだのは無理もない。

 山口は1923年の関東大震災の余燼のなかで創宇社建築会を立ち上げて、盛んに建築運動をしていた。逓信省営繕課での図面画きで実務の経験を積むとともに、この運動で建築会には少しは知られた。
 そして1926年から石本の下で設計の仕事をしていた。朝日新聞社や白木屋デパートなどである。ここで設計の実務経験をしっかりと積んだのである。
 石本事務所には、ほかに二人の創宇社建築会メンバーもいて、共に仕事と運動をやっていた。
 しかし石本は創宇社建築会の活動を嫌って、脱退を指示したことから、山口は石本と喧嘩をして、1929年に石本事務所を去った。他の2人もやめた。

 そして翌年渡欧してベルリンのW・グロピウスのもとで働き、32年に帰国した。すぐに東京医科歯科専門学校附属病院の設計をはじめた。これが山口の建築家としての出世作となる。
 1934年4月に歯科医専はできるのだが、その過程で石本が、山口はアカだとの怪文書を関係者に配って、仕事を妨害するという事件があった。当時の建築許可機関の警視庁へも送って、許可が停滞したという。タウトが知ったこの時期は、まだホットな事件であった。
 この資料は無いが、わたしはこの件について、当時山口文象の下にいた二人(山口栄一、河裾逸美)から直接に聞いたことがあるから、このようなことがあったことはまちがいないだろうし、建築界では知られた事件だったらしい。
 タウト日記には、この二人の確執を具体的には書いてないが、それを山口や他の建築家などから聞いて知っていたらしい。
石本喜久治

 石本は、タウトを招聘した日本インタナショナル建築会の幹部だから、タウトの世話をいろいろと焼いていた。タウトは二人の確執を知って、出席するべきか否か困り果てて、支援者たちに相談して、結局は1934年1月の結婚式には出席しなかった。
 もっとも、タウトの石本への印象は、あまりよくない様子が日記にある。石本の建築作品について、例えば白木屋百貨店を見て「いかもの」との烙印を押している。

 1975年にタウト日記が公刊されたときは、石本はこの世にいなかったが、もしも読んだら、あれほど世話してやったのにと、怒ったことだろう。タウト日記には、ほかにも読んで怒った人は大勢いると思われる記述がいっぱい出てくるのが面白い。
 このタウトを悩ました山口の結婚は、3年後に破局を迎えたのであった。ゴシップはこうして終わった。                
 (中篇に続く

山口文象アーカイブス

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