2013/07/02

803【横浜ご近所探検】横浜都心の戦後復興期の残影と高度成長期の残滓を徘徊する

「中村川の上を通るのは景観的には問題だが
他の案よりはましだ」

 (田村 明著『田村明の闘い』84ページ)

 横浜市の都心部(関外)にある空中陋屋借家(地震を怖いから共同住宅持ち家は嫌い)に引っ越してきてから、もう11年になった。
 ここに来る前は鎌倉の谷戸の奥に住んでいた。買い物や街遊びには不便だが、一年中ウグイスやホトトギスが鳴き、深い緑の中は静かだった。それが、このガチャガチャした街の中に移ってきたはじめの2年ほどは、車の騒音に悩まされた。

 今はどうにか慣れたその騒音は、バルコニーの向う250mほど離れた中村川の上に架かる高架道路からやってくる。
 上下2層の高架構造物の上段は左から右へ、下段は右から左へとブンブン走る絶え間ないトッラク群の騒音が聞こえ、その排気ガスも臭うような気がする。
  山手の緑の風景を横にぶった切って美くしくないから、田村明が言うように「景観的には問題」だが、そこからの公害発生はとても「ましな」選択ではない。
(わたしの住まいのバルコニーからの風景に中村川の上を通る高速道路が大きく位置を占める)
 
                        ◆
 冒頭の一文は、この高速道路の都心部貫通計画で、いろいろな案があった中で中村川の上に通すことにしたのが、他と比べて「ましな案」と言っているのである。わたし個人としては、「他の案のほうがまし」であった。
 その本の著者・田村明は、その当時の横浜市の役人として、建設省の役人と争って都市計画決定路線を変更させた人である。
 田村明時代と言ってもよいほどに、高度成長期になる1970年代からの都市・横浜を造り育てた。田村時代の前は、戦後復興期と言ってよいだろう。

 いま中村川に行ってみると、暗い水面の両岸に鉄の箱柱が立ち並び、上空を鉄の箱梁で覆われて空がない。
 都市の貴重な水の空間をこうやってつぶすよりも、もう300mほどに南に追いやって、山手の丘陵にもぐりこむトンネルにしてくれれば、川も生きるし、山手景観も保つし、わたしも騒音に悩まされないのにと、後世の住民としてグチが出る。
 狭い都心部では、どこかがマシになれば、どこかがマシでなくなるのはやむを得ないとは知りつつも、そう思う。
◆続きの全文はこちらを参照「横浜都心の戦後復興期残影と高度成長期残滓
https://sites.google.com/site/matimorig2x/yokohama-tamura

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