2010/12/26

362【有楽町西武閉店】数寄屋橋からの風景の今昔

東京・数寄屋橋風景今昔

 有楽町西武百貨店が閉店したそうだ。西武のWEBサイトに閉店挨拶がある。
「永きにわたり地域の皆さまにご愛顧、ご支援いただいてまいりました西武有楽町店は本日12月25日(土)をもちまして営業を終了のうえ、閉店させていただきました(以下略)」
 おいおい、させていただきましたって言い方はないでしょ。それじゃあ、客が閉店しろって言ったから閉店したって聞こえますよ。
 まあ、つい本音が出たのかもなあ、客がちっとも来ないから閉店したんだよ、そういいたかったのでしょうね、ごもっともなことで。
    ◆
 有楽町西武の入っているマリオンビルができたのが1984年だから、26年間の営業だった。これは百貨店としては長いのか短いのか、どっちなんだろう。
 一方の有楽町阪急は営業継続らしい。ここに東西の電鉄資本百貨店経営の実力差が現れていると見て良いのだろうか。
 西武の後に入るのががルミネだそうだから、これも鉄道資本傘下であるのが興味深い。
 鉄道資本が鉄道駅とはなれて物販事業をすると、どうもうまくいかないようだ。日本橋にあった東急は、元は白木屋デパートを乗っ取ったものだが、これも10年くらい前だったかつぶれた。
 阪急は大丈夫か。銀座には名鉄資本のメルサがあるが、どうなんだろうか。ルミネもこれが鉄道から離れる営業の初めてのケースだそうだが、どうなんだろうか。
    ◆
 西武の入っていたマリオンビルは、もとは日本劇場と朝日新聞本社が建っていたところで、敷地を合体して1984年に建て直したものである。
 日本劇場は渡辺仁の設計で1933年竣工、華やかなレビュー劇場であった。渡辺は銀座和光、上野東京国立博物館、日比谷第一生命館、横浜ホテルニューグランドなどを設計している。
 わたしは学生時代に、当時流行ったロカビリーのウエスタンカーニバルなるショーを見に行って、小坂一也とかウィリー沖山とかを観たことを覚えている。
 5階にあるミュージックホールにも行ったことがある。お色気ショーはなんだか舞台が赤かったくらいしかよく覚えていないが、大男のE.Hエリックと芸名を忘れた小男のコントのほうが印象にある。
 朝日新聞本社には従兄が勤めていたので、1950年代末に訪ねていって入ったことがある。一階ホールの傘のような鉄骨が印象にある。この建物は1927年に竣工している。設計は竹中工務店で、担当は後に有名になった建築家の石本喜久治である。
 ここに最後に行ったのは1977年に、建築家山口文象についていったときだった。山口文象は1926年に石本喜久治のもとで、この建物の設計を手伝った。
 これらを壊した跡にできたマリオンビルは、竹中工務店の設計である。
     ◆
 池袋の田舎が本拠の西武百貨店としては、どうしても銀座に進出したかった。そこでこのマリオンビルで「銀座西武」百貨店を開業するつもりだったけど、あんな外れに出てきて銀座を名乗るのはおこがましいと、銀座老舗の旦那達から横槍が入って有楽町西武になったとか、その頃そんな話を聞いたことがある。
 そしてバブル時代、堤清二にひきいられてイメージ合戦に出た西武は、「おいしい生活」なる糸井重里つくるキャッチコピーでマリオン現象をおこして時代を泡泡とリードするも、バブルパンクでいまや量販店のイトーヨーカ堂の傘下になる始末。
 あちこちのバブル時代の遺物の片付けを今もやっている中に、この有楽町西武もあったということなんだろう。
 西武は結局は銀座ブランドには、なれなかった。もっとも、銀座ブランドの老舗三越だって、業界としては新宿田舎新興勢力の伊勢丹の傘下に入ってるもんなあ。
 銀座にはしばらく行ってないけど、最近は衣料や電器のファストショップつまり安売屋がけっこう進出しているそうだ。10年先にどうなっているか消長が楽しみである。
 あ、まてよ、10年先と気軽に言ってるけど、こっちは消長どころか消一方だろうなあ。

    ◆(追記101228)
 有楽町で百貨店閉店事件といえば、「有楽町そごう」のこともついでに書いておこう。
 有楽町駅前に「そごう」が開店したのは1957年5月25日だった。

 その年の3月、わたしは狭い城下町盆地を抜け出して、だだっ広い関東平野の一角に暮らし始めた。以後の高度成長底辺都市漂流人生の始まりだった。
 街にはフランク永井が歌う「有楽町で逢いしょう」がながれてた。
「あ、鉈を待てば、飴、が降る、濡手、粉糠と、木に掛かる、あ~あ、、」

 こんな風にしか聞こえなくて、妙な気分で聞いていた記憶がある。今、U-TUBEで聞いてみたら、やっぱりこう聞こえたが、元の歌詞を知らない人もいるだろうから書いておく。
「貴方を待てば、雨が降る 濡れて来ぬかと、気にかかる あ~あ」
    ◆
 後にその宣伝作戦の陣頭指揮した人から聞いて知ったが、大阪から東京に始めて進出するそごうの、有楽町開店のテレビ、映画、ラジオのメディアミックス宣伝作戦は、それが当たり前になる時代の端緒だったそうである。
 映画の方は吉田正の作曲でフランク永井の唄であった。テレビ番組「有楽町で逢いましょう」の主題歌が、三木鶏郎作曲で唄はデユークエイセスで、これらはまったく違う歌だったそうだが、こちらは覚えがない。
 この歌に出てくる外が見える2階の「ティールーム」に、大阪から修学旅行でやってきた従妹をつれて行ったことがある。そのときは有楽町駅東口の最近ようやく再開発されてできた「イトシア」あたりの路地の寿司屋に入り、日劇ではロカビリーも見た。

(今思い出したがフランクの歌の続きに「雨もいとしや、すすりなく~」とあったが、これでイトシアと名づけたのじゃないよなあ)
   ◆
 建築学生としては、あの村野藤吾設計の「読売会館」に興味がつきなかった。青味を帯びた硝子ブロックと何本もの深い陰の横ストライプで微妙にカーブする壁面、上層階の白い品のよいテッセラタイル壁面、百貨店の階段の巧みさ、読売ホール内部の玄妙とも言うべきデザインに、大いに惹かれた。
 関連して「新建築」事件というのがあったが、これは業界内コップの中の嵐。
 読売会館は、80年代だったか外装が似て非なるものに改装されて輝きを失い、更にそごうが撤退後に安売り電器屋がはいると電飾がやたらにとりついて、同じ建物なのにこうも変なものになるのかと驚くばかり。

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