2010/02/02

236【老い行く自分】昔々丹波で出会って影響を受けた伊藤ていじ先生が亡くなられた

 今朝の新聞に、建築史家の伊藤鄭爾さんがなくなられたことが報じられている。
 享年88歳とあるから、思い出せばあれは先生が38歳のときであったのか、もっと若かったように思っていたが、、。
この「日本の民家」の本は、学生時代にフィアンセからもらった。
 1960年の夏、わたしは大学の建築史研究室所属の同期仲間3人で、丹波の農村に滞在して民家の調査をしていた。東京大学の建築史研究室との共同研究で大勢の学生や院生たちがいて、その指導教官の一人が伊藤鄭爾さんであった。当時は東大の助手か、助教授だったのだろう。

若い身でありながらその語る人生感と個性に、わたしは強烈な印象をもち、このときに何がしかの影響を受けたのであった。
 一面の稲の田んぼの田舎道をテクテクと出かけて、古い大きな茅葺の民家に上がりこんで、屋根裏まで入って煤で真っ黒になる毎日であった。

 伊藤さんは、ひょろひょろの細身で、力がないからカバンは持たないのだと、風呂敷包みひとつを持ってひょいひょいと歩きながら、そしてまた夜は酒飲みながら、いつもなにかを語って下さった。
 細い身で力が無いのは、結核で死にかけたからであった。東大の院生だったかのころ、病院で寝ているある日、目覚めると周りには泣いている人たちがいる、ははあ、俺はいま死のうとしているんだななと思ったけれど、気力がないから何の不思議もなく眺めていた、という。

 ところが、それほどの病状だった土壇場に、ストレプトマイシンが登場して、その投与で治癒したのであった。
 伊藤さんが言うには、そのストレプトマイシンは貴重な薬であり、なかなか手に入らないものであったので、ある種の差別的な患者選択で投与の優先順位が決まって、東大の研究者はその投与対象に入った。だから、今の自分は何千人何万人かを押しのけて生きているんだから、それだけに熱心に生きなければならないんだ。

 丹波の田舎で聞いた伊藤さんのとどまらない多くの語りは、今考えると彼一流のヨタ話もあったかとも思うが、若いわたしはおおいに感激をしたものであった。
 田園の美しさについて、伊藤さんにわたしが反論した覚えがある。
 ある日の出かける途中で伊藤さんが、この田園風景の美しいことはどうだい、と感激していう。
 わたしは、その美しさの陰には苦しい労働があるのを忘れはいけませんよ、すると伊藤さんは、いや、美しいこととそれとは別ものだよ。この話がどう決着したか忘れた。
 たくさんの話の中からはっきり覚えているのは、先生が死の床から劇的に生き返った話だけである。

 そして伊藤先生は、民家研究の大成者としてその世界を築き、教育者としても工学院大学の学長もなさって、かつて押しのけたかもしれない人たちに代わって立派に米寿まで生き遂げられたのであった。
 その後はわたしは伊藤先生とは縁がなくなったが、大判の「日本の民家」なる評論と二川幸夫の写真、あるいは「谷間の花が見えなかったとき」という松本與作評伝とか「日本デザイン論」などの印象深い著書が、たくさんのわが蔵書処分から逃れて今も手元にある。

 1980年ごろ、東京駅のステーションホテルでのなにかの会合で見かけて、その昔、丹波でお世話になったものでございますと、深くお礼を述べたことがあった。
 もちろん、先生はわたしを覚えてはいらっしゃらなかったが、わたしとしては20年ぶりに何がしかの荷をおろした感があった。

 この4年ほど通っている中越山村で民家調査の手伝いをやることになり、一昨年から半世紀ぶりに屋根裏で煤まみれになる再体験をして、伊藤さんを思い出していたところに、訃報であった。合掌

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