2017/05/12

1266【正岡子規の展覧会】徘徊老人が俳諧巨人の偉大な足跡に驚嘆してきた

生誕150年 正岡子規展 ――病牀六尺の宇宙」を神奈川文学館で見てきた(2017年5月11日)ので、いくつか覚え書き。http://www.kanabun.or.jp/exhibition/5643/

 膨大な資料の系統的かつ分りやすい展示、そして長谷川櫂氏の解説、先ごろ某大臣から非難された学芸員さんに敬意を表したい。
 平日の昼間、しかも子規となると、観客のほとんどが老女だったなあ、こちとらは俳諧ならぬ徘徊老爺である。
 じっと立ちっぱなしで展示資料を読んでいて、歩くよりよほど疲れてしまった。なにしろ展示品が、見るよりも読む者圧倒的に多いのだかからなあ、かといって椅子に座って読ませたら、客が閊えるだろうしなあ。

 子規についてはつまみ食い的な知識はあったが、文学研究者として、日本詩文学改革者として、教育者として、いやまあ、すごい人物だったのだなあ、若死にさせて惜しかった。啄木もモーツアルトも若死にだった、漱石だって若死にだ。
 子規は喀血して先の短いことを覚って生き急いだ。かえりみて、わたしも先が短いと今や覚ったのだが、ちっとも生き急がない馬齢そのもの、あ、馬に叱られるか。 

 政治家になるとの大望を持って松山から東京に移った子規は、結核で挫折、そして文学に生き急ぐ方向を見つけた。
 長谷川の解説に、子規が古今集を罵倒して万葉集に傾倒したのは、当時の政府の国家主義にうまく対応したものであり、その面で大望を果たしたとあった。
 そうであるならば、もしも子規が健康であったなら、日本の危ないリーダーのひとりになって大望を果たした可能性も多分にあるから、文学に行ってくれてよかった。

 子規の家系図には、母方は母方は曽祖父まで書いて詳細だが、父方は父の名だけというのは、父方は平々凡々な人々であったか。わたしは関係ないが、家系に有名な偉い人がいるって、どういう気持ちだろうか。
 子規のような人については、家系図よりも交友相関図をつくってほしい。華麗なる人物が超大勢登場するのだから。

 漱石のたくさんの句作を、子規が容赦なく批評添削している手紙を、面白くて読みふけってしまった。そうだよなあ、そこ、たしかに下手だ、おお、これを子規はうまい句とみるのかあ、など、。
 夏目漱石と子規は同い年、二人が出会ってから互いに文学的な高めあうのを羨ましいと思った。
 子規も小説家になりたかったが、先に文壇に出た同年の幸田露伴に作品を観てもらったら、悪評を受けてくじけたらしい。露伴は子規と違って、教育者ではなかったのか。

 子規が東京に移って入学した東大予備門での、同期学生の学業成績一覧表が展示してありそこに南方熊楠の名がある。
 同年生まれ、同学年で勉強した二人だが、学業の場も専門の場もその後は分かれてしまい、特に交流は無かったらしい。
 巨人二人が教室で出会った若い日は、どんなことを話したのだろうか。
 
 文学館のチケットカウンターで、65歳以上割引をお願いしたら、なにか証明できるものを見せろと言われ、「この顔」といったら、「お若く見えますので」と逆襲サービスされた。

2017/05/10

1265【年齢確認サービス】酒を店で買おうとすると店員が年齢確認するのは商人の新サービスらしい

 徘徊していたら喉が渇いたので、見つけた便利店(コンビニとも言う)で缶ビールを買うことにした。
 金を払おうとすると、「タッチしてください」という。
 おお、その女店員がボディのどこかに触ってくれというのか、でも、お年を召しているよなあ、、てなことではなくて、年齢確認タッチパネルを叩けと言うのである。
う~む、ボケて来たから、オレは20歳以上かどうかわからんなあ
「分りません」ってタッチは無いのかい?
「えッ、あのなあ、この顔を見りゃわかるでしょ」
「はあ、でも、きまりですので、お願いします」
「あのね、法律で年齢を確認するのは、酒を売る方であって、買う方じゃないんですよ」
「でも、店のきまりなんです」
「あのなあ、わたしは自分が未成年でないと自分で確認しなけりゃならないほど、ボケてるつもりはありませんがねえ」
「でも、、、」
「じゃあ、買うのを、やめます」(もしかしてオレは未成年かも)
てなことで、喉が渇いたまま徘徊を続けたのであった。
 しばらくして、これってもしかしたら、「あなたは若く見えますね」って、リップサービスのハイテク版かもしれないと気が付いた。ありがとうって言うべきだったが、もう遅い。
 
 また別の時、病院を出てすぐ前にある処方箋薬局に入る。薬を製造するまでずいぶん待たされたが、ようやくよばれた。
 若い女性が言う。
「むすこさんですか?」
 むすこさんとは息子さんのことか、まさか、、、何か違うことを聞かれたのだろう。
「え?……、はあ?、?……、……」
「ご本人ですか?」
「あ、はい」
 やはり息子かと訊かれたらしい。
 この薬は、代理人の息子が買いに来るほどの、よぼよぼ老人にしか処方しないのか、いやいや、痛み止め貼り薬ですよ。
 う~む、これもリップサービスなんだろうか、薬屋も競争が激しいもんなあ。
 あるいは、この人の視力にかなり問題があるんだろう。

 商人はもっと実のあるサービスを考えなさいよ。

2017/05/06

1264【銀座に戻った観世能楽堂】超便利になったけれども地下3階しかも狭くなって閉所恐怖症にはどうも苦手だなあ

 渋谷の松濤にあった「観世能楽堂」が、銀座に移って開業した。そこでの「野村四郎傘寿特別公演」能楽鑑賞と、それが入る松坂屋の建て替えによる銀座景観の変化を見物に、久しぶりに銀座に行ってきた(2017年5月5日)。
観世能楽堂がやってきた銀座風景 スカイラインが高くなり狭くなったナア
まずは能楽堂の話である。能楽堂は「GSIX」なるビルの地下3階にある。そのビルの正面入り口は、もちろん銀座通りにある。だが、能楽堂への入り口は、東の三原通りから入る。まあ、裏口である。
 松濤では、能楽堂に近づいていく道のあたりから能楽鑑賞気分になったものだが、ここではそうはならない。見所に入って初めてその気分になる。つまらない。

 入ると直ぐ能楽堂があるのじゃなくて、直ぐにエスカレーターを3本、下へ下へと乗り継ぐ。もちろんエレベーターもある。
 ようやく能楽堂がある地下3階についたが、ロビーやホワイエが狭いなあ、狭い、、、今日はお祝いとて、たくさんの胡蝶蘭の花が飾られているせいもあるが、ホントに狭いなあ。
 松濤の観世能楽堂のホワイエもそれほど広くもなかったが、前庭がガラス越しみえたし、休憩にはそこに出ればよかったのだが、ここのビル内では外に出てもエスカレータやエレベータでないと出られないので面倒だ。
 出た先も商店などの通路だから、ゆったりと舞台を思い出して休憩するには、どこかの店に入らざるを得ない。あるいは屋上広場があるのだろうか。

 特に終演直後の一時に大勢の退出時が問題だろう。昨日も終ってから出口で待たせて、調整して少しづつを送りだしていた。たまたま最後のあたりで出たのでわかったが、出る人の長い待ち行列ができて、かなり時間がかかった。
 なんだかなあ、閉所恐怖症のわたしには、大げさに言えば心理的に息がつまりそう。いっそのこと屋上庭園があるなら、そこに舞台を建てて野外能楽堂にしてほしかったな。
幅が足りないなあ、天井が低いなあ
さて見所に入ると、松濤から移してきたらしい舞台が懐かしい。だが見所の広さ形態が変った。
 縦長のシュウボックス型になっている。能楽堂は一般に正方形で、舞台がその右奥の一角にあるのだが、ここでは縦長で正面席が奥に長く、中正面と脇正面の席が左方から攻められている。橋掛かりも短くなったのだろうか。
 ここも広さが足りない感じがするが、まあよろしいでしょう。でも、貧乏人のわたしは安い中正面席をいつも買っているのに、そこが減ったのは痛いなあ。近ごろは能の見料が高くなったしなあ。
国立では後方の席では舞台がけっこう遠い感じがする。
観世ではさらに遠いから、左を広げて後ろを縮めたらよかったのに。
 見所に床の段差をなくしたのはよろしい。なにしろ能の客には、ヨロヨロの年寄りが多いからなあ。
昨日も、そのような老人たちがゆっくりと前を進んで入るので、ちょっと苛ついたのだが、それは数年後のわたしの姿であると気が付いた。
 千駄ヶ谷も横浜もスロープでよいのだが、松濤は階段だらけの見所だった。どこの音楽ホールも2階から上は階段、しかも踏面幅や蹴上げ髙さが不揃いの階段を登るしかないが、わたしもこれがつらいもんなあ。

 日本一と言ってもよい商業床価値のある銀座のビルの中で広い床面積を取得するには、さすがに超高級住宅地松濤の土地を売っても(たぶん)足りなかったのであろうと、観世宗家に同情するしかない。
 江戸時代にはこのあたりに能楽師たちが住んでいたのは、今も金春通りの名に残されているが、観世家もいたから戻ってきたことになる。
 松濤よりも格段に便利な場所になり、能楽の振興にもなるだろう。多目的ホールとも案内にあったから、能に限らず使われるなら、若い人たちが能へのアクセスにもなるだろう。

 では、能楽の話に移ろう。
 能番組は、安宅(野村昌司)、末広がり(野村萬斎)、羽衣彩色之伝(野村四郎)で、能も狂言もシテが野村家であるところがすごい。
 四郎から見て昌司は息子、萬斎は次兄の万作の子であり、このほかに長兄の萬の孫である野村太一郎(故五世野村万之丞の子)が安宅のオモアイで出ていたから、野村3兄弟関係者がそろった。
 お祝いで、観世宗家3兄弟も、仕舞で出そろった。
内祝いとて金平糖のおみやげは金沢産の金箔入り
野村太一郎をはじめて見た。プログラムの名前をみて、はてどの野村狂言家かと思っていたのだが、舞台に登場して分かった。おお、これは野村耕介の声だと。
 野村耕介は野村萬の長男であり、伎楽面の研究者としても著名であり、実験的な狂言も演出・出演して将来を嘱望されながら、その働き盛りに逝ったのだった。
 父そっくりの声で、ふと、耕介が演出した「唐人相撲」を思い出した。
 能楽師の遺児と言えば、安宅の同山のひとりに関根祥丸がいた。これも嘱望されながらある日突然逝った関根祥人の子、先般逝った観世の最長老だった関根祥六の孫である。ここにも跡継ぎが育っている。

 安宅のワキは福王和孝で、羽衣のワキは殿田謙吉、若手には若手をベテランにはベテランの組み合わせだが、羽衣のワキは宝生閑(故人)であってほしかった。
 羽衣の地謡にひとりだけだが女性がいた。四郎の弟子の渡辺瑞子である。ようやく女性能楽師が、男性能楽師とともに普通に出演する時代が来たらしい。
 さて昌司は、父であり師である名匠の四郎に追いつくだろうか。

 観世能楽堂が入った再開発ビルの話は、また後で。

参照:能役者野村四郎http://nomura-shiro.blogspot.jp/


2017/04/27

1263【言葉の酔時記】「ナニナニするものとすることにするものとすることにすることとすること。」

 ほほう、法律用語っていうのか、役人用語っていうのか、こんなにもいちいち「ものとすること」と繰り返している。
 これが無くても十分に意味が通じるのに、なぜこれを全文に付けるのかしら。
「ナニナニする。」で終わろうとしたら、ちょっと筆が(いやキーボードが)滑って、「ナニナニするものとする。」となっちゃったところで終ろうとしたら、また滑って「ナニナニするものとすること。」ってなっちゃったのか。
 だったら、ついでに、「ナニナニするものとすることにするものとすること。」って書いてはいかがかな。
 いや、「ナニナニするものとすることにするものとすることにすることとすること。」の方がよろしいか、いやいや「ナニナニ、、、

 あのお方のことを書くのだから、慎重かつ念入りに、間違いないようにしかも確実に実行するようにと、お書きになったのでしょうねえ、たぶん。
 わたしは中身には興味はないが、この言葉遣いに目が触れて、うっかり読んでしまった。でも内容を理解する能力がない。
 だって、いまどき、こんな人権無視の制度自体がおかしいんだもの。
 
 もしかして、これができたら天皇退位が容易になるんだったら(そうかどうかわからないけど)、次期継承者の病身の奥方のことを思っての制度改訂として、けっこうなことと思いますよ。
 だったら、少しは人権擁護になることとすることになることになるのでしょう。
 あ、そうだ、就位辞退制度があれば、あの気の毒の方のためになるのになあ。
◆◆
わたしのフェイスバカツッツイタアに最近に掲載した「言葉の酔時記」記事をまとめて載せておく

4月26日
【新聞サカサ読み】アレアレ、このお方はまことに正直なんだなあ、思ったことをすぐ口に出してしまうんだもんなあ、ほんとに良いお方なんだなあ、でも正直な人は大臣なんて職業には向かないって、証明してくれましたね、次はどなたが証明するんでしょうか。

4月18日
【新聞サカサ読み】この方のおかげで、学芸員なる日本の文化を支えている人たちがいるってことを、ひろく世に知らしめたから、その功績を讃えたいなあ。
 いちばん怒ってるのは「癌」だろうなあ、おいおい、覚えてろよ、お前に取り付いてやるぞって。それと「観光」も怒ってるだろうなあ、おいおい、おれたちは文化の邪魔者かい、なんて。また「文化」も怒ってるだろうなあ、おいおい、おれたちは観光の邪魔者かい、なんて。

4月9日【新聞サカサ読み】
おお、キズナ(正しくはキヅナだろうな)って言葉の本来の意味で言ってるんだろうなあ、さすがトランプからの「初めてのお使い」だなあ、
「絆=飼っている馬、犬あるいは鷹などを、逃げないように繋いでおく綱」
4月1日
一瞬、本気にしたぞ、ありそうだもんなあ、4月1日でよかった、よかった、、、ウン?

3月29日
【新聞サカサ読み】あちらでソンタク、こちらでソンタク、おやあそちらもソンタクかい、とかくこの世はソンタクだ、ソンタク忖度損得だ、!
3月11日
【新聞サカサ読み】面白いなあ、検査院からか政府からか、朝日がイチャモン付けられたんだろうなあ。
 元の記事と訂正後の記事の違いは、元記事は「安保関連法支出全部についての憲法違反検査する」とあるのに、訂正後は「文書だけについて憲法違反検査をすることもある」ってんですね。
 この文書への支出って、書類を作るためにかかった人件費や印刷代てことかしら。ってことは、安保関連法による南スーダンへの自衛隊派遣への支出は、検査対象じゃないんだなあ。来年の検査でやるのかしら、いや、やることももあるってのかしら。
 見出しの「憲法判断へ」と、「憲法判断も」との違いは、「へ」だと「やることにした」ってことになり、「も」だと「やるかもしれない」ってことになるんだなあ、ふ~ん。

2017/04/17

1262【横浜ご近所探検】半世紀前に建ったモダンデザインの防火建築帯ビルは生きながら廃墟化の道を進む

ふらふらと長者町通りの商店街を徘徊していたら、「長者町8丁目共同ビル」一階の店にシャッターが下りて、張り紙に「閉店のお知らせ」と書いてある。
 その理由として、「ビル老朽化の為」とある。

 でも、この店のあるビルは4階建ての共同建築だから、この店1軒だけが老朽化ではなくて、ビル全部がボロボロになったのだろう。
 他の店には張り紙はまだ無いが、そのうちに閉店のお知らせが順々に登場するのだろう。

 このビルは、今から60年ほど前に、土地所有者8人が共同して建築した「防火建築帯」である。いよいよ、今度こそは本当に取り壊して、新ビルに建替えるのだろうか。
 「今度こそは本当に」と書いたのは、だいぶ前にも同じことがあり、このブログに書いた記憶があるからだ、探したら、あった。
 2013年6月19日 http://datey.blogspot.jp/2013/06/797.html

 4年前にも、別の店が「建物老朽化に伴い、お客様の安全が確保できない為」に閉店すると張り紙をしていたのだ。
 だがこのビルは今まで取り壊しもせずに建っている。
 たぶん、建替えしようとしているのだが、8人の持ち主の気持ちがそろわないので、いまだに壊せないのだろうなあ。

 ビルはどんどん汚れてきている。
 上のアパート階の外廊下には、手すりがわりのベニヤ板がボロボロにめくれていく。プレコンに塗ったペンキがボロボロと剥げていく。
 中央図書館への往復で前を通るたびに、この生きた廃墟化の過程を興味深く観察している。

 この建築デザインを専門家筋から見ると、戦後モダンデザインとしてなかなかよいものである。さすが横浜の名建築家・吉原慎一郎の設計だ。
 きちんと改修すれば見栄えの良いビルに変身するはずだ。ほったらかしは惜しいなあ。

●参照:「横浜ご近所探検隊が行く
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_19.html
 

2017/04/16

1261【新聞ハテナ読み】チャイナとコーリアの外国人名表記はいったいどうなってるんだ?

 前々から新聞読みながら変だなと思っていることに、チャイナ(China)とコリア(Korea、DPRKorea)の人名の振り仮名である。今日はそれらを纏めて拾ったので、あげつらっていく。
 まずはチャイナ系である。かの有名なシュウキンペイもしくはシーチンピンさんである。チャイナの人には、現地読みに近い振り仮名をカタカナで書くしい、、。

 と思ったら、こちらはなんと、たいせいごさんと、振り仮名がひらがなである。ひらがなってことは、つまりこれは日本流音読みなんだな。同じチャイナ系でどうしてちがうんだろ。まさかご本人が、こう発音しているのじゃないでしょ。

 そこで他のページでチャイナ系を探したら、あった、あった、スポーツ欄でピンポン選手名である。でも、どういうわけか、カタカナもひらがなも振り仮名がないのである。なんと読めばよいのだろうか。
 丁寧さんて名の人がいるよ、テイネイさんと呼び、ホントに丁寧なピンポンをやるのだろうなあ。

 次は、コリア系である。南系は、ムンジェイイン、アンチョルスと、カタカナ振り仮名である。では北系の方々はどうかと見れば、キムイルソン、キムジョンウンと、カタカナ振り仮名である。

つまり、振り仮名では南北統一である。でもなあ、コリアでは漢字を使ってるのかなあ、廃止したとか聞いてるけどなあ、だったら初めからカタカナだけで書けばいいでしょ、なぜそうしないのかなあ。
 
 まあ、どうでもいいような気もするけど、国際交流で話す時に、ついシュウキンペイさんこんにちわとか、キンショウオンさんこんにちわとかって言って、気分悪くされるようなことがあるような気もする。
 中国の革命時代の騒動をかいた「ワイルドスワン」という英語ペイパーバックを読んでいたら、周恩来とか毛沢東とかが出てきてもsyuonraiとかmotakutoとかじゃないから、それがそうだとしばらく分らずにいて、当惑苦笑したことがある。

 ネットでちょっと調べたけど、相互主義とかいって、アチラがそうだからこちらもそうするんだとかってあるらしいけど、バカみたいだね、大人げないねえ。
 このいい加減な表記のバカ朝日新聞しか読んでないけど、他の右翼産経新聞とはどう書いてるんだろうか。
  

2017/04/09

1260【花見と戦争】あの戦場に消えた人や戦場に送りだした人のことを改めて思う花の春の日だった

 久しぶりに日吉の慶応大学キャンパスを訪れた。花見ではなくて、戦争と大学についてのお勉強会である。
慶應大学福澤センター、戸倉武之さんの講演「大学は戦争の何を『引き継ぐ』のか?ー慶應義塾における実名と実物の継承の試みー」。
 慶應義塾関係者の戦争体験を、兵士となった本人はもとより、その周辺の家族や恋人など、ひとりひとり個人史としての戦争を追う研究をしているのだそうだ。その中間報告の講演会であった。

 これまでよくある政治や戦況や勇将による戦争史ではなくて、参加した兵士個人とその周辺人物が語る言葉と保存する実物からの視線で戦争の時代を問い直す研究は、この分野を拓いた白井厚さんの研究をひきついだのだそうだが、実に興味深い。
 慶應大学という広範で強力なネットワークをつかって、人間情報と実物情報の収集は膨大なものになるらしい。

 慶應大学の日吉キャンパス自体が、海軍地下壕遺跡という戦争を語る重要な物証であり、ここから戦争の現場につながっていることも、この研究を地に足が着いたもの入しているのだろう。この講演会主催者は、その「日吉台地下壕保存の会」であった。
 白井厚さんも会場のおられて、三田キャンパスが空襲で炎上したのだが、今はその跡が全く見えないないので、それを教えることも必要と発言しておられた。

 戦場に消えた人や戦場に送りだした人々の、いくつかのエピソードを聴かせてもらった。個人的な生々しい資料を発掘して、戦争を平地から見る視線には興味深い展開がある。
 例えば、学徒兵の遺稿集『きけわだつみのこえ』に登場する、自由主義者として死ぬと書いた特攻隊員の上原良司のことである。安曇野の上原家に保管されていた膨大な資料を発掘して、あの有名な「所感」をとりまく上原の家族の幸福と悲劇を、庶民史の断面として見せてくれる。

 もうあの時代を自身のこととして語る人たちはほとんどいなくなる中で、このような発掘仕事は困難なことであるらしいが、それでも意外に多くの人や物が貴重な資料として登場してくる。
 戸倉さんは、実名と実物に語らせることに大きな意義があるとしている。
戦争の呼称や期間が人によって論争になる

 情報収集の範囲は、慶應大学関係に限るとしておられるらしいが、他の大学でもやっているだろうか、あるならそれと連携することで新展開があるだろうか。
 戦争の研究となれば、右や左の喧しい人々が妙な口を出すのではないかと、ちょっと心配になるが、戸倉さんは心得ておられるようだ。
 終わりのない研究になるようだが、ネット公開するとのことなので、楽しみである。

 そういえば昨年、わたしの家族の戦争史とでもいうべき「父の十五年」をお読みになった、海外神社研究者からお問い合わせをいただいた。わたしも興味を持ってその公開研究会傍聴に行ったが、これもまた別の意味での戦争研究の新地平かもしれない。
 以前に戸倉さんの著述を読んで、『戦争に翻弄された大学とモダン建築ー谷口吉郎設計の慶應日吉寄宿舎』の一文を書いていたので、本日、それをプリントした冊子を渡して、お礼を言って辞した。

 外に出て、1970年代に住んでいた南日吉団地のあたりを久しぶりに歩いてきた。団地は建替えられて風景が変り、まわりの田園風景は密集する住宅地に変っている。
 なにしろ今では地下鉄の駅ができているのだから、変るのも当たり前だ。
それでも丘陵の裾あたりは、かつて子どもを連れて散歩した田畑と山林の入りまじる風景があり、いまちょうど満開の桜と菜の花が美しい。花だらけで食傷する名所の桜よりも、このような自然の樹木の取り合わせの素朴な風景が目に染みる。

2017/04/06

1259【お花見宴会】母校キャンパスの満開桜の下で楽しむ花見を来年もできるだろうか

  同期仲間5人を誘って、ふらりと母校の大岡山キャンパスに、春の花見に行ってきた。去年やってきた4月1日は満開だったのに、今年の4月5日は7分咲きだった。
花見には絶好の本館正面広場は、いつもの春のように花見客が大勢すわりこんでいいる。特に走り回る幼児を連れた母親たちが多くいのが目立つのは、ここが飲酒禁止のキャンパスだからだろう。わたしたちのような年寄りもいる。子どもにも老人にも好かれる花見の場である。なかなかよろしい。
 花は美しいが、その花を咲かせる桜の木が、黒々とした太い幹、あちこちにコブや穴があり、枝はよじれて地を這うよう。昔々この庭で山岳部トレーニングしたころは、細くて背丈ほどだったのになあ。
 人の少ない桜を求めて、キャンパスを貫通する呑川河畔は満開の花、そこにかかる木橋の上にちょうどよい枝が伸びている。

おお、ここは川の上だからキャンパス外にちがいない、禁酒じゃあるまいと勝手に決めて、持ちよりの酒やつまみを橋の上に広げて宴会開始。
 天気よし、花よし、酒よし、仲間よし、酒と肴に花びらが散りこむ。 
 宴半ばにガードマンらしき二人の男がわきを通る。もしもし、構内は飲酒禁止です、あー、はいはい、ご忠告ありがとう。でも宴会は続く。

◆◆

 本館前の新図書館の横、この場所には名建築家・谷口吉郎設計の出世作「水力実験室」が建っていた。
 今は取り壊されて空き地である。実験のために使った水銀汚染が残るので、取り壊さざるを得なかった。
 でも、わたしはそこにあった実験用のプールで泳いだよなあ、いいのかなあ、ここまで元気に生きたのは、水銀のせいかもなあ、やっぱりよくないか。


 水力実験室はなくなったが、そこから本館寄りには、谷口設計の70周年記念講堂が建っている。そして本館そのものも、若い時の谷口が関わったデザインで健在である。
 桜名所の本館前広場には、谷口吉郎の一番弟子の建築家・清家清設計の大学本部や、その弟子の篠原一男の設計になる百年記念館もある。
 更にその篠原の弟子である安田幸一設計の新図書館が最近の広場の建築であるが、それは一部しか地上に顔を出さずに、多くを広場地下にいれている。
 こうして花見で師弟四代にわたる建築を見ることができるのである。

参照:1183【花見と老木】願わくば花の下にて春死なむ卯月朔日想い出の地に

2017/03/24

1258【横浜ご近所探検隊】戦後復興期まちづくりの防火建築帯について若い人たちが地域に入って研究する時代が来たのは嬉しい

●横浜戦後復興都市建築の歴史化

 横浜の伝統的都心部(関内と関外)まちづくりの歴史というと、一般の人々には開港時から戦前の歴史的建築のことをイメージし、都市や建築の専門家たちはさらにそこから飛んで20世紀も終り頃の「みなとみらい」とか都市デザイン行政とかになるようだ。

 ところが、関内と関外の都心景観を現につくっている主流は、その頃ではなくて20世紀半ば1950~60年代につくられた街並みである。
 つまり、第2次大戦でいったん壊滅した横浜都心部を、そこから復興したときに新たにつくった建築群が今の横浜都心の姿なのである。それを載せる基盤となる道路や街区は、関東大震災復興でつくったものである。

 20世紀初めの都市基盤に20世紀半ばの建築が乗っているという、考えようでは歴史がないし、いや、今となってはそれも歴史になる時が来ているとも思える。
 さすがに21世紀ともなれば、それらの変化が著しくなり、さらに消滅も珍しいことではなくなってきている。その変化と消滅と再生は、まさに都市のダイナミックな歴史の動きそのものであり、研究対象として面白そうだ。
市街地再開発事業で再生した防火建築帯 日ノ出町駅前

事務所と強度住宅に建て替えした防火建築帯 長者町3丁目

●研究は大学の机の上から街の中へ

2017/03/22

1257【横浜ご近所探検隊】横浜市市街地環境設計制度による公開空地を公開しないで緩和された床面積や高さ部分を食い逃げしてるビル二つ

 陽気がよくなってきたので、今日も今日とて、横浜都心関内徘徊がはかどる。
 立派なオフィスビルや共同住宅ビルが立ち並び、道には歩道もあるけど、さらに歩道から建物を引っ込めて、歩道状や広場状の公開空地も多くて気持ちよろしい。さすが横浜市のまちづくり指導はちゃんとしているんだなあ。

 なんて思いつつ横浜球場の近くにふらふら、立派なビルが二つ並んでいて、公開空地が広くとってあって、おお、なかなかよろしいと、近づいてみる。
 ひとつは「帝蚕産関内ビル」なる事務所ビル、もうひとつは「ヴィルヌーブ横濱」なる共同住宅ビル(いわゆるマンション)。

帝蚕産関内ビル」にはハローワークがはいっている。歩道につながって敷地に広い歩道状の空地があり、植え込みもある。

近づこうとしたら、あれまあ、道路と敷地の境界にロープが張ってあり、公開空地に「立ち入り禁止」の札がぶら下がっている。工事中の様子もない。
左上の植え込みの中に公開空地表示掲示板が見える

 アレッ、ここは誰もが入ってもよいと、法で決められた公開空地ではないのか。
 変だなあと見回すと、植え込みの中に公開空地表示の掲示板があり、立ち入り禁止を侵して、ロープをまたいで近寄って見れば、チャンと書いてある。
「この公開空地は横浜市市街地環境設計に基づく建築物の許可条件として設置されたもので、どなたでも日常自由に通行又は利用できるものです。
  平成7年2月 横浜市中区北仲通5-57 帝蚕倉庫株式会社」

さてさて、「どなたでも日常自由に通行又は利用」が正しいのか、それとも「立ち入り禁止」が正しいのか、帝蚕倉庫株式会社はいかがなものでしょうか?
 「横浜市市街地環境設計に基づく云々」、と書いていあるから、ここは法による公開空地としか考えられないよなあ。
 ここままだと、横浜市市街地環境設計制度に違反しているような気がするのですが、どうですか帝蚕倉庫さんよ~。。

 この制度は、建築や都市の法律により、建築物を建てるときに誰もが利用できる公開空地を整備して街の環境を良くすることに貢献するのと引き換えに、都市計画の容積率制限や高さ制限を緩和して建築物の床面積を特別に大きくすることを許可するのである。つまりそれだけ不動産収入が増えるのだ。
 そして建物のオーナーは、この公開空地を公開するという誓約書を、市長に出している筈である。この制度にそう書いてあるから、帝蚕倉庫さんもお出しでしょうね。

 このビルは20年ほど前にできたが、そのときから立ち入り禁止にしているのかどうか分らないが、これはどうも違法行為であるとしか思えない。それとも何か特別に立ち入り禁止してもよいと許可を取っているのだろうか。
 帝蚕倉庫会社と言えば、横浜港の絹貿易と共に歩んできた伝統ある名門企業だろうに、これでよいのかしら、ハローワークという公共機関が違反建築に入っていてもよいのかしら。
 公開空地を「公開」しないのだから一方的に儲けただけ、緩和の食い逃げですよ。
 緩和を受けて基準よりも増えた床面積や基準を超えた高さの部分の建築物を削り取る必要があると思うのだが、どうなんだろうか。
 
 と、頭をかしげながら、隣の「ヴィルヌーブ横濱」なる共同住宅ビルに来た。
左上に見える黒いものは首都高速道路
この柱の向こうのピロティも公開空地のはず


 こちらのビルは、一階に歩道状空地があり、更に建物の一階の一部はピロティ広場になっていて、これらが「どなたでも日常自由に通行又は利用」との公開空地の表示看板がある。

ところが、違反行為は伝染するものらしい。ピロティに入ろうとすると、どの柱と柱の間にもプラントボックスが置いてあり、そこに「関係者以外立ち入りご遠慮ください」の表示があるのだ。
 おやおや、大きなビルが並んでそろって違反だよなあ。

こちらは歩道状空地は自由に通行しても良いらしいから、帝蚕倉庫よりも若干は違反度が少ない。
 それでもピロティの公開空地に対応する床面積と高さの緩和部分の建物を削り取る必要がありそうだなあ。それとも特別にピロティは公開しなくてもよい許可を取っているのかなあ。
 
 なお、「ヴィルヌーブ」ってなんだろうって、ネットで調べたら人名が出てきたが、それではあるまい。フランス語で気取って「Ville neuve横浜」つまり「新町横浜」かなあ、ふ~ん、。
 「帝蚕倉庫」というのも珍しいが、もとはたぶん「帝国蚕糸倉庫」といったのだろう、絹糸貿易の保税倉庫のことかしら、連想したのは「帝国人造絹糸」のテイジン。
 「ハローワーク」も珍妙なネーミングであるよなあ、むかしは公共職業安定所といっていたなあ、。
 もっと珍妙なのが「マンション」であるよなあ、なんともはや、ウサギ小屋(この揶揄も今や通じなくなったかも)共同住宅ビルを、マンションmansionとは、よく言うよ。
 
 さて、徘徊でタマタマ違反建築2件が並んでいたのを見つけたが、じつは他にもいっぱいありそうだなあ。
 こういう緩和措置の食い逃げ行為は、誰が取り締まるのかなあ、建築警察とかってあるとは聞かないなあ。食い逃げ得なのかなあ。
 今年の徘徊は、都市計画違反建築発見を目的にしようかなあ、あ、目的があるのは徘徊とは言わないんだな、。

●参照⇒横浜ご近所探検隊が行く