2017/02/14

1253映画「MERU」を観たがヒマラヤ超難関絶壁登攀をテーマにしつつ、なかかよくできた人生ドキュメンタリー映画だった

 映画「MERU]を観た。インド北部のヒマラヤ山脈にあるMERU(メルー)中央峰にそびえる“シャークスフィン”となづける岸壁を直登するドキュメンタリー映画である。
 街を徘徊していたら映画館の前にでて、ものすごい岩壁にクライマーがいる写真ポスターを発見、ちょうど上映開始時刻、昔山岳部員だった記憶に背中を押されて、フラフラと入った。映画館なんて3年ぶりか。

 映画「MERU]は、なかなか良いできだった。
 製作・監督ジミー・チンが、クライマー、スキーヤー、写真家そして映像作家であり、メルー登攀チームのメンバーだから、長い歳月をかけて多くの撮影をしてきたらしく、入念に編集してある。
 3人の登攀者の葛藤を、単に山岳登攀劇としてではなく、人生の目的追及とその転機を見事に撚り合わせるドキュメンタリー映画だった。

 何も予備知識ないままに観はじめた。
 初めのうちは、登攀者たちやその関係者たちが、幕間の解説みたいに何度も登場してきて、うるさいなあ、はやく登攀の現場を見せろと思ったものだ。
 そのうちに、この映画は登攀を見せるには、そこに至るまでの登攀者やその関係者の人生と、登攀に関連して起きたいくつかの事件を見せるのだと気が付いた。

 普通の山岳映画のように、登攀の技術的苦労を見せようとする映画ではないらしい。
 コンラッド・アンカー、ジミー・チン、レナン・オズタークという、3人のクライマーたちの過去の人生と山での事件を克明に描く。
 巨大雪崩に巻き込まれて友を失いつつも生き残って長く悩みぬくジミー、親友だった山仲間を遭難で失ってその家族を支えるコンラッド、頭がい骨が露出する瀕死の重傷から驚異的なリハビリで復帰するレナン、それぞれの映像が劇的である。

 もちろんMERU登攀場面はすごいのだが、劇映画のような俗っぽい悲劇やら失敗が起るのではないから、山岳登攀の手法を知っているとそのテクニックなどが実に面白いが、そうでないと映像は美しいと思っても登攀の苦労はそれほどでもないと思うかもしれない。
 それにしても現代の登攀用具は、岩場に吊りさげるテントといい、各種道具類と言いすごいものである。ただ、生身の人間だけは変わりようがない。

 登攀者本人が持つカメラ撮影だから、当然のことに劇映画のように、トップをいくクライマーが登ってくるところを待ち構えて撮った映像は無い。あるいは岸壁に取り付くクライマーをヘリコプターで撮ることもない。
 しかし、プロの映像作家が登攀者本人であり、そのプロによる撮影だから、ドキュメンタリーとして劇映画にはない現実的迫力がある。変りゆくMERUの姿の長時間露出映像が美しい。

これは山岳映画というテーマで3人のクライマーの人生を浮き彫りにしたドクメンタリーである。彼らの人生とクライマーとしての数々の事件が面白く、時間をかけて多くの場所で撮影し、巧みに編集して、できのよい映画となった。
 
 それにしても映画館はなんてさびしいのだろ。まあ、平日の昼間だからなあ、年寄りの男ばかり、、でも若い女性がちらほらいたのは、山好きなんだろうか。

●参照
http://meru-movie.jp/
http://eiga.com/official/meru/

2017/02/09

1252【東京駅周辺徘徊その8】東京駅八重洲口の開設は十河信二の都市計画法抜け穴突破策略にはじまるらしい

東京駅周辺徘徊その7】のつづき

●東京駅開業から38年目にして八重洲口駅舎完成

 東京駅の東側にあった外堀が戦後に埋め立てられた。東京駅は京橋、銀座胃、日本橋などの江戸以来の市街地と陸続きになった。外堀の埋立っで生れた新たな土地には、八重洲口駅前広場が開設され、八重洲口駅ビルがやいくつかのビルが建ち始めた。
 1952年に本格的な駅ビルを着工し、1954年10月14日に6階建て(後に増築して11階建て)の東京駅八重洲口新駅舎・鉄道会館が使用を開始した。10月21日にはそこに大阪から進出してきた大丸百貨店が開店した。
 わたしはその工事中に東京駅を初めて訪れて、足場の間を通り抜けた記憶がある。その後の地下街工事、新幹線工事、近年の建替え工事など、東京駅八重洲口はいつも工事中のイメージがある。
鉄道会館と国際観光会館 1958年撮影
 
 東京駅は開業時には帝都東京の玄関として西のミカドに顔を向けても、東の商都東京の商人の町には固く閉じて出入りお断りだった。
 それから15年目にして、震災復興でようやく小さな裏口を東に開けた。もう一度の災害の後、小さいながらもそれなりに駅舎を建てて、ようやく顔を向けた。だが、すぐに姿を消したのは、この地の霊魂が戦後になってもミカドの駅に固執したのか。
 さらに時が経ち、東京駅開業以来38年目にして、ようやく東京本来の街に東京駅も顔を向けたのであった。
 この後、1964年には東京駅に東海道新幹線が入ってきて、八重洲側がその乗降の場となって、東京駅はようやく帝都の玄関から商都の玄関となった。
 八重洲口に入ってきた新幹線といえば、十河信二がその父と言われる。十河が戦後に国鉄総裁になって1964年に大阪まで開通させたのだ。  
1988年製作「駅からマップ」東京駅とその周辺
この絵の建物のいくつが今も建っているか数えると面白い

●十河信二の策略による八重洲橋架橋
 東京駅に八重洲口の駅舎が、なぜこうも長い間仮のままであったのだろうか。その原因のひとつに、戦中の弾丸列車の東京駅乗入計画が絡んでいて、それが固まらないままに新駅舎をつくるのを躊躇していたのだろうと、勝手に推測してた。
 ところが、弾丸列車計画が出る1938年頃よりも前の震災復興当時にも、国鉄は八重洲口開設に消極的であったことが、十河信二の言にあることが分かった。
 八重洲口には十河が重要な役割を果たしている。それが奇妙に面白いので書いておく。

 1923年の震災当時は、十河信二は鉄道省の経理課にいたが、関東大震災後にできた内務省復興局に移って、経理部長として震災復興事業に携わっていた。当初の理想的な復興計画は、当時の政争のなかで保守派によって、余りにも縮小されたことは有名である。
 十河が復興局時代の思い出を語っている中に、東京駅八重洲口のことに触れている(『内務省外史』地方財務協会発行1975年)

 復興局で財布を預かる経理部長の十河は、復興計画を都市計画委員会に諮ると、政争による反対論によって、事業規模がどんどん縮小されていくのを苦々しく思っていた。
 そこで、都市計画法の抜け穴を考え出したというのである。
それは都市計画法によると、委員会にかけるのは道路計画だけで、橋というのは指定していない。だから橋は計画外になっておるのだという解釈で、材料を買って、政府の原案に従って橋だけ先にかける。これ以外にはどうにも方法がありません。」
「……それでいたるところに橋ができた。そのいちばん顕著なのは…東京駅の八重洲口、今は堀をつぶされておるけれども、あそこには堀があって、八重洲橋という橋を架けた。今、八重洲口を出ると広い道路になっておるが、原案にあの道路は無かった。当時、国鉄も八重洲口をつくることには賛成をしなかった。都市計画委員会は盛んに反対をしている。それを復興局の原計画に従って先にやってしまった。

 八重洲橋を架けたというか、架ける策謀をやったのは十河であるというのだ。乱暴なことだが、橋を先にかけてしまって、後から八重洲通りの道路計画を委員会に諮ったのか。そういえば八重洲通りも、超過買収方式で沿道まちづくりを同時に進める計画だったが、委員会で潰されて道路だけになったことも有名である。

 この十河の話のどこまでほんとうか、八重洲橋だけのことか八重洲通りも含むのかも分らない。本当ならば、復興橋梁がいまだに立派に評価されるのは、十河が橋梁だけは財布を絞らせなかったおかげということになる。
 我田引水的には、建築家山口文象が橋のデザインに関ることができたのも、十河の策略のおかげとなる。特に八重洲橋の設計図には、山口の当時の姓である岡村のサインがある。
八重洲橋設計図 岡村(山口文象)のサイン

●30余年にもわたる十河信二の機略による八重洲口
 鉄道省出身の十河のことだから、東京駅八重洲口の開設を前提にして(あるいは画策して)八重洲橋を架けたことは想像に難くない。
震災復興後の1930年の東京駅、外堀、八重洲橋

復興事業では外堀に八重洲橋が架かり、
立派な駅舎はできなかったが駅裏に電車専用乗降口が開設した

 国鉄が八重洲口開設を嫌がったのに、東京駅の八重洲口にしか用がない八重洲橋を架けて八重洲口を開設させたのが十河信二であり、後に国鉄総裁となって新幹線を入れて本格的八重洲口駅舎につくったのもこの十河であった。もしかして30数年を隔てても、十河には一連のことであったのだろうか。

 余談になるが、十河は震災復興局に後藤新平の要請で入る時に、土木部長として太田円三をひきいれて、財布担当と技術担当のコンビで復興事業に取り組んだ。だが復興局の用地買収贈収賄事件で太田は自死、十河は無罪になったが身を引き、復興事業を全うできなかった。
 戦後に十河が国鉄総裁になった時に、新幹線事業のために技師長として島秀雄をひきいれて、また財布と技術のコンビで取り組んだ。だが開業時には二人とも政治的な事情等で国鉄を退いていた。
     ◆◆
 東京駅のことは、昔々仕事としてわたしは調べていたのに、今を趣味で考えてみている。これから八重洲側が面白そうだが、こちらも保存と開発の問題が出て来るかしら。
 そしてまた、帝都玄関丸の内と商都玄関八重洲とを比較すると、聖と俗とか、官と民とか、三菱対三井とか、面白い対立的構図で我田引水社会論ができそうだ。 終わり

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
東京駅周辺徘徊その7】まぼろしの戦後初の八重洲口駅舎
・【東京駅周辺徘徊その6】控えめ過ぎる初代八重洲駅舎
http://datey.blogspot.jp/2017/01/1247.html
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 


東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2017/02/06

1251【言葉の酔時記:ムサコ】「むさしこすぎ」とは日本古語だと「むさ苦しい小杉」なんだけど「ムサコ」にすると?

 今日の新聞(2017年2月6日朝日新聞朝刊神奈川面)に、「ムサコなの?、小杉でしょ」と見出しがある。

 なんだよ、わたしが去年7月にもう書いてるんだけどなあ。
http://datey.blogspot.jp/2016/07/1206.html

武蔵小杉じゃないよ、小杉だよ
 なになに、「武蔵小杉最大の免震ツインタワー」だってさ、あんなところに超高層かい。
 あのね、ムサコってね、今はタワマンばっかりですよ。
 なんだい、ムサコってむさ苦しい、タワマンて撓まん、な~んてね。
 ケッ、武蔵小杉を略してムサコ、タワーマンションを略してタワマン。
 ふむ、ワイセツ語とも知らずに二子玉川をニコタマって言うようなもんだな、あのね、あの街は本当は小杉なんだよ、武蔵小杉ってのは鉄道駅の名だよ。町名に小杉一丁目はあっても、武蔵小杉なんて無いよ。東横沿線の人たちは武蔵なんてつけないよ。

         ◆◆
 「ムサコ」って、「ニコタマ」と同じに、若者の隠語が広がったものとばかりに思っていたら、なんと川崎市が2005年に街の愛称募集して、応募数1700件から選んだそうだ。
 選んだ当時は批判が多かったらしい。へえ~、、面白いなあ、隠語が顕語化する過程のひとつの例だな。
 そういえば「ニコタマ」はどうなんだろうか。こちらも世田谷区が公募して隠語を顕語にしたのか。

 でもなあ、「むさしこすぎ」でも「ムサコ」でも、なんともヘンな別の意味があるのだけど気が付かないのかなあ、ニコタマのようにね。
 「むさし」とは、いまでも「むさ苦しい」というように、古語では「不潔である。心ぎたない。卑しい」なんて意味である。
 狂言には「むさとした」という言葉がよく出る。「いいかげんな、うっかりした、つまらない」などの意味で、何かにケチを付けたり非難するときに使う。
 だから武蔵小杉の意味は、、、、まあ、なんでもよろしいが、たくさんの超縦細長アパートメントハウス(俗にタワーマンションという)が建ち並んで、なにやら「むさとした」街になってきているような気もする。

 なお、辞書にはこうかいてある。

むさ・し  形容詞ク活用
 活用{(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ}
 むさくるしい。不潔である。心ぎたない。卑しい。
 「塩籠(しほかご)にむさき事どもして」<出典西鶴織留 浮世・西鶴>
   [訳] (油虫どもが)塩籠に不潔なことごとをして。

むさ‐と  [副]《「むざと」とも》
 1 軽率にことをするさま。うっかりと。
  「やいやい、むさと傍へな寄りおっそ」〈虎清狂・蟹山伏〉
 2 いいかげんにことをするさま。やたらに。
  「松茸(まつだけ)なども、むさと食ぶるは」〈咄・きのふはけふ・上〉
 3 取るに足りないさま。
  「むさとしたる食物をつつしむべし」〈仮・東海道名所記・一〉

(追記 2017/02/07)
 この記事を読んだ旧友から、こんなことを昔聞いたがとSNS経由のコメント。
今の関東はかつて「むさ」と言って、その上の方を「むさがみ」即ち「相模」、下の方は「むさしも」即ち「武蔵」と言う・・これって本当?
 う~む、面白いなあ、まあ、京の都から見れば、「東の国々はどこもかしこも、むさくるしいところ」だったんだろうなあ。


2017/02/05

1250【言葉の酔時記:バンドル】食品量販店にあった新種?の魚の切り身


 かなり前のことだが、量販店の魚売り場、数枚の切り身がプラスチック皿に乗って透明シートで包まれている。
 書いてある魚の名は「バンドル」、はて、聞いたことがない名の魚だ。サバとかタイとかヒラメとかなんて書いてないのだ。
 どうでもよいのだけど、気になる。
こんな感じで、値段とか店名とか書いたシールが貼ってあった

 通りかかった中年男店員を呼びとめて、「このバンドルってどこで採れる魚なの?」と聞いた。男は、妙な顔をしてむにゃむにゃ言っている。
 「最近採れるのようになったの?」とさらに聞く。男はむにゃむにゃ、わたし「どうなの?」、男「もう勘弁してください」というと、そそくさと消えて行った。

 わたしはあっけにとられた。なにか聞いてはいけないことを聞いたのだろうか、バンドルって魚って実は採取も販売も禁止なんだろうか、、そしてそれきり忘れていた。
 いま、ひょいと思い出して、貧者の百科事典をひいて見たら、ありましたねえ、わかりました、バンドル魚の正体が、、こうなんですって。

 スーパーで使う用語http://fanblogs.jp/kobarutodesk/archive/54/0
 バンドル販売。これは、バンドル=束という意味で、いつもは1つずつ売っている商品を2個以上のセットにして売る販売方法です。これをするときは1個売りのときよりも、1個当たりの値段が安くなるように設定します。こうすることで、お客様の買い上げ点数が増え、売上高の増加に繋がります。

 なんだ、bundle(束)のことかよ、そういえばあの時のプラ皿には、何枚か違う色した切り身が乗ってたなあ、束にして売るとて「バンドル」としていたのか。
 でもなあ、それって売る方の業界専門用語でしょ、商品に業界隠語をつけて店頭に並べるって、どういうことなんだろ。魚なのになんで魚の名をつけないのだろう?

 買う方で「今日は魚をバンドルで買おう」なんて思うものかしら。日常で魚の切り身を買うことがないわたしだけが知らないけど、実はこれは常識なのだろうか。
 あの量販店中年男は、そのあまりにも常識的なことを聞かれて、この男客はオレをカラカッているのか」と思ったのだろうなあ、、う~む。
 でも、バンドルってのは、切り身の盛り合わせのことだって、世の中のみんなが知ってるんだろうか?

2017/01/31

1249【東京駅周辺徘徊その7】戦争直後にさっそう登場して5か月で消えた幻のモダン建築八重洲口駅舎


東京駅とその周辺の太平洋戦争による空爆被災
 太平洋戦争の空爆で、1945年5月25日に東京駅も被災した。丸の内駅舎は焼夷弾を食らって炎上、煉瓦壁とコンクリ床とぐにゃぐにゃ屋根鉄骨だけが残った。
 下の地図はピンク塗りつぶし部分が被災したところで、丸の内側は東京駅舎の外は比較的被災が少ないようだ。だが八重洲側の京橋、銀座、日本橋、そして大手町も、街はどこもかしこもすっかり炎上した。
東京駅周辺の戦災被災区域図
 上の地図だと東京駅の東の八重洲口あたりの被災は無かったようだが、どうだろうか。
 次の写真は、戦争直後の京橋上空から西を俯瞰している。焼け跡がある程度片付いているようだから1945年末か1946年の撮影だろう。

 次は上の写真の八重洲口あたりの拡大である。
 八重洲橋の正面に2階建ての駅舎らしい建物があるが、丸の内駅舎が丸焼けになったので、こちらに機能を移しているのだろうか。
 その左には初代の八重洲口駅舎らしい形も見えるから、こちらは被災しなかったのかもしれない。 
 

 ついでにこの時の丸の内駅舎の様子を見よう。丸の内の赤レンガ駅舎は、1945年5月20日の空襲で焼夷弾を浴びて炎上した。
 下の写真は、鉄骨造の屋根が焼け落ちてしまい、内部は全焼、煉瓦の壁とコンクリート床が焼け残っている。まだ修復工事が始まっていないから、1945年末ごろの写真だろうか。手前の池は、工事中断したままだった新丸ビルの地下にたまった水である。


 次の空中写真は1947年11月撮影である。東京駅八重洲口側の中央あたりに外堀にかかる八重洲橋がある。八重洲口の駅舎は小さすぎてよく分らない。
 この写真の外堀は埋め立て工事中なので水が見えない。外堀埋立は1947年11月20日に完了し、れによって生じた土地は、東京駅拡張用地や民間開発事業用地となった。
 西側の丸の内駅前広場に面して南に東京中央郵便局、北に鉄道省(後に国鉄本社)があり、正面の南には丸ビルが見える。丸ビルの北側には工事中断した新丸ビルの地下部分に水が溜まっていて黒く見えている。
1947年 東京駅の東側の外堀を埋立工事中

 次は1947年の外堀通り、外堀、八重洲橋そして東京駅の写真である。
 この八重洲橋の右に見えるのは、上の拡大写真に見る駅舎だろう。次の年にできる新駅舎とも形が異なるから、戦災直後の仮設建築だろうか。
 右上に修復中の丸の内駅舎の南ドーム(外は台形、内部は半球形)が見える。この年3月に外観はほぼ修復完了した。その左は東京中央郵便局。
 

  まだ戦後の混乱期であり、この行列は乗車券を買うために並んでいるのだそうである。丸の内駅舎が使い物にならないので、こちらが乗車券発売の機能を持っていたのだろうか。
 外堀の中にトラックがあって埋め立て工事中だろうが、翌年に埋立は完了した。

●戦後初の八重洲口新駅舎のさっそう登場とはかない命
 1948年11月16日に、次の写真のような八重洲口新駅舎が登場した。木造2階建てだが、ようやくいかにも戦後駅舎らしいモダンな姿である。
 この設計は鉄道省建築課長の伊藤滋のデザインだろう。まさにモダニスト伊藤の作品であり、有名な御茶ノ水駅(1932年)を想起させる。
 ついでにいえばこのころ伊藤は、戦災で炎上した丸の内駅舎の修復工事も指揮しており、辰野金吾デザインの異国趣味葱坊主型ドームを、台形角型ドームのモダンデザインに再生した。(参照⇒「空爆廃墟からよみがえった赤レンガ駅舎」伊達美徳)
この写真のネットサイトでの説明に1953年とあるが1948年の間違いであろう
丸の内駅舎の南ドームが修復されており、その左は中央郵便局、右は丸ビル 

 この写真で見ると、手前に路面電車が走る外堀通りと駅と地続きなっているから、外堀は埋め立てられている。その地面から八重洲橋の欄干や照明ポールが立っているのが見えるが、それらの位置から判断して八重洲橋は右の方であるらしい。つまり、八重洲通りのつきあたり正面に新駅舎が建っているのではなくて、南に寄っていることになる。
 八重洲橋と地続きになった外堀埋立地は、新駅舎の駅前広場になった。

 ところが、新駅舎は半年も経たないうちに姿を消した。
 1949年4月19日午前、駅舎工事現場の失火から、烈風のなかを火は燃え広がって、この八重洲口モダン駅舎と周辺の6棟が燃え、更に飛び火で300m離れた家屋1棟が焼失した。新駅舎の命はたったの5か月だった。
 下の写真は、それを伝える当時の新聞記事である。附図で駅舎と八重洲橋の位置関係が分る。下右の半楕円のような形は、八重洲橋であろうから、この下方に八重洲通りが続くのである。
 

●八重洲口駅舎とその位置について推測

 わたしは鉄道については全く門外漢である、興味があるのは駅舎のデザインとか景観である。
 だから八重洲口駅舎が、その位置で、そのようなデザインで、しかも丸の内側よりずいぶん遅れてなかなか整備されんかったのは、何故であったのか気になる。
 その理由はいくつか考えられる。
(1)天皇の駅として作ったのだから、庶民が必要なら有楽町駅でも神田駅でも使えばよろしい。
(2)外堀から西の丸の内側は三菱村の領分、東側は三井村の領分、その確執があったから。
(3)駅東側に将来の弾丸列車(新幹線)乗入計画があったが、なかなか定まらなかったから。

(1)と(2)については、勝手な推論で面白がって書いてみたいとおもうが、それは次の機会にする。ここでは(3)の新幹線計画がらみについて、国鉄の人が書いた資料を基に、勝手に推測する。
 東京駅丸の内側については、赤レンガ駅舎や初期の電車ホーム等で、その整備は固まっていたが、八重洲側については、弾丸列車計画との関係でかなり多様な計画やらその変更やらがあったようだ。
 そのために八重洲口駅舎は位置も建物もながらく固まらず、仮の計画であったのだろうと、門外漢として推測する。

 弾丸列車とは、今の新幹線であり、これは既に1938年頃から計画が進められていたとのことでる。それは、1931年からの中国大陸での日本軍の軍事行動が広がると、軍事輸送からと、大陸植民地経営の観点からとで、新輸送鉄道の要請が出たのだそうだ。
 そして東京から下関に高規格新幹線計画が始まり、1940年度から実施に入って線路時期などの一部用地取得や工事が実施された。しかし、太平洋戦争により新幹線事業は中止された。

 この下の図は1940年頃につくった東京駅に新幹線が乗り入れる計画案である。
 八重洲側に新幹線のおおきな駅舎(裏本屋と記述)があり、駅前広場も外堀通りと八重洲通の交差点を東に三角形に広くして計画している。
 この大きな駅前広場は、鉄道側で勝手に描いたものか、それとも都市側でこのような計画があったのか、どうなのだろうか。
 だが、八重洲通りは、震災復興事業でいろいろと地元反対の中で、駅前広場をつくることができないままに完成したばかりであった。
 新幹線は中止になってもいずれは再開するとして、ここまでみたように、八重洲口側は駅舎など作るとしても小規模木造建築で、位置的にはその場あたりで仮設的に過ごしてきたのであろうと推測するのである。
 結局は本格的な八重洲駅舎が建ったのは、戦後になってからだったから、丸の内とは40年ものギャップであった。(つづく

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その6】控えめ過ぎる初代八重洲駅舎
http://datey.blogspot.jp/2017/01/1247.html
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2017/01/26

1248【能「隅田川」を観る】傘寿となった人間国宝・野村四郎が演じる隅田川を観てきた

 東京の隅田川に「言問橋」(ことといばし)という面白い名の橋がある。その橋は関東大震災の復興橋梁として1928年に架けられた名橋のひとつである。
 この橋のことを川端康成が『浅草紅団』のなかで、「清洲橋が曲線の美しさとすれば、清洲橋は直線の美しさだ。清州は女だ。言問は男だ」と書いている。
言問橋の透視図 復興局橋梁課嘱託技師時代の山口文象によるパース
  言問いとは、質問という意味である。その由緒は9世紀ごろに成立した歌と紀行の「伊勢物語」にさかのぼる。
 そのころの隅田川は、たぶん自然堤防の流路で橋は無く、船による渡し場があったのだろう。その物語の主人公である在原業平がやってきて詠んだ歌がある。

  名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

 川の上に入る鳥の名が都鳥と聞いて、業平の故郷の京の都を思い出して、愛しい人は無事に過ごしているだろうかと、都鳥に問いかけるのである。
 この歌が有名になり、後に橋を架けた人が言問い橋と名付けたのだろう。

 なぜ有名になったのか。それは16世紀初につくられた能「隅田川」が有名になり、その主題歌とでもいうべき歌がこれであったからだ。
 もっとも、庶民にまで知られたのは、17世紀以後のことだろう。いまもある名物「言問団子」のネーミングも、有名な歌を利用した宣伝である。それが地名となり、橋の名になったというわけである。

          ◆◆

 さて話はその能「隅田川」のことである。2017年1月25日に国立能楽堂でその能を観てきたことを書くために、ここまでがその前置きであった。
 わたしが能の隅田川を見るのはこれで6回目である。そのほかに能からアレンジした「隅田川」物を2つ見ている。ひとつはベンジャミン=ブリテン作のオペラ「カーリューリバー」、もうひとつは浄瑠璃とコラボレーション能「謡かたり隅田川」である。
 分りやすい悲劇を、いかに演劇あるいは芸能にするかという、それぞれの工夫が面白い。

 さて、今回の能「隅田川」は、シテ野村四郎で地頭は梅若玄祥という、実に強力な組み合わせである。わたしはこれまでに四郎の隅田川を2回、玄祥のそれを1回観ているが、今回久しぶりに観て感動したのであった。
 能「隅田川」は、誘拐された幼子を捜し歩く母が、その子の埋葬された塚にたどり着き、嘆き悲しむという実に分りやすい悲劇である。
 離別した子を探す筋書きの能は多くあり、最後は親子が出会ってめでたしになるのが普通だが、この「隅田川」だけが唯一の悲劇であるところに、能としての特徴がある。
「能の図 隅田川」 狩野柳雪

         ◆◆

 これまで観た能「隅田川」の詳細な記憶があるのではないが、今回は最後のところがこれまで観たことのない演技であったと思う。
 塚から亡くなった子の亡霊が出現し、母はかけよって手を差し伸べると消え去り、ふりかえると再び亡霊出現、母は抱こうと駆けよるが、亡霊はまた塚の中に消え去る。
 そして母の嘆きのうちに、ほのぼのと夜が明けて、もう子の亡霊は現れない。まわりは荒涼とした野が広がり、能はおわった。

 子方を追いかけて崩れ込んだシテは、舞台上の作り物の塚にすがりついて、ゆすらんばかりに嘆く所作のうちに、地謡が歌い終えた。
 これまで観た能「隅田川」では、嘆く母は立ち姿のままでシオリ止めとなっていたと思うから、ここは四郎の新演出だろう。これまでの抑制的な嘆きの型を、激情的な表現の型へと工夫したのであろう。
 それを論評するほどの見識をもちあわせないが、これで「哀れなりけり」と謡い納める嘆きの深さに、激しさをも加えたことがよく分かった。

 激情的な嘆き表現と言えば、六代目歌右衛門が得意とした歌舞伎舞踊「隅田川」がある。そこでは狂乱とも言えるほどの激しい所作で、子の死を嘆き悲しむ。
 能にもとをとる歌舞伎は多いが、能の抑制した表現を歌舞伎一流のオーバーな表現に転換する。隅田川では歌舞伎では過剰な嘆きが舞台に溢れ、能では深い重い嘆きが舞台に積もる。

 野村四郎は、いま傘寿だが決して枯淡の演技ではなく、最後の所作ばかりか、全体にその謡や言葉は哀れさよりも激情的な表現であったように観た。
 ただし、さすが年には勝てないのか、あの華麗なる謡にいくぶんかの錆と淀みを聴いたのが、ながくその美声ファンのわたしには寂しいと感じた。

         ◆◆

 能「隅田川」は、観世元雅の原作とされる。その父は能の大成者の世阿弥元清である。
 その親子が、この隅田川の能の演出についての論争したことが、世阿弥が書いた『申楽談儀』にある。元雅は塚から死んだ子の亡霊を舞台に登場させる演出を、世阿弥は登場させない演出をそれぞれ主張したというのだ。

 今回の能「隅田川」は、亡霊が登場したから、元雅の演出によるものだ。もっとも、わたしはこれまでに子方の亡霊が登場しない隅田川を1度しか見たことがない。喜多や金剛など下ガカリでは、子方の出ない演出を普通にしているのだろうか。
 子方の出ない演出を観たいと思う。子方がいないシテひとりの舞台で、塚の中から子が謡う念仏の声と塚から現れる子の亡霊という母の幻聴幻視を、観客にも幻聴幻視させる演技を、ぜひとも観たいものである。

 もうひとつわたしが考えている観たい演出がある。それは、母がただただ嘆くままに終るのではなくて、子の死を確認して再出発する母を表現して終るのである。
 母はこれまで、「人の親の心は闇にあらねども子を思う道に迷う」ばかりだったが、今、子の死を確認したことで、ようやく「ほのぼのと明け行」く時を迎えた。朝日の光りの中、4月の春の日、緑が萌えてたつ「草茫々」の「浅茅が原」に立ちあがった母は、、次の人生へ歩みだすのである。
 つまり、その母を「哀れなりけれ」と悲しみの目で見るのではなく、もうひとつの古語の「あはれなりけれ」として、その母の再出発をしみじみといとおしく謡うのである。そんな演出はどうだろうか。

 能「隅田川」の母の次の運命を描く芸能は、いくつもあるらしい。
 そのひとつをアレンジしたのが浄瑠璃とのコラボレーション能「謡かたり隅田川」である。そこではなんと、母は絶望のあまりに隅田川に入水するのであった。

 余談だが、隅田川に登場する狂女は、笹の枝を手に持って面白く舞う姿を人々にみせて群衆を集め、失踪した子の行方を尋ねていたのだろうか。ほかの狂女物の能ではそのような狂女が登場する。
 今なら、どのような人物なのだろうか。ちかごろ街なかで、独りごとをブツブツ言いながら歩き回る女にであうことがある。これが笹の枝をもっていると、そのまま隅田川の狂女である。昔々、地下鉄飯田橋駅地下道に、いつ通っても、木の枝を持ちブツブツ言いつつ舞う狂女がいたことを思い出す。

         ◆◆

2017/1/25(水)14:30 国立能楽堂
狂言 大蔵流「神鳴」  シテ:山本東次郎、アド:山本則俊
能  観世流「隅田川」 
   シテ:野村四郎、子方:清水義久、ワキ:宝生欣哉
   囃子  笛:藤田六郎兵衛、小鼓:観世新九郎、大鼓:亀井忠雄
   後見:浅見真州、野村昌司
   地謡:梅若玄祥、武田宗和、岡久広、青木一郎 ほか
   後見:浅見真州、野村昌司

●参照
 参照・能役者野村四郎サイトhttps://nomura-shiro.blogspot.com/p/at.html
  ・趣味の能楽等鑑賞記録 https://matchmori.blogspot.com/p/noh.html

2017/01/19

1247【東京駅周辺徘徊その6】震災復興初代八重洲口駅舎が丸の内駅舎や八重洲橋と比べてあまりにも控え目なのはなぜだろうか

東京駅周辺徘徊その5】からつづく
 (読者に伺い中の復興記念館の写真について、まだどなたからもご教示はありません)

●関東大震災で東京駅の東側が大きく変わった

 東京駅は1914年に西側の丸の内口だけに出入り口を設けて、巨大な駅舎を作った。
 その目の前は野原であり、その向うの元江戸城の皇居があった。だが京橋や日本橋の繁華街があった東側には、出入り口を設けなかった。つまり天皇のための駅であったのだ。

 1923年9月1日、関東大震災が起きた。東京から横浜は大被災、丸の内の東京駅舎は無事だったが、駅東側の外堀端の鉄道省は炎上、外堀の東側の京橋や銀座や日本橋の街は燃えた。
関東大震災直後の東京駅周辺 矢印と線は震災時火災の飛び火と延焼
東京駅の東側の鉄道省施設が火災にあったことが分る

 後藤新平の大風呂敷震災復興計画は、紆余曲折の末に縮小に縮小しながらも復興事業にとりかかって、1930年頃には大方が完了した。
関東大震災復興事業後の東京駅周辺図 駅の西側は変化がほとんどない
東側では、東京駅の裏口駅が開業、八重洲橋がかかり、八重洲通りが開通した

 復興事業により、駅東の外堀には八重洲橋がかかった。その幅44m、長さ38mの、コンクリートアーチ橋の完成は1929年6月だった。
 そこから東に向かって築地へと結ぶ八重洲通りが開通した。その道幅は44mで東京駅がその西端の突き当りになる。
 そしてついに東京駅東口の八重洲橋口駅舎開業したのは1929年12月16日だった。 
 これでようやく京橋や銀座日本橋から東京駅にまっすぐに入ることができるようになった。

●復興した東京駅と八重洲橋あたり

 ではどんな駅舎が登場したのだろうか。先ず、全体像を見よう。
 次のカラー写真は戦前の絵葉書だが、丸の内方面から東を俯瞰しており、右上に外堀通りがあり、そこには広い八重洲橋がかかっている。1930年頃の撮影だろう。
 外堀にかかる八重洲橋の手前に、列車基地をまたぐ陸橋につながっている駅舎が見えるが、復興記念館の絵とは似ていないようだ。
 

 これで見ると、八重洲通りと八重洲橋の立派さに対して、八重洲橋のこちらに見える駅舎やその周りのゴタゴタぶりはどういうことなのだろうか。それら多くの建物はいずれの鉄道関係の施設であり、左上の呉服橋手前にある大きな建物は鉄道省であった。
 八重洲通りを通し、八重洲橋をかけ、都市側の整備がこれほど進んでも、鉄道側は小さな駅舎を建てて出入り口を設けただけ、まわりは何も整備をしていないように見える。ギャップが大きい。

 東京駅裏口(八重洲橋口、今の八重洲口)の開設当時の新聞記事を載せておく。
 この記事には、初日の乗降客数が約6700人で、予想していた東京駅1日乗降客数7万人余の5~6割の4~5万人よりもはるかに少なかったと報じている。それは電車しか扱わないし、駐車場もタクシーも不便な作りであるからとある。

●初代八重洲口駅舎と八重洲橋の姿

 次の写真はネットにあったものだが、駅舎と周辺がよく分る。
 1931年初代八重洲口と書いてあるから、これが本当だとすれば、先の復興記念館の駅舎はやっぱり幻の代物であったか。 

 跨線橋に接続する駅舎らしい建物は、小さな平屋のようだ。駅を出るとほとんどいきなり八重洲橋であり、自動車も見えないから橋が歩行者専用の駅前広場だったのだろうか。
 木造2階建てだろうが、橋上広場の南西角にあって斜めに配置している。復興記念館にあったあの絵のような八重洲橋への正面性はみられず、丸の内に比べると実に実用的な建物のようだ。
 これで東京駅裏口駅舎(八重洲口)の初代駅舎は、復興記念館にあった絵の姿とは全く異なるものであったことが分かった。

 駅舎は仮設的だし、その周りの建物はバラックだったが、そこから東に踏みだして外堀にかかる八重洲橋と、そこから東に伸びる八重洲通りは、丸の内に負けない立派な都市整備であった。
 新設の復興道路八重洲通りの幅員44mは、国会議事堂間通りの55mに次ぐ広さであり、ほかには昭和通があるだけだったから、かなりの力の入れようである。なお、八重洲通りも含め主要な22の復興道路の名を公募してつけた。昭和通りや新大橋通りなど今も使われているが、歌舞伎通りは今は晴海通りといっている。

 そしてこの駅専用と言ってよい八重洲橋は、外堀をわたる長さ38m、幅は八重洲通りにの幅に合わせて44mであった。コンクリートアーチ橋は石張りの実に堂々たるものである。
 八重洲通の西詰めにあって、それ自体が広場になるほどの大きさである。この橋と初代八重洲口駅舎の貧弱さと比べると、月とすっぽんの差であった。

 関東大震災の復興橋梁のひとつであった八重洲橋は、1929年6月に完成しており、その設計図面には、建築家山口文象のサイン(岡村)があるから、彼がデザインをしたのであろう。このことは、このブログに2014年に書いたことがある。

 1948年、この八重洲橋は外堀の埋立てで地中に埋もれた。その後に八重洲地下街や首都高地下道路ができたから、外堀の江戸城の石垣ともに消えてしまっただろう。

●八重洲橋口駅舎はなぜこんなにも貧弱なのか

 こうしてようやく東京駅の裏口と言われる東口駅舎が新たに登場したのだが、丸の内駅舎開設から15年もの後であった。なぜ1929年まで待たねばならなかったのか。
 物理的には、それまでは外堀に橋がなかったからだろうが、もともと木橋の八重洲橋があったのを、1914年の東京駅開業時に撤去したという。橋をかけ替えようという計画もなかったのか。
 そして開設しても、周辺の駅施設は駅前広場整備はさしおいて、小さな駅舎だけを建てた感じである。常識的には駅前広場の整備も行うだろうに、これはどうしたことだろうか。

 そしてまた、丸の内側に比べて、八重洲橋口駅舎はなぜこれほどに貧弱なのだろうか。丸の内口よりもこちらの八重洲橋口の方が、利用者が多いと言うのに、この差別は何故だろうか。
 15年前につくった皇居にいる天皇のための丸の内側の駅舎・広場と、このたびの京橋・日本橋側の庶民のための駅舎・広場との、あまりに大きなギャップに驚く。
丸の内駅舎

 もしかしたら、新開設した八重洲口駅舎は、実は仮設であって、いずれはあの復興記念館にあった絵のような駅舎を立てる予定だったのだろうか。
 なんにしても、あの復興記念館の絵は幻の駅舎であったらしい。あのような計画案があったが、諸事情で実現しなかったのか、それともあの絵は復興記念館の展示のためだけに画いたものか。

 やがて太平洋戦争の戦禍が東京駅周辺にも及んできて、丸の内口にも八重洲口にも再び大きな変化をもたらすのである。(つづく

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2017/01/16

1246【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあったこの東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻だろうか、どなたか教えて下さい

【東京駅周辺徘徊その4】からつづく

 東京駅というと、わたしたちすぐに西側の丸の内駅舎のことを頭に浮かべるが、東側の八重洲駅舎ついて、ちょっと知りたいことがあるので書いておこう。どなたか教えていただきたいのです。

 なお、戦後の町名変更までは、八重洲という地名は今のように外堀通りの東の京橋側ではなくて、東京駅の西側の丸の内にあった。
 しかしここでは戦前の話でも、今のように八重洲口駅舎に統一して書く。

●関東大震災復興計画の八重洲駅舎か?

 ここに東京駅の八重洲口駅舎と思われる絵の写真がある。
 わたしが1988年に、墨田区横網町公園にある復興記念館を訪ねたときに展示してあるのを見つけて撮った。その10年ほど後に訪ねたときにもあったが、今もあるのかどうか知らない。
 
 この絵のいちばん背景には、左右に長く連なる屋根に3つのドームがあるから、これは東京駅の丸の内側にある赤レンガ駅舎である。
 ところがその手前に、もうひとつ別の屋根のある建物が見える。この建物の両脇から左右に水平な屋根が見えるのは、駅プラットホームの屋根のようだ。
 とするとこの建物は八重洲口の側にあることになる。その手前には橋がかかっていて、これは外堀通りの突き当りにあった八重洲橋であろう。
 八重洲通りの突き当りにある建物だから、東京駅の八重洲口の駅舎に違いない。

  ちょっと加工して、背後の丸の内口駅舎を薄くして、八重洲口駅舎を浮き出してみよう。

 こうして見るよく分るが、この八重洲口駅舎は、左右対象の2階建て、左右両端に尖塔をもち、その間にスレート葺き屋根がかかり、中央部は丸の内駅舎の中央ドームに呼応するように、若干高くなった屋根に3つのドーマー窓をもっている。
 この中央部が駅の主出入口で、中はたぶん吹き抜けになっているのだろう。
 その意匠は全体的に丸の内駅舎をアレンジしているが、派手に装飾はしていないようである。スケールが小さいので、どこか丸の内駅舎の子か孫のようなイメージである。

 復興記念館の展示には、この駅舎についての説明がなかったが、復興記念館にあるのだからこれも復興駅舎計画だろうか。それとも、復興展示は復興橋梁の八重洲橋が主眼で、その時に描いたのだろうか。
 東京駅の八重洲口の開設は1929年、震災後の復興事業が完了に近づくころである。この絵の駅舎が八重洲側の出入口の新規開設と同時に建てられたのならば、初代八重洲駅舎である。
 駅舎の手前の八重洲橋も、1929年に復興橋梁として架けられた。この東京駅専用のような橋の堂々たる規模と意匠からして、駅舎と橋が一対の復興事業となったのだろうか。

 わたしがこの絵の写真を撮った1985年から90年くらいまで、東京駅とその周辺の再開発の検討調査を国土庁や建設省や運輸省等の政府機関が行っており、わたしは都市・建築コンサルタントとして、主に東京駅赤レンガ駅舎の検討を担当していた。
 その調査のために、昔からの色々な東京駅のかなり多くの資料を見たが、この絵に相当する建物の写真にも図面にも出会わないままである。もしも実現したならば、何か写真でお目にかかるはずである。

 ところが実は、初代八重洲口の駅舎はこれとは全く違った姿で登場していたのだった(次回にそれを書く)。では、これは計画はあったが幻の駅舎なのか。いったいなんだろうか。
 これをお読みになったどなたかぜひとも教えていただきたい。
              つづく
 
●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2017/01/10

1245【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側の駅ビルとその南北のビル群はこの30年で大変化

東京駅周辺徘徊その3】からつづく

 東京駅の駅舎と言えば、つい丸の内側の赤レンガキンキラ駅舎のことばかりになるが、八重洲側にも出入り口があるし、もちろん駅舎もある。
 八重洲口は1929年に開業した。丸の内側の駅舎と違って、こちらの駅舎は何回も変転があって、戦後になってもずいぶん姿が変った。
 ここでは1987年にわたしが撮った八重洲側の写真がいくつかあるので、それと現在とを比較してみよう。

 まずは八重洲側の駅前にある八重洲通りから見る、1987年の東京駅の八重洲側駅舎である。鉄道会館と言い、大丸デパートが入っていた。
 

 これが最初に建ったのは1954年で、そのときは6階建てであった。この写真で見るのは、1968年に12階建てに増築したのちの姿である。
 八重洲通りの正面に、黒い壁のように立ちふさがっていた。反対側の丸の内側から見ると、増築までは6階建てだから、赤レンガ駅舎の上には見えなかったのだが、増築後は赤レンガ駅舎の上に横長に見えてスカイラインをみだしていいた。
 
 上と同じ八重洲通から見る東京駅の2016年の姿である。

 この鉄道会館が消えたのは正確にはいつか忘れたが、ある日、真っ黒だったビルが真っ白のビルになっていて驚いたことがある。取り壊し工事のための囲い壁が白色だったのだ。その白ビルがだんだんと低くなっていって、鉄道会館が無くなった。

 いまでは八重洲駅舎は3階建てになり、グランルーフと名付けられているのは、その上にテントのようなものが張りだしていてそれが大(グラン)屋根(ルーフ)なんだろうか。低くなった分の容積率はグラントウキョウノースタワーにでも移転したのだろう。

 その向こうには建て直して高くなった丸ビルと新丸ビルが見える。 
 八重洲通りの両側の姿は、30年前とほとんど変わっていない。でも、近ごろこのあたりを再開発して、超高層ビルに建て替える計画案が、事業者から発表さているから、10年後には大きく変わっているだろう。

 次は、その鉄道会館の屋上から見る、1987年の八重洲通りの姿である。
 

 次は上と同じ位置からの2015年の姿である。しかし、写真を撮ろうにも鉄道会館が消えたので、これはグーグルアースのお世話になって似たようなアングルを探したものである。
 左右ともほとんど変わっていないことが分る。しかしそれも5年ほどのことだろう。

次も同じく鉄道会館屋上から見る、1987年の八重洲通りである。

上と同じアングルで、グーグルアースによる2015年の八重洲通りである。近いうちに大きく変わりそうである。

 次は八重洲側の八重洲ブックセンターから外堀通りを北に眺める1987年の東京駅八重洲口駅前広場と鉄道会館である。
 鉄道会館の向こうに国際観光会館と鉄鋼ビルが見える。これらはいずれも1950年代早々に整備されて、東京駅の八重洲側をかたちづくったのだった。

 上と同じアングルで、八重洲ブックセンターから北に眺める2016年の風景である。この30年で大きく変わったことが分る。

 八重洲駅前広場と八重洲駅舎、その右向こうに大丸デパートが移転したグラントウキョウノースタワー(八重洲観光会館の跡)である。左端にグラントウキョウサウスタワーが見える。
 これらは丸の内駅舎の一部容積移転も受けて、2007年に建った。右端に見えるのは、再開発されて超高層になった鉄鋼ビル。

 次は上とは逆に、外堀通りを北の呉服橋交差点から南へ見通した1987年の写真である。右に鉄鋼ビル、左に龍名館が見える。

  上と同じ位置から2016年の写真。右の鉄鋼会館が建替えられ、その向こうの国際観光会館も建て替わった。
 左の外堀通りの東側は、手前の太陽神戸銀行と龍名館が建て替わっているが、その先はほとんど変化が見えない。

面白いのは、東京駅の街区は大変化なのに、外堀通りから東の八重洲2丁目の裏路地あたりの街の、あまりにも変化のないことである。同じ東京駅周辺でも、こちらと丸の内側とのギャップの大きさが興味深い。
 1970年頃から10数年、大手町の勤め先からここに昼飯や夜呑みでやってきていたものだった。何本もの細い路地に小さな飲み屋が立ち並ぶ、なんとも懐かしい昔の風景が今もある。

つづく

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 

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