2016/12/19

1240【父の十五年戦争】戦中の海外日本植民地にあった神社を研究すると意外に深く苦い歴史が露呈してくる

 わたしの生家は備中の高梁盆地にある神社である。父が宮司をしていた。わたしが後を継がなかったからか今は宮司不在だが、神社は今もある。
高梁盆地にある御前神社 写真:川上正夫 2015年

 父は1931年から日本の15年戦争中に3回も兵役につき、3回とも無傷で戻ってきた。最後に帰還した日は1945年8月31日であった。
 2度目の中国北部では通信兵の本務の傍ら、本職を生かして所属する軍隊での諸神事を司った。兵役に出る前に軍から指示があり、あらかじめ装束を持参して入営したそうだ。
中国の敦河で日本が作った神社(父のアルバムより)
流造らしい本殿が見える

中国の保定で日本が作った神社(父のアルバムより)
既存の廟建築に和風の向拜を付加したように見える

●戦争と神社

 わたしは父の遺品のなかに、彼の兵役中の記録を見つけた。それを『父の15年戦争』という戦中の家族の記録として本にまとめ、兄弟や親せきに配布し、全文を「まちもり通信」サイトに掲載している。
 この中の中国戦線での軍隊神事関係の記録を読んだお方二人から、去年と今年に問合せのメールをいただいた。どちらも戦場や植民地での神社や神道についての研究者である。

 そのような研究が今では行われているのかと初めて知り、若干の感慨をもってその方たちに父が遺したメモや写真のコピーを提供した。
 これまでにもわたしのサイトを見て、論文を書く学生や院生から都市や建築のわたしの仕事や歴史的研究についての問い合わせはあったが、異分野の研究者からとは珍しい。
 その研究者のひとり、中山郁さんはわたしの父の軍隊での祭祀行動を知りたいとのことだった。陸軍における戦場慰霊と「英霊」観』を書かれ、そこに父のことも一部引用してある。それを掲載した論文集『昭和前期の神道と社会』(2016年、坂本是丸編、弘文堂)をいただいた。
 
 またもうひとりの研究者の中島三千男さんは、日本の植民地にあった神社が、今はその跡地がどのようになっているか研究中とて、父の記録の中に出てくる中国での神社について知りたいとのことであった。
 中島さんから著書『海外神社の跡地の景観変容』(2013年、お茶の水書房)といくつかの論文集をいただいた。
 それらを読んで「海外神社」なるものにがぜん興味がわいて、中に紹介されている参考文献の『海外神社史上巻』(小笠原省三)、『植民地神社と帝国日本』(2005年、青井哲人、吉川弘文館)など何冊か読んだ。

海外神社とは、要するに外国において形成した日本人コロニーに、日本人がつくった神社のことである。
 とはいっても海外日本人コロニーは、現存するブラジルの日本人社会もあれば、現存しないがいまだに戦争後遺症をひく朝鮮半島や中国東北部の植民地もあり、その研究は意外に複雑多様なものらしい。
 沖縄もそれに含めるとさらに複雑になり、まことに興味深いものがある。

 かつての日本植民地における神社については、戦争と神道、植民地支配と神道、植民地都市計画の神社立地など、なかなか刺激的なテーマである。
 植民地と言っても、台湾、朝鮮、樺太、満州あるいは南洋諸島があり、そこでの神社のあり方も多様であるが、いずれにしても日本の敗戦でほとんど消え去ったということが、その意味をいちばん物語っている。
 特に朝鮮では日鮮一体化・皇民化政策に神社が使われたので、日本人コミュニティのシンボルの神社跡地は、憎しみのメタファーの危険性をさえはらんでいる。
 海外神社とはかなり特殊な時空に起きた現象かと思ったら、実は深刻な歴史をえぐりだす普遍の種らしい。

●海外神社研究
 
 中嶋三千男さんから案内状をいただき、神奈川大学での「海外神社研究会」なる会合にヤジウマ一般参加してきた(2016年12月17日、神奈川大学)。なかなかに刺激的な報告が続いて、実に興味深く聞いたのであった。
 太平洋戦争で日本軍が占領して悲惨な戦場となったフィリピンで、消え去った神社を探索した調査報告(稲宮康人氏)では、マニラ、ダバオ、バギオで4つの神社跡地を確認したが、今回はとにかく場所の確認作業だったようだ。
 面白かったのは、どこの神社跡地でも一部に土を掘り返した跡があり、聞けばそれは伝説の山下将軍財宝探しの山師たちの仕業で、今でも日本関係跡地を探しまわっているらしい。

 旧満州開拓団神社跡地の調査報告(津田良樹氏)は、加藤完治たちが送りこんだ数多くの満州開拓団コロニーは消え去っても、その共同体のシンボルとして開拓民たちが自ら作った神社の跡地について探索している。
 それはまるで時間をさかのぼるタイムマシーン秘境探検隊であり、いくつも特定に成功した努力に敬服する。
 だが津田さんは「今も重い気持ちが抜け去らない」という。ソ満国境に近くの入植地では敗戦時戦乱による開拓団民多数遭難死の悲劇があり、その一方で土地侵略者開拓団への中国側の今も続く憎悪があり、それに向きあわざるを得ない現地調査には辛いものがあったようだ。
 満州・朝鮮という日本植民地の神社跡地探索が小さな傷痕かとおもえば、実は後遺症を大きくえぐりだすかもしれないという、歴史の重さが研究者にのしかかっている。

 「植民地期満州における日本の宗教」と題するフランス人研究者(エドワール・レリソン氏)の発表も面白かった。
 宗教的人物からキメラ満州という特殊にして特定の時空を追うとして、明治天皇、松山珵三、水野久直、乃木希典、加藤完治、溥儀、新田石太郎、出口王仁三郎をとりあげて、ドクター論文を執筆中だそうである。この顔ぶれを論文にまとめるとは、すごいとしか言いようがない。
 わたしたち日本人は、満州に対しては日本特有の目(それをどういうか難しいが)を持っているような気がするのだが、それをひきずらない外国人には新鮮な何かがありそうだ。どう展開するのか興味がある。

 琉球・沖縄の神社に関する報告(後多田 敦氏)の報告も、実に興味深いものがあった。聞いてみると本土から進出した日本の神社は、沖縄ではまことにマイナーな位置であるようだ。
 琉球王国に於いて確立していた祭祀制度に対して、薩摩侵略、琉球処分、アメリカ占領というそれぞれの大政治的変革がどう影響を及ぼし、あるいは及ぼしえなかったか、社会史として面白い。

 沖縄では戦前戦中とも、日本国政府が台湾や朝鮮でしたようには、神道を押し付けえなかったそうだ。
 琉球時代からの聞得大君を頂点とするノロたちがよる女性祭祀システム地域にしっかりと根を張っており、彼女たちが拠るウタキの神社化を画策しても成功しなかったらしい。
 琉球王国を舞台の小説「テンペスト」(池上栄一)を、学問的方向からあらためて思い出した。沖縄と神道の関係は、近代日本植民地でのそれとは明らかに異なるフェーズであり、これも興味ある研究テーマのようである。

 私事である「父の十五年戦争」は、戦争という大きな公事に取り込まれた私事であるとは思っていたが、この様な回路の端っこに組み込まれているとは思わなかった。
 海外神社研究が、これからどう展開するのか楽しみである。わたしの関心は、朝鮮と沖縄のそれである。

●参照外部サイト:海外神社(跡地)データベース 
http://www.himoji.jp/database/db04/index.html

●参照まちもり通信サイト:父の十五年戦争
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html

2016/12/09

1239【日本統合リゾート列島】いまさらギャンブル解禁しなくたって今や日本も人生もギャンブルだらけだよ

●景気が悪いので賭場で稼ぐんだな

熊五郎:こんちわ―、ご隠居、寒くなってきましたねえ。
ご隠居:おや、熊さん、いらっしゃい、焚火でもしようかね。
:でも、こう風が吹いてちゃあ、長屋に燃え移るかも、やめましょ。
:どうも、景気が悪いね、この辺でなにか一発ドカンと、いいことないかい。
:そりゃやっぱり、宝くじ、パチンコ、競馬、競輪、、。
:庶民そのものだな。そういやあ、賭博場を日本でも作ることができるようになるらしいね。
:そう、IR法ですってね。
:なんだ、IRって、AIとか、IPとか、ICとか、またかい。
:いや、統合リゾート法、Integral Resortっていうらしいけど、要するにギャンブル遊園地を許可するってことらしいです。
:その遊園地では、どんな賭け事をしても処罰対象にならなんだね、いいなあ、賭け麻雀、賭け碁、賭けゴルフ、オイチョカブ、チンチロリン、、。
:古いね、ま、よく分らないけど、マカオとか香港とかラスベガスにあるような、カジノって賭博場をつくって、開帳してもいいらしいですよ。

●日本を取り戻す親分さんたちの賭場開帳

:ふん、ルーレットかい、それが、なんで「統合リゾー」トなんだい。
:賭博場で夜っぴて遊ぶためにホテルもいる、飲食店もいる、家族で来れば遊園地もいる、ついでに国際会議も賭博場でやるってことらしくて、だからなんでもありの統合。
:ふ~ん、昔バブル景気のころにリゾート法ってのができて、あっちこっち山の中を開発して大失敗したけど、あれの都市版だな。こんどは失敗しないのかい?
:いや、それが儲かるのか儲からないのかよく分らないけど、国民の代表たちが儲かると言って議員立法するのですから、儲かるんでしょ、たぶん。
:ギャンブルだから、もちろん公営だな。
:いやそれが、民営でやらせて景気をよくするってことらしいですよ。
:やや、とうとう民営博打場をお許しになるんだな、こりゃ江戸時代のように、日本のあちこちで博打場を開いて儲ける親分さんたちが、再登場するんだな、清水次郎長とか笹川繁蔵とか、どなたさんも、よござんすか、さあ、張った張ったあって、う~む、そこまで日本をトリモドスのかい、、。

●国営賭博開帳して儲けを福祉と教育に投資

:さあ~、どうなんでしょ。でも儲かるから民営でやるんでしょうね。
:かならず儲かるなら、ますます民営じゃなくて、いっそのこと国営でやればどうだい、ほら、どえらい借金財政の国庫に、博打の儲けがドド~ンと入れば、たちまち財政健全化達成だよ。
:あ、そうですね、儲けは全て福祉政策の財源にするとか。
:そうそう、全部を老人福祉のためにつぎ込んでもらいたいな。ギャンブル法大賛成。
:勝手な年寄りだね、いや、やっぱり若者が希望をもてるように、教育につぎ込んで貰いたいですね。
:それもいいだろ、じゃあ、熊さんもわたしも、国営ギャンブル場開設ということで、IR法賛成だな。
:でも客が来てこそ儲かるんでしょ、だれが来るのでしょうね。
:パチンコ、競馬、競輪、競艇なんてやってる人たちだろ。
:え、カジノとなるとやっぱりどこかの王様とか、どこかのバカ社長とかのような気がします。あの場外券売り場の貧乏ったらしい姿の人たちじゃないでしょ。
:いっそのことその賭場に出入りできる者は、外国人だけ、日本人は高額所得者に制限するってのはどうだい。それで外貨をがっぽり稼ぐんだよ。
:高額所得者からもがっぽり稼いで、彼らへの税負担軽減分をここで取り戻すってね。
:まあ、なんにしても、わたしたち庶民にゃなんの関係もない法律だね。
:そう、そんなものが近所にあると喧しいから、この長屋の近くには作らないでほしいですね。

●人生そのものが大博打なのに今さら

:それにしてもだよ、この世はギャンブルだらけなのに、いまさらギャンブル公認かい。
:そういや、先だってアメリカじゃあ大博打で大穴がでましたね、トランプゲームで。
:そうそう、イギリスでもEU離脱なんて大ギャンブル、そうか、日本も負けてられないってことかな、地球は今やギャンブル宇宙。
:人生もギャンブルだらけですよ、特に結婚なんて、よくやるもんですよ。
:あ、そうだな、まさに相互依存症になってるな。
:まあ、生まれてくることそのものが大博打ですもんね。
:そしてね、いつかは必ず死ぬけど、それがいつかどこか分らないままに生きてるってのも、究極のギャンブルだよな。
:そして日常ではどこでもパチンコやってて、あ、そうか、この日本列島は既に巨大統合リゾートになってますね。いまさら法律は要らないですね。


2016/12/05

1238【谷戸の変容】違法建築判決の共同住宅ビルを見に行ったら典型的な谷戸の斜面緑地開発だったが、


 このところ「六浦」づいている。まずは、能の「六浦」(むつら)、そして横浜の六浦(むつうら)にある称名寺(しょうみょうじ)を訪問、こんどは同じく横浜六浦にある谷戸(やと)を訪問と、3連発である。
 もっとも、能の六浦と称名寺とは、称名寺の所在地の今の地名は違うが創建時の中世では六浦だったし、能の物語の舞台が称名寺なので互いに関係があるが、3番目の六浦の谷戸はそれらとはまったく関係がなくて、たまたままたもや六浦だったのだ。
 その谷戸の現代的変容に、ちょっと興味をそそられた。

●六浦の違法建築判決の共同住宅ビル

 その六浦の谷戸を訪ねたのは、全くのヤジウマである。
 そのあたりで建設中の大きな共同住宅ビル(いわゆるマンションのこと)が、裁判で違法建築であるとの判決を食らったとの新聞記事を読み、どんな所なのか興味がわいたからだ。
 わたしはこの共同住宅開発とは何の関係もない。

訴えた方、訴えられた方、ともに困惑しているのにヤジウマとは何事と怒られそうだが、これでもわたしは昔は都市計画を専門としていたので、その点での興味であるからお許し願いたい。
 ネットでそのおおよその場所が分かったので、訪ねたら三浦半島あたりでは典型的な谷戸だった。
土地造成中のグーグル写真
訪ねる共同住宅ビル開発位置の概略図


 谷戸とは、褶曲の多い地形を割って流れるメインの川筋の両側に流れ込む谷筋の、細長い谷間の低地のことで、横浜から横須賀あたりにかけての、斜面住宅地の典型的な風景である。
そこでは、たいていは昔から人々が住み続けてきて、なり行きまかせで谷底を平らにし、まわりの斜面地の際を段段状に削って平らにし、坂道と階段のある立体住宅地が、細長くつづく。複雑な地形で、カオスな風景となることもおおい。
 ここの谷戸もそのとおりで、入り口から奥まで前後左右の斜面地が住宅になっている。かつては斜面は緑の豊かな環境だったろうが、今や単に地形的に落ち込んだ日陰の谷間の、車も入りにくい住宅地に過ぎない。
 ここは柳谷戸(ヤナギヤトまたはヤナギガヤツ)という地名らしい。

●5階建てだけど3階建て共同住宅ビル

 そしてこのたび見に来た例の新開発共同住宅は、ほぼできているらしい。
 柳谷戸の入り口から見えるし、谷戸の細い道を奥へ奥へ辿って行けば、左にコンクリートの絶壁がえんえんと続いており、その上に5階建ての共同住宅ビルが長々と横たわっている。
柳谷戸への入り口、向こうにクレーンの立つ建物がそれらしい
谷戸の細い道の向こうに工事中らしい共同住宅ビル
 工事看板を見ると、地上3階、地下2階と書いてある。目に見えている5階建てではなくて、これは3階建てなのであるか。
 どうやらこの階数の設定が、建築基準法に悖るとて建築確認取消判決になったらしいが、そのどこが悖るのか、建築の専門家でないから見てもわからない。
 肝心なことを分らないが、見ていて建築よりも都市計画的にいろいろ考えることがあった。
谷戸の西側の絶壁崖上に5階建てに見える共同住宅ビル
谷戸住宅地から西を見上げる斜面地の新開発共同住宅ビルの北半分
谷戸の奥から見下ろす共同住宅ビルの北半分、谷戸の東も絶壁
見てすぐに分ることは、谷戸の中もその上の新開発共同住宅も、同じ都市計画の区域なのに、その景観のあまりの違い様である。
 都心の市街地では、このような高層と低層の建築群が並ぶことは珍しくはないのだが、ここのように低層住宅地として規制の厳しい郊外では、余り多くないかもしれない。

 そしてその柳谷戸の西沿いにある絶壁下の細い道から、絶壁上斜面地の新共同住宅への細い分岐道があり、その突き当りにエレベーターを設けて、絶壁上斜面に登るらしい。
 ここから六浦駅までは10分もかからないが、まさかこの路地の突き当りが正面玄関ではあるまい。
谷戸西側の絶壁上斜面の新開発共同住宅ビルと絶壁下の谷戸住宅
絶壁はがけ崩れ防止対策として公共事業による既存のものらしい

この先からエレベーターで絶壁上斜面の共同住宅へ登るらしい
●尾根の上から見ればほとんど平屋

 このあたりで他にも同じような開発があるかもしれないと、更に谷戸の絶壁道を奥へ奥へと行けば、突き当りにもう居住者がいるらしい既存の大きな共同住宅ビルが建っていて、狭い道路はその裏玄関らしきところに吸い込まれた。
 しかし、これらの新旧二つの共同住宅ビルが、この絶壁下道からのみのアクセスということは、まさかあるまい。この谷戸を尾根の上にあるチャンとした道路が正面玄関だろう。ただし、そこだけだと六浦駅からかなり遠くなるので、こちらは歩いて駅と結ぶ裏口なのだろう。
谷戸西側絶壁下の道は、奥斜面に建つ既存5階建共同住宅ビルに入り込む
このビルも同じ手法で建てたのだろうか、でもこちらは問題なかったのか。
谷戸から尾根上台地に登って見る上の写真の共同住宅は2階建て
 そして尾根上台地のに登って見ると、そこはきちんとした計画的開発住宅地であった。
その一角にこの違法判決住宅ビルの、工事中の入り口があった。そこから覗くと谷戸から眺めるような5階建てビルでもないし、地上3階建てでもないし、単に平屋の長屋程度にしか見えないのであった。
 この上と下の景観的ギャップが、なんともすごいのである。
 開発の空間的影響が、空間的ゆとりの少ない谷戸側に大きく、ゆとりのある台地上側には少ないのが、どこかアンバランスである。
 しわ寄せが谷戸側に一方的に行っているのは、現行の建築基準法に問題があるようだが、むしろ都市計画の問題としてとらえるべきだろう。現状では、用途地域指定は上と下で大差ないが、大きな差があるのは、上には地区計画があり、下にはそれがないことであろう。
尾根上台地から新開発共同住宅ビルを西側から見ると平屋
 いろいろの資料を突き合わせてみたら、この開発はこのような配置状況であることが分かった。連続する斜面緑地をすっかりカバーしている。共同住宅ビルの背中は斜面にもぐりこんでいるらしい。

 ついでに、柳谷戸の西隣りにある同じような谷戸も気になったので見てきたが、こちらにも谷戸絶壁上に大きな共同住宅が建っている。
 おやおや、ほとんど同じようなものである。はて、こちらは問題とはならなかったのか。
柳谷戸の西隣りの谷戸の崖上開発
これも尾根上の台地から見れば2階建て
●谷戸というミクロ流域生活圏の変容

 六浦もそうであるが、三浦半島の人々は大昔からそこに小さな集落をつくって暮らしてきた。近代的な目で見れば、尾根の上の台地のほうが環境が良さそうに思えるが、漁労と水利あるいは交通の便でそうなったのだろう。
 そこはミクロの流域圏としてかなり閉鎖的な十数戸の集落をつくり、緊密な生活圏であった。空間的には狭く細長い船底地形であり、集落の前後左右を守るように急な斜面緑地が覆っている。明確な結界を構成している。

 じつは、わたしもここ六浦にほど近い鎌倉で谷戸暮らしを、40歳頃から四半世紀もしていたのであった。
 そこは一年じゅうウグイスやホトトギスの鳴き声が聞こえ、リスが窓辺にやってきて、夜はタヌキさえ訪問してきた。春から夏の緑の成長の勢いは、怖いほどに押し寄せてきたものだ。
わたしが住んでいた鎌倉の谷戸、右に台地上の計画的開発住宅地

 近代水道ができてから尾根上の台地開発が行われるようになり、高度成長期から人口圧力で大規模な住宅地開発が進む。
だが、尾根下の谷戸は台地開発とは、一般的にはほぼ無関係な世界であった。
 これらは平面的には隣り合わせだが、立体的には上下の位置関係にあり、その間には急斜面緑地が境界林を形成しているのである。地形的にも環境的にも景観的にも、この境界林が重要な意味を持っている。ここを境にそれぞれが結界を形成していた。

 ところが、その境界林であるはずの斜面緑地に、初めは谷戸側からなし崩し的に戸建て住宅が綻びのように上場に建てられていく。
 そして次は台地の上側から計画的開発の手が入ってくるようになった。かつての台地上開発では開発残地であった斜面地が、世の中一般の地価上昇から見て相対的に安価であることと、建設技術革新で、あらたな開発の対象となってきた。
 結界の破れ方が、それまでのような綻びをつくろう漸進的な様態ではなくて、メスで切り拓いて外科手術的に髙い絶壁とか巨大な建物が代替登場する。

 訪ねた六浦のここも、昔からの谷戸の暮らしの場が、近現代の住宅開発で大きく変容する現場のひとつであった。谷戸の左右の絶壁がそれを物語る。
 取り残されていた谷戸と、開発された台地との境目で、摩擦の発生である。訪ねて興味がわいたのは、その生活圏の景観変容の生々しい現場であることだった。そこで、さらに景観変容の歴史をたどってみた。
 なかなかに日本の戦後高度成長から今日までの、郊外生活圏の変化が興味深いが、これはこのあたりでは特別に珍しいことではないのだろう。
 わたしが住んでいた谷戸でも崩壊防災の絶壁はできたが、斜面地と尾根が市街化調整区域であり、そこは古都法によって保全されていたから、ここのようにはならなかった。

柳谷戸とその周辺地区のこの半世紀の変遷
谷戸が次第に裸に剥かれていく様子がよく分る






さて、つぎはどこの緑地が食われるか
それとも人口減少時代になってそろそろ満杯か

●斜面緑地と谷戸の居住環境

 この斜面緑地はどうして生まれて、だれのものだったのだろうか。
 たぶん、尾根上が台地状の新住宅地に開発されたとき、その周辺の急斜面のために開発に適さない土地として、結果的に緑地となっていたのであろう。
 だから、この土地にかかる費用は、台地上の開発者の負担、つまりその住宅地の購入者の負担に転化されていたのだろう。
 それが今になって開発適地として生まれ変わった。とすれば、この開発利益の受益者は台地上の居住者でなければならないだろうが、そうはならないのは確かだろう。

 斜面上からの開発に襲われて斜面緑地を失った谷戸は、日当たりも通風も車の便もよくない坂道ばかりの住みにくい住宅地となった。だだ駅には近いのが利点である。
 その斜面緑地の存在で、その所有者とも開発者とも関係のない谷戸の住人たちは、反射的に受益していたのだが、こんどはそれを失うことで反射的に不利益に転換するという痛い目にあっている。
 だが、もともとの負担者ではないから、甘んじるしかないのだろうか。

 斜面地住宅には、高齢者は住みにくい。しだいに空き家が増えつつあることは、柳谷戸を歩いてみても気が付いた。わたしが住んでいた鎌倉の谷戸もそうであった。
 定住的な住宅よりも、賃貸借型小規模住宅(アパート)が増えているようだ。自分が住まないとなると、過密に建て替えるからしだいに生活環境が悪くなる。

 このような暮らしにくくなった郊外の谷戸住宅地の今後は、いったいどうなるのだろうか。横浜や逗子、横須賀には数多く存在する。
 六浦の柳谷戸とその崖上開発とを見て、ひとつの谷戸全体をまとめて環境整備に手を付ける必要があると思い、それはここだけでの問題ではないとも思ったのであった。
 かつての谷戸という長屋のような暮らしが、今や共同住宅ビルという現代長屋に、とって替わられつつあるのかもしれない。
 なんにしても、これは違法建築以前に、現代における居住環境の確保について基本的な大問題を抱えている。
 
●「まちもり通信」サイト内の参照記事:鎌倉の谷戸脱出記

「伊達の眼鏡」ブログ内の参照記事
 ・能「六浦」 http://datey.blogspot.jp/2016/11/1235.html
 ・称名寺 http://datey.blogspot.jp/2016/12/1236.html


2016/12/03

1237【言葉の酔時記:流行語認知度変遷】TV見なくてもなんとか流行語についていけてるのはネット社会と付き合ってるかららしい

 毎年12月になると、その年の流行語なるもののランキングが、どこからか出てきて、ネットや新聞に載る。
 それを発明した人?が、表彰される?らしい。今年はアメリカのトランプやイギリスのメイ首相か?
 そして毎年それを読んで、わたしの流行語認知度でもって、世の中認知度合いを測定する。いわゆる認知症度合い、つまりボケ度合いに通じるかもしれない。

【流行語2016ベスト10】認知度60点、TV見ないわたしだって、まあ合格かな。
×神ってる(年間大賞)、×ゲス不倫、〇聖地巡礼、〇トランプ現象、×PPAP、〇保育園落ちた日本死ね、×(僕の)アモーレ、〇ポケモンGO、〇マイナス金利、〇盛り土

 わたしの流行語情報は、新聞は朝日新聞一紙だけ、そして一番多くはインタネット世界からやってくる。TVからは一切ないから、世間一般からは偏っているはずである。
 ここに今年と過去の数年分を載せるが、わたしの不認知流行語は、たぶん、全部がTVタレントとかスポーツプレーヤーによるもののようである。知らなくて生活に困ることはないが、なんだか物足りない。

 もっとも、これらが本当にその年の流行語か、という基本的な問題があるが、お遊びだからそれを追及してもしょうがない。でも、ちょっと気になるのは、その年の前半に流行した言葉も入ってるんだろうか、なにしろ流行だから、忘れられているような気がする。
 これらを選ぶ人がどこかにいるんだろうが、かなりTV情報をもとにしていることは確かだし、政治や学会のお堅い言葉じゃなくて、ミーチャンハーチャンが認知できる「自分も60点とれる」言葉を、積極的に選んでいるようだ。

 わたしの感覚では、今年はなんといっても「トランプ現象」こそが大賞に値すると思うのだが、それがわたしの知らない「神ってる」なんだから、そこにこの流行語を”捏造”する意図を感じる。
 たぶん「トランプ現象」では、トランプを呼んでくるわけにいかず、「神ってる」の野球屋なら表彰式にも来てくれてTV向きだという、商売っ気が優先していることがよくわかる。
 流行語によるわたしの認知度測定は、わたしのTV世界との距離測定になっているらしいから、以後どんどん距離は広がるだろう。そのひろがり方を測定することが面白い。


 で、以下がわたしの認知度の変遷である。〇が知っていた言葉で、6割で世間認知度合格とする。
 
【流行語2016ベスト10】認知度60点、TV見なくたって、まあ合格。
×神ってる(年間大賞)、×ゲス不倫、〇聖地巡礼、〇トランプ現象、×PPAP、〇保育園落ちた日本死ね、×(僕の)アモーレ、〇ポケモンGO、〇マイナス金利、〇盛り土

【流行語2015ベスト10】認知度60点、合格。
×トリプルスリー、○爆買い、○アベ政治を許さない、×安心して下さい、穿(は)いてますよ、○一億総活躍社会、○「エンブレム、×五郎丸(ポーズ)、○SEALDs、○ドローン、×まいにち、修造!

【流行語2014ベスト10】自慢じゃないがたった2語だけ、認知度20点、不合格。
×ダメよ~ダメダメ、○集団的自衛権、×ありのままで、×カープ女子、×壁ドン、○危険ドラッグ、×ごきげんよう、×マタハラ、×妖怪ウォッチ、×レジェンド、

【流行語2011ベスト10】認知度70点、合格。
○帰宅難民、○絆、×こだまでしょうか、○3.11、○スマホ、○どじょう内閣、×どや顔、○なでしこジャパン、○風評被害、×ラブ注入

【流行語2009ベスト10】認知度50点、不認知語はどれもTVタレントものらしい。
○政権交代、×こども店長、○事業仕分、○新型インフルエンザ、×草食男子、○脱官僚、○派遣切り、×ファストファッション、×ぼやき、×歴女

2016/12/01

1236【中世浄土景観】横浜金沢の称名寺を訪ねて浄土庭園の紅葉狩りしたがその伽藍配置軸線の微妙な歪みが気になる

 金沢の称名寺に行ってみた。金沢と言っても北陸加賀ではなくて、関東相模の横浜市金沢区にある寺院である。
 金沢山称名寺(きんたくさんしょうみょうじ)は、13世紀半ばに創建された金沢北条氏(かねさわほうじょうし)一門の菩提寺であると、入り口の門の傍に案内が書いてある。
 ほう、これだと同じ金沢でも、“きんたく、かねさわ、かなざわ”と3種類の読み方があるのか。

●惣門から仁王門までの結界の外

 住宅街の中を抜けると、惣門(赤門 1771年)が迎えてくれる。瓦葺だが創建時は茅葺だったろう。瓦だと重い感じがする。
 参道の踏み石をすすむと、少し違和感がある。そう、この門は参道に対してきちんと真正面に向いて、やってくる客を迎えるのではなくて、すこし右斜めに向いているからだ。
惣門は参道と直角ではなくて右に振れている

そういう景観デザインだろうと、通り抜けて振り返ると、惣門はわずかに右斜めになっている。
参道の中心軸に対して少し右に向く惣門

 参道の両側は桜並木で、参道の敷石はさらにまっすぐに続く。正面に髙く見えてきたのが仁王門(1818年)である。これは銅板葺だが、もとは茅葺であったろう。
仁王門にしだいに近づいていくと、また違和感が生じる。この門も真直ぐに迎えてくれるのではなくて、わずかに左の方に身を振っているのだ。
 仁王門の中心線と参道の中心線が、門の中でわずかに右に振れていることになる。
参道の中心軸に対して少し左に向く仁王門

 更に気になるのは、仁王門を通してその向こうに見える、反橋(太鼓橋)と金堂(1981年)がまっすぐに見えないことである。
仁王門に近づいて、その真正面の股の間から向うを覗くと、反橋と金堂が大きく見える。だが反橋はわずかに右に振れているし、その向うの金堂は左半分しか見えない。
 つまり仁王門の中心軸と反り橋の中心軸は振れており、更に反橋の中心軸と金堂の中心軸も振れているのである。
 ここまでの参道の軸と仁王門とはわずかに右に振れ、その仁王門の先でもまた軸線をわずかに右に振っているらしい。
 ふ~む。これも景観デザインだろうか。
仁王門から覗き込む浄土の庭の反橋と金堂

仁王門の中心線から右に振れている反橋

●仁王門をくぐって浄土の庭へ

 仁王門をくぐることはできないように柵があるので、いったん参道から逸れて左から回り込む。
ここで広い池を囲む盆地状の浄土景観の境内が、一気に出現する。それまで絞り込んできた景観が一気に開けるのである。浄土という結界の中のミクロコスモスに足を踏み入れるのだ。
 この参道から視線を仁王門の股下に視線を絞って行き、狭い絞った空間をくぐりぬけて行くことで、視線展開の大きな効果があるはずだ。そう空間演出をしてあるのだろうに、門の隣りの柵のあいだから入りこんだのでは、あまりにももったいない。
 ここはぜひとも門を通りぬけるようにしてもらいたいものだ。

仁王門をくぐると目の前の反橋の軸線方向が、これまでの参道の方向とはわずかに右に振れていることを知る。仁王門の中心軸とも合っていない。
 これは、仁王門をくぐった時に真正面に視線を固定するのではなくて、開けた浄土景観に左右に視線を展開させることを目論んだ景観デザインかもしれない。
 反橋を渡る。極楽浄土に渡る橋である。これまでの地上から空中へと、視線がだんだんと持ち上がって、池を超えて広がるのは、別世界にわたる景観的仕掛けである。浄土の中へと昇華するのか。

 反橋は池の中之島にいったん降りて、さらに次の平橋をわたるのだが、ふたつの橋は軸がそろっている。この橋から視線の行く先の正面には、金堂が待ち構えている。
 ここでまた気が付くのだが、そのまっすぐの視線のあたるところは、金堂の中心線からわずかに右に逸れているのだ。まん中ではない。またもや軸線が右にずれている。
橋の中心線から右に寄っている金堂

 こうして惣門、仁王門、太鼓橋、金堂と、称名寺の伽藍の中心を構成する軸線に沿って進んできたのだが、それらが右へ右へとわずかずつ振れて逸れていくのである。
地形的にそのことを要求するような狭さではないから、これは景観デザインであろう。だが、その変化には景観的な作為が見えない。
 これは浄土景観形成の伽藍配置手法なのだろうか?

●伽藍の中心軸はなぜ歪んでいるのだろう

 称名寺を訪ねて、これが聞いていた浄土景観であるかと眺め入ったのだが、中心軸線の変化の由来を知りたい。
 実測図に惣門から金堂までの軸線の変化を、青い線で入れてみた。軸線の最後が金堂背後の稲荷山の頂上に向かうように見える。
 金堂が後ろの稲荷山を背負って、その頂上と金堂の中心線を結ぶ線の延長が、伽藍配置の軸線であるらしいが、少しずつずれて振れていく。



軸線を構成する金堂、平橋、反橋、仁王門
 
 いや、もしも伽藍の中心線軸の先に稲荷山の頂上を持ってきたいなら、はじめにそのように金堂を配置して、その中心線を惣門まで伸ばした軸線を定め、この軸線上に橋も仁王門も乗せればよい。常識的にはそうやって配置の軸線を決めるものだろうに、なぜそうしなかったのか。
 もちろん、それらがまっすぐなる軸線上に乗らねばならないのでもないが、この微妙なはずし具合が気にかかる。施工誤差というには、目に見えすぎる。
 まさかと思うが、もしかして、もともとはまっすぐだったものが、その後の地震、特に1923年の関東大震災で土地が動いたのか。

 1323年に描かれたという称名寺絵図をみても、軸線の変化は判別できない。
 この図にある、池を囲む回廊などの大伽藍があれば、今とは大きく異なる浄土景観である。 
 茅葺の大きな屋根の建築群が、朱塗りの柱が立ち並ぶ回廊を従えて池を取り囲み、それの外まわりを緑あるいは紅葉の山々が取り囲むという、壮大な伽藍の姿を想像すると楽しい。
称名寺絵図 1323年

 創建時のものではないが、17世紀半ばから19世紀半ばまでに再建された伽藍が今の姿である。

 金堂(1681年)は瓦葺であるが(もちろん創建時は茅葺)、その隣の釈迦堂(1862年)は茅葺である。伽藍の中では釈迦堂が最も美しい。他に茅葺の建築は、参道わきにある光明院表門(1665年)がある。

釈迦堂

 訪れたのは紅葉の盛りの時であった。特に池の西に立つ2本のイチョウの巨木が、金色にその葉張りをひろげて姿を主張しすぎている。銀杏は浄土の木なのだろうか。
まわりの山々は、昔は薪炭採取のために伐採をしたので落葉樹林であったが、いまはそれが不必要になったために、自然遷移で常緑樹が増えている。
 かつてはもっと華やかな一面の紅葉風景であっただろう。だからこそ、その中でただひとつ紅葉しない楓の話が、能「六浦」として語られるようになったのであろう。