2016/10/02

1216【平塚初訪問:半端な歴史文化景観軸】八幡宮表参道が鳥居前で突然ブチ切れて門前払いを食らってビックリ


2016年の平塚八幡宮

 あれっ、神社直前で参道が突然に途切れた、こんなことっていいのかい?
 平塚市美術館で旧友が絵画展に出品するとて、鑑賞にでかけた。行ったことのない都市だから、事前にネットでその場所を調べたら、平塚駅から北にまっすぐに平塚八幡宮への参道を登っていくと、八幡宮の裏あたりにあるらしいと分かった。

 ふむ、なかなか歴史的な街の構造を維持しているんだな、駅から神社までの長い参道は、歴史的な門前町の賑やかな商店街なんだろうなあ、大昔は海まで参道がつづいていて神輿が海に入るなんてあったかもなあ、なんて想像しながら出かけた。
 見事に外れた。駅からわずかな区間が商店街だったが、あとは芸もないただの街だった。
突き当りに平塚八幡宮の鳥居と森が見える大門通り(表参道)
それでも昔は賑やかだったのだろうなあと、想像を逞しくしながら歩く。
 参道の突き当りには、朱塗りの鳥居とその背後に緑濃い社叢林が待ち構えていて、見事に街のランドマークを形成している。
 初めて訪ねる美術館は、あの裏あたりだなと、迷わずに進むことができる。街並み景観はともかくとしても、景観構造としてはなかなかよろしい。

 やがて鳥居が近づいてきたが、その手前の道の真ん中に、何やら黄色い看板が立っている。
 「横断 禁止」、エ~ッ、ここまで参道を真直ぐにやってきたのに、鳥居の直前で参道がブチ切れなのかい、そりゃないでしょ、右に50mほど迂回して交差点からまわれというのかい、しかもそこは横断歩道橋しかないのだから、こりゃひどいよ。
ウワッ、横断禁止とは、、、参道が途切れて門前払い
この酷い道は、国道(酷道か)1号である。できたのは戦後だけど、平塚八幡宮よりも偉いらしい。
 わたしは宗教にまったく関心がないが、ここは歴史的に先に存在していた平塚八幡宮に礼を尽くして、参道を優先してせめて横断歩道を設けるべきでしょ。
 歴史的景観とは、みた目だけじゃなくて、その景観構造の中での人間の歴史的行動の継承にもあるのだと気が付いたのであった。
 神社参拝する気はないが、ここまで平塚のランドマークを目指して歩いてきたのに、とつぜん文字通りの門前払いとはねえ。
国道を横断して境内に入り振り返って参道を見る
今、ネット検索していたら、こんなことが書いてある。どうやら元旦の初詣の時は、特別にここに警官が立って手信号で横断できるらしい。http://www.hiratsuka-daimon.net/
×のところで参道ブチ切れ

「表参道が復活します」平成28年元日も平塚警察署からご協力(警察官の手信号)頂き、国道1号線を横断できることとなり平塚八幡宮と大門通りが昔の姿を取り戻します。
 1300有余年の歴史を誇る平塚八幡宮、初詣には毎年およそ2万5000人の参拝者が訪れます。しかし国道1号線の整備により八幡宮と表参道である大門通りを分断されてから、鳥居を仰ぎながらの参拝ができませんでした。
 8年程前から、大門通りの商店会である大門会では参道型商店街としての賑わいを復活させる為に様々なイベント活動などを行っています。また大門会は活動の目的の一つである「八幡宮と参道を繋ぐ横断歩道設置」の要望活動を平塚八幡宮、自治会と協力して行っています。」(12月 23rd, 2015 by hiratsukadaimon) 

 八幡宮の社叢林を抜けて、美術館を目指す道にでた。この道は八幡宮の裏参道にあたる位置にある。平塚美術館は立派な施設だった。その手前には平塚博物館もある。
 だが、それらを結ぶ裏参道は、博物館の裏と工場の脇を抜けるなんだか裏さびれた路地の様子であった。
 駅から八幡宮をへて美術館までは、八幡宮の表と裏の参道上に位置しているので、都市軸としてそれなりの景観形成がされているのかと思ったが、これも期待が外れた。
 これだけの文化資産がありながら、もったいないまちづくりである。
裏参道から美術館への道
八幡宮の隣りにある横浜ゴム記念館の洋風建築を見てきた。20世紀初めの、イギリス人の設計で海軍火薬廠にあったものを、戦後に火薬廠が横浜ゴムの工場となり、2004年に市の施設としてここに移築したのだそうだ。
 風通しの良い日陰を作るベランダコロニアル建築は、ヨーロッパ人が日本を熱帯風土と誤解して設計したのであった。北海道でさえもベランダをつくるありさまだった。それをまねした日本の大工たちが、あちこちでベランダと塔のある擬洋風建築を作った。
横浜ゴム記念館(1912年前後) 設計:カリー及びウィルソン
最初は日本化薬(㈱)の外国人宿舎として建設、後に海軍火薬廠の将校クラブ
1952年の平塚市街

2016/09/27

1215【首相所信表明演説】国会が警察力や軍事力に頼る危ないスタンディングオベイションのなかで「カニボコ」宣伝演説かよ

 昨日(2016年9月26日)、国会で総理大臣所信表明演説があり、中途で議員たちによるスタンディングオベイションがあったそうだ。
 演説の中で首相は、海上保安庁、警察、自衛隊の働きぶりに触れた後に、こういったらしい。「今この場から、心からの敬意を表そうではありませんか」
 こう呼びかけて自分で拍手を始めたので、これを受けた自民党議員らが起立して拍手を約20秒間続けたそうだ。

 ネットではいろいろとスズメが騒いでいて、アベサンへの賛辞ならば、こりゃすごい時代が来たなとかってあるが、それもあったのだろうとも思う。
 でも私が思うには、今、このように国会が警察力や軍事力に頼ることを、議場で称賛して表現しなければならないほどに、政治家たちの「政」を「治」める能力が劣化状況の時代なんだなあと、これはまことに空恐ろしい時勢であることを物語っているのだ。
 
 もうひとつ、所信表明演説に、面白いことがあった。カニボコ宣伝演説である。
 カニボコって、昔は軽蔑と感嘆の対象だったよなあ。これが出始めた40年ほど前の頃は、料理や弁当についてくると、みんな箸でつまみあげて、これって本物の蟹を食えない貧乏人のためのニセモノなんだな、それにしてもうまく作ったなあ、日本人はコピー芸術職人だよなあ、なんて話し合っていたものだ。

 カニカマともいう。蒲鉾の製法で、蟹の身とそっくりに作るのだ。原料は蟹じゃなくてタラらしい。蟹の身の形だから、本物の蒲鉾と違って、板についていない。
 偽物と軽蔑されていても、マーガリンや人造キャビアのように、時間が経つと本物と肩を並べるものがある。このカニボコが典型だろう。

 なにしろこの度の総理大臣所信表明演説で称賛されたのだから、これはもう、れっきとした政府お墨付きのニセモノ、いや、コピー食品となった。
 それにしても、コピー食品を国会で宣伝するとはねえ、どんな基準で首相はこれをとりあげたのだろうか、「100年前に誕生した1軒の蒲鉾店」とは、七尾のスギヨのことだろうか。

 今やコピー食品は、ニセモノじゃなくて堂々たる食材らしい。人造イクラもあるらしいし、お世話になっている発泡酒もそうかな。
 安い肉を薄く切って何枚か貼り付けてビフテキにもする整形肉ってのもあるらしい。まるでべニア板である。
 あ、そうだ、べニア板も昔は本物の板の代用品だったのが、いまやこちらが主流派になってしまった。

 まあ、将棋打ちがAIなんてニセモノにとってかわられる時代だから、なにが本物で、なにがニセモノかわからないよなあ、今じゃあ。
 人間もボケちまっても生きていられる世の中だから、ボケたわたしと今のわたしのどっちが本物かわからない。どっちも本物だというのは、明らかに欺瞞だ、ボケた俺は俺のニセモノだぞ。



2016/09/26

1214懐かしい味の小豆アイスバーとチキンラーメンに出会った夏が過ぎていった

 夏がとうとう過ぎ去った。この夏はついに冷房をしないで、アイスバーを舐めてしのいだぞ。
 夏をもしのぐ強力アイスバー、それは「井村屋小豆アイスバー」であった。いろいろな氷菓を試した末に、これがわたしの消夏材に落ち着いたのだ。朝昼晩と舐めた。
 これは昔のけっこう高かった小豆味のアイスキャンデーを思い出させて、懐かしい。

 この小豆バー6本入りの箱を、いろいろな店で何回も買っているうちに気が付いたが、値段が200円台から400円台まで、さまざまでずいぶん差があるのだ。
 暑くなるほど高くて、寒くなるほど安くなるのか?

 そういえば、箸に突き刺した竹輪状のアイスキャンデーは、今はどこで売っているのだろうか。
 昔々、自転車の後ろに乗せた木箱に入れて(参考写真)、チリンチりんとなる鐘の音と共に「キャンデー、キャンデー、アイスキャンデー」の売り声を、炎天下に響かせながら、道を売り歩いていたものだ。一本5円だったかしら、そのなかで小豆アイスは7円か10円だったかな。

 いつもは食品店なんて酒を買うしか用事はないのだが、このアイスバーを買うために他の売り場に出入りして、ひょいと見つけたのが「日清チキンラーメン」の袋である。
 ふむ、ふむ、聞いたこと見たことあるような、懐かしいような気がする、買った。

 ネットで調べると、安藤百福がチキンラーメンを世に出したのは、1958年8月25日とある。横浜にはチキンラーメン博物館がある。 
 とすると、わたしがインスタントラーメンを初めて食ったのは、1959年になるはずだ。
 それは大学山岳部の食料として合宿に持って行ったのである。多分、携帯食料として山行きに可能かどうか試したのであろう。
 日本アルプスでの合宿中のある日の夕食にそれを食った。その日は部員の誰かの誕生日だったので、特別食だった。美味かった記憶があるが、それ以後にチキンラーメンを合宿で食べた覚えがないのは、コストと携帯効率が不十分なものだったのだろう。

 その後もチキンラーメンを食った記憶はあるが、もうずっと昔に縁切りになって忘れていたのを、アイスバーを買った店で出会って思い出した。
 昨日のブランチに、それを料理?して食った。ふむ、この麺のワラワラとした姿、どこかワサワサする歯ごたえ、ちょっとゲスっぽい味、そうだったなあ、うん、うん、昔もこんな味だった、今も同じなのか、すごい。
 それは、とにもかくにも、不味かった、、だめだ、こりゃ、でも食い物のない時代に育ったので残さず食ってしまった、うーむ、マズイ口直しにアイスバー

2016/09/25

1213【新聞博物館:ニュースパーク】古新聞コピーパネルばかりで興味が湧かない面白くもない展示だったなあ

 ヒマなので勉強に出かけた。最近リニューアルした「新聞博物館」(ニュースパーク)である。 
 しかし、古新聞コピーのパネル展示ばかりで、実につまらなかった。古新聞を見るなら図書館に行けばよい。
 時節柄、オリピック競技という企画による古今の競技大会の新聞だったが、わたしはオリンピックにまったく興味ないから、どうもしょうがない。

 いろいろな賞を得た記事が麗麗しくパネルにしてあるのは、それはそれでよいのだが、逆に、報道における誤報という都合の悪いことは、全く扱っていないのには、なんとなく白けた感になった。また、戦争やテロ報道のような、難しくその態度も議論のあることも、展示の中にはなにも見えない。
 ようするに新聞ジャーナリズムの持つべき主張とか批評精神とかが見えないのが、つまらない原因だな。

 新聞写真で1枚だけ、わたしにはおぞましくも懐かしい展示があった。1960年10月12日、浅沼稲次郎暗殺現場写真である。
 このときわたしは大学生で、床屋で髪を刈ってもらっていた。たまたまTVで実況撮影したその場面が、繰り返し放送されて、おぞましい思いでそれを見ていた、強烈な記憶がある。

 この瞬間を撮ったカメラ記者には、「写真撮る前にカメラを投げつけて殺害を防ぐべきだった」と、非難の新聞投書がたくさんあったものだ。
 今ならネットでボロクソだろう。

 体験型展示は、オリジナル新聞つくりと、新聞記者になって取材ゴッコだそうで、どちらにもスタッフから誘われた。
 記者ゴッコはグループでやるらしいので、キムツカシイ年寄りには面倒なので遠慮した。

 オリジナル新聞つくりは、PCを使って製作するそうだ。できあがり見本を見せてくれたが、その中の写真(それも向うが用意するもの)と十数字のコメントだけがオリジナルで、そのほかはテンプレートのまま既製品だというのである。
 わたしが今日撮った写真を入れたいし、できればわたしの誕生日の新聞をつくりたいと言ったら、それはできませんという。つまらないから遠慮した。
 参加型ミュージアムの時代だが、参加するこちらが気難しくて参加しづらい。
ニュースパークサイトhttp://newspark.jp/newspark/



2016/09/20

1212【マンション撲滅論】全部無料で建て替えできる条件でさえも全員同意できない名ばかりマンション建て替え

 ようやくのことに例の大問題共同住宅建て替え決議が成立したたそうである。去年の半ばから大騒ぎだった、横浜市内にある大規模区分所有共同住宅(名ばかりマンション)のビルが傾いてきた事件である。
 施工不良であったことが原因と分り、販売した三井不動産レジデンシャルがすべて責任を取って、買主に全額補償して立て直すことにした。
 買った方はバカバカしい事件に巻き込まれてやりきれないことであろう。察するに余りあるが、そのバカバカしさは、名ばかりマンションなるものの宿命なのに、世間は気がついていないのだ。

 揉めて揉めて一年後の昨日のこと、ようやく法に基づく建て替え決議が成立したが、それでも議決権数711件中賛成709件だから、全員同意ではないらしい。区分所有者数でも635件中633件が賛成だから、どうやら二人の頑強な反対者がいるらしい。
 もっとも、賛成者の数の内には、かなりの数の事業者買取り戸数もあるだろう。それでもこれだけ多くの権利者たちが、たったの1年で建て替え決議の通過に持ち込んだのは、原因者が建て替え費用を全て負担し慰謝料も出すという、非常にまれな特殊な事例だからである。
  
 一般的にこれだけ権利者が多いと、二人くらい(もっと多く)の反対者が居ても不思議ではないが、それにしても権利者たちには金銭負担が一切ないこのような建替え事例でも、全員同意にはならない。
 ましてや、これが震災や火災あるいは老朽化によるような、管理組合による自主的な事業として、各自負担による建て替えならば、とてもこうはいかないだろう。
 反対の2戸分をそのままでは建替え不可能だから、これから説得、買い取り、強制代執行とか、大変だろうと思うが、三井不動産レジデンシャルがやるのだろう。そこも自主建て替えと大いに違う。

 さて、熊本でも震災があったが、被災区分所有型共同住宅(名ばかりマンション)は、どうしてるのだろうか。
 相かわらずの超高層巨大共同住宅が建ちつつある東京圏、例えばにわか名ばかりマンションニューヨーク武蔵小杉とかでは、これから起きる大地震では、どうなるのでしょうねえ。わたしは借家住まいだから、そこのところは気楽だけどね。

参照:くたばれ名ばかりマンション論議
・1150【マンション撲滅論①:買ってはいけない7か条】こんな不安定な資産なのに世の人は大借金してまでなぜ買うのだろうか
http://datey.blogspot.jp/2015/12/1150.html
・1139【横浜名ばかりマンション傾き事件】真犯人は設計も監理も施工もグルでやった三井住友建設とようやくわかったぞ
http://datey.blogspot.jp/2015/10/1139.html
・1138【横浜名ばかりマンション傾き事件】根本問題は基礎杭の欠陥工事じゃなくて「マンション」という区分所有方式共同住宅という欠陥システムにあるんだけどなあ
http://datey.blogspot.jp/2015/10/1138.html
・1136【横浜名ばかりマンション傾き事件】基礎杭インチキ事件の真の責任者は孫請けか元請けか工事監理者か設計者か謎ばかりニュース
http://datey.blogspot.jp/2015/10/1136_22.html
・968【くたばれマンション】だから言ってるでしょ、名ばかりマンション区分所有共同住宅ビルをやめろって
http://datey.blogspot.jp/2014/07/968.html
・・808「名ばかりマンション」をいまどき売る人買う人の気がしれない
http://datey.blogspot.jp/2013/07/808.html
・664くたばれ名ばかりマンション屋!大ウソつきがばれたぞ
http://datey.blogspot.jp/2012/09/664.html
・くたばれマンション
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tosikyoju

2016/09/18

1211毎年ふらふら変わる敬老の日は今年はいつなのか軽老朦朧老人にはさっぱり分からない

 空中陋屋の窓から祭囃子が聞こえる。バルコニーから見下ろすと、このあたりの鎮守社であるお三宮神社のお祭りで、神輿渡御の行列が行く。
 行列といっても20人もいたろうか、肝心の神輿は車に曳かれているから、ワッショイワッショイの景気よい声はないし、囃子も録音をラウドスピーカで流している有様。
 雨もよいだから神輿は透明プラスチックレインコートを被っている。なんだか寂しいが、町内を神輿が渡御するだけでも、良しとしようか。

 このあたりは中高層建築の共同住宅群の街である。わたしがそうである如く、各住宅ビルの各バルコニーから住人たちが顔を出して、道行く神輿を見下ろしている。
 ほう、こんな人たちが住んでいるのかとそちらを眺めていて、おやおや、爺さん婆さんばかりだよ、いや、もちろんこちらも爺さんだけどね、休日というのに子どもの顔が見えない。

 むかしむか~し、公団の住宅団地に住んでいた頃、こういうときにバルコニーから顔を出す人々は、だれもかれも若かったし、子どもの顔もたくさんだったことを思い出した。
 そうか、明日は敬老の日だな、むかしむかしはそんな祝日はなかったよなあ、その後に年寄りが増えつつつある時代になって、敬老の日なんてのを発明したものだった。

 いまや年寄りが増えすぎて、敬老よりも軽老へと時代の空気は変らざるを得ないよなあ。
 その証拠には、敬老の日ってのは昔は9月15日に決まっていたのに、今じゃあ毎年毎年ふらふらふらと日取りが変って、今年は9月19日だそうだ。
 ネットで調べたら、去年は9月21日、来年は9月18日だそうだ。

 これって、人々の老いを敬う精神を高揚するするために、記憶の中に敬老の日として定めておくのじゃなくて、連休にしてしっかり遊びたいとか、観光業が稼ぎたいってことですよね、まあ、いいけどね、それでも、、、どうせ老人はジャマでショ。

 そうだ、「子どもの日」ってのをもっと大切にしてはどうですか。あんな大連休の中に埋もれさせてしまうから、子どもを大切にって精神が忘れ去られてしまって、少子時代になったんでしょ。
 あそうだ、「女性の日」を新設してはどうですか、あ、そうだ、あわせて「おんな子どもの日」がいいか。

 参考までに、父の軍隊手帳によれば、1930年当時の祝祭日はこうだった。赤字の日付は名前を代えて今に続く。
 四方拝(1月1日)、元始祭(1月3日)、新年宴会(1月5日)、
 紀元節(2月11日)春季皇霊祭(3月21日)、神武天皇祭(4月3日)、
 天長節(4月29日)秋季皇霊祭(9月24日)、神嘗祭(10月17日)、
 明治節(11月3日)新嘗祭(11月23日)、大正天皇祭(12月25日)

2016/09/10

1210【本つくり趣味】この夏は趣味の本つくりで「歌集」に没頭していて暑さを忘れていた

 今朝起きたら、ツクツクボーシの鳴き声がする、おお、秋だなあ。
 今年はとうとうわが書斎兼工房兼寝室を、冷房しないままに秋が来てしまった。
 この夏は冷房しないで過ごそうと決めたのは、うまくいけば、熱中症でポックリとなるだろうって期待をしたのだ。ついでに電気代も少ないエコ生活にもなるという一挙両得?も。

 ところが、意外というか残念というか、あまり暑い日がなかったし、暑い日は風が吹き抜けて、なんとか過ごしてしまった。だからポックリの目論見が外れた。
 もっとも、本当は暑い日があったのかもしれないが、歳とると気温に鈍感になって、暑さが身に応えなくなったのかもしれない。それはそれでエコな体質でよろしい。
 
 もうひとつ冷房しなくても過ごした大きな原因は、この夏は趣味に没頭していて、暑さを心がはねのけたのかもしれない。
 その趣味とは「本つくり」である。この夏はその趣味を生かして、他人様の「歌集」をつくったのだ。6月から編集にかかり、7月に校正、8月に入ってから100冊を造本した。
 これにかかりきりの夏は、心頭滅却すれば火もまた涼しの心境で、暑さも逃げたらしい。

 3人の幼馴染が、それぞれの趣味を持ち寄って、歌集を作ったのである。
 ひとりは歌を詠み、ひとりは花をつくるのが趣味であり、わたしは本をつくるのが趣味だが、3人は全く別々の遠隔地に住むので、一度も顔をあわせることなく、インタネットで結んでの作業であった。いつもは自著の本しか作らないのに、珍しくも他著の本つくりである。

 歌つくり、花つくり、本つくりという、それぞれの趣味を生かして、薔薇の花が彩る可愛らしい歌集が生れた。
 今月になり、その歌集を遥か西の地の二人に送りとどけたら、いつのまにかミンミンゼミが去ってツクツクボーシの鳴く秋になっていた。
歌集『ぽかりぽかり 2007~2016』
歌つくり:藤本孝子、花つくり:定森治子、本つくり:まちもり散人

 その歌集に書いた「あとがき」を載せておく。その歌集の出自を書いておいた。

               ◆◆◆

 (あとがき)  本つくり        まちもり散人(伊達 美徳)

 日常の只事をそっと掬い、はらり羽化させると言霊の蝶になり、軽やかに舞う翅はしばし花に休らう、そんな歌に花を添える歌集の本をつくりたかった。 
 本つくり…これがわたしの趣味、書斎机の電子道具と百円文具を操って、原稿書きから編集装幀印刷製本へと独り愉しむ紙工作の手芸である。
 できた自著自作本を、ひとさまに読めよ観よと押しつけるのも愉しく、そのなかに高梁盆地オマージュ本の『美しい故郷へ』もある。
 他著自作本も稀に手がけるので、幼馴染の媼二人に押しかけ勧誘メールをした。

  近作の歌花集め書に編まむボケの雲霧湧きくる前に

 かくして高梁三原横浜なる歌人花人散人の文芸園芸手芸を電網に結んで編めば、春楡の樹の下にぽかりまたぽかりと歌集が三年に二つ生れ出た。
 はからずも喜寿傘寿記念にもなり、お互いおめでたくてホッとしている。折りから高校卒業還暦同期会にて、これが旧友たちへの挨拶がわりにもなれば、造本担当としてもぼっこー嬉しい。

               ◆◆◆

関連ページ
◆「まちもり叢書」自家製ブックレットシリーズ
http://datey.blogspot.jp/p/dateyggmail.html
1007短歌を詠んだがいつもは詠む趣味はないから突然の歌人
http://datey.blogspot.jp/2014/10/1007.html


2016/08/22

1209【敗戦忌】父は三度の戦地から三度とも生還したが兵器となった釣鐘は戻らないまま

わたしの生家の御前神社にある釣鐘のない鐘楼  2015年
 鐘楼の鐘も戻らぬ敗戦忌   (いすみ市)菊地正男

 今朝の朝日俳壇入選句に、わたしの目がとまった。
そうだ、わたしの生家の神社の鐘楼がまさにそうだった。

 もう敗戦忌から一週間も経ったか、今年は靖国神社に野次馬見物にも出かけない夏だったので、いつも書くのに忘れていたが、やっぱりあの日のことなど書いておこう。
 
 わたしの生家は、城下町の高梁盆地をとり囲む丘陵の中腹にある神社であった。
 長い石段の参道脇に、木造で3階建てほどの髙さの塔状の鐘楼があり、時の鐘が吊るされていた。
 その鐘は、17世紀半ばに鋳造されてそこに釣られて以来、神社代々の宮司が毎日定時に撞いて街の人々に時を知らせる「時の鐘」であった。
 太平戦争が始まる前年の1940年末に、その鐘は兵器となるために政府に供出されて出て行き、そのまま戻らない。 鐘楼だけが、いまだに立ち尽くしている。
1926年の鐘楼の写真(高梁高校創立記念写真集56より)

 その鐘楼の1926年の写真があるから、少なくとも90年以上も前の建物だろう。
 多分、かなり老朽化しているだろうに、今もすっくと立って、その役割を失ってからも、帰らぬわが子を待ち続けるかのように、よくぞ立ち続けているものである。
 今年も「鐘楼の鐘も戻らぬ敗戦忌」であったはずだ。
 
 鐘が出て行った1940年は、その鐘を撞く役割を勤めるべきわたしの父は、日中戦争で中国の北部にいた。戦場でも戦死者の祭祀を司っていたらしい。
 1938年に神社を出て大陸に渡り、戻ってきたのは1941年の5月であった。父の兵役はこの時が2度目であり、最初は満州事変のとき、更に3度目が太平洋戦争のときだった。
1940年元旦、紀元2600年記念で
鐘を2600回撞いた
父が不在の時には、母が鐘楼に登っていた。母は3歳幼児を連れて高い鐘楼に登ることはできないから、わたしをひとり家に残して出て行ったが、夜の留守番役は怖かった記憶がある。

 1943年、3度目の召集令状で出て行った父を、母はわたしを連れて駅に見送った。
 そして家に戻るやいなや、いきなり泣き伏した。ひとり畳に伏して号泣する母のそばで、幼いわたしは意外な母の行動におどろき、ただぼう然とするばかり、12月のことだった。
 父は南方に送られるべく姫路城にある兵舎で輸送船舶を待っていた。時々は母と面会に行ったし、時には父が休日に戻ってきたりしたのは、未だ戦火が国内に来ない頃だったのだろう。

 1945年の7月、戦火を避けて集団疎開児童が神社にやってきた。芦屋市精道国民学校初等科6年女生徒20人と職員1名が、社務所の中で暮らすようになった。
 この子たちがいない間の芦屋は、アメリカ軍の空爆で大被災し、なかには孤児になった児童もいたようである。

 そして8月15日の真昼、社務所玄関前に近所の人々と疎開児童たちが集まり、一台のラジオ受信機をとりまいた。
 森の中に降りしきる蝉しぐれとともに聴く、音の悪いラジオ放送が終わると、近所の人々は黙りこくって一列となり、石段を下って鐘のない鐘楼のそばを通り、神社の森からとぼとぼと抜け出て行った。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 
          (まちもり散人2014年詠)

 疎開児童たちは芦屋に戻って行き、街には戦場から戻る人たちがぼつぼつと増えていった。
 わたしも父が戻ってくるかもしれないと、石段の上から参道を見下ろして毎日毎日待ち受けていた。ある日、鐘楼のそばの石段を登ってくる父を見つけて、飛びついた。
 後に調べると、それは1945年8月31日のことだった。父はその年の初めから、小田原に移っていた。制海権を敵に取られて、姫路で待っていた南方への輸送船はやってこなかったのだ。

 小田原では本土決戦とて、湘南海岸から上陸してくる敵兵を迎え撃つべく、丘陵に穴を掘って戦場陣地の構築をしていたのであった。
 8月15日の小田原空襲ものがれて、無事に戻ってきたきたわたしの父は、3度の戦場を生き抜いた強運の人でああった。
 わたしの身内では、母方の叔父が戻ってこなかった。父と違って運悪く輸送船が間に合ってしまい、フィリピンルソン島マニラの東方山中の戦場に消えた。後に若妻と乳飲み子がのこった。

 戦争が終わって、父は戻ってきたが、鐘は鐘楼に戻ってこなかった。
 むなしい鐘楼を何とかしたいと父は思ったのであろう、1946年の夏、その鐘がまだあるかもしれないと、父と伯父は各息子を連れて、瀬戸内海の直島にさがしに行ったことがある。
 各地からこの島に集めた鐘を、島にあった製錬所で溶融して兵器にしたらしい。樹木がひとつも生えていない丸禿げの島だった。

 集められたまま熔かされないでいた無数の釣鐘の群れが、野天の荒れ地に累々と並んで夏の太陽に照らされていた有様は、子ども心にもなんともシュールな風景であった記憶がある。
 背丈より高い釣鐘の林を歩き回って探したが、生家の神社のそれは見つからなかった。
 その直島の製錬所は、いまは三菱マテリアル直島製錬所となり、工場見学もできるそうだが、戦争と鐘の記憶を伝えているだろうか。

 それからかなりの後に聴いた話で、わたしも父も盆地を離れてからのことだが、その鐘楼にプラスチック製の釣鐘を寄附した人がいた。
 その鐘は、テープレコーダとスピーカにつながっていて、録音の鐘の音が定時に自動的に街に鳴り響いて、時を告げていたそうだ。いまはその鐘もない。
 そういえば、とっくに100年を超える本殿と拝殿は今も健在だが、疎開児童が暮らした社務所は建替えられたし、わたしが育った宮司の住宅も今はもう無い。
 あの鐘楼は100年の命を保つことができるだろうか。

◎関連するわたしのサイトページ『父の十五年戦争
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html

2016/08/15

1208【熊本城と師匠】地震で壊れた熊本城の復興に平井聖先生が登場で相変わらず元気な八十路の師匠

 熊本地震で壊れた熊本城のニュースに、わたしの師匠の平井聖さんの名を見つけた。八十路半ばをとっくに越えても超元気な師匠である。
熊本城は、西南戦争で大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の天守は1960年に大小天守などをコンクリートで再建した。その時の設計者が平井さんの師匠である藤岡通夫先生だから、助手であった平井さんも設計に携わった。
 以後、ずっと熊本城に関わり続け、近年では本丸御殿や南大手門などの復元の指導もされたが、更にこのたびの震災では復興に張り切っておられるニュースである。

 まったくもってお元気すぎる師匠である。
 年に一度の師匠を囲む弟子たちの会では、弟子のたちの方が呆けたり没したりするのに、師匠は昔と変わらずにひょうひょうと現れて、また珍妙な新カメラをとりだし、スマホで操作して自慢して見せたりなさる。いまごろはポケモンGOなんぞ、もしかして、、。
 わたしはある年のその会をうっかり忘れて家に居たら、その会場から「今どこにいるの?」と師匠の声の電話、ハッと気が付き絶句したものだ。
 もっとも、その前の年の会では、師匠が日を間違えたために、師匠不在の師匠を囲む会となったから、まあ、引き分けではある。

 NHK大河ドラマでは、もう四半世紀も建築考証者を務めておられる。
 いまの「真田丸」のタイトルクレジットにもその名が登場するが、その背景にある城郭画像の一部は、わたしの生まれ故郷にある備中松山城である。次に会ったら話題にしようと思う。
 わたしが建築史の藤岡通夫先生につき、当時は助手の平井さんに指導を受けることになったのは、この備中松山城を遊び場として城下町で育ったがゆえである。
備中松山城 photo DATEY

 ついでに師匠に便乗して我田引クリック、わたしが平井先生の弟子(もちろん不肖の)である証拠
遺構による近世公家住宅の研究(大学卒業研究論文1960)
修学院離宮中茶屋及び法然院方丈について(日本建築学会論文1961)
京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る(2015)
   

2016/08/06

1207【オリンピック騒ぎ】観戦スポーツ競技こそが大衆ドーピングポピュリズムの源泉か

 朝日新聞、いつからスポーツ新聞になったんだよ、野球やオリンピック記事はスポーツ専門紙にまかせときなさいよ。

 8月6日、広島原爆投下から71年目の日である。
 ところがその日の夕刊は、第1面は地球の裏側で始まったオリンピックの記事ばかり、広島の記事を探せば、最終ページの片隅に、、。
2016/08/07朝日新聞夕刊 第1面と最終面
 そして8月7日の朝刊もかくごとく、スポーツ新聞状態。
2016/08/08朝日新聞朝刊もこの扱い!
ところが、おなじ8月7日の東京新聞、こっちに替えようかな。

そして8月10日もこの有様


観戦スポーツ嫌いの私は、読むページがどんどん減少する。その上、休刊日も増えるばかり。でも購読料はちっとも下がらない。もう購読をやめようっと、ネットで十分だよ、。

 毎朝夕に新聞という屑紙がドサッと配達されてくる。オリンピックだの高校野球だの広告だの、読まない屑ページばかり増えてくる。
 昨日の朝刊なんて、全40ページのうち、スポーツが9ページ、広告が10ページだから、半分は読まないでゴミに直行するページである。他のページも、バカな記事やら広告やらで、読まないところが多い。読んだところを正確に計算すると、2ページ分くらいかもしれない。でも、怖いから計算しない。そんなもの買い続けているのは、もう惰性でしかない。ああ、金がもったいない。

 それに折り込み広告もあるから、新聞が発する紙ゴミの量は大量資源浪費である。われながらエコな生活ではない。
 そこで罪滅ぼしに、手軽にできるエコ生活として冷房しないで暮らすことにした。今年はまだ一回もエアコンをつけていない。今日は暑かったなあ。
 そのうちに熱中症でポックリ逝くだろうが、それは朝日新聞のせいである。まあ、ポックリ逝っても惜しくないし、それがいいなとも思っているから、新聞屋に感謝するか。

 わたしはスポーツをやることを嫌いではないが、他人がやるのを見る、特にプロとかセミプロがやるのを見るなんて観戦ポーツには、全くなじめない。観戦者一同声をそろえて応援なんて、大いに気持ちが悪い。
 昨夜、横浜中華街を歩いていたら、YOKOHAMAとある青シャツ若者の大群が歩いてきた。どうやら横浜球場のナイトゲームからの流れらしいが、同じ格好で街中をうろうろして、恥ずかしいよなあ。

 どうしてこんなにも観戦スポーツ記事が多いのだろうかと、ずーっと不思議でならない。観戦スポーツ嫌い論が新聞にもTVにも登場しないが、だれもが好きなんだろうか。
 オリンピックとなると、だれもかれもが国粋主義に陥るのが不思議だ。国旗振り回し、国家歌って、気持ちが悪い。
 もっと気持ちが悪いのは、ドーピングである。大資本商業主義と偏狭ナショナリズムに堕落しきったスポーツ界から、魑魅魍魎がどす黒いウンコとヘドになって噴出してきた。

 こんなニュースを読めば、みんないい加減うんざりしそうなものを、オリピックだの高校野球だのって、トップ記事にする新聞屋を不思議に思う。まあ、それを喜んで読むやつが多いから仕方ないか。TVを見ないから知らないが、そっちも酷いことになっているのだろうなあ。
 どうもそれは、トランプ大統領候補とか、EU離脱国民投票とか、小池百合子ブッチギリ当選とか、ついでに右翼言動防衛大臣登場とか、近ごろ妙なポピュリスム現象が流行するのと通底するところがありそうだ、なんてつい思っちまうよ。

 ところでドーピング問題である。ここまで根深くスポーツ界に浸透してるのなら、いっそのことすべてドーピング解禁しなさいよ。ドーピングで他人に迷惑がかかることもない。禁酒法と同じで、禁止すればするほど犯罪者をつくる。裏で儲けるやつが出てくる。
 ドーピングでアスリートが体を壊すのは、それで成績よくなって儲けることとバーターである。オープンにすれば身体に良くない薬は、自然に淘汰されるだろう。

 そもそもスポーツ用の特別の靴なんてものもドーピングでしょ。裸足でやりなさいよ、初期のアベベみたいに。
 棒高跳びを竹の竿でやりなさい。昔の弓矢の競技が今は鉄砲撃ちになるなんて、最悪のドーピングでしょ。
 早く泳げる水着なんてのもいつか問題になったとき、水泳競技を全裸でやれと、わたしはこのブログに書いた。あ、そうだ、古代オリピックは全裸でやったらしい。
http://datey.blogspot.jp/2008/06/blog-post_10.html
 
 考えてみると、観戦スポーツは大衆ドーピングそのものである。4年もかけてじわじわと観戦スポーツというヤクを打ち続けて中毒患者をつくり、4年目ごとに一気にカラ騒ぎオリンピック大会でヤク中毒症状の極に達する。
 それは広島の原爆忌記事さえも片隅に押しやってしまう強烈なヤク中毒であることを、今日の朝日新聞夕刊が示している。多分、この後の長崎原爆忌も敗戦記念日もそうなるだろう。

 まあ、テロ事件とか、スキャンダルのドーピングとか八百長事件なんて、起きないことを期待するが、いっぽうで、そのたぐいの事件が起きてくれると、わたしもスポーツ記事を読むことができて、いくぶんかゴミじゃない新聞が来るかもなあと、不謹慎な期待もある。

 ところで、南半球は今は冬だからいいけど、4年後の東京でもこの時期にオリンピック大会をやるのだろうか。
 わたしは興味ないからどうでもいいようなもんだけど、まあ、観戦スポーツ好きな方も競技に出る方も、このくそ暑い中を物好きなことよ

参照 2008/06/10水着で水泳競技記録が左右されるのが問題なら全裸で泳げ