2014/09/25

1002【福島東電核毒地帯徘徊4】除染でつるつるに剥ぎ取られる村は本当に昔に戻るのだろうか


実に立派な建物だが、誰も来ない村役場

村役場前の広場にある放射線量計は0.43マイクロシーベルト

 参考のために、震災前の全国の放射線量を載せておく。


 福島県飯館村は、全村民がどこかよその町に避難して誰も居ないはずなのに、村の田畑や村落は今、かつてないほどの賑やかさである。
 どこもかしこもお祭りのように黄色の幟旗がはためき、田畑にはせっせと働く人たちが見え、土木重機やトラックが動き回り、どこもかしこも大量の黒袋や青テントが置かれている。
 降り積もった放射性物質の除染作業、つまり核毒除去工事が真っ盛りの風景である。
手前には核毒詰め黒袋、向こうには核毒土鋤取り中の重機

田畑を漉き取った土を積んでシートをかけておく

 「除染」とは妙な言葉である。今回の事件で初めて知った。それまで聞いたこともなかったが、昔からある言葉だろうか。汚染した汚物を取り除くのだから、除染じゃなくて「除汚」でしょ。
 放射性物質というのも科学用語かもしれないが、庶民には分かりにくい曖昧な言葉である。はっきり「核毒」といいなさいよ。
 昔、足尾の古河鉱山から垂れ流した有名な公害事件では、「足尾鉱毒事件」と言った。
 今、福島の東電原発から垂れ流したのは、「核毒」というべきである。そう、これは「福島核毒事件」なのである。

 さて、飯館村中での核毒除去作業だが、なにしろ農村だから田畑がひろがる。そこを草刈りして、土木重機で表土を漉き取る。地球の皮をはいでいるようなものだ。
 屋敷では、家屋の屋根や壁を雑巾で拭き、庭は草を取り、庭木は伐り倒し、畑は表土をすき取る。
 屋敷や道路の側の林は、その林縁から20m奥まで、低い枝を落し、下刈りし、落ち葉を掻く。その林内は、まるで都会の公園の中のように、足元はすっぽんぽんの中高木ばかりになっている。
 植生学者の宮脇昭さんが見たら、ソデもマントも林床草本も低木も無いなんてと、真っ赤になって怒りそうだが、そうも言っていられないのが現実だろう。
森の林縁も林床もつるつるに掃除されている

 そうやって伐ったり採ったりした枝葉、落ち葉、畑土などは、核毒まみれだから川に流したり、燃やしたりしてはいけない。集めて真っ黒なプラスチック製の袋に詰め込む。
 作業するひとたちも核毒に触れないように重装備である。暑そうだ。
 山林に降り積もった核毒は、ほったらかしにするそうだ。山林面積の方が田畑や宅地よりもはるかに広いのだが、、。

 それでも膨大な黒袋になる。濃縮核毒袋である。村中のどこもかしこも黒袋だらけである。
 さて、そうやってつくったたくさんの黒袋を、最終的には核毒処理場に運んで行くはずだが、それがまだ決まらないから、持っていけない。
 しょうがないから、最終が決まるまでは中間貯蔵場に集めることになっているが、その中間も決まっていないから、村の中に仮貯蔵場を何カ所か決めて、そこに集めている。
 濃縮核毒袋を集めて積み重ねているから、そのあたりはますます核毒が強まる。
真っ黒核毒袋に線量計を載せて見たら、なんとまあ8.220マイクロシーベルト

 ところが、黒袋はあとからあとから生まれて来て、村内仮貯蔵場も満杯になるから、仮仮貯蔵場を設ける。ところがそこも満杯になって、しょうがないから仮仮仮貯蔵場を設けて、だが、そこも満杯になって、、ああ、きりがない。
 そうやって村中に核毒濃縮黒袋が蔓延している風景は、異様である。だが、見慣れてくるとそれが普通に見えてくるから、困る。
 この黒袋蔓延現象は、これから除染という核毒除去をする地域でも、同じことが起きるのだろうか。何時になったら毒は消えるのだろうか。消えたら、人々は戻ってくるのか。
仮置き場では積み上げた黒袋に鉛入り布をかけていても線量0.654マイクロシーベルト

 この核毒除去作業を人間の顔に例えると、顔面の産毛も眉毛も睫毛も剃って、皮をはぎ取ってから、尻か腿のあたりの皮を移植するようなものだ。
 頭の毛の生え際あたり剃りを入れるが、頭髪には何もしないということだ。

 とにかく、村の田畑は皮をはがされている。田畑の表土は作物を育てるための栄養豊かな土壌だから、そこをはがされては田畑でなくなる。田んぼのあちこちにはがされた表土が積んであり、青テントで覆われて黒袋に詰められるのを待っている。
 そのはがされた表土の代わりに、どこかの山を崩して土を取り、それを覆土するのだそうである。飯館村内の鳥獣保護区と看板がある山を、大規模に崩していた。ここから赤い土を取って、田畑に持って行くのだそうだ。

 だが、この山砂で田畑に覆土しても、作物の出来る田畑にはなるまい。かといって、山から落ち葉を拾って田畑に撒くわけにもいかない。稲藁はもちろん無い。
 化学肥料の出番なのか、それともこれから何年か毎年に生えてくる雑草を刈り倒しておけば、腐って栄養になるのか。どこかから稲わらや腐葉土を買ってきて入れるのか。
 幸いにして日本列島の気候は湿潤だから、山砂の田畑にも草が生え、低木が育ち、中高木が繁って、自然の風景になるには10年ほどだろう。でも人間は10年の間に、生れ、育ち、老い、死ぬ。元には戻らない。

 まったくの余所者の慨嘆だが、いったいこの作業はどれほど金がかかり、どれほど実効あることなのか、わたしはため息ついて眺めるばかりだった。
 でも、そのようななかでも、村は未来を描いているのだ。題して「いいたて までいな復興計画」。ほんとにその健気さに頭が下がる。
「いいたて までいな復興計画2014」にある村の拠点整備計画イメージ図

上の拠点整備計画地区はただいま核毒除去作業真っ最中

飯舘村において核毒除去作業(除染という)を実施する面積は、5600ヘクタールもの広さである。しかし、村全体は23000ヘクタールもあるから、除染面積は24.3パーセントに過ぎない
 核毒まみれのままの山林地帯から、これからも雨風に乗って核毒は降り流れ下るのだろうか。


つづく、さて次は南相馬から浪江町へ

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html


2014/09/24

1001【福島東電核毒地帯徘徊3】核毒に明け渡した飯館村を核毒除去産業が占拠している

飯館村は福島原発事故による核毒被災地の中でも、特異なというか、典型的というか、悲劇のメイン舞台であったらしい。
 核毒発射地の福島第1原発に近い地域の南相馬市や浪江町の人たちが、少しでも遠くへと逃げ出して、とりあえず30km圏のここまでくれば安心と避難の場を求めた。
 飯館の村民たちは、原発のことは何も情報がないままに、避難民たちをとにかく援けようと、せっせと働いた。

 そのころ、東電の核毒は北西風に乗ってやってきて、この村の空から雪と雨になって濃厚に降り注いでいたのだが、そんなことはだれも教えてくれない。目にも見えない臭いもしない。
 村民たちは、雪の村中を駆け回って避難民の受け入れをしていた。だから村民たちは、避難民たちよりももっと深く被曝したのであった。
 東や南からやってきた避難民たちは、よりによって核毒の降り積もる村に逃げこんで、また更に被曝を重ねたのであった。(その頃の核毒状況地図

 そして今、核毒まみれの村は避難指示区域に指定されてしまって、6000人余の村民は核毒に村を明け渡して、村外に追いやられている。
 それでも村内に住まなければならない人たちがいる。村の中心部にある老人介護施設の入居者60人ほどである。介護老人は動かせにくいという事情だろう。
誰も住まない訪れない飯館村なのに、こんなに駐車しているのは、向うに見える
立派な老人介護施設だけは入居者60人が住んでいるから、その見守りや介護人たちの車。

  それについて、わたしも老人だから思うのだが、わが身をこの地の核毒に侵されたとしても、それが命に係わる頃はこの世に身はないはずだ。だから、わたしはここに住んでもよいのだが、都会好きだから住めない。核毒被害については年齢差がありそうだ。

 夜はダメだが、昼間は居てもよいことになっているから、一部の工場等は操業しているいるらしいが、従業員の確保が困難らしい。だれだって核毒まみれの土地で働きたくないだろう。
 核毒に追い出されてしまった今、市役所も学校も図書館も、なにもかも空き家である。
立派な村役場や図書館、中学校、広場、エコハウスなどのある村のセンターは、
降り積む核毒の中の一時避難の場とはなったが、今は役場管理の一人だけの超閑散

  稔りの秋なのに田畑で核毒入り作物しかつくれないから、農業絶無である。
 でも、わたしのような高齢者は、少々の核毒入り米でも野菜でも、たいした問題はないと思うのだが、どうなんだろうか。

 では村の中は森閑としているかというと、実は人や機械やトラックの動きが実に活発である。たぶん、核毒村となる前よりも活気があるだろう。
 それは除染という核毒除去の作業が、村中でなされつつあるからだ。田畑の中にも民家の庭先にも森の縁辺にも、働く人影は多く、大きな重機が動き、トラックが走り回り、大きな真っ黒な袋がそこいらじゅうにおいてある。
 草を刈り取り、樹林を切り、落ち葉をかき集め、地表を鋤取り、村中が大掃除の真っ最中である。除染という核毒産業が村を支配している。
村のどこもかしこも黄色い幟がはためき、真っ黒な核毒袋があり、
大きな土木重機が身を振り回し、作業員が黙々と草刈りをしている
 おや、稲の穂が黄金色に輝いている、、、って、これは真っ赤な嘘風景!

 実際の風景はこうなのである↓


 村には今、核毒がもたらした活気が満ちている。いや、活気とか満ちているという言葉には、未来への明るさがあるのだが、はたして飯館村の活気にはそれがあるのだろうか。とりあえず今は、除染雇用もあるかもしれないから、村に金は落ちているかもしれない。
 降り積もった核毒をこうやって袋に詰めて、どこかに持ち出し、その跡にどこかの山を崩して取ってきたキレイな土を敷きつめると、毒のなかった昔に戻るのだろうか。

 あれからもう3年半、これから何年後に昔の村に戻るのだろうか。
 たとえ村は昔にもどっても、その間にも人間はどこかで生きなければならないし、成長するし、老いるし、死ぬから、決して核毒以前の村が戻ることはない。
 そう、日本の人口減社会のなかで各地の村落が次第に消滅していく過程を、核毒が早回しさせることになるかもしれない。

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/09/23

1000【福島東電核毒地徘徊2】見えない核毒が創り出した見えるべきものが見えない風景に戦慄する

 東電福島原発核毒空爆地帯を行く旅の概略を、核毒地図で示しておく。わたしは実は、東北地方にほとんど土地勘がないので、自分の旅の行程がよく分っていない。
 福島駅から東に向かって、川俣、飯館、南相馬に入って一泊、2日目は南相馬市鹿島区から南に原町区、小高区、浪江、双葉、大熊、富岡、楢葉、広野を経て、いわき駅から戻ってきた。
 今、地図など見ると、まさに核毒銀座を通り抜けてきたのであった。
2011年3月の核毒による空間線量
2014年3月の核毒による空間線量



  
核毒地帯ツアーバスは、福島駅から東へ核毒の地に向かい、川俣、飯館へと入っていく。今はまさに秋の実りの真っ盛り、黄金色の稲穂の海の中を行くのが当たり前のはずなのに、窓からの風景は平地なのに雑草ばかりである。
このあたりは耕作放棄地が多いのだなあ、東北の農業はどうなっているのかなあ、と眺めていたが、はっと気が付いた。もしかしたら、これは核毒汚染で田畑の耕作ができないのかもしれない。
 しかし、それにしてはあれから3年半だから、日本の気候ではかなりの草の背丈になるし、湿性地を好む柳の木が低く生えてきてもよいはずだが、なんとなく草原の様子である。でも牧草地には見えない。

 そのうちに妙な風景が繰り返して出現してきた。広い草原の中に土木重機がいくつも働いているが、なにか建設している様子はない。あたりには真っ黒な袋が無数に置かれている。黄色い幟が建ち並んでいて、「除染作業中」と書いてある。
 あ、そうか、これがあの有名な除染であるか、う~む、こういう風景なんだ、、。田んぼから稲を刈るのではなくて、核毒を刈り取っているのである。

そうか、あの耕作放棄地に見えた草原は、除染なる核毒除去跡地であり、たぶん、毎年草刈りをしているのだろう。だから耕作放棄地ではないから、荒れ地になっていなのである。でも、それでも利用はできないから、ただただ草刈りするだけなのだろうか。
 山林は除染しないらしいから、この草地の背景の山には核毒がみなぎっているのであろう。ということは、キノコやワラビなどの採集はできない。
 立ち寄った神社境内にキノコが生えていた。もともと毒キノコかどうかわからないが、ここでは確実に毒キノコしか生えてこなくなったことになる。
飯館村の虎捕山津見神社境内で見つけた核毒キノコ

 この旅の間ではずっと、農業として最も当たり前の黄金の穂が波打つ風景を見ることはなく、旅の最後のいわき市内でようやく稲穂に出会えたのだった。
 例外的に見ることができたのは、核毒汚染田んぼで実験栽培しているところだけであった。
雑草群に囲まれて実験的に栽培している稲

  宮城、岩手の津波被災地でも潮をかぶった田畑で、耕作の再生が進められているようだが、こちらの核毒汚染地での田畑の再生はどうなるのだろうか。これからもかなり長い間、浜通りの農業は壊滅状態がつづくのだろうか。
核毒線量が高くない南相馬市内でも耕作されていない田園風景

 上の写真は南相馬市の田園の現状だが、もしも東電原発核毒空爆事件が無かったら、下のような風景であったはずだ。
もしも核毒事件無かったら、こんな稔りの秋の田園風景になっているはずだ

 とにかく、黄金色の収穫に季節の真っただ中にいながら、それがまったく見えない風景は、実に気持ちが悪いものであった。
 もしも、この状態は続くと、そのうちに草取するのがむなしい作業となり、下のようなあれから3年も放棄したままの荒れた田園風景になるかもしれない。日本の自然の回復力はスゴイものだ。
浪江町で全く放置されたままの田んぼは3年でこうなっている

 人も街も田畑も山谷も、普通なら見えているものが見えない風景の旅、見えていないものを観る旅は、なかなかに興奮させられたのであった。
 それは核毒という見えないものが創り出した風景である。これには戦慄して、疲れた。
           (つづく、次は除染つまり核毒除去作業の風景の話

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/09/22

999【福島核毒被災地徘徊1】当たり前の農家の風景にひそんでいる不気味さに戦慄する

 この一枚の写真は、日本の典型的な農家の風景である。
この何でもない風景に潜む不気味さを観よ
建っている一連の建物は、住居の母屋、車庫、作業場、倉庫などだろう。
 背後にある森は、かつては薪炭や肥料を得るための里山であり、もちろん防風林でもある。今は用材となるスギ林であるが、よく見れば近頃珍しく、下刈りや枝打ちの森林施業がされている。
裏山にズームアップしてみる
家の前には畑があり、作物をつくってはいないが、草取りはきちんとされているようだ。
 そのまた一段下には田んぼがある。今は黄金の穂が広がる実りの秋だから、ここは少し早いが既に稲刈りが終わったらしい。
 乗用車や軽トラックが見えないのは、家族は野良仕事や買い物に出かけているのだろう。

 だが、これは何も知らない人が見たらそう思うであろうと書いたのだが、実はとんでもない大間違い解釈なのである。

 裏山をよく見ると、地肌が見えるほどに下刈りをして、しかも落ち葉まで掻きとっている。いまどき林内低木や草本を伐って薪にするはずはないし、落ち葉を集めて肥料にするはずはない。枝打ちにしてはいい加減すぎる。
 実は、放射性物質を除去する作業の結果なのである。ここは福島県の飯館村の中、そう、あの福島第1原発事故で、東電から大量核毒空襲を受けた核毒被災地である。
 裏山の妙な手入れの姿は、林内の核毒を除去する除染(この言葉はおかしい)なる作業の結果である。造林地の森林施業ではないのであった。

 畑にも田んぼにも作物が見えないのは、田畑で食料となるものをつくっても、食べられないから農作が不可能だからである。
 あれから3年、田畑の耕作を放棄すれば、今や草ぼうぼうの原野になっているはずが、見たところではきれいな草地であるのは、核毒除去のために農地の表土を漉き取ったあとを、草取りをしているからだろう。

 左の方に電柱が立ったあたりの下に、黒い袋が横に並んでおいてある。
たくさん並んでおいてある黒い袋と何も作物のない田畑にズームアップ
この袋の中にらは、裏山から集めた核毒まみれの落ち葉や樹木の切れ端、あるいは畑の草や土が入っているのだろう。いずれ、これは集められて、第1原発近くにできるであろう中間処理場に行くことになる。
 この日本農家の典型的な平和な風景は、実はそのような不気味さを湛えた惨状の風景なのである。

 だから、普通なら必ず庭先に見える乗用車や軽トラックが無いのは、ここには人が住んでいないからである。核毒の地を逃れてどこかで暮らしているのだろう。
 なにも生産できない、だれも居ることができない、東電核毒が創り出した風景である。
 そう思って眺めると、わたしが支払った電気料金で作りだした核毒が降り積もり、わたしが支払った税金でそれを除去する費用が降り積もり、わたしが支払った電気料金による東電補償金が降り積もっているこの風景は、戦慄すべき状況であることに気が付く。
 
 9月20日と21日に機会あって、福島県相双地区視察バスツアー(主催:日本都市計画家協会東日本大震災復興支援タスクフォース福島チーム)に行ってきた。
 この農家の不気味な風景は、その旅の中のほんの一部の不気味さであり、この先いくつもの不気味な風景を見てきた。
 そのうちのひとつ、典型的な不気味な風景を予告的に載せておく。
福島第1原発が見える東電核毒汚染+津波被災地の風景

 福島市から南相馬市へ入り、南へ南へと核毒地帯を縦断して、いわき市から抜け出てきたのであった。かなり放射線量が多いところも通った。
 新聞やインタネットで入ってくる情報で、ある程度は知っても隔靴掻痒の感は免れない。しかし、勝手に入ってみてくるわけにはいかないので、気になっていた。この度、日本都市計画家協会の支援タスクフォースチームが企画してくれたツアーに乗ったのである。

 昨年秋と今年の春に見てきた宮城と岩手の津波被災地の荒れ方はものすごいものだったが、案内がなくても目で見ることで、かなりのことがわかる。
 だが、福島の核毒被災地は、案内がなくて目で見ただけでは、ほとんど本質を理解できないだろう。被災以来現地に入りこんでいる家協会の支援チームメンバーと現地の人たちの案内で、今回は多くのことを知ることができた。核毒被災風景の観方が分った。
 東電原発核毒汚染地帯で観たこと、聴いたこと、考え込んだことを、このブログにしばらく連載する。つづく

家のそばの森はどうやって除染するの?(環境省)
https://josen.env.go.jp/material/pdf/shinrin_20140221.pdf

地震津波核毒オロオロ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html


2014/09/14

998【今日のお詫び新聞】またお詫び広告を記事にして購読料を取る朝日新聞かよ

 ご存じ朝日お詫び新聞は、今日は任天堂に対して謝っている。
 これも先日の吉田調書問題と同じで、自社の謝罪広告を記事にして購読料をとっている。けしからん。

 こうやって連日お詫び記事が掲載されて来ると、次はどんな大きなお詫び記事が出るのだろうかと、毎日楽しみである。
 そうやって自社広告を金払って読まされている定期購読者としては、朝日新聞社がその理不尽にいつか気付いて、お詫び広告を出すにちがいない。

 そして、それまでのお詫び関係記事に関する新聞ページ分に相当する購読料を返してくれるだろうと、楽しみにしている。
 もちろん利子をつけて、ついでにお詫び金とかも付加してくれるに違いない。だから朝日購読をやめない。待っているぞ。
 だって、不良欠陥商品を売ったら、返品交換とか返品交換不能なら賠償するのが、世の中の通例でしょ。

 今回の連続お詫び新聞事件は、ほかの新聞社にも伝染しているのだろうか。新聞業界がお詫び流行になっていると、おもしろいなあ、。
 ところで、このよううな誤報お詫びは、今回のような大きな組織からの抗議や批判があっから仕方なしにやってのではあるまいかと、気になる。

 どこの新聞でも、あんなたくさんの記事を書いていると、たぶん、誤報、捏造、コピーなどのしょっちゅうあるだろう。
 そして、それは庶民をとりあげた記事でも、しょっちゅう起きているだろう。
 そのとき庶民の抗議に対しても今回のようにきちんと検証して謝罪記事を載せているのだろうか

 でも、そんな記事を読んだ記憶がない。せいぜい名前を間違ったくらいのことについて、片隅に2、3行で「訂正します」とあるくらいなものだ。
 まさかとおもううが、おおきな勢力の抗議には屈するが、庶民の抗議は無視するって、そういう朝日新聞社になったのであるまいな。


(追記2014/09/18)【本日の新聞折込謝罪広告】
 今朝(2014/09/19)の朝日新聞に、こんな紙が挟まっている。例の「吉田証言事件」(戦場慰安婦誤報)、「吉田調書事件」(原発事故誤報)、「池上コラム事件」(掲載拒否)の3件について、お詫び広告である。朝日は吉田さんが鬼門だね。
 これまでの謝罪は一般記事として読者から購読料を取っている。欠陥商品を売りつけておいて、そのお詫びでまたもや金をとるって、あまりに因業なる仕業である。
 それに対して今日の折り込み広告は、新聞購読料外だろうから、無料で謝っている。これが当たり前のようにも思うが、欠陥商品を売りつけたら、普通なら購入者に補償するはずなのに、それには一言も触れていないから、これとても当たり前ではない。
 このことに朝日新聞は、気が付いているのだろうか。そのうちに朝日新聞の社名入りのタオルでも配ってくるんだろうなあ。

参照→997朝日新聞誤報連続謝罪広告、この次はアジア太平洋戦争中の誤報取り消し謝罪広告ですな


2014/09/12

997朝日新聞誤報連続謝罪広告、この次はアジア太平洋戦争中の誤報取り消し謝罪広告ですな

 今朝(2014年9月11日)の朝日新聞が、第1面トップに社長の顔まで載せて、自社の全面広告を載せている。社会面などほかのページもこれに充てている。
 福島原発核毒バラマキ事件に関する政府事故調報告のもとになる、東電現地の吉田所長の証言録について、解釈を誤って報道したことについて謝罪しているのだ。

 これはどう見ても、報道記事ではないよなあ。明らかに自社の広告である。もしも記事とするならば、マッチポンプの自作自演事件である。
 この前の慰安婦報道誤報取り消し謝罪も同じである。だから、それらを掲載した新聞代を返してほしい。
 この数日間、わたしは読みもしない高校野球やら全米テニス記事やら押し売りされてきたが、またこの自社広告の押し売りである。
 この広告は読むけど、広告に購読料を払うのは、いやだ、金返せ。

 その謝罪内容については別にして、わたしが思ったのは、ようやくに「お詫び」の仕方が分ったらしい。
 これまで記事が間違っていても、片隅に2~3行で「訂正します」とあって、「お詫びします」と書いてなかった。それが今回は「お詫びします」と書いている。

 新聞だけじゃなくて、世の中どうもお詫びの仕方を忘れている感じがする。
 電車が事故で止まると車掌が放送するが、「ご迷惑をお掛けしております」とまでは言うが、「お詫びします」と言ったのを聞いたことがない。迷惑をかけていることは分かっているらしいが、それを悪いことと分かっていない。
 あるいは、一般に謝ったつもりで「失礼しました」で済ませる人も多い。これじゃあ失礼しっぱなしのままだ。

 極め付きは、福島原発から核毒をばらまいて、大損害を市民にも土地にも海にも与えた東京電力の広告である。
 2011年3月には、東電は新聞にあれこれと広告を出したが、そこにも「お詫びいたします」の言葉はなかったので、わたしは腹が立って、こう書いている。
http://datey.blogspot.jp/2011/03/400.html

 これでまた読売、産経、新潮、文春など、「朝敵」の新聞雑誌屋さんは喜んで、同じような朝日タタキ記事を書くのだろうなあ、そしてそれを喜ぶ付和雷同「朝敵」が増えるんだろう。ま、面白いから、やれやれ~。
 そして次第に、誤報の基になった事件の問題の本質を忘れて、誤報事件の責任問題のみに焦点が絞られていくだろう。

 わたしは、次なる朝日新聞の謝罪記事というか謝罪広告に大いに期待している。
 それはアジア太平洋戦争中に、大本営の言いなりになって書いた記事である。これを訂正取り消し謝罪したら、さすがに「朝敵」メディアも追随せざるをえないだろう。
 がんばれ朝日、次はそれをやれ!


2014/09/09

996神仏頼みで戦争に勝つなら南海トラフ大地震消滅・巨大台風退散も祈願したら、、

 昭和天皇実録が公開されたと、新聞が報じている。

 記事の中で面白かったのは、太平洋戦争の最末期に、宇佐、香椎、氷川の3神社に敵国撃破の祈願をしていることだ。
 天皇が神社への祈願とは、その神社に敵国退散を祈らせることである。

 太平洋戦争よりも700年ほども前のこと、日本では元寇という戦争があった。
 この蒙古襲来の文永・弘安の役の時に、鎌倉幕府が武士を動員して実際の戦闘を受け持ち、京都朝廷は寺社を動員して神仏に元軍撃退を祈願することが役割だった。
 そして朝廷の祈りが通じて、神仏は暴風雨を起し、元・高麗連合軍指導者の仲間割れをさせたり、作戦間違いさせたりして、元寇撃退は成功した。
 というわけで、太平洋戦争末期もその成功に倣うことにして、天皇が神頼みしたのだろう。でも、700年後は神に見放されたのであった。

 ところで、元寇あるいは蒙古襲来と言われる文永・弘安の役の敵国軍は、元と高麗つまり今でいえば中韓連合軍であった。
 元とはフビライのモンゴル帝国であったから、今は縮小したがモンゴルである。
 モンゴルと日本とのその後の戦いは、1939年のノモンハン事件が有名である。このときは日本軍がモンゴル・ソ連連合軍に敗退したから、モンゴルから言えばリベンジになったのだろうが、文永・弘安の役のように日本領土侵攻ではなかった。

 それからさらに世紀が変った今、日本領土の中にモンゴル軍は、いつのまにか、しっかりと侵攻してしまった。大相撲である。
 いまや大相撲は、日本国技ではなくて国際競技というべきプロスポーツの世界となり、完璧にモンゴル軍に席巻された。
 モンゴルは文永弘安の役敗退のリベンジを、文化侵攻で見事に果たしたのだった。

 では高麗のその後、つまりコリアとはどうか。
 ゲリラの倭寇は別にして、文永・弘安の役と逆に豊臣秀吉が日本軍をもって朝鮮に侵攻したは、1394年と1397年であった。日本側のリベンジだった。その後は1910年の日韓併合になってしまう。これはリベンジが行き過ぎた。
 モンゴルが相撲で日本侵攻を果たしたように、コリアもいっときは韓流映画で日本侵攻成功かと見えたが、今は下火になったようだ。
 でも、いつかはコリアも文化リベンジを果たしそうだ。

 さて、神仏に頼る話に戻ると、アベさんやら大臣のお方たちは靖国神社へちょくちょく何事か祈願されているようだから、そろそろ文永・弘安の役時代の成功譚が復活するかもしれないなあ。
 なんとかミクスが失敗して大不況が来たら、伊勢や靖国に不況退散祈願かもなあ。
 そういえば、スポーツ競技会に出る選手が試合での勝利とか、政治家が選挙立後補して当選とか、神社で祈願するのが流行とか聞いたが、効き目はどうなんだろうか。

 では、この際、こういうのはいかがか。
 このところ大地震とか大型台風とか大雨とかが多いし、南海トラフ大地震とかが予想されているので、大災害撃退を神仏に祈願することを、天皇とか政府がやるのである。
 天皇には戦争末期の「御祭文」を、このようにお書き替え下さって、よろしく。
「日本国の荒廃につながる甚だ由々しき難局にしあれば、国内ことごとく一心に奮い立ち、あらん限りをかたむけつくして、災害をうちやぶりこと向けしめんとなも思し食す」
 うまくいけば、いいね。神様仏様キリスト様マホメット様、よろしく。

2014/09/08

995・蚊がオリンピック開催を阻止するかもなあ

 東京の都心あたりでは、デング蚊がどんどん繁殖して、その生息地を拡大しているらしい。
発祥の地の代々木公園から隣の明治神宮の森へ、新宿御苑へ、新宿中央公園へときて、皇居の森も危ないとか。
 当然のことに明治神宮外苑もデング蚊登場となれば、これはもう2020年オリンピック開催が危ないかもしれないなあ。
 あ、そうだ、新国立競技場を設計変更して、蚊帳にすればいいのだな。ではJSCは、ザハ・ハディド女史に、ぜひそう頼むように。


 いや、オリンピックはまだ6年も先のことだから、それまでに蚊を絶滅させますって、そこらじゅうに猛毒を散布するのだろうか。
 蚊どころか、蠅も蝉も甲虫も飛蝗も蛍も、もう生きられない。そのうちに蛇や蜥蜴、猫や犬、そして公園好きのホームレスやカップル人間も絶滅するだろう。

 まあ、そのそんなことはなかろうと思っていると、そのうちにこれも蚊が媒介するマラリアが流行するかもしれない。かつて戦争していた頃、中国や東南アジアの戦地でマラリアに罹った兵士たちがたくさん帰国してきたものだ。
 今はまた国際化時代になって、外国からやってくる病気をとめるのは難しい。あ、オリンピックなんてとんでもないですよ。

 こうなったら、蚊の元であるボーフラが育つ水を絶つしかない。水道も降雨も停止するのだ。う~む、無理か。
 じゃあ、ボーフラが湧かないように、どこもかしこも地面は舗装してしまうってのはどうか。公園にも河川にも公共施設にも住宅にも、草地やブッシュは禁止にする。う~む、味気ないことになるなあ。
 こうなったら、数年間は人間はもちろん入国禁止、蚊が乗ってきそうな空や海の貨物便も入港禁止にして、鎖国するしかないかなあ、あ、いよいよオリンピックはだめだな。

 しかしなあ、公園の先住者である蚊にしてみれば、やってきた人間の血を吸うことで生命を保っているのに、たまたま吸ったやつがデング熱に罹っていたので、こんな騒ぎになり、絶滅の憂き目にあうことになる。
 これが公園の野犬狩りなら、いりいろと物申される動物愛護者の方たちは、野蚊狩りにはなにもなさらないのかしら。

  なんだかエコとか緑とか水とかビオトープなんて言ってても、蚊が出るとこの有様で、なんとも人間は弱くて勝手なものであるよなあ。
 わたしの生家には広い竹藪があって、やぶ蚊がブンブンとうなっていたなあ。あのころに蚊にしっかり食われたので、今じゃあ免疫ができてるって、そういうことはないのかしら。


2014/09/04

994【横浜都計審傍聴6】都市再生特区って都市計画で災害を増加する仕掛けのような

前回からの続き)

・こんなことを都市計画で規定するほど危険なのか

 横浜駅西口駅ビルに関する二つの都市計画、都市再生特別区地区計画について、文を読み絵を眺めていて、都市計画は都市防災について何ができるのだろうかと考え込んだ。
 この二つの都市計画の特徴を簡単に言えば、都市再生特別地区では容積率を800%を1240%に緩和したこと、地区計画では建築の中身をこまごまと決めたことである。
 
 地区計画を読んでみて、さすがに3・11以後のことであるためか、防災についての記述が、目標のお題目だけでなく、いろいろ多いことに気がつく。
 最近は、こういうことを書くようになったのか。
 例えば、地区施設の「歩行者通路は災害時に来街者を安全に避難させるための避難経路としても活用する」、建築物には「地震や津波発生等の災害時に、来街者の滞留や避難が可能となるスペースや帰宅困難者の受け入れスペースを確保し、滞留者・避難者・帰宅困難者の対応を積極的に行う」、そのほか、地域防災対策拠点、防災備蓄庫、耐震トイレ、雨水流出抑制施設などを設けろとある。

 その具体的な場所は、都計審の資料に書いてあり、滞留者10000人と帰宅困難者3000人分の受け入れ場所を建物の中と屋上広場に、地域総合防災拠点を建物の地上階の中に、雨水貯留ピット200トンを地下の奥底に、それぞれ計画している。
 それはそれで災害対応施設を設けるのは、まことに結構なことである。
 とは思えども、一方で、こういう防災施設の設置を都市計画で法的に担保しなければならないほど、つまり建築に任せておけないほどに、ここは危険なのか、とも思わせられる。


・建築は壊れないという神話があるのか

 本当にこれでよいのかと疑う気持ちを否めないのは、それらのいずれも建築物の中に設けることである。
 大地震で大都市の都心で建物群が壊れ、上下水も流れず、電力も絶えるという状況は、阪神淡路震災のときに行った神戸で、惨状にじっくりとお目にかかってきた経験がある。
 滞留者や帰宅困難者を受け入れる建築物が、大地震で壊れ、水も電気もないことが起きると、どうなるのか。防災拠点が建物の中にあるのも大いに気になる。

 つまり、リスク低減策を、リスク発生源の巨大建築の中に取り込んでいるのだ。リスクなるものは分散するべきであろうと思うのだが、どうか。
 特に、建物だけにに頼るのは危険である。災害時には公園広場道路などの公共公開空地が災害低減に大きな役割を果たすことは、これも阪神淡路震災でけ経験済みである。
 この西口駅ビル建築は、どんな大地震でも壊れないという前提に立っているらしいが、関連してすぐに思い出すのは原発安全神話である。

 ここはやっぱり、建築は壊れるものという前提に立つべきであると思うのだ。
 その点で、この地区計画には、公共公開空地が地上部にはほとんど無いのは、かなり危ないような気がする。西口地区を見回しても、広い空地は道路くらいしかない。まさか新田間川の中に避難もできないだろう。あ、高速道路が壊れて、川もだめかも知れない。

 「エキサイトよこはま22」を見ると、横浜駅西口地区を超高層建築街にしたいらしい。だが、大災害に備える大公園がない。
 例えば、東京駅丸の内には旧江戸城、西新宿には新宿公園があるが、横浜西口地区には、それらしい公園はどこにも見当たらない。

 以下に、いずれも同じ高度(127km)からの撮ったグーグルアース空中写真を並べる。比べてみると、横浜駅西口地区が過密でありながら、公園はひとつも見当たらないことがわかる。
新宿駅西口地区 (以下同じスケールでの比較)
横浜駅西口地区
東京駅丸の内地区
 わたしが知っていた都市計画は、これだけの大容積緩和をするなら、それに見合う公共公開空地を地上部に提供することと引き換えであった。公園、緑地、広場、公開空地などである。
 ところが、近頃はこういう引き換え無しの、太っ腹大盤振舞緩和都市計画をするようになったらしい。
 大盤振る舞いをすればするほど、災害リスクが高まることは、誰でもわかることだ。
 なにしろ、「災害」は人間が居るから起きることである。人間がいなければ、地が揺れようと火が吹こうと海が来ようと、災害ではないのである。
 災害は人間が創り出すものである。


・都市計画が災害を促進しているような

 太平洋戦争末期に、アメリカ空軍は日本全国の主要都市を空襲して焼き払った。山や田圃は空襲しなかったのは、それでは敵国に損害を与える規模が小さいからである。
 あのころは、まるで、いまの海から大地震がやってくるという恐怖を、空から火が降ってくる恐怖と言い換えると、時間を縮めた早回しのような災害頻発時代だった。
 だから、大都市は疎開をやった。建物疎開では都市の建物を壊して空間を開けること、人間疎開は子ども、老人、女性たちを都市から田舎に避難させた。
 そう、都市の空間も人口も密度を下げて、災害リスクを分散したのである。あのころのことが今の教訓になるとは、皮肉なものである。

 都市計画で容積率を高め、それに応じた建築が建つと、それだけ多くの人間が集まってくる。例えば、土地だけなら100人も集まれば満員の広さのところを、1240%もの建築を建てると1240人が入ることになる。つまり災害リスクも12倍余にもになる。
 特に鉄道駅では人は集まってくるし、そこにさらに超高密超高層建築を建てると、いったいどうなるのか、寒気がするほどだ。リスクを増大させている。
 人間を集めれば集めるほど、災害リスクは増加する。その建築内に防災施設をつくっても、量的にイタチゴッコだし、建築が壊れたら使いものにならない。とにかく横浜駅西口地区には、災害時に最も役立つ公園緑地が全くない。

 そのあたりの心配は、横浜市都市計画審議会の委員の方々は、お感じならないのであろうか。委員のおひとりが洪水対策の質問をなさっただけで、簡単に審議終了した。
 都市再生特区なんて言って、なんだか都市計画が災害を増加する仕掛けになっているような気がする。
 今や、太平洋戦争末期のように、建物も人も疎開させる時が来ているような気もする。人口減少時代になっているから、ちょうどよいとも思いますがねえ。
 どうでしょ、都市疎開特区っての作っては、、。

 と言いながら、これからもわたしは、あの駅を使い、駅前で呑んだりするだろうが、まあ、わたしは先が短いからどうでもよいのだ。若い人たちが気の毒である。
 でもまあ、こうやって、都市計画が建築の中に入り込んで法的規制をするんだから、横浜は安心な街ができるんでしょうね。そうか、横浜は事実上、許可制の建築制度になるんだな。

参照→993【横浜都計審傍聴5】横浜駅西口駅ビルはどんなエキサイトなデザインだろうか

参照→これまでの横浜都計審イチャモン弧乱夢

参照→●あなたの町の都市計画はこんな会議で決めている(要約版)  ●本文版
https://sites.google.com/site/matimorig2x/essay-cityplanning
https://sites.google.com/site/matimorig2x/tokeisin

2014/09/02

993【横浜都計審傍聴5】横浜駅西口駅ビルはどんなエキサイトなデザインだろうか

 (前回からの続き)

 横浜駅西口には、シアルなる名前の駅ビルがあった。もともとは戦後に流行った国鉄民衆駅ビルであり、1962年にステーションビルとして建った。同じころに建った東京駅八重洲口の鉄道会館「東京駅大丸」(今はなくなった)と同じで、民間資本国鉄ビル方式である。
 それより前の西口には、木造の駅舎が建っていた。その頃の東口の堂々たる駅舎と比べての貧弱さは、なにしろ駅前が砂利置場と沼地ばかりだからしょうがない。


1947年ごろの横浜駅周辺地図

1962年横浜駅周辺地図
戦後の相鉄を中心とする西口地区開発は、まさに日本の高度成長を目に見るような進み方であり、東口地区との商業戦争も懐かしいほどの景気の良さであった。
 そして、どこもかしこも商業ばかりでにぎやかだが、公園や文化施設はほとんど見当たらない。駅前の物売りばかりの大型店、周囲には水商売・風俗系の店舗がひしめく。
 近くの文化らしいもは、東口のの百貨店客寄せ施設の「そごう美術館」くらいなものか。そう言えば、今のシェラトンホテルのところには、相鉄文化会館て言うのが建ていたなあ、映画がま文化だった頃のこと。

 かつては横浜都心と言えば関内・関外地区であったが、今では商業戦争に負けて落ちぶれた。だが、幕末からにしてもそこは旧家の旦那衆だから、零落しても何やかやと教養文化の場や雰囲気を持ち、西口にはない歴史をそなえている。
 それに比べて横浜駅西口地区は、戦後の成りあがりだから、埋立てで土地を生み出しては、不動産商売、物売り商売の街である。

 さて、その20世紀後半の高度成長に乗った開発が、21世紀になった今、時代遅れになったとて、作り直しの時期が来た。あの1964年オリンピックも西口にドライブをかけたようだが、2020年オリンピックもその再来だろうか。
 というわけで、西口駅ビルの再登場である。エキサイトなる掛け声に乗って、、あ、もしかしたら駅の側なのでエキサイか、、。

 最近の駅ビルと言えば、東京駅赤レンガ駅が有名である。昔の姿で出ています、とて、戦火で被災して戦後復興で修復していた駅舎を、戦前の姿にコピーして作り直した。大評判なエキサイト事件で、人々が絶えない。
 東京駅復原については、わたしは異論があるのだが、ここでは言わない。
 ちょっと前になったが、京都駅北口の駅ビルも大評判のエキサイト空間を登場させた。
京都駅の壮大なアトリウム
 大阪駅がつい最近、大変化を遂げて、これもエキサイトな空間を見せている。
では、われらが横浜駅西口駅ビルは、どんなエキサイトな空間を見せてくれるのだろうか。
 駅前広場側の姿は、東京駅のような華麗さは、、、ないなあ。ダダの硝子の箱の積み木じゃんかよ。やっぱりただのエキサイか。

地区整備計画にも、「建築物の1階から7階までの部分は、外壁面に透過性のある素材を用いる云々」とあるなあ。
 でもなあ、建築デザインをここまで地区計画で縛っていいのかなあ、設計変更したくなったら、都市計画変更手続きが要るんだよ、いいのかい。ま、提案者が自ら縛っているんだかららしょうがない。でも、それで良いデザインになるのか。
 どうせなら、昔々の2代目横浜停車場(1915~1923)のような華麗なる姿にでもしてくれると、東京駅に負けないのになあ。

 では内部の姿は、京都駅のような巨大アトリウムや巨大階段は、、、と、、東口の旧駅舎(1928年創建)にあったコンコースのような空間もあるといいなあ、。

あ、アトリウムと書いてあるなあ、どれどれ、京都駅に負けない空間なんだろうか、、う~む、、これじゃあなあ。
アトリウムってのは、普通は建築に囲まれている外部空間であり、そこにガラスの屋根をかけるもんだけど、これはただの4階吹抜けで上に床が乗っている、ふ~ん、、。
 そういや、地区計画にはひとこともアトリウムとは書いてなくて、吹抜けと書いて逃げてある。

 ほかにもいろいろ書きたいことはあるが、都市計画の話に戻す。
 この建築意匠やら吹き抜けやら、超高層部と高層部の区分や配置、地区施設等について、位置や姿や規模をここまで細かく都市計画で縛っていいものか、実務として気になる。
 このような複合大規模プロジェクトでは必ず起きる設計変更に、都市計画は対応できるのだろうか。
 都市計画変更まで及ばない設計の軽微な変更は、どの程度なのだろうか。

 とくにたくさんの地区施設を建物の中に設定しているが、これらは例えばテナント構成との関係、あるいは隣接プロジェクトや鉄道施設整備との関係で、変更は起きないのか。建築設計で困ることが起きそうだと、心配になる。
 変更したほうがよくなるのだけけど、都市計画変更手続きが面倒だからやらないってことになる。

 それとも、もうすでに設計は固まっていて、あとは工事するだけになっているのか。
 とすれば東京駅、京都駅なみの、エキサイトな駅ビルは望めそうもない。
 形態ばかりではない。機能的にも知的エキサイトの文化施設や緑の地上広場は見当たらない。横浜駅西口地区はいまもイケイケドンドン時代のままであるらしい。
 まあ、そういう景気の良い横浜に住んでいるのは、幸福なことなんだろうなあ。(つづく
横浜市制作の動画
参照→992【横浜都計審傍聴4】都市再生特別扱い提案はお手軽鵜呑み都市計画か

参照→これまでの横浜都計審イチャモン弧乱夢

参照→●あなたの町の都市計画はこんな会議で決めている(要約版)  ●本文版
https://sites.google.com/site/matimorig2x/essay-cityplanning
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