2012/07/20

644オリンピックで浮かれても戦争したイギリスと日本は複雑な間柄

今日(2012年7月20日)の朝日新聞夕刊に、オリンピックにちなんで「日英新世紀」と題してシリーズ記事がある。
アジア・太平洋戦争で日本とイギリスは、ビルマ(現・ミャンマー)で対戦した。そこで戦ったイギリス人の元兵士が、日本の震災のTVを見て、それまでの憎しみを捨てて義捐金を送ろうと提唱した話である。新聞が好きな美談である。

ミャンマーになぜイギリス軍がいたか、それはそこがイギリスの植民地であったからだ。西隣のインドもそうだった。
ビルマでの初期の戦いでは日本軍が勝ち続けて、ビルマを日本軍が制圧した。当然のことに多くのイギリス兵が日本軍の捕虜となった。

国際条約に無関心だった日本軍が、この捕虜を残虐に扱い酷使したことが日本の敗戦後に問題となった。そのことを映画にしたのが「戦場に架ける橋」である。
イギリスでオリンピックだと、ノー天気に日本人は騒いでいる。だが、いまだにイギリス人は日本への印象が悪いのである。
こんなことを知っている日本人はもういないのか。

その記事に出てくる元兵士は91歳、ビルマ国境に近いコヒマの戦いに参戦したとある。
そのコヒマの戦いに参戦した日本人を、わたしは知っている。長岡市の法末集落の長老・大橋正平さん(92歳)で、インパール作戦の日本軍の数少ない生き残りである。

日本はビルマの西隣のインドまで攻め込んだ。戦史上で超悪名高い大敗北のインパール作戦である。
インドのインパールを攻略するために、そこへの補給路の要衝コヒマを占領すべく攻めたのである。
だが、日本軍は待ち受けていたイギリス軍に袋のネズミにされて、徹底的に翻弄されて惨敗したのである。

新聞記事だと、コヒマでイギリス兵士が捕虜になって虐待されたと、読めてしまう。
しかし事実はそうではなくて、ここでは日本軍が大敗北したのだ。
なにしろ日本軍司令官の作戦は、武器も食料も補給しないで現地で調達して戦えという無茶なものだった。

イギリス軍の待ち構える罠に陥り、敵の物量作戦の前に武器のない日本軍は、肉弾戦で死ぬだけだった。
補給のこない無手勝流の戦いのあまりの無謀さに、ついに前線の師団長が独自の判断、つまり軍命に反して、自軍をコヒマの前線から撤退させたのだった。
イギリス軍に追われつつ、雨季の泥濘のジャングルの中を日本兵たちは敗退していく。
敗走路は累々たる死骸が暑さと雨ですぐに白骨となって連なり、通称「白骨街道」という。生き残り兵は1割ほどだった。

このことは大橋正平さんにインタビューして、いかにバカバカしい作戦であったか世に言われている事実を、戦場を体験した本人から直接に聞いた。
その記録はこちらからどうぞ。「大橋正平さん 戦場を語る
https://sites.google.com/site/hossuey/home/ohashi-syohei
もうすぐ8月15日が来る。戦争のことを忘れまい。

2012/07/18

643少年時代の読書のことで幼馴染に60余年目の詫び状を書いた

読書に目覚めた小学生の高学年の頃は、戦争直後で世に子供の読むような新刊本がなかった。
親しい友だちどうしで、家にある古い少年雑誌や大人の本を見せあい、貸し借りした。
親戚や知り合いの家の書棚もあさったから、なかにはカストリ雑誌もあれば、漱石全集もあった。玉石混交で読んだ。

わたしの父の書棚に「講談全集」(大日本雄弁会講談社 昭和3、4年、全12巻、各冊千頁以上)があった。
言い回しは難しいが、筋は単純でわかりやすく、話にくすぐりがあり、漢字は総ルビだし、挿絵が多いので、少年仲間に大好評であった。

長じて東京の芝・愛宕山に花見に行った。
講談全集で読んだ「寛永三馬術」の間垣平九郎が、馬で登り降りした急階段はこれであったかと、四つ這いになって登った。

今年2月、故郷で講演をする機会に恵まれ、そのあとで聞きにきてくれた幼馴染たちと飲む集いがあった。その中に幼稚園から高校まで一緒で仲の良かったY君がいた。
実はわたしはY君を思い出すと、いつも心をチクリとさすある記憶があったので、思いきって聞いてみた。

「むかし講談全集を君に貸さなくて、ずいぶん恨まれたけど、覚えているか」
「ああ、覚えているとも。ほかのヤツには貸してオレには貸さなかった。大人になっても思い出して古本屋を探し、講談社にもいったけど見つからず、君を思い出すと条件反射で講談全集が頭に浮かぶ。いまだに恨み骨髄だよ」

ウワッ、覚えていたか。
あれは父の秘蔵本で、内緒で仲間に貸していたのがばれて叱られ、運悪く次がY君の番で、貸せ貸さぬともめたのだった。
60余年目の陳謝をしたが、両方とも永いトラウマになっていたのであったか。

帰宅して図書館蔵書検索したら近くの川崎図書館にあり、さっそく出かけて懐かしい本に再会した。表紙の布装丁の緑色は褪せ紙は赤茶け、わが身もそうかと歳月を思った。
いくぶんかの罪滅ぼしにと、第2巻の中の「寛永三馬術」を老人向けに拡大コピーして、60余年目の詫び状を添えてY君に送った。

受け取ったY君から返事が来た。
一気に読んで楽しんだ、永く探していたのをこんなにすばやく良くぞ見つけてくれた、少年の眼と心で読みたかったが、すっかり恨みが晴れた、と。
382ページ分のコピー作業は疲れたが、送った甲斐があった。

わたしも久しぶりに読んでみて懐かしかった。
しかし、講談は大人が眼で読んでも実につまらない、講釈師の語り口を楽しむものだと、いまさらながらよく分った。
面白くむさぼり読んだ少年の日は還らない。Y君に済まないと思う。

2012/07/15

642新PCが印刷不調で年寄電話相談室のおばさまとじっくり付き合った

 昨日、ついに堪忍袋の緒が切れて、新ノートPCを買ってしまった。 
 20日ほど前から、デスクトップPCが持ち主に似てノロノロノロノロしてきた。わかることはいいろいろやったが、仕事中によろよろしてたびたび立ち止まって考えるし、プリンターは3行ごとに考えごとを1分ぐらいしている。だだましだましこき使ってきたが、機械よりもこちらの心がもう限界である。

 いらいらしながら使っていると血圧が上がりそうだし、こいつの認知症が感染しそうである。
ついに我慢できなくて、近くの電機店にいって、安売広告にある5万円ダイナブックを買った。考えると買わないくなる可能性があるので、エイヤット決めて買った。
 まあ、ウインドウズセブンなんてどれ買っても同じようなもんだろうし、いまのXPと大差なかろう。

 さて持って帰ってさっそく自分向きにこいつを仕込むのだが、それがまあ、まったくもってめんどくさいのである。
 一生懸命やっても結果にはなんの得るものはなく、要するにマイナスからゼロの出発点に戻るだけである。アホラシイことだ。
 セブンとXPとは同じだろうと思ったら、なんだかあちこち違っていて、やりにくいったらない。まったくおなじ仕事する機械なのに、なんでわざわざ操作方法を変えるんだよ、客が迷うだろうが、。

「まちもり叢書」のうち旧友から追加注文あった「美しい故郷に」が印刷できないでいたので、さっそくとりかかった。ところが、どうやっても冊子設定がうまくいかない。
 XPではうまくできて、それを改良したセブンでダメとは、なんだよ、頭にきてキャノンに電話した。

 出てきたおばさまにご相談すると、とっくに私がやってうまくいかないことばかり指示なさるので、もちろんどうやってもNO。いったん電話切って、別のものと相談してかけなおすという。
 しばらくしてかけてきて、当方で同じプリンターで万事うまく動きました、という。印刷アプリケーションがおかしいかもしれないから、再インストールしてくれという。
 もしそれでもだめなら、印刷データのワードを作ったマイクロソフトに文句言ってくれという。そんなあ、もうめんどうなことになってきた。

 また電話切って、プリンター付属のCDを回そうとするのだが、こいつが立ち上がらない。
くそ、また電話してそういうと、インタネットのキャノンサイトからアプリケーションをダウンロードせよと言うので、電話を切ってそうした。
 それでやってみたら、おお、今度はうまくいった。最初から3時間ぐらいたっていた。
 キャノンのおばさまに電話でそう言ったら、何度もうるさい爺によほど迷惑していたらしく、心の底から嬉しそうであった。

 なにが原因か、多分、印刷アプリケーションに問題があったのだろう。まったくもってこちらは暇人間だからよいが、これが仕事で忙しいと、かなりの損失である。
 電子機器はなんとも不完全な代物であると、いまさらながら思う。

 なにせまだ5時間程度しかいじくっていないのだから、このPC君にはまだまだあれこれ起きるだろうなあ、こんどはどうやって電話相談室のおばさんをいじめようかなあ。

2012/07/13

641原発反対で52年ぶりの国会議事堂デモに参加して思うこと多々あり

毎週金曜日に国会議事堂と総理官邸あたりで、原発反対のデモンストレーションがある。友人の中にも行ってきたとFACEBAKAに書きこむ人がいる。
わたしも気になっていたが、今日、思い立って参加してきた。

霞ヶ関駅で降りて議事堂前の大通りへの横断歩道を渡ったところで、警備の警官に声を掛けられた。
「コウギにいかれますか」
講義に行くって?、あ、抗議のことか、警官もそういうのかと思った。議事堂前の横断歩道は渡れませんのでご承知ください、という。

時刻は5時だから、まだほとんど人はいなくて、だんだんと制服や私服の警官ばかりが目立つ。
議事堂近くの歩道に世話人らしい人たちがいて、「ファミリーエリア」とかいた紙を持って立っている。ならば「シニアエリア」もあるかと思ったが、ファミリーならシニアもいいだろうと、そこの道端に座り込んだ。老若男女がぞろぞろとやってくる。

6時になってもたいして多くはないが、時間通りにシュプレヒコール(今でもこういいのだろうか)がはじまった。
「サイカドーハンタイ、サイカドーハンタイ」
ふむ、大飯原発再稼動反対に抗議を絞りこんでいるらしい。それはそれで分りやすい。

6時半ごろからにわかに人出が多くなって、歩道が満員になってきた。
赤ンボが母親に連れられている。浴衣で下駄履きの花火見物のような女の子もいる。サラリーマン風、おばさん風、多種多様であるが、男よりも女のほうが多いようだ。
若い夫婦が多いのが特に目に付いた。わたしのような高齢者もいるにはいるが、それほどでもないのが、なにかイベントあるとやってくる閑老人が多い今の世に興味深いことだ。

向こうのほうで、女性の声で演説が聞こえる。民主党のなにがし、国民の生活が第一党の何がしとか、呉越同舟でやっている。
そのうちにドラムやトランペットの5人ほどの楽団がやってきて、ジャズ演奏さながらのビートのきいた演奏とともに、「原発反対、再稼動反対、未来を守れ、子どもを守れ」と、一同シュプレヒコール合唱する。
そばで白い風船をせっせと配っている中年男がいる。見たことがあるような、田中なんとかという作家の代議士のような。

わたしは道端に腰を下ろしたまま、感慨にふけっていた。
あれは1960年の6月、岸内閣のときであった。日米安保条約改定に反対する運動が高まり、毎日、国会議事堂あたりはデモの人が埋め尽していた。
わたしは大学4年生、アクティブな活動家ではなかったが、デモには何回も参加した。今眺めているこの道を、大学や職場の旗やプラカードを掲げ、「アンポハンタイ、キシヲタオセ」と叫びつつ、ぐるぐると激しい渦巻きデモ、機動隊の警官との衝突。
そうだった、若いからできた。

●(動画)18時半、人々が集まってきだした
http://www.youtube.com/watch?v=UN-SDv_Clr8

●(動画)19時前、鼓笛隊がやってきた
http://youtu.be/wSkU-iCuo4c

実は今日も来る前に、あのようなデモはもう体力も気力もないからできない、どうしようかと逡巡したのであったが、まるで様変わりのデモであった。
何しろあかんぼ連れ、下駄履きハイヒールでの参加である。団体行動は全然ない。
ひとりひとりの意思による参加であるらしいことがよく見えて、その訴えのもつ真剣さがひしひしとわかる。
何かが変わるかもしれないと、変えなければならないと、現場に来ているからこそ思う。

◆◆◆

わたしがその52年前にデモに参加したことで、なにか世の中は変わっただろうか。変わるも変わらないも分らないうちに、高度成長の大波の中に飲み込まれてしまった。
だが実は、わたし自身の人生は、そのときのデモによって確実に軌道が変ったのだった。

デモが一応の終わりを告げた夏のある日、就職活動で事前面接試験を受けた大企業(三菱地所)に採用が内定した。そのときに安保反対デモに参加したかどうか聞かれて、もちろん参加したと答えた。
そして秋の本面接でも同じ質問に同じように答えたのだが、その答えの故に内定を取り消すとされた。
もちろんわたしは、その矛盾と理不尽に抗議した。先方担当者の言い訳は、事前面接にはいなかった役員が本面接にはいて、そのひとがデモ参加をもってわたしの内定を否定したのだそうだ。それも理不尽きわまる。

しかも、当時の大学は売り手市場だったから、企業側は大学側とことをかまえることを恐れ、こちらから個人的に取り下げて引き下がってほしいとの、勝手きわまる要請であった。
承知できないわたしと、ながらくもめた。もういやになったが、意地である。秋も深まり、その年の就職先はもうなくなってしまった。

とうとう人事担当役員が大学研究室に、わたしの指導教授を訪ねて謝りにきた。ちょうどそのとき、卒論執筆で研究室にいたわたしと出くわした先方の戸惑った顔を忘れない。
指導教授から、知り合いの設計事務所に入れてやるから、もう引き下がれといわれ、こちらもその大企業がつくづくいやになってしまったので、ひきさがってやった。
超零細アトリエ事務所(RIA)に入れてもらって、そこに28年いた。入るとき15人だったアトリエが、辞めるとき200人の企業になっていた。

人生は二度できないから優劣を比較はできないが、確実に比較できることは、クラス同期生のなかで初任給が最低であったことだ。
そんなことを思い出しながら、ここにいる若者たちのこれからの人生が、このデモでどう変わるのか、変わらないのかなどと、とりとめなく思う。
道端に座っていたままに、ドラムス競演とシュプレヒコールの真っ只中になってしまった。
それでもデモの一員のような、傍観者のような、宙ぶらりん気分で7時頃までいて、また元の道を戻ったのであった。
少なくとも参加した頭数にはなったはずだ。

実はこのデモいくようにと、ある書物がわたしの肩を押したのだが、その話はここに
●648日本人は5度目の大被爆体験をしても原発を動かす
http://datey.blogspot.jp/2012/07/648.html

2012/07/12

640横浜港景観事件(番外2)

横浜みなとみらい21新港地区における結婚式場計画について、これまであれこれと思い付きを9回も書いてきた。きりがよい10回目であるが、そのまえにまた番外を書く。
 建築家がいろいろ言っているらしいが、世の庶民がどういっているのか、どうも聞こえない。
 7月10日に日本建築家協会の主催でこれについてのシンポジウムがあると聞いたので、建築家の会の主催だからと期待しないで参加してきた。建築家、景観研究者、法学者の3人の出演であった。

 結論から言えば、いちばん聞きたいことを聞けなかった。
 それは、あの結婚式場のデザインはなぜ悪いのか、ということである。あれは悪いものだ、そういう前提での話ばかりであった。
 そもそもわたしのような庶民には、あれのどこの何が悪いのかを話してくれないと、議論そのものにはいれないのだ。

 どうも、都市美観審議会が悪いといったから悪いんだ、という感じである。それでは学識のある委員の偉い人の権威にたよるだけで、まったくもって説得力はない。
 では審議会では、説得力ある言い方でこれが悪いと審議されたかといえば、議事録を見る限りでは分りにくい。
 西洋物真似が悪いと言われも、どこが物まねで物まねのなにが悪いのか。テーマパークみたいで悪いといわれても、そばの遊園地はどうしてよいのか、庶民はテーマパーク大好きである。
 せめて、あのデザインは下手クソだから悪い、といってくれると庶民にもちょっとは分りやすいのに。

 建築家協会の主催なら、審議会委員の建築家と結婚式場の設計をする清水建設の建築家を議論に入れるべきであった。
 当事者の話を聞かずにそれを非難しても、庶民には不可解でなんのことやらである。

 大衆があのポピュリズムデザインを欲しているからこそ、事業者がそれを供給し、そのデザインをする建築家がいるのである。
 それに建築家が反対の陣を敷くなら、なぜ紅葉坂にあるアレ、みなとみらい21高島地区にあるアレ、馬車道駅そばにあるアレとかについて、反対の論陣をはらないのか。 
 いつもながら建築家の言うことは高踏的で分りにくい。法学者の言うことのほうがよくわかったのが、おかしい。
●横浜港景観事件(1)~(9)はこちら

2012/07/06

639趣味の卓上出版「まちもり叢書」に書評が登場

谷口碩氏は、わたしと同年代・同業の都市計画家である。
 この春、東京から神戸に居を移されるとて、餞別として無理やり「まちもり叢書」(わたしの趣味の卓上出版)の内の3冊をわたした。
 そして神戸からの都市通信を待っていたら、病気になって入院という知らせに驚いたが、もっと驚いたのは入院中にわたしの3冊を読んで書評までくださったことである。

 この趣味を2010年の半ば頃から始めて、いまでは14冊になった。続刊も進行中である。
 これまで多くの人に無理やり渡してきたが、こうやってきちんと書評してくださったのは、これが最初である。
 おおいに感謝してここに掲載を許してもらった。

●谷口碩氏書評全文→「街なかで暮らす」「文化の風景」「風景批評の旅」
http://homepage2.nifty.com/datey/matimori-sosyo.htm#syohyo

●「まちもり叢書」:趣味の自著卓上自作出版の一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/matimori-sosyo.htm

―――既刊(2012.05時点)――
・父の十五年戦争/神主通信兵の手記を読み解く
http://sites.google.com/site/dateyg/15senso
・横浜B級観光ガイドブック・関外/戦後復興の残照
http://sites.google.com/site/matimorig2x/yokohama-bkyuu-kankou-gaidobukku
・あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている
http://sites.google.com/site/matimorig2x/tokeisin
・波羅波乱歳時記/日々の小言僻言繰言寝言
http://sites.google.com/site/dateyg/haratachi-saijiki100412
・街なかで暮らす/あぶないマンション・いらないバイパス
・丸の内貼り混ぜ屏風/見世物としての建築
・かまくら冬夏/鎌倉元住人が内と外から描く古都の風景
・建築家 山口文象の世界/作品と評伝
・文化としての緑の環境/人口の緑しかない日本の自然
・ネパール風土逍遥/カトマンヅ・ポカラ・ルンビニ
http://sites.google.com/site/matimorig2x/nepal2011
・文化の風景/都市の伝統と鄙の民俗の風景を伝える
・風景批評の旅/斜めから裏から眺める風景
・美しい故郷に/高梁盆地の昨日と今日そして明日へ
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/utukusiikokyo
・福島原発を世界遺産に/地震津波原発おろおろ日記

―――続刊(見込み)―――
・東京駅復興/20世紀の歴史を消した21世紀の復原
・中越山村の四季/棚田の米つくりから見てくること
・山口文象/時代の先端を駆け抜けた建築家
・高梁川/鎮守の森から
・都市の文化景観
・中越山村の四季

2012/07/05

638日本一安全な故郷で生家の大木が切り倒されて老人ホームで第2のお勤めをしている

昨日のこと、故郷にいる同級の友からのメールに、こう書いてある。
「先日、高梁初の有料老人ホーム「さくらの苑」が開所されました。今朝の新聞に記事が載っていて、『各階の大黒柱には御前神社の境内で伐採したメタセコイアを使っている・・・』とありました。」

 わたしの故郷は高梁盆地、そこの御前神社が生家である。鎮守の森にはたくさんの大木がある。大木になりすぎて危険になって切り倒されることもある。
 そんなことをこのブログにも書いた。
 一昨年3月の「大銀杏の死」では、わたしの少年のときに切り倒されたイチョウの木のことを書いた。http://datey.blogspot.com/2010/03/250.html
 昨年10月の「ふるさとの鎮守の森」では、最近に切り倒されたメタセコイヤについて書いた。http://datey.blogspot.jp/2011/10/510.html

 そう、このメタセコイヤのことに違いない。

 「ふるさとの鎮守の森」から一部を引用する。
 高校生だった1955年の夏、少し遠くに住む同級の友人が遊びにきた。
 持ってきたてメタセコイヤの苗木を、境内の石垣の小段に植えた。すくすくと育って30mくらいの大木になっていた。
 青春の記念樹であったが、これも伐られて大きな切り株だけになっていた。大木が風でゆすられて、石垣が危うくなったのだろう。

 そのことを友への返事に書いたら、さっそくそのホームに伝えてくれて、そこからメールが来た。
「『さくらの苑』は、樋口満理事長により開所しました老人ホームで、このたび、御前神社のメタセコイヤをいただき、老人ホーム玄関に設置いたしましたので、別添のとおり写真を送らせていただきます。」

 そうであるか、わが青春のあの記念樹は、わたしが生家を去ってから育ったが、わたしよりも先に真新しい老人ホームに入り、ホールの真ん中にでんと構えて第2のお勤めをしている。うらやましいヤツである。
 そのように生かしてくださった樋口満理事長に、心からお礼を申し上げる。
   ◆◆◆◆
 実は故郷の友からのメタセコイヤメールのきっかけは、わたしが高梁関係の知人たちに送った「高梁は日本一安全な街であるらしい」というこんなメールであった。要約する。

 地震、津波、原発事故、その上に消費税も上がるとて、うっとうしい梅雨ですが、ちょっと故郷のよいところを新発見しました。
 まずこれを見てください。高梁のあたりは地震がないのです。
 日本全国広域 最新30日間の震央分布図 (独立行政法人防災科学技術研究所)
http://www.hinet.bosai.go.jp/hypomap/

 そして今の一番怖い四国沖での南海大地震が起きても、何とか大丈夫のようです。
 中央防災会議資料
http://www.jjjnet.com/image/shindo_nankai.gif

 上の地図だと島根県あたりのほうが安全に見えますが、そこには島根原発があります。島根原発は高梁に一番近い原発ですがそれでもかなり遠い。下記のサイトで島根原発のところの図を見てください。
 全国の原子力発電所の周辺人口(2005年)埼玉大学谷謙二研究室
http://ktgis.net/tohoku_data/genpatsu/

 南海やら東海やら大地震が起きてもなんとかなるだろうし、津波が起きても瀬戸内海から高梁川をさかのぼるには遠すぎるし、島根原発が放射能出してもここまでは来ないだろう、富士山が爆発するらしいけど高梁まで灰が降ってくることはなかろう。
 というわけで、故郷はよいところと分ってはいたけど、こういう意味でよいところと今頃になって知りました。
 これを日本全国に宣伝すると人口が増えるでしょうね。でも相対的によその町を危険と言うのが、ちょっとつらい。

●参照→ふるさと高梁の風景
https://sites.google.com/site/machimorig0/#chusikoku

637長く飼っているとPCも持ち主に似てきてノロノロに

10日ほど前からPC(XP)がノロノロになった。こいつも飼い主に似たか。
 もう買ってから10年、4年目ぐらいに故障したのでハードディスク交換したが、もうだめかなあ。

 本やネットで調べて、薬を飲ませたり、宥めたり、外付けHDにゲロ吐かせたりしても治らない。
 夜寝てるうちに治ってるかもしれないと、明日の朝になってオンしても、やっぱり治っていない。風邪引きとは違うのか。
 中身をまっさらにしてしまうって大手術もあるらしいが、怖くてできない。

 たいして高等な作業をするのではないが、重いソフトやファイルが動きにくい。WEBサーフィンもノロノロノロノロ。
 印刷も超ノロノロで、「まちもり叢書」を発行できない。
 歳とって衰え行く自分を見るようで、まったくもって腹が立つ。

 健康によくないから、中古PCでも買ってくるかなあ、この際WIN7新品を買うか、それとも思い切って最初にPC買ったときに戻ってMACにするか。
 買ってくるとあれこれと設定が面倒だよなあ、まあ、ボケ防止にいいか、とも思う。
 なんにしても11日締め切り原稿までは、だましだまし働かせるしかないなあ。

2012/07/03

636新潟のお屋敷町で擬洋風建築に出くわした

5月末、新潟市内をぶらぶら、古町のほかはまったく不案内なので、適当に歩いていたら、西大畑町というあたりで面白い建築に出会った。
 このあたりは昔はお屋敷町であったらしく、お偉い官吏の官舎跡とか大地主の別宅とか公開している家がいくつかあり、大きな料亭もある。
 それらには特に興味はわかず、なんとなくあたりをぶらぶら歩いていたら、不思議な4つの建築に出会った。
 まずその位置を航空写真でどうぞ。

 航空写真の①マークのところには、なんだかフランク・ロイド・ライト設計住宅の亜流のような家が建っている。

 同じく②のところには、ピンク色の木造で、どうやらキリスト教会の付属幼稚園舎らしい。かなり古そうだ。

 同じ敷地の中に③の、これはまあびっくりするほど立派なキリスト教の教会建築である。木造でつくってある。なかなか本格的である。

 そこからまたぶらぶらしていたら、真っ赤に光る建物④にでくわした。上のほうに「金井写真館本店」と書いてある。
 今は事務所のようだったが昔は写真館だったのだろう。それにしても擬洋風木造建築の典型のようである。真っ赤に塗ってあるのは、昔からそうなのだろうか。

 これらは道ばたに案内もないから、なんだかよく分らないままに道から面白く眺めてきたのだった。
 後でウェブ検索したら①と②のほかは出てきたから、ここには解説しない。②は教会の付属だろうが、①が気にかかる。
 それにしても、まったく不案内なところをうろうろしていて、こんなのに出会うとは、わたしの街歩き術もどうやら極意に達したようだ。

2012/07/01

635再録「20世紀末の気まぐれコラム」を再読して未だに問題はそのままと思う

「週刊まちづくり」というメールマガジンがある。各地のまちづくり活動のお知らせ、まちづくり関係書籍紹介、まちづくり関連コラムなどが載っている。http://w-machi.net/
 2人の若者が1999年4月に創刊して、毎週配信しているが、近頃は月に1回か2回になっている。情報が少なくなったとは思えないから、当初は学生だったのがいまは社会人となて、まちづくり活動に忙しくて、さすがに息が切れているのか。
 それとも始めたころと比べると飛躍的に多様になった電子情報システムによって、まちづくり情報がそれぞれの発信源から直接に届くのが当たり前になってきて、毎週発信の意味が薄れたのか。
 でも、いまや13年半、500号、1100人を越える発信先となっていて、まさに「継続は力なり」と思わせる。新たな展開を期待している。
 わたしはその初めのころの99年6月から2001年7月まで断続的に、「気まぐれコラム」と称して、あれこれゴタクを載せてもらっていた。
 思いついて、それらを一連のコラムとして、ここに収録した。読み返してみて、20世紀末あたりの時代の空気が現れていて面白い。あれから12年たってもそのときの問題は顕著になるばかりで、解決はしていない。
  ●以下全文は「20世紀末の気まぐれコラム」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/k-column