2010/03/06

245【世相戯評】優勝は銀メダルらしい

 まったくもう、新聞の社会面にも第1面にもづかづかと土足で、毎日毎日入り込んできて、本当にジャマであった。スポーツ欄に引っ込んでろよ、オリンピックめ!
 TVは見ないから言いようがないいが、あちらはモットすごかったのだろう。
 なんでこんなに大ニュースなのか。社会面にはなんだか美談調のお話らしい見出しである。中味はもちろん読まない。
 この紙面の感じは、どこかで見たなあ、そうだ、この1年ほど父の戦争史を調べているので、図書館で1931年からの戦中の新聞を見出し読みしてきたのだが、その激戦の報道とソックリである。
 負けているのに勝ったかのような報道は、スケートで韓国と日本の女の子が競った記事である。いや、読んではいないのだが、見出しだけ眺めていると分かるのだ。
 第1面にどかどかと瓜実顔の女の子が出ていて、「銀」、と大見出しである。ふ~ん、この報道量の大きさからしてオリンピックってのは昔は金が優勝だったけど、いまは一等賞が銀で、2等賞が西瓜顔の女の子の金なんだ、、。
 この書きっぷりは、日本軍の大本営発表(戦後になって嘘発表の代名詞になった)鵜呑み記事に、雰囲気がなんだか似ている。 ボロ負けしてもボロ勝ちしたように書かされるのだった。
    ◆◆
 1933年3月3日に、日本の東北の三陸地方で大津波が発生して、1500人以上も死者が出る大災害が起きた。新聞はそれまでは毎日毎日、満州事変が拡大して日本軍が万里の長城を越えて侵攻した熱河作戦記事でいっぱいだった。その日から毎日がこの昭和三陸地震記事(死者1522名、行方不明者1542名)で埋めつくしている。かなりの期間、中国での戦争は脇に追いやられた。
 後の太平洋戦争末期の1944年12月7日に、東海地方で1200人以上の死者が出た東南海地震について、当局は「戦局苛烈な折、国民の士気を阻喪してはならない」と実情報道を禁じた。翌12月8日の朝日新聞は「一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく、郷土防衛に挺身する必勝魂は、はからずもここに逞しい空襲と戦う片鱗を示し復旧に凱歌を上げた」とある。
 満州事変時代はまだ少しは健全であったとも言える。
 今はどうか。オリンピックの前に起きたハイチ大地震の記事は、オリンピックになってからぱっと消えさった。
 と思ったら、オリンピック終了直前にチリ大地震である。さすがに1面に載ったが、社会面はオリンピックお涙頂戴記事、次の日からオリンピックがすぐに押し戻した。遊びが災害に勝った。いま、時代は健全か?

033オリンピックが終ったらしい

2010/03/05

244【怪しいハイテク】ローテク掃除

 3月になった朝から体調が悪い。排水装置のあたりに故障があるらしい。2日に専門医に診てもらうと雑菌で錆付いているとて、薬を貰って飲んだら少しは排水機能回復したが、まだ錆排水で不調である。
 微熱があるらしく、コンピューターいじりも気分が乗らない。毎日かわいがっているうちのPCに触らないのもかわいそうである。
 そうだ、まわらぬ微熱頭を使わないいじり方がある。キーボードの掃除をすることにした。これまでやったことが無い。刷毛でささっとそよがせるくらいだ。
 この刷毛は製図用刷毛である。製図版で設計製図をやったことある人は、アレだっ、そんなものまだ持ってるのかって懐かしがるだろう。消しゴムかすを掃き落とすヤツで、KENTのブランド品である。製図版は7年前の引越しで捨てたけどこれはもっている。そういえば製図版を蕎麦打ち板にして再利用している知人がいる。ちょうどよいとか。
 あ、製図の話じゃなくてキイボードである。もう7年も使っている。
 しげしげと見ると、茶色のものがあちこちについてる。たぶん蜜柑の汁が飛んだのだな。
 キイの間には綿埃がたまっている。ためしに中央あたりのキイを3つはずす。ありゃ、埃モワモワの中にクッキーのかけらがある。
 3つ分くらいの大きさのENTERキイをとる。ウワッ、ゴキブリの巣か、埃の山に煎餅のかけらもある。
 こうなったらしょうがない、徹底的にやるぞ、気分はすぐれないが、なんだかファイトが沸いてきた。どうもお安いファイトである。
 かたはしからはずしていく。問題はそれらがどこにあったのか分からなくなることだ。慎重にもとの配置のように別のところにおいていく。
 綿ぼこり、煎餅かけら、クッキーかけら、ステップラー針、そして茶色のこびりつき、まったくもう机上の魔窟である。
 ミニ掃除機、刷毛、濡れ布巾、爪楊枝、塵取りをもって、ボードとキイとを徹底的にほじくり、吸い、吹き、掃き、拭う。
 さて、キイを戻していく。これって、ジグソウパズルか、いや、なんだか少年時のラジオキットの組立みたい。
 あれ、こんなキイあったのか、一度もたたいたことないぞてのがいくつもある。だいたい辺境の地にいる奴らである。
 北極のあたりにいるF1からF12の流氷キイ群に触ったことあるかしら。PCのやつからなにかで押せと命令されたことがあった様な気がするだけだ。
 アラスカのもっと北東カナダ奥地にいるエスキモーキイ群のなかではDeleteはよく使う。Insertはまれに使うが、それはDeleteと間違えて押したときに元に戻すために過ぎない。PrtSc--SysRqなるわけの分からんキイは、画面コピーでたまに使う。ダウンロード禁止措置をしているページの盗撮である。これを知らないころは、カメラで写すとモワレがでて困っていたが、このキイではそんなことはない。Pause--Breakってなんのことだか。
 辺境にありながらよく使うのは、Enter、BackSpace、半角/全角‐漢字である。これらやDeleteが、有用なる能力を持ちながら、なぜ辺境配流の気の毒な境遇にあるのだろうか。
 未利用キイはほかにもあるけど、使ってないってことはいらないってことだろう。そのうちに何かで使うようになるかもしれない。
 そうやってPCのほうの魔窟はローテクノロジーでもって撲滅したのだが、体内の魔窟はどうなるのか。いや、医者は魔窟ってほどじゃなくてすぐ治るといっている。そうだ、ちょうど「父の十五年戦争」を1年ほどかかって書き上げたので、気と体が緩んだのであろう、、なんて、いかにも作家みたいで格好よろしい、はは。

2010/03/01

243【くたばれマンション】片想いの賃貸住宅政策

 住宅供給公社よ、もっとがんばってくれ
  わたしが住んでいる賃借住宅の家主である県住宅供給公社から、「家賃改定に関するお知らせ」なるものがポストに入っていた。
 おお、値上げか、また文句をつけるかと読んでみると、こうである。
「皆さんの現在お支払いただいている家賃につきましては、平成22年度4月に改定することを予定しておりましたが、昨今の社会・経済情勢を踏まえ熟慮の結果、平成22年4月の家賃改定は見送ることといたしましたので、お知らせいたします」
 ありゃ、値上げしないのか、でもデフレ時代だから値下げするのが本当かもよ。
 文面で気になるのは「昨今の社会・経済情勢を踏まえ熟慮の結果」のところである。つまり公社が考えに考えた末ってことらしい。この賃貸住宅ビルだって空き家がたくさんあるしなあ。
 でも、値下げするのが嫌だから、「熟慮」して「見送」ったのだろうと、意地悪く読めるのである。
 これでよいのだろうか。というのは、公社家賃は市場価格と連動すると制度上の決まりがあるからだ。
 実は2002年入居からこれまでに2回の家賃改訂があった。2回とも値上げである。その最初の家賃改定のとき、わたしと家主の公社の間でトラブルが起きた。

●以下全文は→片想いの賃貸住宅政策

2010/02/25

242【横浜ご近所探検】街なか高齢者施設

 近くの表通りの角地にあるガソリンスタンドが突然閉店したと思ったら、どんどん建物の取り壊しをはじめた。
 巨大なキャタピラーつきの自動車が、巨大な蟹のハサミのような手先を持った腕を振り回している。コンクリートの壁でも床でも、ガブリと噛み付いてギリギリギリと齧り取る。
いつまでも道端に立って見ていると、怪獣で興奮しているガキの気分になってくる。10日ほどでペチャンコになった。
 後に何が来るのか、どうせ名ばかりマンションなる共同住宅なんだろうと思って工事看板をみたら、なんと高齢者介護施設を建設すると書いてある。ほう、こんな街のど真ん中に、こんな高層建築で介護施設とはねえ、。

 そこから50mほどの次の角には、2階床までコンクリートが立ちあがったところで、もう1年以上も工事が止まったままのビルがある。
 わたしの住む賃借共同住宅の隣である。それは分譲共同住宅の予定であったが、あれも高齢者施設に設計し直して工事続行したらどうか。

 いいねえ、こんなところに高齢者介護施設とは、遊びにも買い物にも便利だもんなあ、、あ、いや、そんな人じゃなくて寝たきりを入れるのかなあ、まあいいや、わたしもそのうち入れてもらいたいが、場所が場所だから高額だろうなあ、。

2010/02/19

241【父の十五年戦争】1945年の血なまぐさいオリンピック

 バンクーバーでオリンピックをやっているらしい。日本選手が勝たないことを願っている。
 だって、勝ったら新聞の読むところがぐ~んと減ってしまうんだもの、新聞代を負けろ!。

 ところで2008年8月にもオリンピックをどこかでやっていた。そのとき、このブログで「オリンピック作戦 operation olympic」なるコラムを書いた。
 1945年はじめ、日本はアジア太平洋戦争の敗北が続いて末期的症状にあり、4月には沖縄本島にアメリカ軍が上陸して、次は本土に上陸して戦闘になることを避けられないとして、本土決戦の準備に入る。

 一方アメリカ軍は、「ダウンフォール作戦」と名づけた日本本土上陸作戦を立案していた。
 それは二つの作戦からなり、九州上陸が「オリンピック作戦」で、関東上陸が「コロネット作戦」であった。
 実際は原爆によって、この作戦計画実行よりも早く日本が降伏したので、作戦は日の目を見なかった。

 時は移り2008年10月、わたしの母親が死んで、遺品から父親の戦争日誌が出てきて、それを解読していたら、父は「コロネット作戦」と危ない関係にあったことがわかったのだ。
 このブログに2008年8月「オリンピック作戦 operation olympic」を書いた時は、そのことをまだ知らなかった。
   ◆◆
 1945年1月、大本営は現実味を帯びてきたアメリカ軍の本土上陸に備える、最後の決戦に臨むことにした。4月には沖縄本島にアメリカ軍は上陸した。
 わたし父は、1944年はじめから姫路にある第84師団にいて、南方戦線のラバウル島に行く船を待機して通信隊の教育に携わっていた。
 しかし戦況は不利になるばかりで、制海権制空権は徐々にアメリカ軍に奪われてゆき、輸送船の調達も郵送そのものも難しくなる。

 では台湾へとか沖縄へとか朝令暮改するうちに、幸なことに父の師団は国内にとどまり、神奈川県松田町に移駐することになる。
 この松田町が「コロネット作戦」の中心地にあったのである。関東上陸作戦の中心地が相模湾沿岸であり、松田町は上陸後に東京に侵攻するルート上にある。

 わたしが鎌倉に住んでいた頃、海岸部の崖にたくさんの穴があり、それは戦争末期に掘ったもので、そこに砲をすえつけて連合軍上陸に備えていたのだと聞いてはいた。
 それがわたしの父親にも関連しているとは、思いもつかなかった。
   ◆◆
 1945年1月、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」で本土決戦の方針を出し、軍組織を改め、大動員をかけた。しかし、これには訓練を受けていない兵や老年兵が多く含まれ、武器もそろわず、かなり無理な計画であった。
 3月には大本営は「国土築城実施要綱」で各地に陣地を造って戦場とする準備を命令、3月には「国民義勇隊」の結成を閣議決定し、これは国民全体を本土決戦の要員としようとするものであった。

 4月に「決号作戦準備要綱」を大本営は発表して本土決戦部隊を日本各地に派遣、上陸が予想される関東や九州の海岸で重点的に、アメリカ軍上陸を迎え撃つ陣地構築が始まった。
 そして第53軍(司令官赤柴八重蔵)が本土決戦作戦の神奈川担当となり、第84師団はその編成下に入り、5月に相模湾上陸の敵に備えるために小田原に配備されて司令部を置いた。7月には松田町に司令部は移動した。

 この部隊は相模川以西の沿岸地域の担当で、海岸と後背地に陣地を構築して、ノルマンジーのように上陸してくるかもしれない連合軍と刺し違えて、止めようもない侵攻を遅延させる作戦であった。
   ◆◆
 第84師団に属する父の岡山201聯隊は、5月から移動して当初は沼津で陣地の構築作業をおこない、6月には松田町の松田国民学校に駐留した。
 町民や中学生も動員して陣地構築など行なった。松田山に穴を掘って司令部を移転する陣地の構築を進めた。あちこちに穴を掘って上陸軍を撃つ陣地構築も進めた。
 海岸では砂浜に兵士1人づつが入る穴をたくさん掘って、上陸してくるアメリカ軍の戦車の下に爆弾を抱えて飛び込む自爆作戦であった。

 おそらく父もそれらのどこかで穴掘りをやっていたらしく、「松田の山中で穴掘り中に終戦」と手記に書いている。
 このころは通信隊であろうが工兵隊であろうが隊の任務に関わらず、あらゆる仕事に携わっていたようである。
 部隊の食糧は自給自足であったので、田畑を作っており、これに住民たちもかりだされた。
   ◆◆
 コロネット作戦は、千葉県の九十九里浜と神奈川県の相模湾湘南海岸に上陸して、双方から東京に侵攻するもので、太平洋方面のアメリカ軍の総力を結集して、日本に対するとどめの攻撃となるはずであった。
 重点は相模湾側にあり、ここから北に攻め上って東京へと進むのであるから、小田原平野の北端部にある松田町はその進路のひとつにあたることになる。

 もしも本当にここで本土決戦の戦いがあったら、質量共に豊富なアメリカ軍に竹やり肉弾戦法の日本軍が勝てたはずはないから、わたしの父もここで果てたにちがいない。
 実際には、1945年6月に原子爆弾の開発が成功したことにより、コロネット作戦は保留となり、原爆の投下によって必要がなくなったのであった。
 その意味では、原爆が多くのアメリカ軍兵士の命を救ったというアメリカ流の原爆の意義解釈を、父にも適用できるかもしれない。

 それにしてもアメリカ軍上陸作戦地を日本軍がよく知っていたものであるが、諜報活動の結果か、それとも誰が考えてもそうなるのだろうか。
 8月15日敗戦、8月25日には部隊は引き上、父は郷里に8月31日に戻った。
   ◆◆
 ゆるゆると1年ほどかけて資料を調べながら解読した父の戦争の手記を、「父の十五年戦争」として、わたし足の解説をつけて一応のまとめを一段落した。
 1931年から1945年までの十五年戦争の、最初の年から断続して3回の召集を受けて、兵役で7年半を過ごした記録である。
 副産物として、フィリピンで戦死した叔父の戦場、悪名高いインパール作戦の生き残りの中越山村の長老の戦場のことも知ることができた。

 おかげであの戦争をはじめから最後まで、父が行かなかった南方戦線までも追うことができた。上の文は、その最後の兵役時代の要約を載せたのである。
 父の十五年戦争記録は弟たち息子たちには見せるが、ほかにどうするわけでもない。わたしの人生の宿題のひとつが、ボケないうちにできたと言うことである。次は残りの宿題にかかろう。

◎参照→父の十五年戦争

参考文献
・「相模湾上陸作戦―第2次大戦終結への道」大西比呂志ほか 有隣新書 1995
・「小田原地方の本土決戦」香川芳文 小田原ライブラリー 2008
・「茅ヶ崎市史 現代2 茅ヶ崎のアメリカ軍」茅ヶ崎市 1995
・「松田百年」松田町 2009
・「戦史叢書 本土決戦準備(1)関東の防衛」防衛庁防衛研究所 朝雲新聞社

2010/02/17

240【横浜ご近所】都市計画はきれいごとだけではない

 横浜国大の「地域地域連携と都市再生」と題した授業で、15日に学生のレポート発表会があり、そのコメンテーターで行ってきた。
 横浜市をテーマにしたいわば「まちづくり講座」で、わたしもメンバーの「NPO横浜プランナーズネットワーク」が協力している。

 学生の提出するレポートの趣旨は、横浜市内の特定の地区を採り上げて、その現状分析から将来への持続性を論じよ、というものである。
 学部学年を横断しており、受講する学部生が200人以上もいるのがちょっと驚く。どこに興味あるのだろうか。近頃の学生はまちづくりに関心を持っているのだろうか。

 わたしがコメントしたレポートは、黄金町・日之出町界隈を採り上げたものであった。
 黄金町は売春街が徹底的に手入れを受けて壊滅して、もう4年くらい経つだろうか。
 いまは地元と横浜市大などが協力して、アートの街として再生を図っているのだが、現場を散歩してどれくらい効果が上がったいるのか、わたしの目にもみえづらいので、ましてやイチゲンの学生では手におえない代物である。
 ありきたりのレポートになるのは仕方ないが、これをどうインスパイアするか、教えるほうとしては思案する。

 コメンテーターとしては、あの街界隈のいまも背負っている負の面のよってきたる歴史を述べて、それでも都市はきれいごとばかりでは成り立たない、計画的にできた表しかないのも都市だが、一方では裏路地やアヤシイ遊びの場もあってこそ都市なのだ、そのようなところに君たちはどう切り込んで住むようにするか、それを追求してほしいと言ったのであった。

 ちょっと困ったのは、都市の怪しさを学生に講義するには、短時間では誤解が生じるだろうなあ、しかし長々と怪しいことを講義するのもなんだかなあ、ということで、中途半端になってしまった。

2010/02/13

239【世相戯評】おバカな板すべり大学生

 オリンピックをやっているらしいが、なんの興味もない。新聞で読まないページばかりになるのが困る。

 でも、社会面を賑わわせる番外の話題は目に付く。買った負けたじゃなくて、スケート競技の中学生の女の子がケロリとして結構しっかりした受け答えするとか、板すべり競技の大学生の男の子が珍妙な格好や受け答えがちゃらんぽらんで顰蹙をかったとか、、。
 
 その国母クンという名の顰蹙男は、ずり落ち尻ズボン、シャツをその外に出し(オレだって出すぞ)、鼻ピアス(顔ピアスしてるヤツに出会うとキモチ悪くなる)してるとかだが、おバカなスポーツマンは古今東西珍しくもないだろうに、それをテレビで見てオリンピック選手なのに態度が悪いとて、オリンピック関係者のどこやらへ抗議しているヒマな”愛国者”たちがいるらしい。
 つまり、国母が母国を逆撫でしたってことだな。

 これと直接関係ないけど、国母っていう姓は珍しいようなすごいような。
 だって国母とは国王の生母のことですよ。もしかしたら、昔は小窪か小久保だったのを変えたのかもなあ、。
 知人に光多というちょっと格好よい姓の人がいるが、これは昔は満田だったのを変えたそうだ。 

2010/02/09

238【くたばれ乗用車】出て来い鰤臼設計者

 奴与太自動車の鰤臼なる新車に仕込んだコンピューター制御に誤りがあり、ブレーキ踏み込みへの反応が遅くなって、普通よりも停止が数メートル先になるので危険だとて、リコールをすることになったそうだ。
  そうは言われても自動車運転しないわたしには、どうもよく分からない。
 ブレーキかけたらすぐ停止、それが原則だろう。なのに、コンピューターに任せておけばいつか停まるだろうっていう時代になっているらしい。つまり人間の運転能力はコンピューターの後回しされているってことである。
 もう、人間の運転能力は問われないらしい。これは怖いことである。わたしたちはいつのまにか、機械が支配するSF的世界に入り込んでしまっているらしい。
 そうやって機械が支配するのならば、その機械を設計した人、つまり今回はコンピューター制御システムを仕込んだ人たちに重大な責任がある。
 それなのに奴与太の社長やら副社長など素人ばかり出てきて、技術者は出てこないのはどういうわけか。会社ぐるみで技術者をかばっているんだろう。
 車を買った客やそれに轢かれる歩行者は個人だから、なにかあっても巨大組織相手には勝ち目が無い。
 建築の設計を見てみろ、あのアホの姉歯建築士でさえも責任とらされたではないか、それなのに20万台も世界に売った疵物の設計技術者が出てこない、社会的責任を取らないって、自動車産業の世界は奇妙奇天烈である。
 わたしにこれをいう資格があるのは、そのブレーキのきかない自動車ではねられて死ぬ危険性を、今日も明日も歩く道で抱いているからである。

2010/02/06

237【くたばれ乗用車】奴与太・鰤臼

 鰤臼とかいう名の自動車のブレーキがきかないとか、アメリカではブレーキが利かなくて突っ走って死んだとかで、「顧客の視点でつくっていない」なんて、マスメディアはメーカーの奴与太をさんざんに非難している。
 おい、ちょっと待ってくれ、どこかおかしいんだよなあ、その言い方が。
 顧客ってのは、その車を買う人なんだろうし、その買った人が欠陥車で死ぬかもしれないからけしからんとの論調ばかりなのは、どうも片面的な視点でありすぎて、おかしいと思うぞ。
 わたしが道を歩いているとする、そこにブレーキのきかない鰤臼がやってきて、わたしを跳ね飛ばし轢き殺すのは、いったいどうしてくれるんだよ。
 その第三者被害の可能性の視点でこの問題を論じているヤツはどこにいるのか。
     ◆◆◆
  そもそも自動車メーカーは、乗ってるヤツの安全ばかり考えて、歩いていてはねられ殺されるかもしれない第三者のことを念頭にいれていない車つくりをやっていて、実にけしからん。
 例えば、ぶつかったらバンと開くエアバッグである。あれは運転席につけるのじゃなくて、バンパーあたりの外につけるもんだろ、そうすりゃ少なくともひき殺されなくてもすむだろうに。
 バンパーだってあんな頑丈だから、ぶつかった歩行者を殺すか怪我させるに決まっているだろ。
 わたしが乗用車の設計をするなら、運転席をいちばん前に持っていくね、ぶつかったら即運転者が怪我するようにすれば、嫌でも安全運転するはずである。今の設計は少々ぶつかっても運転者はなんでもないが、ぶつけられたほうは大怪我か死ぬ。それが根本的におかしいのだ。
 とにかく、自動車の設計思想には、これが第三者への凶器にしないとする観点が抜けている。いや、逆か、第三者への凶器として設計しているのだな。
 特に鰤臼は、エコなる福の神の仮面をかぶっているが、実は中味は鬼であった、と、ちょうど節分にふさわしいニュースとなった。

2010/02/02

236【老い行く自分】昔々丹波で出会って影響を受けた伊藤ていじ先生が亡くなられた

 今朝の新聞に、建築史家の伊藤鄭爾さんがなくなられたことが報じられている。
 享年88歳とあるから、思い出せばあれは先生が38歳のときであったのか、もっと若かったように思っていたが、、。
この「日本の民家」の本は、学生時代にフィアンセからもらった。
 1960年の夏、わたしは大学の建築史研究室所属の同期仲間3人で、丹波の農村に滞在して民家の調査をしていた。東京大学の建築史研究室との共同研究で大勢の学生や院生たちがいて、その指導教官の一人が伊藤鄭爾さんであった。当時は東大の助手か、助教授だったのだろう。

若い身でありながらその語る人生感と個性に、わたしは強烈な印象をもち、このときに何がしかの影響を受けたのであった。
 一面の稲の田んぼの田舎道をテクテクと出かけて、古い大きな茅葺の民家に上がりこんで、屋根裏まで入って煤で真っ黒になる毎日であった。

 伊藤さんは、ひょろひょろの細身で、力がないからカバンは持たないのだと、風呂敷包みひとつを持ってひょいひょいと歩きながら、そしてまた夜は酒飲みながら、いつもなにかを語って下さった。
 細い身で力が無いのは、結核で死にかけたからであった。東大の院生だったかのころ、病院で寝ているある日、目覚めると周りには泣いている人たちがいる、ははあ、俺はいま死のうとしているんだななと思ったけれど、気力がないから何の不思議もなく眺めていた、という。

 ところが、それほどの病状だった土壇場に、ストレプトマイシンが登場して、その投与で治癒したのであった。
 伊藤さんが言うには、そのストレプトマイシンは貴重な薬であり、なかなか手に入らないものであったので、ある種の差別的な患者選択で投与の優先順位が決まって、東大の研究者はその投与対象に入った。だから、今の自分は何千人何万人かを押しのけて生きているんだから、それだけに熱心に生きなければならないんだ。

 丹波の田舎で聞いた伊藤さんのとどまらない多くの語りは、今考えると彼一流のヨタ話もあったかとも思うが、若いわたしはおおいに感激をしたものであった。
 田園の美しさについて、伊藤さんにわたしが反論した覚えがある。
 ある日の出かける途中で伊藤さんが、この田園風景の美しいことはどうだい、と感激していう。
 わたしは、その美しさの陰には苦しい労働があるのを忘れはいけませんよ、すると伊藤さんは、いや、美しいこととそれとは別ものだよ。この話がどう決着したか忘れた。
 たくさんの話の中からはっきり覚えているのは、先生が死の床から劇的に生き返った話だけである。

 そして伊藤先生は、民家研究の大成者としてその世界を築き、教育者としても工学院大学の学長もなさって、かつて押しのけたかもしれない人たちに代わって立派に米寿まで生き遂げられたのであった。
 その後はわたしは伊藤先生とは縁がなくなったが、大判の「日本の民家」なる評論と二川幸夫の写真、あるいは「谷間の花が見えなかったとき」という松本與作評伝とか「日本デザイン論」などの印象深い著書が、たくさんのわが蔵書処分から逃れて今も手元にある。

 1980年ごろ、東京駅のステーションホテルでのなにかの会合で見かけて、その昔、丹波でお世話になったものでございますと、深くお礼を述べたことがあった。
 もちろん、先生はわたしを覚えてはいらっしゃらなかったが、わたしとしては20年ぶりに何がしかの荷をおろした感があった。

 この4年ほど通っている中越山村で民家調査の手伝いをやることになり、一昨年から半世紀ぶりに屋根裏で煤まみれになる再体験をして、伊藤さんを思い出していたところに、訃報であった。合掌