2009/05/08

124【世相戯評】地デジ(血で痔)なんて汚らしい言葉を平気でよく言うよなあ

 わが家のテレビジョンがもうすぐ写らなくなるらしい。
 でも困らない、だってTV見てないんだもん。もっとも相棒は困るかも、。
 でも、一方的に見えなくするのはけしからん、 家財道具機能損失補償金をよこせ。

 それにしても「血で痔」って、誰が作った略語か、無神経である、よく口に出して言えるものだ。
 正式には「地上デジタルテレビジョン放送」だから(総務省サイト)、略語は「地デテ」だろうに、あ、「血出て」かあ、、。
 だが、この地上が分からない。地面の上をゴロゴロ転びながらかノソノソ這いながらか、TV放送の電波がやってくるのだろうなあ。となると外を歩いていると、体の中をこのデジタル電波か何かが通り抜けるのか、大丈夫かあ?

 地上があればやっぱり地下デジ、おっと地下デテとか空デテとかも当然あるのだろうなあ、何が違うのだろうか? 地下室やトンネル、飛行機や超高層ビルでTV見るときに使うのかしら。わが家は7階なので地上デテか空デテか、どっちなんだろう? 受像機は違うのかしら?

   ◆

 血で痔対応TV受像機の普及は、まだ6割くらいとかで、一番普及は7割弱の福井県、もっとも未普及は4割弱の沖縄県だそうだ。これは何を意味するのだろうか?
 福井県人はTV番組を見るのが好きなのか、ほかに娯楽が少ないのかなあ。
 沖縄県人はあまりTVに関心がないのか、ほかに娯楽がいっぱいあるからか。となると、わたしは沖縄県人に近い性格なのか、意外であるが、嬉しいような気もする。

 わたしは思うのだが、どうだろう、このまま誰もTV受像機を買い換えないで、血で痔放送開始と共にTV廃止するのである。
 あんなくだらないショウもないラチもない代物をみているのは(見ないのになぜ知っているかというと、飲食店に行くとたいていTVがあってうるさいからだ)、TVが始まって珍しいから見ていた時代から惰性であるだけなんだから、ここらでやめてもなんの問題もないどころか、利口にはならないにしても、あれを見て馬鹿になるチャンスが少なくなることは確かだ。

   ◆

 飲食店のテレビには本当にうるさくて困る。消してくれとは気が弱いからいえない。
 たまにTVをつけてないのでほっとすると、サービスのつもりでつけてくれるのには、困る。行かないようにするしかない。
 よそ様の家を訪ねると飲食店と同じように、居間にTVがつきっぱなしでやかましいのに、平気ですごしていることにたびたび出会う。
 こちらは客だから、うるさいから消してくださいと言いにくいので辛抱しているが、TV嫌いはほんとうに困惑する。

 昔昔、街頭テレビってのがあった。テレビカーという電車が走っていた。 昔、タクシーにTVがついていたこともあった。
 どれもなくなって、日本人もアメリカさんから精神年齢十二歳って言われたときからちょっとは成長したかと思っていたら、今やなんと携帯電話機でTV放送を見るのだから、馬鹿は死ななきゃ治らない。

 そういえば、イギリスさんからからもウサギ小屋といわれてからもうどれくらい経ったか、名ばかりマンションで相変わらずウサギ小屋は健在だし、不況で住宅難民が大量に出るようでは、その小屋にさえ住めない人もいる始末である。バカ政策は死んでも治らない。

2009/05/05

123【老いゆく自分】少年の頃はによく見た空を飛ぶ夢を今は見ないのが寂しい

 少年の日のことを昨日に続けて書く。なにしろ、今日はわが誕生日なのだから、。
 何回も見た怖い夢と楽しい夢があった。
 怖い夢は、球体の内部に身体ごと閉じ込められていて、周りの球体からまた球体がいくつも飛び出している。ここから出たいと、必死になってぐるぐる回りながら周りの球体を蹴飛ばすのだが、出られない、コワイ、ハット目が覚めて、まだどきどきしながらひと安心する。

 この閉所恐怖の夢は、中学生になったらもう見なかったような気がするが、このためだったかどうか閉所恐怖症はいまも残っている。 だから宇宙船にはとても乗れない。それどころかアクアラングも試したが、だめだった。 狭い乗用車で長時間ドライブも好きではない。

 怖くはないがどうにも困る夢があった。走ることができないのである。
 一生懸命に走ろうとするのだが、足がどうしてもよろよろとしか動かないのである。じれったくなり、四足になって手で走り、そのうちに目が覚め、ほっとする。この夢は40歳代になっても見たような気がする。

 これにひきかえ、空を飛ぶ夢はじつに楽しかった。
 わたしの生家は盆地の東の丘陵の中腹にある神社だったから、下の道から鳥居をくぐって長い石段を登るのである。家からは下の街の屋根の連なる家並みを見下ろすことができる。
 この石段の上から飛び出すのである。階段を低空飛行して、鳥居の上を飛び越えると上空へ、そしてまちの屋根の上を飛ぶのがフルコースの夢で、おお、やっと飛べたぞと喜んで目が覚める。

 失敗して石段で着地することも多かったが、覚めても楽しい。これも40歳代までは見たような気がする。
 だから高所恐怖は全然なくて、大学山岳部でも岩登りは好きだった。大学本館の塔の上のパラペットを歩いたこともある。いまじゃできない。
 どれもいつの間にか見なくなってしまって、見たくない夢もあるが、なんだか寂しい。

(追記)映画「E.T.」で自転車に乗って月夜の空を飛ぶ場面があったが、あれは制作者スチーブン・スピルバーグが少年の頃に見た夢に違いない。それを映像にしてひともうけとは、やるなあ、。

2009/05/03

122【老い行く自分】少年の頃に読んだ漫画にあったトマトの種を食っていいか問題がようやく解けた

 トマトを食うときにいつも心の隅をチラッとよぎる、少年の日の記憶がある。
 SF漫画だったか、火星に行った人間がトマトを種も一緒に食べて、火星人に笑われ軽蔑されるのである。
 その前後はまった覚えていないが、ここだけみょうに記憶があって、はて、この種を食っていものかと、今もチラと心をかすめる影がある。

 ところが今日(2009年5月3日)の朝日新聞朝刊に、筒井康隆が「漂流―本から本へ」の連載に書いていることに驚いた。引用する。
 http://book.asahi.com/hyoryu/TKY200905070136.html

「大城のぼるの『火星探検』は面白かったなあ」「復刻されないかなあ」 昔の話になるたび、しばしば小松左京とそう繰り返したものだが、これがやっと昌文社から完全復刻されたのは昭和五十五年、読んだときから四十年近くが経っていた。
 二年生か三年生の頃だったろうが、誰から借りて読んだかのかもうわからない。中村書店から昭和十五年に出たこの漫画のことは、同世代の多くが記憶している。
 (中略) ぼくにはキャラクターの可愛らしさと、オールカラーの童画的な上品さとモダンなタッチ、火星のトマトを種ごと食べたために腹痛を起こして、火星人たちから食いしん坊とはやし立てられるエピソードが心に残った
。(以下略)

 全く同じところを記憶している人が、広い世の中にはいるものである。おかげでわが心のかすり傷?の出所が分かったが、今となれば、なぜこんな些細なことが子供の記憶に残るのだろうか不思議である。

 筒井はわたしより3歳年上のほぼ同世代である。彼は戦中に読んだらしいが、わたしは戦後であると思う。
 わたしは筒井の熱心な読者ではないが、好きな小説家である。多彩な芸達者のようだが小説のほかは知らない。

 なお、「火星探検」の原作者は、小熊秀雄ということも紹介している。あの小樽文学館で小林多喜二や伊藤整たちと肩を並べていた詩人はこういうこともしたのか。
 そこで、青空文庫プロジェクト・小熊秀雄全集に掲載してある漫画台本「火星探検」から、そのあたりを引用する。

●小熊秀雄「火星探検」台本(トマト騒動あたりを抜粋)

「・腹痛(はらいた)
1
地球のお客さんが病気になつたのだ
どうしたのだらう
やあ 病院車がやつてきた
23
さて、みなさん あなたたちは今日なにを召上りました トマトをたべたでせう しかも種まで
ハイ 僕たちはたべました
24
それがいかんのです 種をたべたのが
地球では トマトは種までたべるんですよ
25
火星ではトマトの種はたべません 種は、ていねいに出して運河に捨てます
すると 大洪水のとき種は畑に自然にまかれる
それぢや 種をまかなくてもいいや
26
あなた方は トマトを種ごと呑んだ だからトマトが お腹に生へだしたのです
えつ? 僕たちの体の中に?トマトが生へだしたんですかあ?
ウワア! 困つた

・火星の看護婦さん
22
こりや いくらあばれても駄目だ くやしいなあ よし! ここを出たらトマトたちめ 
みんな踏みつけてやるから
わはあ 地球のお客の喰ひしん棒
種までたべたいやしん棒
ずゐぶん貴方たちは意地わるね さうのぞくもんぢやないわ
お腹にトマトが生へるとさ
うわあ、これぢや手も足も出ないや とんだ野外病院に入れられてしまつた」


 絵がないからつまらないが、思い出せばくっきりとした線に、色使いが明彩であったような気がする。
 これも大昔のことになってしまった。

(追記20140804)ウェブサイトで漫画のトマトの場面を見つけた。
http://plaza.rakuten.co.jp/shov100/diary/201301200001/?scid=wi_blg_shashinkan_thumb001

2009/04/28

121【ふるさと高梁】少年のある日に突然に四季を感じるようになった日のこと

 この文は2003年に書いて「まちもり通信」に掲載したが、再掲してまた尋ねたい。
 これを読んでくださっているあなたには、こんな経験がおありでしょうか。

 それはわたしが、多分、中学生の1年生かその前後の歳だったでしょうか。
 ある日の昼まえ、いつものように街を眺めていました。わたしの生家は、盆地東側の中腹にある神社ですから、境内の端から見晴らしが良いのです。

 見下ろした頭を回して、山の中腹の雑木林に目を移してゆきます。
 初夏だったでしょう、新しい葉が黄緑に繁る林の樹冠からは、レモンイエロウの炎がたっているようでした(右の上の絵の左方)。いつも見ている風景です。

 突然そのとき、私の心のなかで何かが動いたのです。
 うまく言えないのですが、そう、四季が見えたのです。自然の移り変わりをはっきりと感じたのです。
 これまでいつも同じに見えていたこの風景は、じつは同じじゃなかったのだ、この世界には四季があり、いつも変化しているのだ、と、気がついたのです。

 風が吹いている、こずえの葉がそよいでいる、色彩がある、雲が行く、陽光がふりそそいでいる、それらが見えてきたのです。
 いつも見ていた風景が、生き生きとわたしに語りかけてきたのでした。

 少年の頃には、四季なんてものはありませんでした。毎日毎日がそれぞれ別々の独立世界だったのでしたが、その日から、私のまわりには毎日連続する時間が生れ、季節が巡りだしました。
 思うに、そのときから思春期に入ったということでしょうか。

 こう書いていると、なんだか自分でも絵空事のような奇妙な感じです。でも、そのときの風景は、もう半世紀を超える前のことなのに、いまもはっきりと目に浮かぶのです。
 今、ふるさとの同じところに立っても、あたりに家が立ち並んでいますが、まぶたの中の風景は昔のままに、畑の向うの林には若葉が萌え、いや、燃え立つのです。

 このことはこれまでも、ときどき思い出したように人に話したことがありますが、書くのは初めてです。
 いかがですか、あなたにはこのような経験はありましたか、教えてください。ひとりだけ友人が高校生になってそのような経験があったと教えてくれました。

 これに関連して、気になっていることがあります。ヘルマン・ヘッセが書いた小説だったと思うのですが、その主人公がこれと同じ経験をする場面があったのを、高校生の頃に読んだような気がするのです。
 それがどこにあるのか探しているのですが、どうして見つかりません。どなたかご存知でしょうか。

 春が来るたびに、老い行く身にもみずみずしい少年の日があったと、ちょっとロマンチック(センチメンタルか)な気分になります。(030309)

2009/04/23

120【世相戯評】エコ商品購入に補助金をくれるのなら何にも買わない超エコに補助金をくれ

 エコカーなる怪しげなものを買うのに政府が補助金を出すのがバカだと書いたら、今度は電気製品とか住宅とかでエコ商品を買うと補助金を出すそうだ。
 同じことを2度言いたくないが、あえて言う。

 そもそも、エコ製品だからとて、それをつくるにはエネルギーも資材も消費するし、買い換えたら廃棄物処理にまたエネルギーも資材も無駄使い出し、なんでエコロジーなものか。
 エコロジー商品への補助金なら、エネルギー消費しない自転車や歩くための靴、暑さをしのぐ日傘・団扇・日よけすだれ・汗をぬぐうタオル、寒さを防ぐ衣類・布団・毛布などに出すべきでしょうに、。
 要するの電気製品や住宅などつくる大企業への補助になるだけで、電気製品も買えない庶民のエコ買い物には、何の補助もしないのである、ば~か。

 エコ商品ってのは、ちょっと昔は「省エネ商品」といっていたよなあ、あの頃なんで補助金をくれなかったんだよ、オレんちではもうその頃に買った家電製品があるし、いまでも健在だから改めてエコ商品を買う必要がないのだ。10年さかのぼって補助金をよこせよ。

 自家用車を持たないわたしのような者には、買ったとみなして補助金を支給せよ。元をただせば税金だろ、全くもって不公平政策である。
 そうだ、ものを買わないことがもっともエコなんだから買い物しなかった人に補助金を支給するのが一番よいことだ、うン、そうしたらいいのだ。

2009/04/20

119【法末の四季】甲州の桃花から信州の桜花そして越後のブナの森へ

この1週間、ふらふらと甲州ー信州ー中越と鈍行列車に乗って、花と若葉を訪ねてきた。
 甲州では韮崎で、桃畑に菜の花の取り合わせが、まさに桃源郷であった。
 ちょうど雨が降っていたのだったが、しかしそれはそれで、原色の桃色が雨にかすんで、黄と桃のおぼろなたゆたう風景もまたよかったのであった。
 実はここは生産の世界である。台地上の桃畑では、花摘みの最中だから、花見をする身には惜しいような、でも花摘みするから美味い桃が食べられる、まあ仕方ない。
 でも、桃畑のまわりに菜の花を植えて、畑を飾っているのが嬉しい。
 雨の花見もよろしい。
   ◆
 信州では高遠の桜である。高遠城跡公園の小彼岸桜は昨日の雨で半分散っていたが、それでも花見観光客は大変なものである。
 まさにお花見産業が成立しているのだが、今年は花の季節が短くて、ちょっと不景気だろう。
 実は昨年に最盛期にやってきて、はじめてこの有名な桜の公園を見物したが、あまりにどど~っと咲き誇っていて、どうもなんだかはしたないと閉口したのであった。あの花盛り加減には狂気がある。参照→高遠の花

 今年はそこからちょっと離れたところにあるしだれ桜を観にいった。これまた有名らしく、団体バスがどどっとやってきては、さっと帰る人の波が押し寄せているのだった。
 そのしだれ桜はちょうど満開である。数本があまり近づかない位置で咲いているのがよろしい。
 墓場で咲く桜がなんと言ってもいちばんよろしい。花の下には死体が埋まっているといったのは、坂口安吾だったか、そんなことを思いながら、石塔群の中をうろうろするのであった。

 なかに一本、このあたりの親分格の巨大しだれ桜が、花の入道雲を大きく広げている。う~む、どうもその姿は、ピンクの縫いぐるみのモンスターに見えるのであった。
 やはり日本の桜花は、散りゆくものの儚さを予期させる、どこか楚々とした姿のほうがよろしい。過ぎたるは及ばざるが如し。
 小彼岸桜がめったやたらの方向に枝を出し花をつけるのに比べて、しだれ桜は重力方向に垂れ下がる秩序観があるので、花の下の狂気が薄れてちょっとだけ安心させられるのだった。
   ◆
 中越では、いつも行く法末集落である。今は山菜の盛りであるが、今年は雪が少なくてすぐ解けたために、山菜の時期がピンポイントになってしまったそうだ。
 拠点とする家の庭に生えてきたウドを今年もいただいた。もうすぐタケノコである。
 同じく庭のユキワリソウの花は終わっていたが、ミズバショウが盛りだった。
 ブナの木の若葉が萌黄色の炎となって空を覆い、それはそれは美しい。
 尾根筋のブナの森の中でじっとしていると、山はなかなかに喧騒である。風のそよぎに、幾種類もの鳥が次から次へとやってきて、まるで会話をしているように鳴きつづける。
 いつもは歩いて通り過ぎていて静寂な山中だと思っていたのに、じっとしていると実は驚くほどに、自然の声の賑わいがあるのだった。
参照→中越山村・法末の四季物語
(鳥の声と虻の羽音が聞こえる動画です)

2009/04/13

118【父の十五年戦争】父の遺品の蛇腹写真機

 15年前に逝った父の遺品に、ガラスの乾板(65×80mm)に写す蛇腹式写真機がある。カメラというよりも写真機がいかにもふさわしい。
 父のアルバムにある古い写真から判断して、初めて子(夭折したわたしの姉)が生まれた1935年に購入したようである。

 その後のアルバムの様子では、1942年頃までは使ったらしいが、戦争時代になると乾板は手に入れられなくなるし、写す当人の父は兵役で居なくなるし、その留守中にわたしが玩具にして壊したりした。

 それでもわたしが中学生くらいのときに何とか使えないものかと、カメラ屋に相談に行ったことがあったが、もう乾板を売っていないからだめといわれた記憶がある。カメラの名前は「KINKA HAND CAMERA」と書いてある。日本製だろか。

 今ではさわると壊れるくらいに、ぼろぼろとなっいる。もう処分しよう。
 父は映像に趣味があったらしく、手回し式8mm映写機があり、フィルムが2巻あった。そのひとつがチャップリンの出演するものだったが、もうひとつはなんだか忘れた。

 幻灯機もあり、絵を描いたガラスを透過して写すものだった。絵の内容は、宗教的なものだったような、うろ覚えである。
 小学生くらいまでは時々見て遊んだ覚えがあるが、わたしが物心ついてからは、父にそのような趣味はなかったようだ。

 どちらの機器ももうないが、あれば骨董品として価値があるのだろうか。
 いつの日かわたしの遺品のPCやデジタルカメラを見て、同じようなことを息子が思うだろうか。

 追記:これを書いた1年半後にカメラの製造所が分かった
      ●参照343続・父の遺品の蛇腹写真機

2009/04/10

117【老い行く自分】20世紀夢の跡の墓地

 ドリームランドという名の遊園地が、高度成長期の1964年に横浜郊外に開園した。
 やってきた子供も若い親たちも、高度成長する日本の未来のドリームを夢見て遊んだものだった。 うちの子も行った。
 でも、そのドリームはいつまでもは続かない。行き着くべきは老いと病の人生であり、果ては死であるのは仕方ないこと。ドリームランドも20世紀とともに廃園した。

 そして今、低度成長期の21世紀初め、ドリームランドが去って行った跡にやってきたのは、薬科大学と墓苑である。
 人々の老いと病を癒す薬を研究するところと、その医薬でもストップできずに逝った死者たちが夢見るランドとなったのである。

 かんがえてみると、その土地利用の時代を表すことの的確なことに、ちょっと驚くのである。
 実は、昔に遊びに行ったその子が今は大人になって、その墓地の一角にわがファミリーの墓をつくった。まあ、近いうちにわたしが入る予定だが、自分のことなのに正確な日程の見当がつかない。

今日の朝日新聞朝刊東京版に、その墓地の記事が出ている。公園墓地として、抹香臭いのを排除することにして、線香や卒塔婆は禁止であるし、墓石デザインも決められている。
 線香を焚くのを禁止は宗教儀式の排除でけしからんという声もあるそうだが、わたしはあの臭いはごめんこうむりたい。

 わが入る墓の先住人たちは、神社の宮司とその家族だから神道である。線香には関係ないのだ。わたしは無宗教だからなおさらである。
 神道では墓に榊を供えるので、近くの花屋で買って200円余、ところが普通の花束だと1000円余である。神道は安くついてよいものだ。もちろん戒名なんてものもない。

2009/04/04

116【くたばれ乗用車】エコカーに買替え補助金のバカ

 日経新聞のニュースによると、「政府はハイブリッド車など環境への負荷の低い自動車の購入を促す補助金制度を導入、買い替え時に1台あたり最大で30万円程度を支給することを検討している」そうである。
 なんというバカ政策か。
 買い換えた車の処理や新車生産のために起きるであろう、エネルギー消費、排ガス発生などはどうなるのだ。まだ使える車を買い換えたら資源の無駄使いになるぞ。
 消費刺激策だそうだから、自動車製造業ばかりか、廃車処理産業や排ガス処理産業までも景気対策に入っているのだろう、エコは時流に乗って言っているに過ぎない。
 わたしのような車に乗らないものには、まったく不公平である。こっちにもなにか金をよこせ。
 なにか買い替えに補助金では同じ愚になるから、そうだなあ、医療費に補助金をくれえ、。
 つまり、わたしの移動は車じゃなくて、足を使って体力でやっているのだから、これこそエコのきわみであるのだぞ(排ガスをださなくもないが)、このエコマンの補修費に補助金くれたっていいじゃん。
 ところで、高速道路1000円のバカを書いたときは知らなかったが、トラックは1000円じゃないのだそうだ。バカの上塗りである。流通経費を下げると物価は安くなる方向に行き、景気刺激になるとドシロートのわたしでも思うのだがなあ、。 
 参照→110高速道路休日1000円のバカ
     ・自動車社会を衝く

2009/04/02

115【歴史・文化】木喰微笑仏の微笑とは男女交合のことであったか

「微笑(みしょう)とは、仏教用語で男女交合の法悦の極の相を言うこともある」
 そう教えてくれている伊藤勇さんとわたしの目の前には、木喰上人がつくった「微笑仏(みしょうぶつ)」が5体並んでいる。
 ここは山梨県身延町の丸畑(まるばたけ)という山村集落、18世紀末から19世紀初めにかけて全国に行脚し、1000体を超える木彫像を彫った僧・木喰行道(もくじきぎょうどう)の生家である。
 その僧の縁者の末裔である伊藤さんは、押入れの上段を改造した仏壇にならぶ「五智如来」の列像を前に、その木喰行道の生涯、その作品、その仏道についての長年のご研究を語っている。
   ◆
 木喰行道の作る木像を「微笑仏」と名づけて「みしょうぶつ」と呼ばせたのは、木喰行道の発見者である柳宗悦だったのだろう。
 これが今も通称となっているらしく、ものの本はみなそうふりがながついている。濁音が2つのビショウブツよりは語感がよい。
 その多くの像のもつ独特の笑みには、誰もが惹かれることはまちがいない。
 わたしのはじめての木喰仏体験は、長岡市小国町太郎丸にある真福寺で「梨の木観音」だった。小さな祠の奥で、わが手にもつ灯かりに浮かびででたそのお顔の笑みには、こちらが破顔一笑、一目で惹かれたものだ。
 仏教ばかりか宗教全般に全く興味がないのだが、この微笑と書いてミショウと読ませるのは、仏教の経典にある言葉らしいが、それはどのようなことかと少し気になっていた。
 丸畑で伊藤さんに出会って、その意味をたずねての回答が、この冒頭の言である。
 今わが目の前の仏たちの放つ笑みは、きわめて個人的な性の発露でありながらも、実は万人に普遍的な悦びの表現なのか、、。
 わたしは唖然とし、そして笑ってしまった。わが笑いには、意外性への驚きと同時に、性的な隠微さへの哂いもあったことも白状する。
 ちょっと意外な展開にもうすこし突っ込んで聞きたかったが、まわりには今日はじめてあった山の会メンバーの紳士淑女がいらっしゃるので遠慮した。
   ◆
 あちこちWEB検索して仏教用語の微笑を調べてみた。
「大梵天王問仏決疑経(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)」に、「拈華微笑(ねんげみしょう)」あるいは破顔微笑とあって、簡単にいえば以心伝心のこととある。性的な意味はないから違うか。
「理趣経」に、「適悅淸淨句是菩薩位(てきえっせいせいくしほさい)とあって、その解説は「男女交合して悦なる快感を味わうことも清浄なる菩薩の境地」とあり、さらに「熙怡微笑(きいみしょう)」という用語もあった。これらしい。
 丸畑集落は、自治体の地域おこし事業らしく、「木喰の里」と名づけて、「微笑館」という木喰資料館を建てている。これをミショウカンと読むのかと思ったら、案内看板にBISYOKANと書いているのだった。
 さては、あのミショウが公共施設名ではマズイなあ、と気をまわした人がいたのか。

●参照→木喰の風景  →016-3つの展覧会
●リンク:身延町地域資料「身延に遺る作品■永寿庵・五智如来像
●リンク:、「8世紀の人もうけの原点、北海道から鹿児島まで40年間にわたって旅と造仏を続けた木喰上人―山梨県下部の丸畑の生家をたずねる」(糸乗 貞喜)