2018/05/08

1333【戦争体験記】『昭和二十年それぞれの夏』大学同期生七歳児たちの戦争体験記憶簿

 アジア・太平洋戦争が終ってここまで時間が経つと、戦争体験の無い世代が社会を動かしているから、戦争体験世代から見ると、危なっかしくてしょうがないことも、すらすらと世間に通る。ネット社会発言もそうだ。

わたしが学生だった頃の母校キャンパス風景と寮舎
戦争中は軍事研究メッカ、紙風船を飛ばしてアメリカ爆撃研究も

●大学同期生たちの戦争体験記憶

 最近、同世代連中と話をしていて、ちかごろ戦争体験が風化しているとの話になり、思い出したことがある。同期の大学寮仲間の戦争体験記憶を集めたことがあったのだ。
 2014年8月に大学寮同期仲間のメーリングリストを使って、語りあったのである。

 1961年に卒業しのだから、1945年の敗戦時は7~8歳児である。そして敗戦の日に居た場所は、北は満州、朝鮮、南は台湾、そして鹿児島から茨城まで、多様な地域に亘るのである。多様な地域での、多様な戦争体験がある。
戦争記憶簿に執筆した同期仲間たちが1945年8月15日にいたところ
実はそれらのメールをまとめたファイルがあるのだが、それをネット公開したらどうだろうか、公開価値があると思いついて、執筆した仲間たちに聞いてみた。
 ネット公開反対の者はないので、一部を修正したうえで、ブログを開設して載せた。

 「1945年8月15日あなたはどこで何をしていましたか」
   昭和二十年それぞれの夏 
七歳児たちの戦争体験記憶簿
東京工業大学1961年卒業向岳寮同期生有志著

●ネット公開は実名か仮名か

 ネット公開にあたって、公開そのものに反対はなかったが、多少の論議があったのは、元のファイルはそれぞれの執筆者名は実名であるが、公開にあたって実名とするか、仮名とするか、ということである。
 取りまとめ役のわたしがまたメーリングリストを通じて、最初にネット公開原案を示して公開の可否を聞いた。そこには執筆者名をとりあえずローマ字イニシャルにしたが、わたしだけは実名にしておいたのだ。

 そして実名にするかどうか、内容はこれでよいかと聞いた。内容については修正や追加の各自からの指示をそのまま入れた。
 執筆者名についての反応は、実名とするものは少数であった。わたしとしては、このような戦争体験記を公開するにあたって、内容に責任を持つために実名にする立場であるが、他に押し付ける気はまったくない。

 実名を出すべきでないとする意見が数名からあったが、どれもその理由は、ここから住所や電話番号等の個人情報を探り出す者がいて、年寄りのわが家に詐欺電話をかけてくるおそれがあるからという。イニシャルでも危ないからランダムに英字1字のみの仮名にすべきとの意見さえもあった。

 わたしの意見は、これは共同執筆ではなく、ひとりひとりの執筆の集合なので、全員をそうすべきとの意見には賛成しない、それぞれ執筆者の意向に沿うので指示をほしいとして、それぞれの意見に対応して個別に修正したり、そのままにしたりした。
 なにも反応ないものは、呈示した原案のままにした。

●ネットの功罪と高齢社会

 わたしたち世代は、ネット社会の草創期にはもう結構な年齢だったから、Eメールくらいはやるとしても、自分のウェブサイトやブログを持つもの、あるいはSNSを使うものは、かなり少数で珍しい部類に入るようだ。ネット社会とはある距離を持っている。
 それが自分の名前と文章がネット社会に登場するとなると、その功罪の罪の方に目が行くことになるのだなあと、興味深く思ったのだった。

 わたしは功の方がはるかに大きいと思っている。わたしがもう20年にも亘って、実名もメールアドレスも公表してネット社会へ発言してきたが、幸いにして不都合なことが起きたことは、一度もない。
不都合よりもむしろ、わたしが載せた各種の論考等を読んだ研究者や院生学生から連絡をもらって、その研究になにほどかは役立つこともあるくらいだ。

 この戦争体験記もなにかに役立つことを願っており、そのサイトの問合せ先にわたしの名とメールアドレスを載せておいた。語り部として責任を持ちたい。
 ネット社会の登場で、リタイアしてリアル社会と遠ざかった老人たち、足腰弱って出歩けなくなった老人たちには、高齢社会のあらたな社会参加の場となっているが、これもそのひとつである。

●参照:「昭和二十年それぞれの夏
http://kgr36.blogspot.jp/p/blog-page_8.html

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