2017/12/17

1308【続・山口文象設計茶席常安軒】リベラリスト関口泰が愛でて後半生を過ごした浄智寺谷戸の自然と茶席と庭と

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その2
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

その1】のつづき
大き巌うしろになしてこの梅はことしれうらんと咲きにけるかも  関口 泰

●関口泰が愛でた浄智寺谷戸の風景

 鎌倉は谷戸(やと)と呼ばれる地形に特徴がある。三浦半島特有のデコボコ丘陵ばかりで、海辺の外には広い平地が少ないので、12世紀ごろの昔から丘に切りこむ狭い谷間に宅地をつくってきた。
 谷戸は谷の向きや深さによっては、日中のほんの少ししか日が当たらない。奥になれば坂道は急になり階段になる。歳とると住みにくい。

 浄智寺谷戸は南上りであり、旧関口邸茶席はその奥にある。まわりを緑の丘陵に囲まれていて、豊かな自然風景に恵まれているが、その一方で陽光が照る時間は少ない。
 この茶席をつくった関口泰も谷戸を愛し、短歌「浄智寺谷風景」や随筆「小鳥と花」に自然を描いている。
 そこには、鶯の声で目を覚まし、彼岸桜、紅梅、山桜、染井吉野、大島桜、蝋梅、雪柳、緋桃、芍薬、牡丹、山躑躅、山吹、山藤などの花々を愛でる日常を、優雅な筆にしている。

秋の浄智寺谷戸奥の旧関口邸茶席(中央少し上あたり)、左下は「たからの庭
上の関口邸茶席部分拡大 左の四角錐が茶室の茅葺屋根、その右が会席、右上が母屋
夏の浄智寺谷戸の奥
上の画像の関口邸茶席部分拡大図
 関口は短歌や俳句もよくしたらしく、その遺歌文集から浄智寺谷戸をうたったものをいくつか抜粋してみる。
  吾子のゐる書斎に近く乙女椿紅梅植ゑし庭師翁は
  植込の向ふは茶庭こちらには牡丹植えんと苗を買ひけり
  大き巌うしろになしてこの梅はことしれうらんと咲きにけるかも
  吉野窓の茶室の前に白萩の花枝長くしだれ咲きたり
  むらたけの竹の葉末の雫さへ落さぬほどの朝の風ふく
  この谷は雨こそよけれ山百合の花しろじろと浮きて見えける
  

「大き巌」のある今の庭の秋景色

関口泰
『空のなごり』より引用
関口がここに居を構えたのは1930年、41歳だった。多くの評論や随想をここで筆にして世に送り出した。
わたしが家を建てた昭和五年頃は、御寺より上にはわたしの家一軒だけで、(中略)私が浄智寺谷を初めてみたのは、昭和五年の二月の末であった。もう此の時は今の道が一本荒野を貫いてゐる姿で、道の両側は枯れた茅萱と草とで足を踏み入れるにも困難であった。(中略)それでその時すぐに約束して三月から借りる事にしたのである。(中略)四月二十六日から建築を初めて七月末には引っ越してきたのであった(1941年刊『金寶山浄智禅寺』後書きより引用)

 この家が茶席敷地の南に今もある関口家の母屋だった建物であろう。この5年ほど後には、陶芸家の久松昌子がさらに奥の一段上に窯を築いたが、そこが今の「たからの庭」である。
 関口がその生を閉じたのは1956年春のこと、主のいなくなったこの茶席をしばらくして引き継いで再興したのは榛澤敏郎さんだったが、この建築家もこの谷戸の自然と茶席を愛していたからこそ、今、3代目の主にバトンタッチができるのだ。

 余談だが、実はわたしも15年前まで鎌倉の南上りの谷戸の奥に四半世紀も住んでいた。関口と違って猫の額の土地に兎小屋の家だった。日当たりも悪い。
 ほぼ一年じゅうウグイス、カッコウ、ホトトギスの声を聴いていた。春になると周りの斜面林は急に緑をむくむくと怖いほどの勢いで膨らませ、処々に山桜が白布を広げ、細い谷のほとりに竹の葉がさやぎ、水辺に野草が小さな花を撒く。
 だが、「酒屋へ三里、豆腐屋へ二里」は歳とると無理、逃げだした先は横浜都心部空中陋屋、「スーパーへ5分、コンビニへ3分」となった。なによりも「大病院へ8分、町医者へ3分」がありがたい、劇場へも飲み屋にも近いしね。歳とれば自然環境よりも騒音排ガスがあっても便利さである。(参照「鎌倉脱出の記」) 
 今気が付いたが、わたしが谷戸暮らしを始めた歳も終えた歳も、関口泰とほぼ同じであった。

●旧関口邸茶席に関する資料

 前回は、浄智寺谷戸に40数年ぶりの旧関口邸茶席訪問記だったが、今回からその中身について書いていく。書くにあたってこの建築に関して、わたしが持っている資料のリストを始めに載せておくが、これらはこの建物に直接関係しているもののみである。
  • (1)『山湖随筆』関口泰著 1940年 那珂書店刊
  • (2)工匠談山下元靖著 1969年 相模書房刊
  • (3)雑誌『住宅建築』1977年8月号
  • (4)『建築家 山口文象 人と作品』RIA編 1982年 相模書房刊
  • (5)『新編 山口文象 人と作品』伊達美徳著 2003年 RIA刊
  • (6)関口邸茶席設計図 山口蚊象建築事務所作成(小町和義氏所蔵A2版青焼8枚)
これらの資料の一部は、わたしのつくるウェブサイト「山口文象+初期RIAアーカイブス」のなかの、「1934北鎌倉の茶席(旧関口邸茶席)」に掲載している。
 そのほか資料といえば、山口文象が創設したRIAが所蔵する山口関係諸資料、わたしのうろ覚えの記憶にある山口先生の断片的な話、以前にここを訪ねた時の榛澤さんの話の中にあった事柄などである。

 現在の旧関口邸茶席にある山口文象設計と判断することができる建築は、数寄屋の「会席」と吉野窓の「茶室」の2棟のみであるが、上記各種資料によれば、ほかに「離れ」があったらしい。

●旧関口邸茶席の名称について

 ここにとりあげる浄智寺谷戸奥にある山口文象設計の茶席建築については、これまでは「旧関口邸茶席・会席」と呼んで、建築関係誌などでの紹介さてきた。
 それらが関口氏から榛澤氏を経て更に次の世代に移った今、そして2018年春から公開されて文化活動の場となる時、どのような名称とされるのか知らないが、さすがに旧関口邸のままではあるまい。
 その関口邸だった茶席の敷地には、今、3つの建物が建っているのだが、とりあえずここではまとめて、仮に「茶席 常安軒」と呼ぶことにしよう。数寄屋の破風に「常安軒」と墨書した板額が掲げてあるのだ。ただしこれを掲げたのは1980年前後のようである。
 (20180326注記:この茶席全体については、「宝庵」と名付けられた)
 
 1934年にできあがった山口文象設計のひとつは、まず道から露地門をはいって露地をアプローチして初めに見える数寄屋であり、待合、4畳茶室、8畳会席間、広縁、水屋を備えている。これを「数寄屋会席」と仮称する。
 (20180326注記:この1棟は「常安軒」と名付けられた)
 もうひとつは、方形の大きな茅葺屋根を持つ一畳台目の小さな茶室と水屋であり、三角の屋根と丸窓の造型で、ここで最も特徴的な姿である。これを「吉野窓茶室」と仮称する。
 (20180326注記:この1棟は関口が「夢窓庵」名付けていたことが判明した)
 これ等に加えて、関口氏没後に受け継いだ榛澤敏郎さんが、仕事場として設計した木造平屋の建物がある(1980年前後か)である。これを「榛澤別棟」と仮称する。
 (20180326注記:この別棟は榛沢氏設計ではなく、榛沢氏以前に関口夫人が建てたことが判明した)
茶席常安軒の3棟の配置
南西側から見る 左から吉野窓茶室、数寄屋会席、榛澤別棟
(2018/01/29 追記)
 この茶席は公開するにあたって「宝庵」(ほうあん)と名付けられた。

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