2017/05/06

1264【銀座に戻った観世能楽堂】超便利になったけれども地下3階しかも狭くなって閉所恐怖症にはどうも苦手だなあ

 渋谷の松濤にあった「観世能楽堂」が、銀座に移って開業した。そこでの「野村四郎傘寿特別公演」能楽鑑賞と、それが入る松坂屋の建て替えによる銀座景観の変化を見物に、久しぶりに銀座に行ってきた(2017年5月5日)。
観世能楽堂がやってきた銀座風景 スカイラインが高くなり狭くなったナア
まずは能楽堂の話である。能楽堂は「GSIX」なるビルの地下3階にある。そのビルの正面入り口は、もちろん銀座通りにある。だが、能楽堂への入り口は、東の三原通りから入る。まあ、裏口である。
 松濤では、能楽堂に近づいていく道のあたりから能楽鑑賞気分になったものだが、ここではそうはならない。見所に入って初めてその気分になる。つまらない。

 入ると直ぐ能楽堂があるのじゃなくて、直ぐにエスカレーターを3本、下へ下へと乗り継ぐ。もちろんエレベーターもある。
 ようやく能楽堂がある地下3階についたが、ロビーやホワイエが狭いなあ、狭い、、、今日はお祝いとて、たくさんの胡蝶蘭の花が飾られているせいもあるが、ホントに狭いなあ。
 松濤の観世能楽堂のホワイエもそれほど広くもなかったが、前庭がガラス越しみえたし、休憩にはそこに出ればよかったのだが、ここのビル内では外に出てもエスカレータやエレベータでないと出られないので面倒だ。
 出た先も商店などの通路だから、ゆったりと舞台を思い出して休憩するには、どこかの店に入らざるを得ない。あるいは屋上広場があるのだろうか。

 特に終演直後の一時に大勢の退出時が問題だろう。昨日も終ってから出口で待たせて、調整して少しづつを送りだしていた。たまたま最後のあたりで出たのでわかったが、出る人の長い待ち行列ができて、かなり時間がかかった。
 なんだかなあ、閉所恐怖症のわたしには、大げさに言えば心理的に息がつまりそう。いっそのこと屋上庭園があるなら、そこに舞台を建てて野外能楽堂にしてほしかったな。
幅が足りないなあ、天井が低いなあ
さて見所に入ると、松濤から移してきたらしい舞台が懐かしい。だが見所の広さ形態が変った。
 縦長のシュウボックス型になっている。能楽堂は一般に正方形で、舞台がその右奥の一角にあるのだが、ここでは縦長で正面席が奥に長く、中正面と脇正面の席が左方から攻められている。橋掛かりも短くなったのだろうか。
 ここも広さが足りない感じがするが、まあよろしいでしょう。でも、貧乏人のわたしは安い中正面席をいつも買っているのに、そこが減ったのは痛いなあ。近ごろは能の見料が高くなったしなあ。
国立では後方の席では舞台がけっこう遠い感じがする。
観世ではさらに遠いから、左を広げて後ろを縮めたらよかったのに。
 見所に床の段差をなくしたのはよろしい。なにしろ能の客には、ヨロヨロの年寄りが多いからなあ。
昨日も、そのような老人たちがゆっくりと前を進んで入るので、ちょっと苛ついたのだが、それは数年後のわたしの姿であると気が付いた。
 千駄ヶ谷も横浜もスロープでよいのだが、松濤は階段だらけの見所だった。どこの音楽ホールも2階から上は階段、しかも踏面幅や蹴上げ髙さが不揃いの階段を登るしかないが、わたしもこれがつらいもんなあ。

 日本一と言ってもよい商業床価値のある銀座のビルの中で広い床面積を取得するには、さすがに超高級住宅地松濤の土地を売っても(たぶん)足りなかったのであろうと、観世宗家に同情するしかない。
 江戸時代にはこのあたりに能楽師たちが住んでいたのは、今も金春通りの名に残されているが、観世家もいたから戻ってきたことになる。
 松濤よりも格段に便利な場所になり、能楽の振興にもなるだろう。多目的ホールとも案内にあったから、能に限らず使われるなら、若い人たちが能へのアクセスにもなるだろう。

 では、能楽の話に移ろう。
 能番組は、安宅(野村昌司)、末広がり(野村萬斎)、羽衣彩色之伝(野村四郎)で、能も狂言もシテが野村家であるところがすごい。
 四郎から見て昌司は息子、萬斎は次兄の万作の子であり、このほかに長兄の萬の孫である野村太一郎(故五世野村万之丞の子)が安宅のオモアイで出ていたから、野村3兄弟関係者がそろった。
 お祝いで、観世宗家3兄弟も、仕舞で出そろった。
内祝いとて金平糖のおみやげは金沢産の金箔入り
野村太一郎をはじめて見た。プログラムの名前をみて、はてどの野村狂言家かと思っていたのだが、舞台に登場して分かった。おお、これは野村耕介の声だと。
 野村耕介は野村萬の長男であり、伎楽面の研究者としても著名であり、実験的な狂言も演出・出演して将来を嘱望されながら、その働き盛りに逝ったのだった。
 父そっくりの声で、ふと、耕介が演出した「唐人相撲」を思い出した。
 能楽師の遺児と言えば、安宅の同山のひとりに関根祥丸がいた。これも嘱望されながらある日突然逝った関根祥人の子、先般逝った観世の最長老だった関根祥六の孫である。ここにも跡継ぎが育っている。

 安宅のワキは福王和孝で、羽衣のワキは殿田謙吉、若手には若手をベテランにはベテランの組み合わせだが、羽衣のワキは宝生閑(故人)であってほしかった。
 羽衣の地謡にひとりだけだが女性がいた。四郎の弟子の渡辺瑞子である。ようやく女性能楽師が、男性能楽師とともに普通に出演する時代が来たらしい。
 さて昌司は、父であり師である名匠の四郎に追いつくだろうか。

 観世能楽堂が入った再開発ビルの話は、また後で。

参照:能役者野村四郎http://nomura-shiro.blogspot.jp/


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