2016/10/12

1221【続々・法然院方丈襖絵事件】法念院方丈の建築と襖絵の成立年代の矛盾を、二つの出自が実は別々かもしれないと考え直してみたが、、

(【続・法然院襖絵事件】から続く)

●法然院方丈襖絵が狩野光信筆から孝信筆に変更

 わたしの大昔の卒業研究は、京都御所の遺構と尋ねて、その現状の実測、寺伝による出自、その検証などを行ったのであった。
 その中のひとつに、この秋に特別公開されいる法然院方丈があった。この方丈はいつもは非公開だが、春秋の京都非公開文化財特別公開のひとつとして、公開されることもある。今年の秋は公開らしい。http://www.kobunka.com/tokubetsu/

 特別公開事業の主催者・財団法人京都文化財保存協会のサイトに特別公開の一覧表があり、その法然院方丈にある重要文化財である襖絵について、「狩野孝信筆襖絵」と書いてある。http://www.kobunka.com/topics/pdf/hikoukai_h28aki.pdf

 しかし、この襖絵は、これまでは狩野光信筆とされて来ている。孝信筆も京都の権威ある団体の発表だから、まさか光信を間違って孝信と書いたなんてことはあるまい。
 法然院の公式サイトを観ると、「狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)」と記載してあって、以前と変わりがない。

 そこで、京都の「財団法人京都文化財保存協会」に問合せをした。ご親切に回答をいただいて、その要旨はこのブログに下記のように記載したとおりである。
 http://datey.blogspot.jp/2016/10/1220.html
 今回の変更は、要するに孝信作の仁和寺にある松の絵と比較して、絵の一部が酷似していたので、光信よりも孝信筆が妥当性が高いとしたらしい。
 さて、そのいただいた回答の内容は、それなりに理解したが、わたしの疑問が根本的に解決するには、かなり遠いものであった。美術史の門外漢素人には、ますます興味が湧いてくるのである。

 わたしの疑問点は要するに、この建物は1675年にできた後西院御所にあった姫宮御殿を、1687年に移築してきたものであり、その襖絵の画家とする狩野光信(1608年没)も孝信(1618年没)も、その建物ができたときはこの世にいなかったので、襖絵を描くことはできない、ということである。
 では誰の筆なのかについては、わたしたち(当時の東京工大藤岡通夫研究室)の研究では、当時の御所造営の資料から狩野時信(1678年没)であったろうと推定したのである。
 ここまでの話の詳細は、こちらを参照。
http://datey.blogspot.jp/2016/10/1218.html
http://datey.blogspot.jp/2016/10/1220.html
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in
後西上皇姫宮御殿にあった頃の襖絵(推定復元)


●方丈襖絵と方丈建築は出自が別々かもしれない

 上記の推定は、方丈の襖絵が1675年の上皇御所姫宮御殿造営時に描かれており、方丈への移築時にその襖絵も共に法然院にやってきたという前提である。つまり建築と襖絵は同じ出自であるとしたのだ。
 とすると光信も孝信もありえないのだが、これを、仮に光信あるいは孝信筆が正しいとしたら、どう考えるか思考試験をやってみる。

 そうなると上皇御所姫宮御殿にその襖絵はあったはずはないから、遅くとも孝信が没した1618年までには、別のところで、描かれていたことになる。
 別のところとは、どこであろうか。
 法然院がいうように「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建」の意味を、「もと伏見城にあった御殿(1595年(文禄4)建築)の襖絵を移設」と解釈すればどうだろうか。

 これならば、光信も孝信も年代的には可能性はあるだろう。つまり、方丈の建物の出自は後西院姫宮御殿(1675年)であり、襖絵の出自は伏見城の御殿(1595年)とするのである。
 その1595年の伏見城とは、秀吉が作った指月伏見城のことであろう。だが、完成直後1597年に慶長地震で倒壊してしまい、木幡山伏見城に移転したのであった。
 ということは、この倒壊したときに当該襖絵は無事であって、木幡山に移して再利用され、更に木幡山城の廃城でまたどこかに移設され、1687年に方丈にやってきたのだろうか。

 あるいはまた、1597年伏見城倒壊から1687年方丈移築時まで90年もの間、その襖絵は襖からはがされてた捲り状態で、どこかで誰かに保存されてきていたのかもしれない。
 そして、移築時あるいは移築後に、法然院に寄付され、今の襖絵のように貼り付けて仕立てたのかもしれない。
 それはいつ、だれが、どのような経緯だろうか。

●更なる疑問のかずかず

 このように考えていると、更にいくつもの疑問が出てくる。
 姫宮御殿を法然院方丈に移築してきたときには、それには襖絵があったはずだ。そのオリジナル襖絵は、いったいどこに行ったのだろうか。廃棄したのか。
 御所からの拝領した方丈の襖絵を廃棄することは考えにくいから、どこかに移されたのかもしれない。それはどこなのか。

 狩野派はスクールだから、画家たちは先人たちの絵を真似て画風を伝えていくので、絵に落款とか署名がないと、本当の筆者を特定するのは難しいものらしい。
 今になって光信から孝信へと変わったようだが、それにしても、長い間(もしかして移築の1687年から420年も)の伝承による画家の変更を、法然院はよく認めたものである。いや、実は法然院はその公式サイトの記述の変更がないから、認めていなのかもれない。研究者たちの間だけの変更かもしれない。
 美術骨董品として観るなら、光信も孝信も狩野派では、ほぼ同時代の有力な位置にあるから、絵の価値に大差はないのだろうか。

●狩野派系図

しかし、これがもしも無名の筆者であると分ると、たちまち骨董価値下落になるのだろうか。わたしのいう時信説では、桃山時代の光信や孝信に比べると、時代が江戸時代に下がるから、骨董価値も下がるのだろうか。そうなれば法然院としては認めがたいことだろう。
 ところで、研究者たちは時信の代表作など多くの作品とも比較研究した人がいるのだろうか。孝信説を出すなら、時信説の合理的な否定をしてほしいものである。
 あるいはまた、法然院にあるかもしれない方丈建築の御所からの拝領移築に関する古文書類の研究が進んで、それによって孝信説になったのだろうか。
 
 わたしは研究者でもなし、まったくの門外漢の素人だから、ただただ勝手に面白がっているだけである。

参照・京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る(2015)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in

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