2016/10/04

1218【法然院方丈襖絵事件】おや法然院の重文襖絵作者が狩野光信から孝信に変ったらしいがそれでもおかしいなあ

 春と秋の京都では、いつもは非公開の文化財を短期間だけ一斉に公開する行事がある。
 わたしには、観に行きたい懐かしい文化財がある。法然院の重要文化財の襖絵である。
 大学時代の卒業研究材料の一部であり、現地でしっかりと若いこの目で、建築を測り襖絵を鑑賞したのであった。

御西院御所八百姫御殿を法然院方丈へ移築したときに
柱位置を変更して襖絵を一部書き替えているので画像復元してみた

●襖絵の画家の名前が違ってるぞ

  今日の新聞にこの秋の特別公開の広告が載っている。法然院もあるかと見れば、あるにはあったが、気になる記述があるのだ。
 法然院の公開文化財を、「狩野孝信襖絵 重」と書いてあるのだ。「重」とは重要文化財のことであろうが、「狩野孝信」とあるのが引っ掛かる。
 たしかに法然院には重要文化財の襖絵があるが、それは「狩野光信」作として指定されているのだ。それがどうして孝信なのだろうか

 法然院公式サイトに、襖絵のある方丈の解説にこう書いている。
1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである。狩野信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている[夏期は収蔵庫に保管]。」http://www.honen-in.jp/HONEN-IN-001.html#B

 法然院には重文襖絵はこれしかないから、新聞広告の「狩野孝信襖絵」とは、誤記だろうか。
 さっそくネット検索をして、今年の公開に関する新聞社の記事を見つけたら、ここには狩野孝信と書いてある。
http://www.asahi.com/and_travel/articles/SDI2016090262661.html
法然院 11/1(火)~11/7(月)の公開
 金地著色「桐に竹図」・「若松図」・「槙に海棠図」、狩野信筆襖絵
 後西天皇の皇女誠子内親王の御座所を下賜され移築した方丈の上之間、次之間に広がって描かれ、この桃山時代の絵があることから「桃山の間」とも呼ばれる。
 
 昨年秋の公開に行った人が書いたブログページがあった。なかなか興味あることが書いてあるので引用する。
http://blog.livedoor.jp/enjoy_kyotokentei/tag/%E6%B3%95%E7%84%B6%E9%99%A2
2015年11月12日00:16【オフ会報告】京都検定で非公開文化財を楽しむ会(法然院編)
 この作者は狩野光信とパンフレットには記載されていましたが、説明員の方の話では狩野信の作と説明されていました。狩野光信は狩野永徳の長男。 狩野孝信は狩野永徳の次男で、狩野探幽の父に当たります。 
 なんでも、一度光信作とされていた法然院の別絵画を国立美術館に貸し出したところ、これは孝信の作品である、と鑑定されたそうで、それであれば同じ作調のこの襖絵も狩野孝信の作であろう、という認識に変わってきた、とのことでした。 そうでしたか~。

●狩野光信も孝信もどっちも怪しいぞ
 
 さて、狩野孝信とは、いつの人だろうかとWIKIをみれば、1571年生れ、1618年没だそうである。ふむ、法然院サイトが書くように、桃山時代に活躍したのであるな。狩野永徳の次男で、光信の弟、探幽の父である。
 ところが、せっかく狩野光信に替わって登場したこの孝信も、わたしの建築歴史考証によると、かなり怪しいのである。

 ここでは要点だけを記すが、わたしの建築史調査研究からの考証では、法然院サイトの(襖絵のある方丈は)「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである」の記述は、かなり髙い確率で間違いであり、実は江戸時代の1675年の建築である。
 御西院上皇の御所として1675年に新築した中の皇女八百姫の御殿であったものを、後に法然院に移築して方丈に造り直したのであるから、1595年の建築ではないのである。

 「もと伏見にあった」とは秀吉が築城した伏見城のことだが、そこは地震で倒れて別のところに城を建て直し、江戸時代に入って廃城になり建物をあちこちに移転したうちのひとつがこの方丈という意味らしい。
 とすれば方丈になる建物は、震災、建て直し、廃城、移転の4度の大波を潜り抜けて、京都の上皇御所の姫御殿に移築されて生き残ったことになる。
 しかも、その上皇の御所は一度は火災で丸焼けになり、1675年に新たに建てたのである。とすれば、この火災も潜り抜けて後に法然院に移築して今に至るという、まことにもって何回もの災難を潜り抜けた稀有な奇跡の生き残り建築になるのである。ありうるだろうか。
 法然院の言う1595年建築説には、なんともはや無理がある。

 したがって、この襖絵ができたのも1675年だから、1618年に没した孝信はもうこの世にいないのである。そして狩野光信も1608年に没しているから、光信も孝信もこの襖絵を描くことは不可能だ。
 絵の考証をわたしにはできないが、建築考証からすると襖絵を光信作とするのも孝信作とするのも、なんとも無理過ぎるのである。
 まさか1675年の上皇御所の造営に、法然院のサイトがいうように80年も前の古建物と古襖絵(1595年に秀吉がつくった伏見城の遺構)をもってくるなんて、造営スポンサーの江戸幕府が常識はずれなことをしたはずもない。

 というわけで、法然院の襖絵の謎は、いまだに明快に解けないのである。だからといって、公開日に合わせて現物を観に行っても、わたしの絵を見る眼力では見破れないしなあ。
 まあ、素人の楽しみとしては、謎がず~っとと謎のまま続くといいなあ。
 詳しい考証をお読みになりたいなら、こちらをどうぞ。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in

◆続報を参照 1220【秋の京都文化財特別公開:続報】

◆まちもり通信の参照ページ
遺構による近世公家住宅の研究(大学卒業研究論文1960)
   東京工業大学理工学部卒業研究の生まれて初めての論文
   上記研究の一部を日本建築学会に論文発表(1961)
京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る2015)
   上記論文の一部のドキュメンタリー風エッセイ



0 件のコメント: