2016/08/22

1209【敗戦忌】父は三度の戦地から三度とも生還したが兵器となった釣鐘は戻らないまま

わたしの生家の御前神社にある釣鐘のない鐘楼  2015年
 鐘楼の鐘も戻らぬ敗戦忌   (いすみ市)菊地正男

 今朝の朝日俳壇入選句に、わたしの目がとまった。
そうだ、わたしの生家の神社の鐘楼がまさにそうだった。

 もう敗戦忌から一週間も経ったか、今年は靖国神社に野次馬見物にも出かけない夏だったので、いつも書くのに忘れていたが、やっぱりあの日のことなど書いておこう。
 
 わたしの生家は、城下町の高梁盆地をとり囲む丘陵の中腹にある神社であった。
 長い石段の参道脇に、木造で3階建てほどの髙さの塔状の鐘楼があり、時の鐘が吊るされていた。
 その鐘は、17世紀半ばに鋳造されてそこに釣られて以来、神社代々の宮司が毎日定時に撞いて街の人々に時を知らせる「時の鐘」であった。
 太平戦争が始まる前年の1940年末に、その鐘は兵器となるために政府に供出されて出て行き、そのまま戻らない。 鐘楼だけが、いまだに立ち尽くしている。
1926年の鐘楼の写真(高梁高校創立記念写真集56より)

 その鐘楼の1926年の写真があるから、少なくとも90年以上も前の建物だろう。
 多分、かなり老朽化しているだろうに、今もすっくと立って、その役割を失ってからも、帰らぬわが子を待ち続けるかのように、よくぞ立ち続けているものである。
 今年も「鐘楼の鐘も戻らぬ敗戦忌」であったはずだ。
 
 鐘が出て行った1940年は、その鐘を撞く役割を勤めるべきわたしの父は、日中戦争で中国の北部にいた。戦場でも戦死者の祭祀を司っていたらしい。
 1938年に神社を出て大陸に渡り、戻ってきたのは1941年の5月であった。父の兵役はこの時が2度目であり、最初は満州事変のとき、更に3度目が太平洋戦争のときだった。
1940年元旦、紀元2600年記念で
鐘を2600回撞いた
父が不在の時には、母が鐘楼に登っていた。母は3歳幼児を連れて高い鐘楼に登ることはできないから、わたしをひとり家に残して出て行ったが、夜の留守番役は怖かった記憶がある。

 1943年、3度目の召集令状で出て行った父を、母はわたしを連れて駅に見送った。
 そして家に戻るやいなや、いきなり泣き伏した。ひとり畳に伏して号泣する母のそばで、幼いわたしは意外な母の行動におどろき、ただぼう然とするばかり、12月のことだった。
 父は南方に送られるべく姫路城にある兵舎で輸送船舶を待っていた。時々は母と面会に行ったし、時には父が休日に戻ってきたりしたのは、未だ戦火が国内に来ない頃だったのだろう。

 1945年の7月、戦火を避けて集団疎開児童が神社にやってきた。芦屋市精道国民学校初等科6年女生徒20人と職員1名が、社務所の中で暮らすようになった。
 この子たちがいない間の芦屋は、アメリカ軍の空爆で大被災し、なかには孤児になった児童もいたようである。

 そして8月15日の真昼、社務所玄関前に近所の人々と疎開児童たちが集まり、一台のラジオ受信機をとりまいた。
 森の中に降りしきる蝉しぐれとともに聴く、音の悪いラジオ放送が終わると、近所の人々は黙りこくって一列となり、石段を下って鐘のない鐘楼のそばを通り、神社の森からとぼとぼと抜け出て行った。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 
          (まちもり散人2014年詠)

 疎開児童たちは芦屋に戻って行き、街には戦場から戻る人たちがぼつぼつと増えていった。
 わたしも父が戻ってくるかもしれないと、石段の上から参道を見下ろして毎日毎日待ち受けていた。ある日、鐘楼のそばの石段を登ってくる父を見つけて、飛びついた。
 後に調べると、それは1945年8月31日のことだった。父はその年の初めから、小田原に移っていた。制海権を敵に取られて、姫路で待っていた南方への輸送船はやってこなかったのだ。

 小田原では本土決戦とて、湘南海岸から上陸してくる敵兵を迎え撃つべく、丘陵に穴を掘って戦場陣地の構築をしていたのであった。
 8月15日の小田原空襲ものがれて、無事に戻ってきたきたわたしの父は、3度の戦場を生き抜いた強運の人でああった。
 わたしの身内では、母方の叔父が戻ってこなかった。父と違って運悪く輸送船が間に合ってしまい、フィリピンルソン島マニラの東方山中の戦場に消えた。後に若妻と乳飲み子がのこった。

 戦争が終わって、父は戻ってきたが、鐘は鐘楼に戻ってこなかった。
 むなしい鐘楼を何とかしたいと父は思ったのであろう、1946年の夏、その鐘がまだあるかもしれないと、父と伯父は各息子を連れて、瀬戸内海の直島にさがしに行ったことがある。
 各地からこの島に集めた鐘を、島にあった製錬所で溶融して兵器にしたらしい。樹木がひとつも生えていない丸禿げの島だった。

 集められたまま熔かされないでいた無数の釣鐘の群れが、野天の荒れ地に累々と並んで夏の太陽に照らされていた有様は、子ども心にもなんともシュールな風景であった記憶がある。
 背丈より高い釣鐘の林を歩き回って探したが、生家の神社のそれは見つからなかった。
 その直島の製錬所は、いまは三菱マテリアル直島製錬所となり、工場見学もできるそうだが、戦争と鐘の記憶を伝えているだろうか。

 それからかなりの後に聴いた話で、わたしも父も盆地を離れてからのことだが、その鐘楼にプラスチック製の釣鐘を寄附した人がいた。
 その鐘は、テープレコーダとスピーカにつながっていて、録音の鐘の音が定時に自動的に街に鳴り響いて、時を告げていたそうだ。いまはその鐘もない。
 そういえば、とっくに100年を超える本殿と拝殿は今も健在だが、疎開児童が暮らした社務所は建替えられたし、わたしが育った宮司の住宅も今はもう無い。
 あの鐘楼は100年の命を保つことができるだろうか。

◎関連するわたしのサイトページ『父の十五年戦争
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html

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