2015/04/27

1082【京都卒研想い出徘徊】超久しぶりの京都で半世紀前に歴史的建築の研究調査をした寺院を訪ねて想い出徘徊

●突然思いついて京都に途中下車
 京都の古刹である法然院と大覚寺を観てきた。どちらも55年ぶりの再訪である。あの1960年の夏、どちらにも半日はいて実測などしたが、観光客はだれ一人来なかった。
 今回はどちらもしっかりといたのは、寺院側の事情か、観光客側の事情か、それとも何か観光政策によるものだろうか。多くの人が歴史的文化財に接することができる、よい時代になったものである。

 急用で岡山にいくことになり、日帰りの予定だったが、行きに京都駅に着いたとき、突然に思いついた。そうだ、帰りに途中下車して、久しぶりに京都見物して帰ろう。
 では、どこに行くか。いろいろ考えていて、そうだ、大学時代に卒業研究で調査して回った寺院等がいくつもあった。あれは1960年の夏だったから、55年前のことである。そこを観て来よう。
 もちろん、京都に55年ぶりに来たのではないが、ずっとその寺院等のことを忘れていたのだ。

●大学卒業研究の調査に行った寺院へ
 さて、その寺院群の名前を全部は思い出せない。弟に電話して頼み、わたしのサイトにある卒業研究論文を開いて寺院群等の名前を教えてもらった。
 修学院離宮、円満院、勧修寺、妙法院、法然院、林休寺、大覚寺、実相院の8カ所であった。
「遺構による近世公家住宅の研究(大学卒業研究論文」1960
https://sites.google.com/site/dandysworldg/kinsei-kugejutaku

 帰りに京都の途中下車して駅前ホテルに投宿。翌朝、京都駅の観光案内所で、これらの場所を地図上で教えてもらった。さすがに観光都市の案内人は、全部をすらすらと教えてくれた。
 だが、それらは市街地の山裾に、ばらばら散らばっている。なにしろ突然の思いつきツアーだから、行動作戦をまったく立てていない。8カ所の目的地があるだけだ。

●先ずは京都駅ビルから京の街のスカイライン見物
 出発前に京都駅ビルの屋上に上がって、京都の町を展望する。ふむ、さすがよその街のように超高層ビルが、あちこちテンデに建っているということはないんだ。
 開発をする方向だと昔に聞いた、駅南の方も超高層ビルが見えないのは、これも京都だからなのか
 一番高いのは京都タワーだな、相変わらずだ。大きな三角屋根は、修理中の本願寺の建物にかかる素屋根だな。
駅ビル屋上から北を望む

南を望む

東を見る

北駅前広場スカイライン

●法然院を訪ねるも肝心の方丈は非公開
 さて出発するか、まずは、東山にある法然院に行ってみようか。最近、法然院について、エッセイを書いたから、再訪して見てきたい。
 そこから先はまた、法然院を観終わってから考えよう。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in
 法然院の朝は、観光客は少ない。林の中を茅葺の門に向かうアプローチは気持ちよい。寺男が一人で落ち葉を箒で寄せている風情がよろしい。茅葺門をくぐって前庭に入る。さて、肝心の方丈はどこにあるのか。
 ああ、前庭から先は非公開である。予想はしていたのだが、残念。55年前の方丈で半日を過ごした記憶にある庭の風景を確かめることもできなかった。もちろん襖絵の謎に迫ることもできない。
 いつの日か、来ることあるかもしれないと、辞する。



●慈照寺への道
 山裾道をゆるゆると北に辿れば、静かな住宅街が続く。
 とたんに突然の人、人、人が行く手に出現、そうか、ここがあの銀閣で有名な慈照寺か、さすがに観光名所。
 ここも大昔に来たことがある。入ろうかと思ったが、あまりの人出で、もういいや。近くにある八神社という変った名前の静かな神社でちょっと休憩。
 地図を広げて次をどこにしようか。大覚寺にするか。嵯峨野はここから西へと、京の街を横断することになる。

●嵯峨野の大覚寺で懐かしの宸殿を観る
 バスの1日乗車券を買って、2回乗り換えて延々と大覚寺に至る。
 門前で降りれば、法然院と違ってここはもう慈照寺並みの観光寺院である。500円の拝観料(売るほうが観というのがヘンである)を払う。
 わたしが観たいのは、55年前に実測した宸殿である。宸殿も公開しているのかと聞けば、宸殿のほかのもろもろも公開しているのでどうぞ、という。こちらは宸殿だけでよいのだ。

 大覚寺での一番の建築である宸殿は、檜皮葺きで堂々としている。
 元は京都御所にあった東福門院の御殿を移築したと伝わる。そう、あの時は、あちこちにある移築した京都御所遺構を訪ねて調査をしたのであった。
 広縁でゆったりと見回す。あのときは、だれも来ないで邪魔されずに実測したものだ。まだ観光寺院ではなかったのだろう。今は引きも切らずに観光客がまわってくる。
 縁から前庭に下りて正面の写真を撮りたいのだが、叱られそうなのでやめておく。あの時は室内にも入ることができたのだが、今はそれもできない。
大覚寺宸殿






宸殿正面(大覚寺発行パンフより)


1960年撮影の大覚寺宸殿正面

1960年作成の大覚寺宸殿平面図


●ただいまボケ防止に「社寺建築構造」を勉強中
 実は今、「社寺建築構造」という大学時代の教科書を、同期仲間と再読している最中である。ボケ防止のためと称して、老人の暇つぶしである。
 日本古来の神社や寺院の木造建築の作り方である。その本を持ってくればよかったなあと思い出しつつ、柱、梁、組物、天井、襖絵などを眺めたのであった。

 大覚寺を辞して、京都駅近くの妙法寺に行こうとバスに乗ったのだが、交通渋滞でノロノロ。四条烏丸あたりで四時前になり、もう拝観時間に間に合わないとて、下車。
 久しぶりに中京郵便局などレンガ建築を外から拝観、錦市場通りをうろうろして鯖寿司を買って、帰途に就いたのであった。
 突然思いつきセンチメンタル勉強お寺徘徊は、二か所だけでおわった。残り分を観る機会が訪れるだろうか。

壁一枚保存の元祖、裏に回ると全然違う形

壊してから完全コピー復元なので保存原理主義者には評判が悪いが、
な~に、東京駅だって三菱1号館だってそうだよ、これも街並みとして立派なものである


観光客で大賑わいの錦市場

100【各地の風景】京都の街並み本物偽物?2009
http://datey.blogspot.jp/2009/02/100_27.html
「京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る」2015
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in
「遺構による近世公家住宅の研究(大学卒業研究論文1960)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/kinsei-kugejutaku

2015/04/18

1081【言葉の酔時記】津波被災者は誰の何の「犠牲」になったのか?

 今朝の新聞(朝日東京版)の記事に、「津波犠牲 企業の責任は」との見出しがある。
 銀行屋上に避難したが、津波がそれよりも高かったので被災して、死者・行方不明者が出たので、銀行は責任をとれという訴訟の話である。
 この訴訟の判決はこの22日だというのが、このニュースである。

 わたしは訴訟内容については、いうべき能力をもちあわせていない。
 ここで言いたいのは、この新聞の見出しの「犠牲」である。
 「犠牲」というからには、その津波被災と「なにか」とバーターの関係にあったのだろう。つまり、その「なにか」への捧げものととして、「なにか」の利益のために、被災したということになる。

 朝日新聞は、判決の出る前に、企業の「犠牲」になったのだと、ここで報道しているのである。
 マスメディアがこれほど一方に加担して報道していいのか。あ、自民党みたいになっちゃったなあ。
 わたしは企業の肩を持つ気はさらさらないが、それでも報道が一方的すぎるよなあ。

 こう書いたが、実を言えば、これは単なる新聞屋の言葉遣いの間違いだろうと、わたしは思っている。
 近ごろ、死者のことをなんでもかんでも犠牲者という風潮がある。
 
 野原で落雷に遭って落命した事件でも、犠牲者と報道すれば、そこに避雷針を立てなかった行政体の犠牲者だということになり、税金で補償することになれば、納税者全員が犠牲者を生んだ犯人ということになる、、のだろうか。
 死者を忌み言葉にしてしまって、言い換えのつもりでうっかり犠牲者と言うとその死者の周りの生者まで巻き込むんだってことを、忘れてやしませんか、ってんだよ。

●参照http://datey.blogspot.jp/2013/02/722.html

2015/04/17

1080【世相戯評】テレビ番組屋さんからバラエティ番組の取材協力の問い合せあったけど、

 TVをほとんど見ないわたしに、TV番組をつくる人からメールで問い合わせが来た。わたしのブログのある記事を観てという。
 そのブログ記事は、麻布の我善坊谷の街筋にある、緑に覆われた廃墟に近い建物ばかりの写真を載せたものだ。http://datey.blogspot.jp/2013/07/806.html

 なんでも、変った建物を見つけて、住人にインタビューしてVTRをつくるのだそうだ。その種となる建物を探しているのだが、わたしが知っているなら、協力してほしいという。
 でも、そのブログ記事は、その場所を地図付きで書いているのだから、自分で訪ねて行けばよさそうなものを、なぜわたしに聞いてくるのだろうか。

 そこでTV屋さんに聞いた。そもそも、それはどういう目的なのか、そのブログ記事に書いたように東京の都市再開発について、問題提起するのか、と。
 あるいは、少子高齢化になって発生する空き家について、社会的な問題を提起をする番組なのか、と。

 そうしたら返事が来て、タレントが出てきてそんな変った家や人をVTRでみて、驚いてみせるだけで、なんの問題提起もないバラエティ番組だという。
 そういうTV番組ばかりだから、TVを観なくなったわたしが、そんなことに協力するわけがない。

 去年、TV屋さんと付き合ったのは、建築家の山口文象自邸をTV屋が撮影して、番組に使いたいということだった。
 TV屋による自邸の下見に半日付き合った。撮影までは付き合わなかったが、一日かかったらしい。
 その番組を観たが、たった2分ほどの番組で、たくさんの商業広告がでてきて、実質1分もあったのだろうか。これだからわたしはTVを見ないのだ。その録画DVDを送るとTV屋さんが言ってきたが、いらないので放っておいた。
http://datey.blogspot.jp/2014/04/917.html

 そしてなんと撮影した家の持ち主の山口さんへの謝礼が、たったの3万円だったそうだ。プライバシーに踏み込んで、1日半も付き合わせて、出演もしたのに、この掃除・片づけ代だけなのか、へ~、このほうがよほど変なことである。
 その番組のスポンサーは、なんとかという大手ハウジング業者だった。広告料をケチったのかな。

2015/04/16

1079・電気代月千円の人に教わる佛のような生き方はできないけど、

このコラム筆者は、神戸ではエアコンも扇風機も掃除機も使わない生活で電気代月千円の暮らしだったのに、転勤した東京のオール電化マンションは月3千円に増加、では、冷蔵庫をやめてしまう、という実践節電生活は?。

 冷蔵庫とは、今いらない「いつかは」使うものを入れて、時間を止める装置だったと気が付く。ほかにもたくさん「いつかは」の物があることに気が付く。
 実は、それらはみな、今は無くても生きて行けるもの。電気が人間に要らないものを溜めさせている。
 ということで、今日の物さえあればいいのだと、佛の境地に至ったそうだ。

 ならば、わたしのような、もう老い先が短い老人は、もうどうせ「いつかは」がないのだから、物を貯めてもしょうがない。だから佛になりやすいのか。
 わたしが「いつかは」と大量に集めてしまったのは、本である。「いつかは」読もうとした積ン読本を読むべき「いつか」が今ここに来ているのだけど、う~む、不覚にも読む気力がなあ、、。

2015/04/09

1078【言葉の酔時記】昔はワイセツ隠語だったのが今やいつの間にか女の子も使う愛称?のニコタマ

 東京と川崎の境に流れる多摩川に、「二子玉川」(ふたこたまがわ)というところがある。
 わたしが学生の頃は、山岳部のトレーニングとして、多摩川土手を走って、二子玉川の二子大橋から引き返していたから、懐かしいところである。
 その頃は郊外の遊園地がある田舎だったが、今や一大都市生活拠点になってしまった。
あの「ニコタマ」には今や遊園地はなくなり、「玉皮」のそばにこんな長高層が屹立して、
先ごろにフェイスブックにその二子玉川のことが、その地名の愛称として「ニコタマ」と、いまでは普通に言われているという話題が出てきた。
 エッ、普通にかい?、女の子も言うのかい?、まさかあ、あのワイセツ語がかい?、そんなことがまさかあ、、、わたしはちょっと慌てて、ネット検索してみた。

 いやいや、あるはあるは、ニコタマがいっぱい出てくる。しかも、どれも普通に使っているのである。
 そうか、今じゃあ、そうなのかあ、世の中はあの隠語を知らないのかあ。
 へえ~、あの隠語も、ながらく使っていたら、もとの意味を忘れて、男の子も女の子も恥ずかしげもなく言うようになったのか、。
 もっとも、地元の人は言わないと出てくるから、ちょっとは記憶にあるのかもしれない。
 わたしは全く知らないが、ニコタマという漫画もあるらしい。

 でも、おかしいなあと、念入りに検索をしていたら、こんなのがあった。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E4%BA%8C%E5%AD%90%E7%8E%89%E5%B7%9D
 そうなんだよ、ここではわざとひねくれて書いてあるようだけど、むかしむかし「ニコタマ」が世に登場したころ、それはもう40年以上も前だろうが、その頃は男どもが、「ニコタマ、ウヒヒ」なんて、実際に言ってたもんだった。

 まあねえ、辺野古についても、いまやどこでもだれでもヘノコヘノコといっているから、「ヘノコ、ウヒヒ」なんて笑うと、お前は基地問題に対して不謹慎だと、真面目にさげすまれるのがオチだろうからなあ。
 ま、言葉は時代に応じて変わるもんだから、しょうがないか。

 なお、わたしは4年前にも、このことをこのブログに書いていた。
http://datey.blogspot.jp/2011/02/374.html

2015/04/07

1077【未来が明るかった頃(4)】ひときわ異形の山口文象+RIA設計の建売モデル住宅は売れたか

未来が明るかった頃(3)」からつづく

 奈良盆地の西の端にできた新開発住宅地に、20戸の鉄筋コンクリート造りの建売分譲モデル住宅が建ったのは、戦後住宅難がまだまだ続く1956年11月のことだった。
 小さな木造住宅さえも手に入れにくい時代に、鉄筋コンクリート造の建売住宅である。コンクリの建物なんて、公共建築とか都心のビルにしか使われない頃だった。

 しかも、それらは全国から公募した設計とその審査員による設計だったから、よくある工務店の設計施工ではなく、建築家が設計したのであった。
 建売住宅をコンクリートで、しかも建築家が設計するということ、そして、それが住宅に関しては保守的な風土の関西においてのことだから、きわめて珍しいことだったろう。

 そこには、関西の私鉄では沿線住宅地開発事業者としては、最も後発であった近鉄の戦略があったのだろう。最新式の構造である鉄筋コンクリート住宅というのが、先行している関西私鉄住宅開発との違いを生み出したかったのだろう。
 なお、このコンクリート建売住宅は、住宅博覧会の期間中(1956年3月20日~5月7日)に建設売出しが間に合わなくて、博覧会が終わった11月初めに完成して売り出された。
 
コンクリート造建売モデル住宅展示場風景 右端に山口文象設計のカマボコ屋根住宅が見える
『楽しい生活と住宅博覧会』(1956朝日新聞社)より引用
建築専門雑誌の「新建築」(1957年2月号)にも、関西の住宅雑誌「新住宅」にもその掲載をしている。ここからは主として、その「新建築」の記事をもとにしながら書く。
 そのコンクリートモデル住宅の中で、最も先鋭的であったのは、公開公募設計競技で審査員であった池辺陽と山口文象(正確にはRIAだろうが)の設計によるものであった。

 池辺の設計によるモデル住宅は、見たところはシンプルな形である。
『楽しい生活と住宅博覧会』(1956朝日新聞社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用
 池辺自身の解説(『新建築』1957年2月号62ページ)を一部引用する。
「この住宅の設計目標は、内部をできるだけ制約しない、コンクリートの箱を造ることであった。(中略)内部間仕切りは生活のシステム、家族構成によって、どうにでも取ることができよう」
 つまり、柱を外まわりにのみ立てて、大スパンを飛ばすためにPSコンクリートの梁をかけた構造である。がらんどうの中に、間仕切り壁が自由に立つのである。
 しかしがらんどうで売り出すわけにはいかないから、池辺流のプランになっているが、それでも間仕切りはかなりフレキシブルに動くようになっているらしい。

「このような住居が現在一般に考えられている建売住宅とかけ離れた考え方であることは明らかである。しかし私は鉄筋コンクリートという永久的な材料と展示会という問題、一軒だけを造るということ、(もしも数多く作る場合はもっと違った形になっていただろう)、などの条件から、このような住居をつくってみたのである。
 この住居は恐らく生活の単純化を要求するであろう。しかし同時に私はこの住居が、今までの住居では得られなかった新しい生活の多様化を可能にする、と考えている。そしてそれは住まい手の考えにかかっているのである。ここに造られたものは、その基本要素に過ぎないであろう」

 こうしてこの住宅の買い手は、ここで新たな暮らし方を発明して暮らすことを要求されている。
 だが、そのような先進的な生活像を描いて、高い買い物(1,508,400円)をすることができる買い手が、この建売住宅にはたして現れただろうか。

 もう一人の審査員建築家の山口文象による、というよりも山口文象が主宰していたRIA建築綜合研究所によるモデル建売住宅は、池辺よりももっと過激だった。池辺が一種の逃げをうっているのにたして、こちらは真正面から突っかかっていった。

 それはなんとカマボコ屋根が二つかかっているのであった。
 他のモデル住宅がほぼフラット屋根であるなかで、これは異形である。しかも、室内の天井も、この屋根に形のままに蒲鉾状になっている。
 わたしは住宅を論評することは不得手だから、図と写真を見ていただこう。
「楽しい生活と住宅博覧会」(1957朝日新聞社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用

どうしてこのような外観あるいは構造を選んだのだろうか。これが山口が審査員講評で書いている「鉄筋コンクリート構造と小住宅の関係についての研究と突込み」の山口流の回答であろうか。
  1954年にRIAに参加した近藤正一が、後になって「当時RIAがはまっていたシリンドリカルシェル構造のゾーンプランの家であった(「疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり」(RIA住宅の会 彰国社2013)と書いている。RIAは同じ1956年に、「日比野医院」という歯科医院兼住宅と、東京板金という工場をカマボコ屋根の設計をしているから、「はまっていた」のだろう。
 余談だが、当時はようやく撤退していきつつあったが、占領軍の基地があちこちにあって、その兵舎等の建物がカマボコ屋根で立ち並んでいた。

 RIAの三輪正弘が、「新建築」(1956年2月号)に、この建売住宅の解説を書いているので一部引用する。この設計担当は三輪だったのだろう。
 「コンクリート構造体をどうして住宅という空間のために成形させるかというテーマである。それはコンクリートの固いラーメンの中にもうひとつの木造を建てこんでいく習慣的方法から切り離すための手段に他ならない。連続した二つのシェルの断面の中にその建築的な答えを一応見ていただけると思う。」

 どうやら、ここでは池辺とは正反対に、コンクリート構造自体に内外の空間造形に意味を持たせているのであった。それはRIAが木造小住宅で、垂木構造による内外とも一致する造型を試みていたのと同様の思考であったのだろう。
 だが、建売住宅という不特定対象のこの商品を、この造型とその値段(1,267,300円)で買う人がいたのだろうか。

 「新建築」1956年2月号には、やはり審査員だった西山卯三が、「関西とモダンリビング 鉄筋コンクリートモデル住宅を見る」と題して、東の建築家による建売住宅と関西人の住宅感を対比して論評をしているのが面白い。
                    【未来が明るかった頃(4)】につづく)

2015/04/01

1076【終活ゴッコ】四半世紀つかったプロバイダーNIFTYと縁を切ったら古女房と別れたような気分

 ネット社会にわたしが足を踏み入れたのは、よく覚えていないが1988年だっただろうか。
 今でいうところのインタネットの「ワープロ通信」なるものを始めたのだ。ただし、できることは電話線を使ってテキストを送受信するだけ、通信速度が2400bpsと超遅かった。
 加入したプロバイダーはニフティサーブ、いまは@niftyと言っている。

 ネット関係の終活作業として、昨日、その四半世紀にわたったニフティとの契約を解消した。今日からはニフティによるメールはできないし、「まちもり通信」サイトも消えてしまった。
取り入れていた光回線を取り払って、Atermという無線システムに乗り換えたのだ。そのことの理由などを、こちらにに書いた。
http://datey.blogspot.jp/2015/03/1067.html

 二フティを四半世紀も使っていたから、古女房と別れたような気分もないではない。
 しかし古女房と縁を切っても、ネット社会との縁切りは、いまのわたしには不可能である。ネット社会だけが付き合いの世界になりつつある。
 そこで、新女房としてgoogleを引きこんだ。このgoogle女史とは、ニフティ女房がいたときからもう10年くらいは付き合っている仲だ。
 なんだか妾を妻にしたような気分もないでもない。いや、これまでそういう実体験はないから、想像するだけのことである。
http://goo.gl/TPE230

 というわけで、ニフティのメールアドレスncb02505@nift.com、二フティの「まちもり通信サイト」http://homepage2.nifty.com/datey/は、今日から接続不可能となりました。
 これらを住所録やお気に入りやブックマークにご登録してくださっているお方は、削除してくださいませ。
 そして、それらは下記のようになります。といっても、これらはずっと以前から使っているので、今日から新規になったわけではありません。

●伊達美徳メールアドレス  dateyあっとまーくkuramae.ne.jp
               または   dateygあっとまーくgmail.com
●まちもり通信サイトURL   https://sites.google.com/site/machimorig0/
              または    http://goo.gl/TPE230
●伊達の眼鏡ブログURL  http://datey.blogspot.com/