2014/06/23

966・中越山村の棚田集落は草木の自然と人間の営為が激しく攻防する戦いの最前線の風景

 半年ぶりの中越山村・法末集落である。
愛宕山から見る緑に覆われた法末集落全景 20140622
このまえは小正月行事にやってきて、雪道で転んで捻挫、ほうほうの体で帰宅したが、今回は転ぶこともなく、友人の車で往復した。
 この前来た1月は、どこもかしこも深い雪に埋もれていた。色の白いは七難隠すとて美しい風景だが、豪雪は生活を脅かすものでもある。その一方では美味い米のできる棚田の水源である。

 今や初夏、野山に田畑はどこもかしこも深い緑が覆っている。これも七難かくすとは言わないにしても、雪の白にとって替わる美しい風景である。棚田も稲が育ってきて緑である。
 だが、怖いほどに繁茂する草木は、家々の生活空間や棚田の生産空間を脅かすものでもある。見ようによっては緑に襲われている。豪雪に対応して豪緑とでもいおうか。

 山村集落とは、生活や生産のための山林・田畑・家々が、地域をバランスよく支配している人文空間である。眼に見える緑が多いとて、そこは決して自然そのものではない。
 もともとは草木が支配する自然空間であった山谷を、営々と長い時間をかけて人間が手を入れてつくりあげてきた人文空間である。
 その人文空間は、それを維持する人間がそこに暮らしていてこそ、存在することができる空間である。人間がいなくなると、たちまちにして草木が空間を支配して、10~20年で元の自然空間に還っていく。
法末集落の中の小千谷道(おじゃんち)風景 20140621

上と同じだが2008年の夏の風景 少し異なるところもある
 いま、山村集落は人間が減っていくばかりの人口減少最前線だから、その生産や生活のための空間は縮んで行って、人間が放棄した人文空間に、たちまち自然がはびこってきつつある。
そこは人間が自然を克服する闘いの最前線であったが、今や人間が退却していく最後尾の闘いの地になりつつある。
 そう、殿(しんがり)である。昔から戦いでは、殿が最も難しいされる。

 この山村における人間と自然との戦いの最前線にあるのは、斜面に水面を積み重ねる棚田である。谷筋から尾根へと斜面を幾重にも水平に切り裂いて登っていく。冬の豪雪がもたらす豊かな水が、実に美味な棚田米を生み出すのだ。
 棚田の風景を美しい自然環境と誤解している人もいるが、棚田は決して自然ではない。むしろ人工物の極致と言ってよいほどの、米つくり工房である。
 平地の水田は機械による米生産工場であるのに対して、人手がかかる棚田はまるで盆栽つくりである。それくらい人工度が高い。

 この棚田の米が、この地の自然と人間の闘いの最前線から産出する「黄金」である。わたしは食い物にはあまり関心がないのだが、この棚田米を喰い続けていたら、米の飯に関してだけは、すっかり口が奢ってしまった。
 だがこの金鉱山も、次第に鉱脈が後退している。耕作放棄地が広がりつつある。放棄棚田はたちまちにして草地になり、林地へと還っていきつつある。
 今や棚田という人文空間は、人間が自然に押される撤退戦の最後尾の場である。
棚田の人文空間と草木の自然空間が競り合う風景 20140621
耕作放棄地ばかりではなくて、居住放棄家屋も誰も住まなくなると、次第に自然に還っていく。
 毎年の豪雪が、放棄家屋を傾け、押しつぶし、土に還らせる。春になると草が覆いかぶさり、やがて樹木が生えてきて、20年もすれば樹林になる。
今、家屋が今消えようとし、草木の地に還ろうとしている風景 20140622
2年前の上と同じ位置の風景 20140514

5年前の上と同じ位置からの風景 20090418
 この集落の人口は、1950年代末には600人近くもいたのだが減少が進み、2004年の全村避難した中越震災でそれが一気に進み、今は70人、40戸ほどになっている。もちろん超高齢化である。
 ところが、子どももいなくて減少していく一方かと思っていたが、意外にそうでもない。2人の小学生がいて、麓の町の小学校から通学バスがやってくる。
 町に出ていた跡継ぎ息子が戻ってきて農業をしている家もある。町に出て行った元住民で、休日には農作業にやってくる休日住民たちもいる。
空き家を買って2地域居住をしている都市住民が数名いる。今年、夫婦でこの地に移転してきた人もいるそうだ。近いうちに、わたしたちの仲間の一人が、住民票を移して住むという。
 ここは大橋さんと内山さんしかいなかったのだが、姓も多様化してくる。

 人間撤退戦線の最後尾でありながら、意外に善戦する兵士は、美味い棚田米であるにちがいない。この魅力があるから、この山村はしぶといのだ。
 それは深い雪と緑の自然が人間に与えてくれているから、敵から贈られる塩であるのか。
2007年からの活動拠点3代目「へんなかフェ」は豪雪で傾き傷み草にも覆われてくたびれてきた

4代目「ヘンなかフェ」では、農家民宿を始めようか

参照




2014/06/20

965・山口文象設計の総同盟会館・全繊会館という戦後初期労働運動拠点を“発見”

 この「伊達の眼鏡」ブログにも「まちもり通信」サイトにも書いたが、山口文象設計の青雲荘・友愛病院という建築が1936年にできて、それが1894年にできたJ:コンドル設計の日本労働会館(旧・惟一館)と並んで建っていた。
そしてこれらは、1945年に太平洋戦争の空爆で炎上したのである。焼け残りのコンクリート躯体を再利用修復して雑居ビルになっていた青雲荘・友愛病院は、1964年になって消えた。

 山口文象と青雲荘物語はそこでおしまいと思っていたのだが、実はさかのぼって戦後に発展する物語があったことが分かった。
 焼けて消えた日本労働会館跡地に、1949年、総同盟会館・全繊維同盟会館が建ったのだが、これが山口文象設計であったのだ。
 40年ほども山口作品を追っていながら、これは知らなかった。もうドイツにでも行かないと新発見はあるまいと思っていたから、ちょっと興奮した。そのまえにコンドル作品と山口文象作品が並んで建っていたことにも興奮したのだったから、2重の喜びである。

 昨年、この総同盟会館・全繊会館について山口文象設計であろうかと、友愛労働歴史館から問い合わせをいただいて、調べたことがある。
 山口文象の設計かもしれないとの根拠は、青雲荘のオーナーであった財団が発行した『財団法人日本労働会館六十年史」(1991、渡辺悦次著)に、総同盟会館の落成式の様子について、次のように記述(177頁)があることによる。

「会館は正面右側に全繊会館、左側に総同盟会館が並び、コの字型につながる形で建った。山口設計事務所による設計であり、11月に着工、翌1949年8月4日に落成式を行った。(中略)建坪は251坪(総同盟会館111坪、全繊会館109坪)、共通ホール29坪、費用は合計600万円で山口設計事務所の設計により納富建築株式会社が建築した。(中略)山口設計事務所長に感謝状が贈呈された。」

 1949年に解散した山口文象建築事務所の資料は、RIAが所蔵保管している。その中に青雲荘・友愛病院については、竣工写真や設計図面がある。また当時の雑誌に山口文象の名前で発表している。
 ところがRIAの山口文象資料には、総同盟会館・全繊会館に関するもの全く見当たらない。
 さらに、山口文象建築事務所の最後の所員であった方に直接に聞いてみたが、そのような設計をした記憶がないとのことであった。
 ということで、山口設計事務所の記述でもあるし、山口文象作品かどうか判断できないまま、保留していた。

 5月27日に、友愛労働歴史館での「J・コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘」展覧会に関連して、「松岡駒吉と山口文象が青雲荘にこめたメッセージ」と題する講演会があった。わたしが講演者である。
 建築や都市関係者相手のレクチャーは何度もしてきたが、労働運動関係者相手は初めてのことで、なにか新しい反応があるかと期待していたら、やはりあった。
 後日、そこに聴衆としていらした方からお手紙が来た。『全繊同盟史第2巻』(1965年 全繊同盟史編集員会著)のなかに、全繊会館が山口文象建築事務所の設計との記述があると、ご教示をいただいた。 
 その本には、「全繊会館進む」(408頁)と題して、次のように記載されている。

「当時、総同盟においても、もと日本労働会館(戦前の総同盟本部)跡に、新会館建設を決定し(中略)、全繊会館は種々検討の結果、敷地を総同盟会館と同一場所にきめ、土地所有者、財団法人日本労働会館(理事長松岡駒吉)よち借り入れ、建物は総同盟会館と隣接し、共通ホールで接続する設計であった。
 会館建設の概要は次のとおりである。建設坪数1階50.25坪、2階59.33坪、総坪数109.58坪。木造2階建て。主要設備室ー事務室1、応接室1、会議室1、図書室1、宿泊室(洋室・和室)5、小使室1、便所、浴室。
 設計・監督 山口文象建築事務所、請負者 聖徳社納富組、見積工事費 228万1,209円(以下略)」

 これには山口文象建築事務所と正確に名前が出ているし、規模も総同盟会館の記述と符合する。となると、この二つの会館は山口文象の設計であったことは間違いあるまい。
 そこで建築学会の図書館で当時の「新建築」、「国際建築」、「建築文化」を探したのだが、登場してこない。建築雑誌に載るような建築はまだそれほどない時代で、けっこう大きくしかも山口文象設計ならば載りそうなものだが、どういうわけかない。

 山口にとっても、1949年と言えば、仕事がなくて山口文象建築事務所を閉鎖した年だから、宣伝のためにも載せそうなものである。
 本格戦争になった1941年頃からは、めぼしい仕事はなくて軍需工場の工員宿舎の設計で食いつないでいたが、戦争が終わるといよいよ仕事がなくなり事務所は閉鎖した。その後は、猪熊弦一郎の支援で高松近代美術館と久が原教会があるくらいなものだった。山口の戦中戦後ほぼ10年間は、蟄居時代であった。

 こうして戦後初期の時代の大変革の中で、ようやくにして合法化された労働組合運動の拠点として、焼け残り青雲荘も総同盟会館も全繊会館も、大きな役割を果たしたのであった。
 戦後が確実に終わった1964年、これらは取り壊されて高層ビルに建て替えられた。1936年からの山口文象の物語はそこで終わったが、なぜ続かなかったのだろうか。
 多分、山口文象建築事務所が消えてRIAになっていたことを、建て替え時の総同盟側が気が付かなかったのだろうと推測するしかない。

 というわけで“新発見”だが、今のところ図面も写真も、こんなものしか見つからないない。もうちょっと調べてからこの建築のことを書きたい。
この左に焼け残り改修の青雲荘が建っていたはず
全繊同盟史第2巻にある全繊会館の写真

1960年前後頃か、左から改修した青雲荘、総同盟会館、全繊会館
  なお、この新発見を導いてくださった方は、まずは展覧会を開催された友愛労働歴史館事務局長の間宮悠紀雄氏、そして講演会にいらしてご指摘をいただいた、UAゼンセン(全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟=旧・全繊同盟)会長の逢見直人氏である。お礼を申し上げます。

参照
講演「松岡駒吉と山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」2014年6月
https://sites.google.com/site/dateyg/seiunso/seiunso2

「J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い2014年3月
https://sites.google.com/site/dateyg/seiunso

参照建築家・山口文象+初期RIA(伊達美徳)
まちもり通信サイト(伊達美徳)

2014/06/19

964・プリンタのオムツの取り換えと電器屋のEDっていう与太話です

 PCにつなぐプリンタが印刷中に停止した。
 見れば、液晶表示板に「廃インク吸収体が満杯だから取り替えろ、取り替えないとインクだだ漏れにしちゃうぞ!、取り替えはお前じゃできないんだぞ」みたいな脅迫文が出ている。

 うるさいっ、「OK」を押して続行、しばらくして停止、脅迫文、これを繰り返してさすがに嫌になって降参、電器屋に取り替えに出した。
自家製本をつくっているから、プリンターが想定しているよりも多過ぎる印刷累積枚数になったらしい。
 その間にオモラシしたインクおしっこが、襁褓に溜まりにたまったらしい。プリンタのオムツ交換ですな。

 いや、プリンタの話じゃないんだよ。
 電器屋のプリンタ預り証の袋を見て、おお、これって可笑しいよ~、EDでOFFだったのがONになって上向きになった、うまいロゴタイプだねえ、あれ、電器屋でEDって?

963・有楽町で村野藤吾設計の看板だらけビックカメラ屋建築に出会った

 有楽町で懐かしいけどヘンなビルに出会った。
 ここには1957年に建った村野藤吾設計の端正な姿の読売会館(元そごうデパート)があった記憶があるのだが、建て替えたのかなとしげしげとみたら、安売り電器屋に替わって、外装を黒い板のポツポツ窓にして大きな看板だらけデザインに変更したらしい。
 ふ~ん、まあ、三角ビルの外郭は変えようがないから、面影は残っているけどなあ。

 むかしの姿はこちら↓にある。
http://isisis.cocolog-nifty.com/i/images/2010/12/27/tokyosogo.jpg

 1957年と言えば、わたしが大学に入った年である。できたばかりの有楽町そごうの2階にあった喫茶店、いやティールームっていうべきか、に入ったことがある。
 フランク永井が歌う「有楽町で逢いましょう」が流行し、そのティールームが歌詞に出てくる。
 ここまで書いて、このことは以前にこのブログに書いていたことを思い出した。有楽町西武の閉店の時に書いたのであった。一部を再掲載しておく。

◆2010年12月28日http://datey.blogspot.jp/2010/12/362.html
 有楽町で百貨店閉店事件といえば、「有楽町そごう」のこともついでに書いておこう。
 有楽町駅前に「そごう」が開店したのは1957年5月25日だった。
 その年の3月、わたしは生まれ故郷の狭い城下町盆地を抜け出して、だだっ広い関東平野の一角に暮らし始めた。以後の高度成長底辺都市漂流人生の始まりだった。
 街にはフランク永井が歌う「有楽町で逢いしょう」がながれてた。
「あ、鉈を待てば、飴、が降る、濡手、粉糠と、木に掛かる、あ~あ、、」
 こんな風にしか聞こえなくて、妙な気分で聞いていた記憶がある。今、U-TUBEで聞いてみたら、やっぱりこう聞こえたが、元の歌詞を知らない人もいるだろうから書いておく。
「貴方を待てば、雨が降る 濡れて来ぬかと、気にかかる あ~あ」
    ◆
 後にその宣伝作戦の陣頭指揮した人から聞いて知ったが、大阪から東京に始めて進出するそごうの、有楽町開店のテレビ、映画、ラジオのメディアミックス宣伝作戦は、それが当たり前になる時代の端緒だったそうである。
 映画の方は吉田正の作曲でフランク永井の唄であった。テレビ番組「有楽町で逢いましょう」の主題歌が、三木鶏郎作曲で唄はデユークエイセスで、これらはまったく違う歌だったそうだが、こちらは覚えがない。
 この歌に出てくる外が見える2階の「ティールーム」に、大阪から修学旅行でやってきた従妹をつれて行ったことがある。そのときは有楽町駅東口の最近ようやく再開発されてできた「イトシア」あたりの路地の寿司屋に入り、日劇ではロカビリーも見た。
(今思い出したがフランクの歌の続きに「雨もいとしや、すすりなく~」とあったが、これでイトシアと名づけたのじゃないよなあ)
   ◆
 建築学生としては、あの村野藤吾設計の「読売会館」に興味がつきなかった。青味を帯びた硝子ブロックと何本もの深い陰の横ストライプで微妙にカーブする壁面、上層階の白い品のよいテッセラタイル壁面、百貨店の階段の巧みさ、読売ホール内部の玄妙とも言うべきデザインに、大いに惹かれた。
 関連して「新建築」事件というのがあったが、これは建築ジャーナリズム業界内コップの中の嵐。
 読売会館は、80年代だったか外装が似て非なるものに改装されて輝きを失い、更にそごうが撤退後に安売り電器屋がはいると電飾がやたらにとりついて、同じ建物なのにこうも変なものになるのかと驚くばかり。

2014/06/17

937【五輪騒動】新国立競技場の建築計画が先で都市計画が後決めは正しい順序だ

 新国立競技場計画について、喧しい。
 そのなかで、あの建築計画が先にあって、その後からそれに合わせて都市計画(地区計画)を決めたのは実にケシカラン、という意見がまかり通っているようだ。
 順序が違うだろ、先に都市計画があって、あとから建築計画はそれに適合するように作るもんだろ、あべこべだよ、ケシカラン、と考える人がいるらしい。
 つまり違反建築の設計を、あとから法が追いかけて違反でないように法改訂した、というのである。

 この論は、俗受けして分りやすいが、実はおおきく勘違いしている。地区計画を決める場合は、この順序ケシカラン論は間違いなのである。
 なんだか、お上が決めた法律に従えって、そういう論調をわたしは嫌いである。法律だっておかしい時は変えろっていうべきなのだ。
 地区計画をつくっていた昔プランナーとして、この順序論について、ひとこと説教しておきたい。年寄りだから話がくどくなるだろうが、我慢してもらいたい。

 新国立競技場について世に問題としているのは、地区計画の再開発等促進区における緩和規定である。特に高さが問題となっている。
 緩和規定の他に、「ヘンなデザインをするな」との規定も書いてくれていたら、あの競輪ヘルメットデザインも法的に問題にできたかもしれない。そういうことを書くこともできるのだが、それはなかったのが、反対論にはさぞ残念なことであろう。
 わたしはヘルメットデザインを好きとか嫌いとか言わないが(金食い虫には反対だが)、外苑の天皇賛美の風景ぶち壊しに役立つだろうなあ、とは思うのである。

 地区計画の地区整備計画、その中でも特にこの新国立競技場のような緩和型の再開発等促進区を決める場合には、都市計画に先立って建築計画をつくるのが、当然のことなのである。
 当然どころか、そうするべきなのである。順序が違うどころか、それが正しいのである。

 既成市街地のある地区で地区計画を決めるのは、それまでそこに決めていた都市計画(用途、容積、高さなど)のままでは、その地区の良い環境を保ったり、新たな環境を創造するには不都合がある場合に、その地区だけに適する例外措置を決めるということである。

 例外措置だから、どのような例外措置(規制、緩和、付加など)であるか、あらかじめ詳しくその計画をつくらなければならない。
 そのためには建築や道路公園など、例外措置のための建築や道路や公園などの図面や模型等をつくり、風、日照、景観など影響予測調査もして評価し、これならこの地区の適する例外措置であると、事前にしっかりと検証しなければならない。

 その検証結果で、不都合はない、むしろ地区のとってはよい環境となる、となれば、現在の都市計画の例外措置を認める都市計画手続きをする。これが地区計画である。
 だから、その事前建築計画の通りに実行しなければならないように決めるのが地区計画である。極端に言えば、ほかの建築はやってはならないのである。

 事前に建築や道路などの計画がないと、良い環境になるかどうかわからない。だから都市計画に先立って、例外措置の建築等の計画をつくるのは当然なのである。
 これがないままに、内容を厳しく審査しないで漫然と高さや容積率や用途を緩和をする例外措置を認めることは、厳に慎しまなければならないし、してはいけないことなのである。
 漠然を排して、厳密に事前に検討した建築等の計画の通りに導くのである。

 その例外措置の適用をしたい地区の人々は、自らその建築等の計画をつくって検証し、その内容を都市計画提案書として、都市計画の行政庁に提出することができるのである。今回の新国立競技場はそうしているのだ。
 では新国立競技場では、何が問題なのだ。そう、順序ではないのだ。その建築計画や地区計画の内容が、適正であったかどうかということなのである。
 そして、果たして十分な事前検証が行われたか、それがきちんと公開されたか、そして行政手続きは十分に行われたかということが、問題なのである。少なくとも順序は適正であった。

 法的な手続きだけからいえば、遺漏は全くない。東京都の都市計画官僚がそんなドジをするはずがない。役人を擁護する気はないけどね。
 だから、順序に係る手続き遺漏ではなくて、手続きにおける内容の検討が適正になされたか、という点に問題があるのだ。
 ちょっと、くどくなってきたな、もうちょっとだから我慢してね。

 行政内部での内容の検討は、都市計画官僚が自ら定めた再開発等促進区の地区計画運用基準に適合しさえすれば、機械的にOKとなる仕組みである。
 その基準がおかしかろうが、結果がどうなろうが、都市計画官僚はそこまで見ようとしない。
 その段階までは一般市民は全くわからない。

 表に出る都市計画の法的手続きは、計画素案説明会、素案縦覧、意見書提出、公聴会、条例縦覧、法定縦覧、意見書提出、都市計画審議会となる。これらは、それなりにきちんと公開されている。
 だが、一般には都市計画には関心が非常に薄いから、槙文彦さんが言い出すまで、建築家たちの誰もが知らなかったらしい。その槙さんも都市計画手続きは存じではないかもしれない。
 だから、資格がある東京都民の建築家のどなたも縦覧を見ていないし、意見書も出さないし、公聴会で述べることもなさっていないらしい。
 法手続きでは、後だしジャンケンで官僚に勝つことは、死刑囚の再審無罪判決くらいに難しいだろう。

 外苑地区地区計画の議題のある都市計画審議会の議事録が公表されているが(なぜか渋谷区は非公開)、あまりにもずさんな審議の仕方である。まったく審議をしていない。
 これに関連して我田引水をする。わたしは横浜市の都市計画審議会の市民公募委員を2年間つとめたことがあるのだが、一生懸命にやればやるほど、ドン・キホーテか車寅次郎かって有様になるのであった。あまりにその形骸化にガックリとしてしまった。(参照:横浜都計審委員独り相撲物語) 東京都や渋谷区、新宿区の都市計画も同じらしい。
 もう、新国立競技場に関しては、都市計画審議会はご用済みで、出番はない(都市計画変更でもあれば別だが)。

 この後の風致地区の高さ制限を越える緩和については、JSCは国の機関だから渋谷新宿両区の区長(実際は都市計画担当者)と協議(許可はいらない)すればよいのだ。
 まあ、国と区では勝負は決まってるでしょ。それにねえ、、協議とは、協議をすればよいのであって、協議で議が整う必要はないのである。「協議しました」って実績さえあればよいものらしい。
 でもねえ、それどころか、いつのまにやら、国立競技場地区は実態的には風致地区除外のような風致地区運用基準ができているから、国と都が揉めることはあるはずもあるまい。
 とにかく都市計画については、敵は用意周到着々であるぞよ!皆の衆!

 わたしはよく知らないのだが、この後に、景観委員会とか開発審査会とか建築審査会にかかるのかもしれない。そこに都民か区民かが、法による物申す機会がありそうだ。


参照◆新国立競技場と神宮外苑そして2020五輪運動会についての瓢論・弧乱夢
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html

 

936【東京風景】超低く狭く長く暗いJR線ガード「高輪橋架道橋」下を潜り抜けて閉所恐怖症は2度と通りたくない

 このところ運動不足だから、田町の建築学会図書館で調べものした後、品川駅まで歩くことにした。
 調べもののことは別に書くつもりだが、山口文象が1949年に設計した建築を「新発見」したので、当時の雑誌に載っているか探したのだ。

 国道15号を南に向かって、単に品川駅に行くことだけを目的にてくてく歩いて、ふと思い出した。
 たしかこのあたりのどこかに、JR線路の下をくぐって東側に抜ける、ものすごく天井が低くて、狭くて、暗くて、しかも長~い、奇妙なトンネルがあったはずだ。今もあるのだろうか。
 最後に通ったのは、もう30年くらい昔のような気がする。探検してみることにした。
 あるとき歩いて通り、普通に歩くと頭を擦ってしまう低い天井が延々と続くのに驚いた。その後にタクシーでも通ったことがあるから、レッキとした普通の道路であるらしい。

 さてどこにあるのかと、国道15号の東側を注意して歩いてたら、歩道の真ん前に、大きな背丈以上の石垣とその上に繁る大木とが、立ちはだかった。
 国道にさえも伐り倒しを許さない大木と石垣なら、なにかタタリでもある代物かとそばによる。石垣は車道の路側帯にまではみ出している。

 案内板があって「高輪大木戸跡」とある。江戸の町への南の入り口として、旧東海道の左右に石垣を築いて間に門扉をつけていたそうだ。そういう史跡だから道路もよけて残したのだろう。
 実際はもっと石垣ははみ出ていたのを切ったのかもしれないし、あったはずの対になった道の反対側の石垣らしきものはなにも見えないから、残したとしてもかなり申し訳程度の感がある。残さないよりは良いが、。


この大木戸跡のすぐ南に、ただいまの目的の道への入り口はあった。
 このあたりはJR車両基地があるから、線路敷の幅はかなり広くて200m以上ありそうだ。
 そして東西に抜ける道は、ここから北には札の辻、南には八つ山だから、その間は4~5キロになるのだろうか、ずいぶん間があいている。道路交通の原則から言えば、このあたりに狭くても東西に抜ける道がほしいことはよく分る。

 久しぶりにその道に入っていった、というより、穴にもぐりこむ感じに近い。いくら東西の道がほしいからと言って、これがまともな道だろうか、それにしても奇妙な道だと、感慨を新たにした。
 車の交通は西から東への一方通行である。西の入口の手前で、一台の乗用車が初めてらしく、戸惑って引き返していた。それなりに通過交通はある。
西側の一方通行入口 左の自転車はすいすいと出てきたが、右の白い車はここで引き返して行った
歩いている人も10~20m間隔くらいにはいる。歩行者よりは少ないが自転車で通る人もいる。通っている人たちは、たぶんいつも使っている人たちだろう。
 車両制限高1.5mと掲示してあるように、天井高さ1.6mちょっとくらいらしく、大人歩行者も自転車に乗る人も、そのままだと頭がつっかえてしまう。わたしは身長1.73mだから首を傾けて帽子を天井にこすりながら歩いた。
だれもかれも頭を下げて行き交う

閉所恐怖症のわたしはちょっと閉口している
 東の出口にあった表示で分ったが、この道の名前は「高輪橋架道橋}という。
この道に入るには、地表を走る鉄道線路の下に潜り込むので、わたしはてっきり地下トンネルと思っていたが、そうではなくて橋なのであった。
 そうい言えばそうだ、頭の上には土があるのじゃなくて、低い橋があるのだった。そう、コンクリートでつくった溝の中を歩かされるのだ。
東側の一方通行出口
わたしは閉所恐怖症なので、こんな狭くて長くて低くて暗い道は大嫌いである。途中で逃げ道はないから、歩きとおすしかない。ヒエー、怖かった。好奇心だけで再び歩いたが、もう2度と歩きたくない。
 近いうちにこのあたりに新駅ができるらしいから、多分、それに合わせて広い東西道路が整備されそうな気がする。いずれにしてもこれが見納めになるだろう。
 2度と歩きたいたくないと思った道で、これと反対に上も左右も下も広々とした、閉所恐怖症向きの道のことを思い出した。レインボーブリッジの歩道である。
 景色はひろがってよいのだが、車による振動、騒音、排ガスで、あまりにひど過ぎる道だ。せっかくの金がかかった歩道なんだから、あれはなんとかせい。

2014/06/14

935世界球蹴り運動会の記事ばかりで新聞という紙くずをカネ出して買う日々がつづく

 観戦スポーツを嫌いである。野球とか球蹴りとか、あのいい年の大人たちが、球を打ったり蹴ったりして遊ぶのを観るだけなんて、かなりバカらしい。自分がやればいいのに。
 そして更に、それを見物する大勢の人たちが、同じ色の服を着て、一斉にそろってひとつの方向に動く様子が、見ていて気持ちが悪くて仕方がない。

 と言っても、わたしは現物を見たことはなくて、新聞に嫌でも目に付く写真による。北朝鮮のマスゲームさながらである。
 でも、うちの近くの横浜球場あたりを徘徊していると、その一団に出くわすことがよくある。無邪気な人たちの様でもあるが、その無邪気さがどうにも不気味である。

 世界球蹴り運動会が地球の裏で始まるらしく、その記事が新聞の朝夕刊の一面にも登場し、スポーツ欄はもちろん4,5ページも占め、社会面も2ページくらいを占めてしまう。
 わたしは隅っこの残りの記事を、重箱の隅をほじくるように読むしかない。
 毎日、毎日、読むところのない新聞が配達されてくる。ゴミをカネ出して買う日々がつづく。
 たぶん、TV番組もそうなんだろうが、わたしはTVそのものを見ないからいっこうに構わない。
おいおい、いつのまに朝日新聞はスポーツ新聞になったんだい、
スポーツ新聞ならエロやゴシップ記事を満載しろよ
この世界球蹴り運動会報道への腹立ちを解決する方法をよく知っているのだが、どれも実行しないだけである。
 そのひとつめの方法は、この際すっぱりと新聞購読をやめてしまうことである。心理的にも経済的にも一番良い方法だと思うが、暇つぶしの種がなくなるのが困るのだ。
 ふたつめの方法は、この際しょうがないから観戦スポーツファンに宗旨替えすることである。これは周りの誰かに嘲笑の喜びを与えそうで、癪にさわって体調に良くなさそうだから、いまさらやらないのだ。
 
 こんな記事ばかり載せていると、そしてこんな記事ばかり喜んで読んでいると、いつの間にか憲法の改悪をされてしまっているぞ、いいのかよ。
 2020年の東京世界五輪運動会のときは、もっとひどいことになるのだろうが、幸いなことに、その頃のわたしはボケているか、あの世にいるか、そのどちらかである。

◆関連記事
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2014/06/11

934【五輪騒動】ザハデザイン新国立競技場は槙デザイン東京都体育館によく似合うとJSCの都市計画提案書

 新国立競技場について、JSC(日本スポーツ振興センター)が2012年12月に東京都に提案した、神宮外苑地区の地区計画についての都市計画案の中身を知った。市民団体の方が情報公開手続きで手に入れたらしい。
 普通はそれを審査する特定行政庁(この場合は東京都)の都市計画関係のサイトページで公開されるものだが、その頃にわたしはネット検索してもひっかからなかった。
 横浜市ではネット公開するが、東京都や区では公開していないのかも知れない。

 もっとも、こうやって手に入れることができる提案書というものは、提案事業者と行政担当部局との間で、事前調整にがほぼ整ったものであるとみてよいから、既に都市計画決定したものと中身は同じである。
 ただ、都市計画決定文書には載っていない、いろいろな計画立案上の考え方が載っているので、かなり専門的だが、それを見て事業者側がどう考えたかを観察するのは面白い。
 なお、この提案書は、都市計画設計研究所がJSCから受託して作成したらしい。コンペ当選のザハハディドデザインをベースにしている。

 長たらしい内容なので、気が付いた興味深いこと、しかも専門家でなくても面白いことを、二つだけ書いておく。
 ひとつは、そのザハデザインが両隣の建築とどう対応するかということである。そのことを書いたページの一部をコピー引用した。
 要するに、東京都体育館(槙文彦デザイン)とは「類似的で連続性を保つ」としており、絵画館とは「対比的な空間デザイン」であるとする。その上で「全体として躍動感にあふれたデザイン」とするのだそうである。

 ほう、なるほど、そうだねえ、東京都体育館は、これも実はザハハディドのデザインだと言っても、おかしくないような感もあるよなあ。
 ということは、絵画館と東京都体育館とは「対比的なデザイン」であることになる。そのとおりだと、わたしも思う。

 両者の間に国立競技場が建っているから、気が付かなかっただけだったのだ。槙デザインは、実はこの神宮外苑あたりの景観にはマッチしない建築であったのだ、と、これまでだれも言わないのが不思議である。
 まあ、現国立競技場だって神宮球場だって第2球場だって、ほとんど絵画館とは関係ないデザインですがね、だれも、それをいやだって言わないのも不思議だし、高さだって絵画館を含めて、どいつもこいつも風致地区条例違反(既存不適格)ですが、それを言わないのも不思議だよなあ。

 さてそれでは、「対比的な空間」となる絵画館と新国立競技場を、どう考えるか。
 提案者のJSCは、多分、対比的な空間からは「躍動感」が「溢れ」てくる、それがスポーツの空間というものだよ、キミ、って言ってるんだろう。
 まあ、権威の権化のような姿の絵画館が、突然に躍動感に溢れさせられちゃって、余計なお世話だっていうのか、時代に対応して変化しようって張り切るのか、そこは知らない。

 わたくしとしてはですね、時代に対応して変化していただいて、もうそろそろ明治帝政の残滓をお捨てになっていただくときだと思いますがねえ。
 そもそも外苑をスポーツの場としたのも、身体健全なる青年を兵士として育てる、強兵策のひとつだったんですからねえ。日本青年館はそのためのものでした。なんせ、元が青山練兵場ですから。だからこそ、1943年に第1回学徒入隊の壮行会が、外苑競技場で開催されたのでしょう。

 絵画館がいくらそれは嫌だと言っても、アカンベ48とかエクセルとかって芸人たちで「躍動感溢れる」新時代の空間にならざるを得ないし、そうなるべき平和の時代でしょう。
 日本の20世紀前半を支配した天皇制権威主義の風景よ、いまこそ、さらば!
 あ、まてよ、アホノミクス集団的自衛権とやらで、やっぱり富国強兵策競技場であるべきなんですかねえ。

 さて二つ目の興味あった記述である。
 これは新国立競技場の法的な高さ限度の計算である。
 提案書には法制度の運用基準による高さ緩和の計算をしてある。元になるのはザハ案である。
 しかしザハ案をもとにして運用基準に当てはめると、高さ限度66mまでにしかならず、「現計画の建物高さは、有効空地の確保に基づく高さの最高限度を超過している」と記述してある。
 そして「今後、計画・検討を深化させる中で、有効空地確保の制度と合わせ、運用基準との適合を図る」とある。

 ところで、都市計画決定した新国立競技場用地の緩和高さ限度は75mである。ということは、この提案書を出した後で、75mになるようにザハ案をいじって有効空地を広げたのだろう。それをどうやったのか、わたしはそこまで読み込む興味は起きない。
 まあ、これから建築審査会が思案するのでしょう。
 なんにしても都市計画審議会の議事録には、その説明も質疑もなかった。

(追記20140612)
 「躍動感溢れる」で思い出したことがあるので書いておく。1952年5月1日の日本独立後初の第23回「統一メーデー」は、神宮外苑の絵画館前広場で約40万人もの参加で開催された。まさに躍動感溢れる空間となっていたのであった。
 絵画館前広場は40万人も収容したのだから、新国立競技場が8万人収容とかだそうだけど、何とかなりそうなものだと思ってしまう。
 ただし、1952年メーデーは躍動感が溢れすぎてしまって、集会後のデモ行進は皇居前広場に入って行って「血のメーデー」となったから、あまり収容人数が多すぎるのも問題なんでしょうな。

参照◆新国立競技場と神宮外苑そして2020五輪運動会についての瓢論・弧乱夢
http://datey.blogspot.com/p/866-httpdatey.html

 

933右手で殴って左手でなでる安売り屋イオンの戦略

 「助成総額1億円、環境活動の助成策を募集」との大広告が、今朝の新聞に載っている。
 植樹、森林整備、砂漠化防止、里地・里山・里海の保全等の活動団体に、助成金を与えるらしい。

 その奇特なお方は誰なんだろうとみれば、なんとイオンである。
 イオンと言えば、あの郊外大型安売り屋さんである。ちょっと前までは、ジャスコと言っていた。日本の安売り屋を次々に飲み込んで大きくなった大蛇である。
 
 そう、ジャスコのイオンは、あの大型安売り店舗をあちこちの地方都市で作っては、その中心街の商店街をどんどん衰退化させ、それにつれて街は空洞化し、焼畑商業で地方都市疲弊を促進してきた「功労者」である。

 郊外の田畑山林を広くつぶして、大きな殺風景なショッピングセンターをつくる一方で、森林とか里山とかの保全にお金を出すってのだから、これって矛盾しているような気がする。
 いや、そうじゃないか、一方で緑を壊すから、一方で緑を保全するというのだから、これはミチゲーションをやってるつもりなのだろうか。罪滅ぼしかしら。

 今じゃあ郊外店舗さえもが廃れそうなので、中心市街地の安売り屋に戻ろうとしているらしい。
 昔々、イオンが中心市街地に店を出す時は、反対運動が激しかったが、今はどうなんだろうか。
 既に疲弊してしまった中心街は、反対運動する人は消えてしまって、むしろ歓迎しているのだろうなあ。イオンのボロ勝ちである。癪だ。

 とにかく、日本の街を壊してきたお方が、日本の環境を守ると言って金を出すのが、どこかウサンクサイ。

参照
・怖いぞ、郊外の開発は生活圏を破壊する
http://homepage2.nifty.com/datey/kougaiSC.htm
・イオンの反省だって?http://datey.blogspot.jp/2009/03/109.html
・津波を起こすイオンhttp://datey.blogspot.jp/2012/02/583.html
・イオンの津波(続き)http://datey.blogspot.jp/2012/02/584.html

2014/06/08

932・平和な時代の恐怖連想はAKB48からAKG47そしてFKS50

「アカンベー48人衆」って、「AKB48」の日本語訳です。
 そう書いても何のことかわからない老人がいるでしょうから、ちょっと説明すると、双子や三つ子どころか、なんと四十八子という同じ顔をした女子多胎児たちがいるのですね。
 
 その子たちが同じ顔して同じ歌を歌い、同じように踊って、どの子も目じりが下がっていて舌が長くて、舞台で一斉にアカンベーをするらしい。
 それが評判になり、若い男どもが夢中になってるんだそうです。
 昔、「ピーナッツ」とか、今もいるのかどうか知らないないが「こまどり姉妹」とかって、双子芸人はいたが、四十八子芸人とはすごいもんだなあ。

 あんまり人数が多いんで、誰が誰かわからない。そこで順番をつけようってことになって、その子たちの歌、踊り、顔立ちなどを品定めをすることにした。
 で、東京のどこかの野球場に7万人もの男どもが、昨日の豪雨をものともせずに集まって、投票イベントをやったそうです。
 これって超平和な風景です。あんまり平和すぎて怖い! こんな暢気すぎる平和は、長続きしないような気がしてきて、心配したくなるのです。
新聞第1面のアカンベーイベント記事

 ところが心配したとおりに、平和じゃなかったらしい。
 数日前にテロ男が襲ってきて、その四十八子の中の二人が負傷させられたそうで、昨日の雨の会場では、金属探知機による持ち物検査をやってから入れたそうです。
 7万人も検査するのって、大変だよなあ。屈託無げに歌って踊る女の子たち、それを見て品定めするこれも屈託無げなアホ男の子たち、その間に入って刃物の検査をしなけりゃならない厳戒態勢なんて、この恐怖の平和!

 四十八子というと、老人がどうしても連想するのは、四十七士である。
 そう、「赤穂義士47士」ですよ、つまり「AKG47
 この47人組のテロ事件は、当時の江戸では大評判になり、芝居やら講釈やら舞台に登ったのは、今のアカンベー並みだったらしい。
 これも、平和な時代に起きたテロ事件でしたよね。
 
 もう一つ思い出した、「FKS50」ってのがあったな。「FUKUSHIMA50」、つまり「福島原発50人衆」とでもいうのだろうか。
 なんでも、2011年3月11日の大地震で事故を起こした福島第一原発から逃げないで居残って、事故処理にあたった「英雄」たちが50人いたのだそうです。
 
 でもなあ、おかしいと思うよ、何で英雄なんだろ。だってじぶんちが火元で火事を出して、周りに燃え移って大火になろうって時に、火元の家族がそれを消そうとするのは、英雄的行為じゃなくて、当たり前にやらなければならない義務でしょ。
 しかもそれが、出火を防ぐべき手当(万全の非常用自家電力供給装置)を怠っていたってせいだって、いうのだからねえ。

 更にしかも、その火消しに大失敗して、いまだに10万人を超える人たちが焼け出されたままになっているのです。
 火元責任者の吉田所長以下、火元の原発にいた人たちは、巨大な責任を背負っているはずだ。彼らは英雄どころか、その責任は大罪にも通じていると思います。
 その責任者の証言を隠蔽するなんて、今の政府は何を考えているんだろうか。

 話が、平和のアカンベー48から、恐怖の原発に逸れてしまった。

2014/06/05

931・わざわざクサくしたシャツを売りだすなんて世の中だんだんとクサイことが多くなって困ったもんだ

 エレベーターや電車の中で、クッサイ女が乗ってきて、ほんとに困ることがある。
 ブサイクな女には、そっぽ向くとか目を閉じればよいが、クサイ女対策は、もう逃げるしかない。せっかく座った電車の席を明け渡すこともしばしばある。

 それが今度は男である。男のシャツを、わざわざクサくして売るのだそうだ。「香りを繊維に付着させた」と書いてある。
 これからは男からも逃げなきゃならんのかよ、いいかげんにしてくれよ。
 こんなクサイシャツを売ってもらっては、ほんとに困るんだよなあ。
2014年06月05日掲載:男のシャツの新聞広告

 大音声でイヤホンから音漏れを構わず、音楽を聴くやつもいる。でも、これは注意すれば聞いてくれる。
 でも臭いには、クサイシャツを脱いでくれと、いうわけにはいかない。クサイ香水女も、どうしょうもない。

 おかしなことには宣伝文句には、「衣類用消臭スプレーセット」も付けると書いてある。
 臭いをつけて売っているに、臭いを消す薬付きとは、これいかに。多分、他の衣類に臭い汚染しないようにする為なんだろう。
 福島の事故原発対策に凍る地下壁をつくるから、その凍結装置の電力の原発が要るってのと似てる。

 わたしは臭いに敏感であるとかアレルギーがあるとかではないが、物事はできるだけ自然がよろしい。シャツに臭いをつけるなんて、大きなお世話である。
 あ、そうだ、ホテルなんかで部屋がクサイことがある。花の香りだと、サービスのつもりらしいが、大きなお世話を越えて迷惑である。無臭が一番よろしい。

 さて、わたしには加齢臭なるものが発生しているんだろうなあ、自分ではわからないけどね、あっ、ってことは、もしかしたらこのシャツは、高齢者に向けて売る気なのか? う~む、、、。



2014/06/02

930気象台ができてから急に暑くなった故郷の盆地

 昨日(2014年6月1日)のNHKニュース岡山県版にこうある。
「1日の岡山県は高気圧に覆われてよく晴れ、厳しい暑さとなりました。このうち高梁市は日中の最高気温が35度1分とことし県内で初めて猛暑日となりました。また6月1日に猛暑日となるのは県内の観測史上、最も早いと言うことです。」

 と言うこと、だそうですが、誰が言ってるんでしょうかね、気象台ですかね。
 近ごろは異常気象が多いけど、気象台は対策をとらないのか、なにをしているか?
 気象台ってのは国土交通省の機関だそうだから、これはやっぱり安倍内閣が無策なのがいけないっ。

 上のニュースに出てくる高梁とは、実はわたしが少年時代を過ごした生まれ故郷である。
 一昨年だったか、日本一暑い街って全国ニュースに出たことがある。今年はもう、県内で最初の猛暑日を迎える「栄誉」に輝いたらしい。
 関東では熊谷とか高崎とか甲府などの、内陸部盆地地形の街が猛暑としてしょっちゅうあがっていたから、高梁盆地も例外ではない地形だ。
 思い出したが、20年以上前、高崎で40度という気温の日の記憶がある。燃えるような暑さだけが高崎の記憶である。

 そうなると居直って「アツイぜ!高梁市」とかって、キャッチフレーズで売り出そうとしているとか。
http://www.city.takahashi.okayama.jp/soshiki/2/atsuizetakahashi.html
 でもなあ、「暑いぜ」なんて関東方言のような気取った言い方が、なんだかおかしいよなあ。
 高梁弁ならば「あちーがあ!たかはしゃあ」でしょ。え、これじゃあ読んでもわからんか。

 それにしても、わたしの少年時代には、自分の住む街が日本一暑いなんてニュースを聞いたことがない。どうしてなのかと、故郷にいる旧友に尋ねたら、思いがけない答えが返ってきた。
 高梁が暑いというニュースが多くなったのは、高梁盆地の中に気象台の観測所ができてからのことだというのである。いつできたか聞きのがしたが、そう遠くない前だろう。
 そうか、急に暑くなるはずがないと思っていたが、気温を計るようになったので、他の地域と比べて暑いことが分かった、というわけだ。

 気温が高いから暑いのではなくて、暑いから計ってみたら気温が高いのだが、感覚というものはおかしなもので、気温が高いから暑いのだと思う。
 気象台の発表する今日の天気の気温を、予想や結果よりも2、3度低く発表し、日本全国にある温度計を2、3度低く表示するよう改造したら、どうだろうか。そうすれば、ちょっとは涼しいと思いこむかもしれない。簡単な避暑方法である。