2014/03/11

906【地震津波火事原発】400年前に津波防災集団高台移転した東海道宿場町は今その教訓を生かしているか

 東海道五十三次の宿場町のひとつに、蒲原宿がある。駿河湾の一番奥に位置する街である。今は静岡市清水区蒲原となっている。
 先日そこの昔の宿場町で、まちづくり活動団体の集まり「しずおか街並みゼミ」が開催されるとて、なんの予備知識もなくて訪ねた。
 集まりが「防災」をテーマとするということなので、3・11大地震で日本列島本州東沿岸部の被災以来、かまびすしい地震津波対策を本州南沿岸部の街ではどうしているか、それを知りたかったのである。

 かつての蒲原宿の街は、本陣や旅籠跡のある街並みに、今も江戸時代の面影をわずかながら伝える風景である。
この蒲原宿あたりのかつての東海道筋は、海岸線に平行して400mほど山側を東西に走る。
 その道は南の海岸部の平地よりはかなり高い位置にあり、北側はすぐに山である。つまり、街は海岸から離れているのである。しかもこの宿場町あたりだけが、不自然に山側に回り込んでいるのである。
 ということは、昔の人は津波がやってくる海岸を避けて、宿場街をわざわざ地形的に高い位置に設けたのであったか、偉いもんだと思ったのだが、地元の方のお話を聞いて、そこには悲劇のドラマがあった。

 蒲原宿あたりの東海道筋は、江戸初期までは海岸低地を通っており、当然に宿場町も低地にあった。それが、1699年に台風高波による大津波が来襲し、街は壊滅して多くの死者をだした。
 そこで徳川幕府は、街道と宿場町をそっく、り今の高い位置に「所替え」させたそうである。つまり、今、本州東沿岸部でやっている「防災集団高台移転事業」を、400年前にやっていたのであった。なお、1707年には富士山が噴火した宝永大地震が来て、大きな被害があった。

 今の街の標高を見ると、宿場町あたりで海抜15~25m、所替え前の宿場町あたりは海抜10~12mである。高台というほどではないが、山裾の高い土地に移ったのであった。

 今では海岸には防潮堤が高く海から街を遮り、その際までびっしりと家々が立ち並んでいる。所替え前の17世紀までの旧旧東海道宿場町あたりも、今では住宅地である。
 江戸時代に所替えしたばかりのころは、海に近い平地部には街はなかったのかもしれない。いつごろまで街はなかったのだろうか。
 防潮堤がいつできたのか知らないが、これができてから、人々は安心してかつての津波被災の土地に住むようになったのだろう。

 東北でも三陸海岸部は、歴史的に何度も大津波に襲われており、そのたびに高台に集落を移転、まさに所替えをする。
 だが、高い防潮堤ができて、もう大丈夫と思って、時間がたつとまた低地に暮らすようになる。
 そして想定外の次の津波で、やっぱりまた被災している所が多いそうである。

 駿河湾自体がトラフであり、蒲原はそのトラフの真ん前だから、東海地震が起きると津波は0分でやってくるらしい。トラフが動くと地形が盛り上がって、津波を跳ね返すのだろうか。
 さて、蒲原宿では、その本州東沿岸部での3・11教訓、というよりも、かつて自分のご先祖たちが所替えになった400年前の教訓は、今、どう生かされているのだろうか。
 駿河湾の奥で、東海大地震による津波高さ予想値はいくらかわからないが、駿河湾に面する今の防潮堤が、江戸時代の所替えの教訓を生かした高さなのだろうか。3・11で見直しがあったのだろうか。

 蒲原の海岸沿いの街には高層ビルが見当たらない。防潮堤の上空に高架で通る国道バイパスは、防潮堤よりも高いから、津波の時にはこの高架の上に逃げるしかなさそうだ。そのためには非常用階段をたくさんつける必要がありそうだが、ついているのだろうか。
 わたしは昨年、南三陸町の被災後の海辺の街で、海沿いの高架道路が完全に壊された風景を見てきた。やって来る津波は橋の下を通り抜けたが、戻り津波がたくさんの家々などを引き連れて来たために高架橋にひっかかり、これに押されて壊れたそうだ。高架道路が安心とは言えないから、悩むほかない。

 東海道の宿場町では、蒲原宿のほかにも7つの宿場町が津波で所替えしたそうである。それらの街でも、今、どう考えているのだろうか。
 江戸時代と今とでは土木技術力が大違いだが、それでも三陸大津波のように、世界一の防潮堤さえももろかった。
 どこまで技術力で自然に対抗し、どこから自然に逆らわずに逃げるのか、そのあたりのことを江戸時代の所替えがあった街でこそ、生かす知恵がありそうだ、と思った。
 でも、そこのところは、じつのところよく分らなかった。

 実はわたしも横浜の港に近いところに暮らすので、他人事ではないのである。
 ここに来る前に住んでいた鎌倉では、相模湾から押し寄せる津波が届かない位置と高さに住んでいたが、引っ越してきたここは津波被害がほぼ確実にあるところだ。
 3・11以後に引っ越すなら、ここには来なかっただろう。とりあえずはビルの7階なので、ここまでは水は登って来ないにしても、足元の街の機能が失われるだろう。
 やっぱり気になる太平洋岸の街である。

 蒲原では、多くの方々にお世話になり、たくさんのことを教えていただいたことに、厚くお礼申し上げます。

参照⇒588『津波と村』海辺の民の宿命か
http://datey.blogspot.jp/2012/02/588.html

地震津波核毒原発おろおろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

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