2014/01/15

885越後の豪雪山村の小正月行事「賽の神」と「初釜茶会」に行き雪道で転んで捻挫

 

 毎年恒例の越後の山村・法末集落での「賽の神」と「初釜お茶会」行事に参加してきた。
 仲間でチャーターした小型バスは、雪の谷道をさかのぼっていく。今年は去年の今頃よりも積雪は少なかったが、それでも2mくらいは積もっているだろう。今日は雪が降り続いている。
 わたしたちの活動拠点の民家に入るには、道路から玄関まで深い雪をかき分けて通路をつくることから始まる。このあたりでは雪かきとは言わずに、雪掘りと言う。それくらい深い雪ということだ。
 この地に住む人たちの冬の毎朝は、玄関から道まで出るための雪掘りである。

 
2004年の中越震災の翌年から復興支援でここに来るようになって、今年で足掛け10年、いまでは震災復興は終わったが、集落の存続が懸念されている。
 わたしたちの仲間で、せめて村の行事に景気をつけてあげたいとて、小正月の「賽の神」行事に参加し、これにくっつけて「初釜お茶会」をはじめたのであった。
 春か秋には花づくり見学にやってきて、夏には盆踊に参加している。そして、棚田でコシヒカリ栽培の米つくり体験を毎年重ねてきている。

 着いてまずは仲間と一緒に、昨暮れに亡くなられた方の家に、弔問にいく。この方には、米つくりの世話と指導をしてもらって、お世話になった。のこされた奥方は、来年は村を離れざるを得ないだろうと言う。耕していた棚田は休耕の手続き済みだそうだ。
 毎年、こうして休耕や耕作放棄の棚田が増えていく。棚田は人間のための米つくり工場だから、経営者が亡くなり後継者がいないと、それは仕方のないことだ。
 去年の法末人口移動は、自然減3人、社会増1人であったようだ。
 今、この集落の定着人口は何人だろうか。震災前は約110人、震災で全村避難して戻ってきた人は約90人、今は60人もいるだろうか。最も人口が多かったのは、1960年の577人だった。19世紀末でさえ360人ほどがいたのに、今や限界を超えた集落となった。

 久しぶりに囲炉裏を囲んで鍋料理を食べようとなった。鍋は「ピエンロー」、白菜鍋である。
 囲炉裏には炭火である。昔のように薪を燃すわけにはいかないのは、煙出しをふさいでしまったからである。
 この囲炉裏だって、わたしたちがこの家を使うようになった時は、床の下にふさがれていた。その長く使っていなかった囲炉裏を復活して、はじめは物珍しく使ったが、そのうちに面倒になって飽きてしまった。今夜は久しぶりに囲炉裏を囲んだ。
 この家の名称を「へんなかフェ」と言う。「へんなか」とは、このあたりのいい方での囲炉裏のことで、そのうしろに「フェ」とくっつけた洒落である。

 寒い夜を炬燵に足を突っ込んで寝た。わたしがこのまえに炬燵で寝たのは、もういつのことだったか忘れたくらい昔のような気がする。炬燵そのものが、うちにはない。
 このあたりの民家はどこも古い茅葺民家を改造してきているものだから、主な部屋は天井が高い。だからストーブを焚いても、寒い。
 実は、考えるとゾッとするのだが、外部の窓やガラス戸は、雪囲いのために頑丈な板で外から囲ってある。積もる深雪に外から押されても、壊れないようにするためだ。
 だが、もしも中から燃え出したら、逃げ出せるところは玄関入口しかない。そこも、夜中に積もった雪で簡単には開かないかもしれない。ようするに監獄の中に寝ているようなものだ。

 次の朝、雪はやんで、今の時期には珍しい晴れ間も時々見える。集落内徘徊に出かけた。靴には滑り止めの簡易アイゼンをつけた。
 まったくもって、色の白いは七難隠すで、どこもかしこも真っ白で、なだらかな曲線を描いていて、美しい景色だ。
 夏は目につく赤いトタン屋根も、いまは真っ白な布団をかけている。道の両側には、除雪車が盛り上げた背丈よりも高い雪の壁がどこまでも続く。


 まずは今日午後の行事「賽の神」会場の、夏のキャンプ場に登る。もう藁の塔の賽の神本体はできがっている。今年のそれは姿はよいが、ちょっと小ぶりである。
 降りてきて、集落最長老に道でであって新年挨拶、今年92歳とて元気なものである。この方には、戦争中の話を聞いてオーラルヒストリーとして記録した。

 村境の峠まで登って引き返した。その下り坂道で、ア~ッ、左の靴が路面の氷に滑って転倒、後ろに残った右足の上にドンと正座した。
 イテテテ、しばらく道に腰を下ろしたまま唸る。ひねった右足首が痛む、果たして歩けるか、人も車も通らない。
 そろそろと四つん這いになり、ストックを支えにヨロヨロと立ちあがる。こわごわ、そろそろ、小さな歩幅でビッコ引きつつ拠点の家まで戻った。
 なお、帰宅後の医者の診断は、骨に損傷なし、靭帯損傷して内出血、テーピングで患部固定、全治3週間であった。久しぶりに杖突き生活をやってみるか。

 昼飯を食ってから、さて「賽の神」会場に行けるだろうかと思案したが、ここまできて第1の目的を達しないまとは悔しいので、そろそろと登る。幸いにして珍しく太陽が出ている。
 村人とその子や孫、わたしたちなど40人ほどが集まっている。藁で作った「賽の神」にお神酒をささげ、お飾りやだるまをぶら下げてある。やがて、年男年女たちが点火すると、もくもくと煙が立ち上る。

  集落最長老が毎年恒例の音頭で、参加者がこっをそろえて祝唄「法末天神囃」を合唱すれば、火と煙が雪をかぶる林にかかっていく。
遅れてやってきたのが、10数人の子供の集団で、手に手に藁を抱えている。東京の小金井で活動している集団で、昨日やってきて雪遊びをして、この行事を最後に戻るのだそうだ。毎年やって来ている。

 賽の神の後は、集落のセンター施設である「やまびこ」の食堂で、お茶会である。立礼ながら本式にお茶をたてて、集落民一同が楽しむ会である。
 震災後にやってくるようになった私たちの仲間がはじめた行事だが、これも恒例行事となって今年で10回目を迎えた。
 集落の人たちもわたしたちも神妙に抹茶をいただくと、雪の山村に季節が一巡りした心地になってくる。
 お茶会でのわたしの役目は、お菓子やお茶のお運びである。足が痛いのを隠して、転ばぬようにそろそろと運んで、なんとか役目を果たしたのであった。

 
 こうして今年の正月もやってきた。わたしは2005年以来、ここに何回やってきただろうか。初めのころは月に2回も来ていた。毎土日にきていた仲間もいた。はじめは10数人だった仲間も、復興が一段落したころから次第に減り、来る回数も減った。
 米つくり作業に年に3、4回、お茶会、盆踊、花見などの行事がある。わたしはもう、そのどれにも参加というわけにはいかなくなった。
 電車やタクシー交通費の懐具合もあるし、米つくり短期決戦重労働作業は体力的に限界になってきた。年に2回ほどになってしまった。
 春から夏は実に気分が良いのだが、真冬にここに来ることも泊まることも、寒さや足場の悪さにもう体力がついて行かない。
 そろそろ、わたしにとっても限界集落になってきた。このあたりがシオドキか。雪国育ちでないわたしの泣き言である。



参照
・法末集落の四季
http://homepage2.nifty.com/datey/hosse/hosse-index.htm
・法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/

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