2014/01/21

887叔父が他界した太平洋戦争激戦地フィリピンルソン島の渓谷からのメールに今の平和を想う

 フィリピンのpinsanという方からメールがやってきた。知らないお方である。
 わたしのインタネットサイトに掲載したこの記事を読んだとある。
    父の十五年戦争  付・田中参三叔父の戦場

 メール全文を引用する(個人情報をはずした)。

 投稿された父の15年戦争読ませていただきました。私はフィリピンケソン市に住み、毎週土曜日か日曜日には散歩にワワ渓谷に出向いています。
 wawa渓谷近郊には通いなれたせいか住民たちと良い関係です。気軽に声をかけあう存在です。
 貴殿が書かれた文書を参考に、現在のワワ村落と日本軍心魂記の写真を主にして、書かせていただきます。
 いい加減なグロブですが(笑)
https://blogs.yahoo.co.jp/takeshi_pinsan/folder/1590979.html


 
 このpinsanさん紹介のフィリピン渓谷と山々の写真は、わたしの母方の叔父が1945年に戦死した地の今の姿である。あの悲惨な太平洋戦争の激戦地のひとつであった。
 叔父のいた軍隊は、この山中で連合軍とゲリラに追われて、食べ物も武器もなくなって、ジャングルと渓谷を逃げ回りさまよい、敗戦で投降した。

 だが、叔父はその前の5月5日に、小高い山の上で戦いの中で亡くなった。1948年4月15日にそう書いた戦死公報がきたが、何もその死を証拠づけるものはなかった。
 戦いの混乱の中で本当にその日でその場所であったか、確かめようもない。

 pinsanさんのブログに載せられている今の平和な姿に、長い日々が過ぎたことを想うだけである。
 叔父が戦場に行く前に別れたきりになった乳飲み子のひとり娘は、すくすくと育ち、いまは年老いた媼となって、更に老いたその母親、つまり叔父の妻を守りつつ、静かに暮らしている。

 インタネット時代だからこそ、このような海を隔てた地の見知らぬ方からの便りがやってきて、亡き叔父と父の戦争、そして今もどこかでやっている戦争への想いをかき立てられることがあるのだ。
 あのような悲惨な戦いで叔父はなぜ死なねばならなかったのか、そしてまた、巻き込んだフィリピンの膨大な非戦闘員市民たちをなぜ死なせねばならなかったのか、想いは広がる。

 pinsanさん、ありがとうございます。
 これからも、良いご関係を保って、平和にお過ごしください。

これはgoogle earthからわたしが探し出した叔父の戦場だった地
(叔父はの千秋山で死んだと公報が来た)

 わたしは太平洋アジア戦争でのもうひとつの悲惨な戦場物語を採集している。悪名高いインパル作戦に参加して、奇跡的に生還した農民のオーラルヒストリーである。
大橋正平さん戦場を語る(法末集落長老の回想)

1 件のコメント:

pinsan さんのコメント...

ありがとうございます
フィリピンに住みカメラ片手に各地に出向いています
バターン半島死の行進道路も5年前に完全走破いたしました。
マリベレスから捕虜収容地まで102キロ

今回はワワダム戦線をを私なりに投稿したいと思います 至らぬ点はご指摘ご指導ください。