2013/07/25

812【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・5】谷底と丘上の交わらない二つの街の歴史

麻布我善坊谷・4】からのつづき

5.谷底と丘上の交わらない二つの街の歴史

 我善坊谷の両側の丘は緑の稜線ではなく、北の崖上には仙石山テラスという森ビルの再開発事業による超高層住宅やら超高層オフィスビルやらが建って、この谷間を睥睨している。
 その姿は、丘の向こうにやってきたゴジラが、これからこちらの谷に足を踏み出そうとしているスケールである。そうか、ゴジラじゃなくて森蛭が巣食っているのだな。このあたりから北にかけて虎ノ門あたりまでの一帯は、森蛭・森虎兄弟がはびこるショバであった。この谷底もそうであって当然だろう。

 森ビルのサイトを見たら、やはりこの谷底地にも既に法定の市街地再開発準備組合を発足させているのだった。アークヒルズ以来連綿と続けている森ビル流の再開発事業をやるのだろう。

 空き家が多いが空き地が比較的少ないのは、それらの撤去や整地に市街地再開発事業による補助金をつぎ込むほうが、採算的に得だとみているからだろうか。
 その法定再開発事業がいつ認可になるのか知らないが、再開発を待っているらしい古ぼけた家屋が立ち並び、空き家には緑の蔦が生い茂る谷底の風景は、丘の上が現代風の巨大ビルになっていることと比べると、もしかしたら今や貴重な江戸東京風景であるかもしれない。
 ということは、この路地の風景も賞味期限は残り少ないのだろう。消える前の残照を、生きているうちに鑑賞できて良かった(それほどでもないか)。わたしは感傷的になるのではなく、今この姿をここに記録しておこうというだけである。

 それにしてもこの谷間の風景は、1945年の東京空爆で一度は燃えて消えたのだろうが、街の構造は江戸の街から続いているような気がしてきた。
 1947年9月撮影の空中写真を見ると、1945年3月の東京大空襲の焼け野原の中で、この谷底街の西3分の1くらいは焼け残ったように見える。

 この町の歴史をちょっと調べたら、江戸時代は「我善坊丁」と記してあり一般に「我善坊谷」とよんでいた。明治になって1872年に「麻布我善坊町」と町名をつけたが、この時の戸数は46、人口233、物産に皮鼻緒があった。戦後の1974年に町名変更で「麻布台1丁目」になった。(角川地名大辞典)

 江戸の切絵図を見ると、この谷底の地は「御先手組与力同心大縄地」と記されている。「御手先組与力同心」とは、今でいう警察官の役割を持つ下級武士で、奉行の下に与力がいて、与力の下に同心がつく。大縄地とは集団用地であり、その与力同心のグループは谷底の地を一括して与えられたようだ。
 ここの警官隊は「鉄砲(つつ)組」だったそうである。江戸時代にはこの谷底の街は、鉄砲隊の警官社宅群だったことになる。
 与力同心大縄手なる書き込みは処々にあるから、警察の管轄する機能とエリアごとの集団が、それぞれ軍団をつくって住んでいたらしい。


 1876年制作の明治東京全図を見ると、谷底は間口の狭い短冊形の敷地が並んでいる。江戸幕府の下級役人がそのまま住んでいる庶民の街のようだ。
つまり江戸時代の地割が近代東京へとそのまま移行して、庶民の住宅地に替わっていったのである。東京が過密になるにつれて、短冊形の敷地はさらに分割されて、小規模住宅地へと移っていく。

 ところが、この両側の台地の上は、谷底街とは極端に異なる大きな地割である。大きな地割だから、再開発をしやすかったので大規模な建物群が建つことになった結果が今の風景である。
 江戸切絵図を見ると、南の飯倉台地には出羽米沢藩上杉家が、北の千石山台地には陸奥八戸藩南部家と但馬出石藩仙石家が、それぞれ中屋敷や上屋敷を構えていた。
 いずれも谷底の下級武士の短冊土地とは比べ者にならない広大な敷地である。
 谷底街と台地街との間には、なんの関係も交流もなかったに違いない。いまも上下をつなぐ道が極端に少ないことに現れている。

 1876年制作の明治東京全図には、北の台地には大きな屋敷地があり、仙石正固と記されている。この人は但馬出石藩の最後の殿様だったから、明治になっても元の上屋敷に住んでいたのだろう。
 その隣には静寛院宮とあるは、将軍家茂の奥方だった人である。つまり皇女和宮で、公武合体の政治の渦に巻かれたひとで、若くして夫家茂に死に別れてから、この地の陸奥八戸藩南部家に住んでいた。
 反対の南の飯倉台地の、出羽米沢藩上杉家跡(今の郵政飯倉ビルのところの)は地番しか書いてないが、その東隣に伊東祐亨とあり、初代連合艦隊司令長官を務めた人である。

 丘の上には大きな屋敷に貴賓が住み、谷底には貧民だったかどうか知らないが、庶民が身を寄せる様にして暮らしている。
 これは人が変わっただけで、江戸時代と同じ社会構造であったろう。丘の上と下は社会的にあまりに格差があり、何の関係もなかったようだ。
 その姿はそのまま現代の都市景観となって引き継がれている。

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伊達美徳=まちもり散人
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