2013/07/28

814【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・7】我善坊谷の未来を勝手に想像する

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7.我善坊谷の未来を勝手に想像する

 我善坊谷の北の丘上の六本木から赤坂にかけては、巨大開発でどんどんと地形も風景も変化が激しい。しかも、東京都心に近いほうからだんだんと南に開発が進んで来る。その最前線の真正面にあるのが、今や我善坊谷である。

 いったいどうなるのだろうか、都市計画はどうなっているんだろうかと、ネットをうろうろと徘徊して探す。現場がどうなのか全く知らない。インタネットだけが頼りである。

 というか、よほど面白いことでもないと(永井荷風の女のような)、それ以上の努力はしないのである。
 港区の公式サイトに、2012年策定の「六本木・虎ノ門地区まちづくりガイドライン」なる計画が乗っていて、ここに我善坊谷も含まれているので、これがまずは基本であろうと読んでみた。

  と言っても、こういう類のものは、わたしも作った経験があるから知っているが、初めのほうのあれこれと書いているお題目はどうでもよくて(よくはないのだが、面白くない)ので、我善坊谷あたりの図を拾うことにした。
 まず、この六本木・虎ノ門あたりの開発状況図である。
 まったくすごいものである。このうちどれが森蛭森虎兄弟の事業かわからないが、半分以上はそうだろう。
 この図の南のほうの「虎ノ門・麻布台地区」のピンクゾーンの開発検討地区が、我善坊谷である。
 これで見ると谷の西のほうは除外されていることがわかる。東のほうは桜田通りまで入れているのに、この除外にはどんな事情があるのだろうか。

 ====この続きと全文はこちらあるいはこちらからどうぞ====
 これまで麻布我善坊谷の連載をして来たが、一段落して一部追加訂正もして再編集、「我善坊谷今昔未来譚」と改題して「まちもり通信」2013年8月号「まちもり瓢論」として掲載した。

【東京路地徘徊】
麻布我善坊谷風景今昔未来譚

<徘徊人> まちもり散人

全目次
麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その1)
1.徘徊老人が“発見”した東京の谷底街
2.我善坊谷底の落合坂を西から東へ歩く


麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その2)
3.我善坊谷の北側の風景を鑑賞しながら行く
4.我善坊谷の南側の風景を鑑賞しながら行く

麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その3)
5.我善坊の谷底と丘上の昔
6.我善坊谷の住人たち
 
 ◆麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その4)
7.我善坊谷の未来を勝手に想像する

 

2013/07/26

813【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・6】我善坊谷の住人たちー永井荷風をだました女

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6、我善坊谷の住人たち-永井荷風をだました女

 江戸時代は下級武士の住まいと分かったが、特定の人名までは分からない。もしかしたらなにかの捕り物の時代小説に、ここの街と人が登場しているかもしれないが、わたしは知らない。
 昭和のはじめ、我善坊谷の東の端に住んでいた、ひとりの女のことがわかる。あのスケベで徘徊好きな小説家の永井荷風(1879-1959年)が身受けして囲った、若い芸者上がりの女である。
 前に谷の上と下とは交わらないと書いたが、もう80年ほども前のことだが、この谷間の街と丘の上の街とを、ちょっとだけ交わらせたのが荷風散人であった。

 永井荷風は1920年5月から1945年3月の空襲まで、北の台地の西のほうの麻布市兵衛町に、「偏奇館」と名付けた家を建て住んでいた。偏奇のいわれは、木造洋風下見板の洋館風の建物で、外壁がペンキ塗りだったことによるという。
 1927年、丘の下の我善坊町を東に抜けたところある西久保八幡神社のふもとの裏路地に小さな家を借りて別宅を持った。「壺中庵」と名付けて、身請けした芸者だった女を囲って、本宅とここを頻繁に行き来していた。荷風48歳、女は22歳であった。

 荷風は30歳代に2度の結婚と離婚をしたあとは身を固めるのをやめたから、今風でいうところの不倫相手ではない。愛人というところか。「独り我善坊の細道づたい」(『断腸亭日乗』1927/10/21)に通う、平安時代の貴族の男のようであった。
 「此のあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る」(『断腸亭日乗』1927/11/08)

 荷風は有名小説家だし、女遊びも盛んで、硬軟いろいろな来客が本宅にやってくる。会いたくない人がくると裏から逃げ出して、丘から下って別宅に隠れた。
 多分、我善坊坂をトコトコ下ったのだろう。別宅は憩いの隠れ家であり執筆の場でもある。そこからまた女を連れて繁華街に遊びに出るのであった。

 もっとも、4か月ほどで女が店を持ちたいというので、三番町にあった待合を買って経営させるようになったので、壺中庵は引き払って荷風も我善坊谷には用が無くなった。
 偏奇館と壺中庵の位置


旧偏奇館近くにある集合住宅ビル前にある銘板

   ここで話がちょっと逸れる。
 玄人女性遍歴の多い荷風だったが、この26歳も違う女とはうまくいっていて、死に水を取ってもらおうかと思っていたほどだが、4年あまりで突然に奇妙な別れ方をする。
 ある日のこと、壺中庵を訪ねた荷風とともに遊びに出ようと女が、タクシーで気絶して、病院に運んでしばらく入院したのである。ところが医者は不治の精神障害だと診断し、戻った女の日常挙動もおかしいので、荷風は仕方なく別れたのである。

 別れるにあたって、荷風は未練がましい思いを何度も綴っている。金銭的なごたごたもあったらしいが、とにかくきれいさっぱりと別れた。
 荷風はこの女のほかにも玄人女たちとごたごたしているが、別れるときはいつもお抱え弁護士を間に入れて処理している。親の遺産の利子で暮らしている金持ちなのに、いや、だからこそか、金銭にはきちんとしたひとだったらしい。

 これで我善坊谷あたりと荷風の物語は終わるのだが、面白い後日譚があるので書く。
 それから半世紀あまり後の1959年、雑誌「婦人公論」にこんなインタビュー記事が載った。語るのは関根歌、つまり荷風が別れたその人である。わたしは物好きにも県立図書館にこれを読見に行った。 
 「……。そんなことがあってから、私は仮病を使って日本橋中洲の病院に二ヶ月ほど入院しました。……私が気ちがいになってしまったと先生はほんとうに信じこんでいたようです。私自身としては、そうでもしなければどうしようもなかったのです」(関根歌『婦人公論』昭和34年7月号「日陰の女の五年間」)
 女が書いている「そんなこと」とは、荷風の女癖の悪さとか性的変態趣味のことである。本当の理由はともかく、別れたくなって仮病を使って荷風をだまして、別れに持ち込んで成功したというのである。

 ところが、まだ続きがある。
 わたしの本棚に『荷風全集第20巻』(岩波書店、1972年)「断腸亭日乗2」があり、上記の事件がこの巻に当たるので取り出したら、「月報」がはさまっていて、その記事に「丁字の花」という一文があり、筆者は関根歌とある。
 昔を思い出して懐かしがっているし、戦後にも荷風に会ったと書いている。そしてここにも別れた事情を書いている。
 「あの日記に書かれていることは、わたしが知っている限りみんな本当のことだと思いますが、ただひとつ、わたしにとって心外なのは、わたくしを気狂い扱いにしている件りです。産婦人科のお医者様の診断を鵜呑みにされていたことを知って、戦後お目にかかりました時に、その旨お恨み申しましたら、「どんな立派なお医者さんにも誤診はあるよ。それより今元気なのが何よりです」と言って、笑われました」

 ここで彼女が言うには、精神障害だったとは医者の誤診であり(仮病ならばそのとおりだが)、気を失ったのは、その日に大森に遊び(浮気をほのめかしている)に行って昼酒を飲んで帰ってきて、荷風にばれないように息をつめているうちに、酔いが回りすぎて倒れたのが発端だったという。
 仮病ではないというのだ。まあ、どちらにしても女が別れたくなってひと芝居を打ったらしい。女は本当に医者に誤診させるほどの名演技だったのか、あるいは医者とグルであったのか。

 荷風が本当に医者の誤診を信じたのかどうか、待合の女将になってカネのかかるようになった女と縁を切る仕掛けだったのかどうか、荷風日記に書いている愁嘆の言は本当なのかどうか。
 遊び人文士と芸者上がり女との男女虚虚実実の、まさに『腕くらべ』(1916~17年作)であったのかもしれないと、下世話などうでもよいことだが気になる。

 永井荷風のゴシップ話が長くなったが、我善坊の谷底街には、二人の文士が居たことがわかっている。岩野泡鳴(1873-1920年)と正宗白鳥(1879-1962年)である。
 わたしはこの二人の名前くらいは知っているし、うちの本棚の文学全集のなかにもあるのだが、全く読んだことがないので、ネットにひっかかったことだけ書いておく。

 白鳥と泡鳴とは同時代で文壇での親交があり、共に自然主義文学の系譜であった。永井荷風は文壇嫌いだったから、二人とはどうだったのだろうか。
 岩野泡鳴は、1916年(37歳)から1920年(41歳)まで麻布我善坊町10番地に住んだ。父親が取得した下宿屋兼住まいを相続したのであった。ただし、彼の書いた自伝的私小説を読むと、その期間中にどれくらい住んだのか分らない。無頼の文士は、何やらごたごたした家庭であったらしいが、その間に精力的に創作活動をしている。

 正宗白鳥は1916年から麻布我善坊町10番に住んだとあるが(『時事新報』大正5年9月8日号「文芸情報」)(注)、これは泡鳴と同じ番地である。泡鳴の下宿屋だったのだろうか。
 白鳥がいつまで我善坊に住んでいたかは、調べがついていないのだが、「我善坊より」、「我善坊にて」という作品がある。
 泡鳴と白鳥の我善坊における暮らしについて知るには、二人の作品を読まなければなるまいが、そこまでやるのはめんどくさい。
(注):この件は下記ネットページに記載がある孫引きである
http://libopa.fukuoka-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10780/416/1/uryu_41_1.pdf

(つづく。この後は我善坊の未来について書くつもりだが、実は全くわからないので、そのうちにわかったら書くことにする)


我善坊谷シリーズ総集編
麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その1) 
(その2)  (その3)  (その4) (2013/07)

2013/07/25

812【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・5】谷底と丘上の交わらない二つの街の歴史

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5.谷底と丘上の交わらない二つの街の歴史

 我善坊谷の両側の丘は緑の稜線ではなく、北の崖上には仙石山テラスという森ビルの再開発事業による超高層住宅やら超高層オフィスビルやらが建って、この谷間を睥睨している。
 その姿は、丘の向こうにやってきたゴジラが、これからこちらの谷に足を踏み出そうとしているスケールである。そうか、ゴジラじゃなくて森蛭が巣食っているのだな。このあたりから北にかけて虎ノ門あたりまでの一帯は、森蛭・森虎兄弟がはびこるショバであった。この谷底もそうであって当然だろう。

 森ビルのサイトを見たら、やはりこの谷底地にも既に法定の市街地再開発準備組合を発足させているのだった。アークヒルズ以来連綿と続けている森ビル流の再開発事業をやるのだろう。

 空き家が多いが空き地が比較的少ないのは、それらの撤去や整地に市街地再開発事業による補助金をつぎ込むほうが、採算的に得だとみているからだろうか。
 その法定再開発事業がいつ認可になるのか知らないが、再開発を待っているらしい古ぼけた家屋が立ち並び、空き家には緑の蔦が生い茂る谷底の風景は、丘の上が現代風の巨大ビルになっていることと比べると、もしかしたら今や貴重な江戸東京風景であるかもしれない。
 ということは、この路地の風景も賞味期限は残り少ないのだろう。消える前の残照を、生きているうちに鑑賞できて良かった(それほどでもないか)。わたしは感傷的になるのではなく、今この姿をここに記録しておこうというだけである。

 それにしてもこの谷間の風景は、1945年の東京空爆で一度は燃えて消えたのだろうが、街の構造は江戸の街から続いているような気がしてきた。
 1947年9月撮影の空中写真を見ると、1945年3月の東京大空襲の焼け野原の中で、この谷底街の西3分の1くらいは焼け残ったように見える。

 この町の歴史をちょっと調べたら、江戸時代は「我善坊丁」と記してあり一般に「我善坊谷」とよんでいた。明治になって1872年に「麻布我善坊町」と町名をつけたが、この時の戸数は46、人口233、物産に皮鼻緒があった。戦後の1974年に町名変更で「麻布台1丁目」になった。(角川地名大辞典)

 江戸の切絵図を見ると、この谷底の地は「御先手組与力同心大縄地」と記されている。「御手先組与力同心」とは、今でいう警察官の役割を持つ下級武士で、奉行の下に与力がいて、与力の下に同心がつく。大縄地とは集団用地であり、その与力同心のグループは谷底の地を一括して与えられたようだ。
 ここの警官隊は「鉄砲(つつ)組」だったそうである。江戸時代にはこの谷底の街は、鉄砲隊の警官社宅群だったことになる。
 与力同心大縄手なる書き込みは処々にあるから、警察の管轄する機能とエリアごとの集団が、それぞれ軍団をつくって住んでいたらしい。


 1876年制作の明治東京全図を見ると、谷底は間口の狭い短冊形の敷地が並んでいる。江戸幕府の下級役人がそのまま住んでいる庶民の街のようだ。
つまり江戸時代の地割が近代東京へとそのまま移行して、庶民の住宅地に替わっていったのである。東京が過密になるにつれて、短冊形の敷地はさらに分割されて、小規模住宅地へと移っていく。

 ところが、この両側の台地の上は、谷底街とは極端に異なる大きな地割である。大きな地割だから、再開発をしやすかったので大規模な建物群が建つことになった結果が今の風景である。
 江戸切絵図を見ると、南の飯倉台地には出羽米沢藩上杉家が、北の千石山台地には陸奥八戸藩南部家と但馬出石藩仙石家が、それぞれ中屋敷や上屋敷を構えていた。
 いずれも谷底の下級武士の短冊土地とは比べ者にならない広大な敷地である。
 谷底街と台地街との間には、なんの関係も交流もなかったに違いない。いまも上下をつなぐ道が極端に少ないことに現れている。

 1876年制作の明治東京全図には、北の台地には大きな屋敷地があり、仙石正固と記されている。この人は但馬出石藩の最後の殿様だったから、明治になっても元の上屋敷に住んでいたのだろう。
 その隣には静寛院宮とあるは、将軍家茂の奥方だった人である。つまり皇女和宮で、公武合体の政治の渦に巻かれたひとで、若くして夫家茂に死に別れてから、この地の陸奥八戸藩南部家に住んでいた。
 反対の南の飯倉台地の、出羽米沢藩上杉家跡(今の郵政飯倉ビルのところの)は地番しか書いてないが、その東隣に伊東祐亨とあり、初代連合艦隊司令長官を務めた人である。

 丘の上には大きな屋敷に貴賓が住み、谷底には貧民だったかどうか知らないが、庶民が身を寄せる様にして暮らしている。
 これは人が変わっただけで、江戸時代と同じ社会構造であったろう。丘の上と下は社会的にあまりに格差があり、何の関係もなかったようだ。
 その姿はそのまま現代の都市景観となって引き継がれている。

つづく、次は我善坊谷の人々

◆参照麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その1)(その2)(その3)(その4)(2013/07)


2013/07/24

811うな丼の鰻が茄子に化けても面白がる時代になってよかった

 鰻の蒲焼きの鰻の代わりに、茄子の蒲焼ってのがあって、その茄子蒲焼丼がけっこう人気だと新聞報道にある。
 それで思い出したのが「代用食」って言葉。鰻の代用食の茄子。
 でも考えてみると、これは違うなあ、代用食ってのは1945年の敗戦直後あたりから、わたしもお世話になった食い物だ。

 戦争で食料生産力が衰えてしまったので、飢えから逃れようとの一生懸命さがこもった食い物だった。米の飯の代用として、麦の粥だったり、蒸かした薩摩芋だったり、芋の蔓だったり、かぼちゃだったり、すいとんだったりした。食卓にこれらが同時に3つ以上登場することはなかった。

 茄子の蒲焼丼は代用食ではなくてコピー食品である。遊びの余裕がある。食わなくても飢えることはない。他の食い物がいっぱいある。そこが代用食とは大きく異なる。
 鰻と茄子の値段はどれくらい違うか知らないが、ビフテキとラーメンの差より大きいか。そうだ、ビフテキの牛肉の代わりに茄子ってのもあるかもよ。この材料の落差が大きいほど遊び感が大きい。

 まあ、平和な時代になったもんだ。
 
 

2013/07/21

810【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・4】谷間の底の落合坂を行く(その3)南の路地とその上に見えるレトロ建築


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4.落合坂を行く(その3)我善坊谷の南の風景

 さて、こんどは落合坂の南側の風景を、またあらためて西側から東へ見ていこう。
 南側の路地そのものは、北側と大差はないのだ。奥に15mも行けば飯倉台の崖下に突き当たる。

 こちらの飯倉台の上にも工事中の超高層建築が見えるが、
尾根を越した狸穴あたりらしい。

路地の突き当りの崖の上に重厚なレトロっぽい建物が姿を見せた。
日本郵政飯倉ビルである。

郵政飯倉ビルは4階建てだがかなり横に長い。
北側と違ってこちらには超高層建築は姿を見せない。

路地の奥に入ってツタが絡まる廃屋の横の崖下から
崖上の日本郵政飯倉ビルを見上げる。

東京駅前の中央郵便局のように、この日本郵政飯倉ビルも建て替えるらしい。
そうしたら下半身に今の姿をコピーした超高層建築になるのだろう。
これは以前に撮った日本郵政飯倉ビル。
もともとは1930年に建った逓信省貯金局庁舎。
逓信省建築にしてはちょっと古典的な風貌を持っているのは
設計が逓信省ではなくて大蔵省営繕管財局だからだろうか。

蔦の絡まる空家、崖地の緑、崖上の西洋館がなんとなく調和する風景
この飯倉ビルはこちら側は完全に裏なのだが全く手を抜いていないのは、
がけ下からの眺め、あるいは仙石山からの眺めを意識したのだろうか。


路地の奥にツタの絡まる木造アパート
 その奥まで入ってみると廃墟感に迫られる

空き家の玄関には森ビルの張り紙

三年坂までやってきたのでちょっと登る

差年坂から振り返って我善坊谷を西に望む。
左に飯倉台の上の日本郵政飯倉ビルが見え、
向こうの一番高いビルは東京ミッドタウンらしい。
右は仙石山の上野森ビルによる再開発ビル。
この民間を超高層ビルが埋める日がいつか来るらしい。

三年坂を戻って下り、右の二つの大きな建物は霊友会、
正面の森は飯倉台の尾根の東端部にある西久保八幡神社。

近づいてみて驚いた。霊友会の建物は飯倉台の上にあるのではなくて、
この尾根をストンと谷底レベルまで断ち切ってしまって建っているのだ。
だから西久保八幡神社の霊友会側の丘の下に大きな高い擁壁が建っていて、
神社は尾根の上ではなくて今や島の上に建っているのである。
尾根の先端部に神社が建つのは古代からの岬信仰の伝統を背負っている。
ここでは岬をちょん切られて島になった神社はどうなっているのだろうか。


このあたり地形図を探したら港区のサイトにあったが、
霊友会釈迦殿ができる前の地形のままなのでここで訂正しておいた


霊友会を過ぎるあたりに来ると空き家が目立ってくる

上の写真の建物の向こう側に回ってみた。

路地の奥に八幡神社に登る細い石段があり、そこから振り返ってみた風景
 路地から振り返って北を見た風景

路地探検を終えて気になる西久保八幡宮に行ってみる。
桜田通りに面したビルとビルの間の参道から岬の上に石段を登る。

登ってこれが西久保八幡神社社殿、おお、これはすごいことになっている。
黒服霊友会釈迦殿が手錠を振りかざして社殿に覆いかぶさる。
岬信仰の神社は社殿背後の山を拝むが、ここは神仏混淆で釈迦を拝むのか。
新旧ふたつの信仰の場が競合して、なんとも奇妙な景観を生んでいる。
それにしても釈迦殿設計の建築家(竹中工務店)はどう考えたのだろうか。
真っ黒で異様なる巨大建築で我善坊谷の風景にひずみを生じさせ、
隣接する歴史的な背景を持つ神社の景観を破壊している。

つづく。 次は我善坊谷とその周辺の歴史的考察

◆参照麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その1)(その2)(その3)(その4)(2013/07)

2013/07/19

809【東京路地徘徊:麻布我善坊谷・3】谷間の底の落合坂を行く(その2)崖の上下の極端な出会いの風景

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3.落合坂を行く(その2)我善坊谷の北側風景

 この谷底街を東西方向に貫く幹となる落合坂から、東西方向の左右に枝となる幅1間足らずの路地が何本も出る。落合坂に面する各敷地の形は、間口が狭くて奥行きが深い短冊状なので、敷地の奥にも何軒も住宅が建っている。そこにアプローチするために路地ができたのだろう。
 その路地の奥行き長さ10~20メートル程度で、南北ともにそれぞれ飯倉台地と仙石山の崖下に突き当たって、行き止まりになる。

 この路地の奥から台地の上に登ることができる坂道は、北に我善坊坂、南に三年坂という名の坂道が、南北それぞれ一か所しかない。階段でも急坂でも技術的にはつながりそうなものだが、要するに歴史的に上下の街をつなぐ土地利用の必要がほとんどなかったのだろう。
 その谷底と丘上との社会的乖離の事情に、おおいに興味をそそられる。

 谷底の街並みは、木造家屋やアパートが多いが、建ててから年数の経ったような共同住宅ビルもいくつかある。
 なお、谷の東西の出口あたりに高層のビルが集まるのは、放射2号と桜田通りの広い道路があることと、その道路沿いの都市計画による容積率が谷の中よりも高いことによる。

 わたしは西側から入って東に抜けたのだが、だんだんと人の気配が無くなって、東に寄るほど空き家、空き地が多くなってくる。たいていの空き家には、「立ち入り禁止、巡回監視中、森ビル」との貼り紙がある。森ビルが買い取ったのか、それともなにかの都合で管理しているのか。

 空き家のままにしておく理由で考えられることは、法制度による市街地再開発事業をおこなうので、事業前に取り壊すよりも、事業が始まって壊すほうがいろいろと都合がよいということかもしれない。
 実は後で調べたら、この地区には市街地再開発準備組合が結成されているのであった。どのような街になるのかまでは分からないが、アークヒルズや六本木ヒルズのような、森ビルが主導する再開発予定の地域であるようだ。

 東京の高級住宅地イメージの麻布台なんて、しゃれた名前の街のくせに、谷底街だし、空き家だらけだし、人影はめったにないし、なんだか異界の感じもする。
 しかし、人はそれなりに住んでいるようだ。決してゴーストタウンではない。共同住宅のバルコニーには洗濯物があるし、路地の奥ではなにか家事をしている人の姿も見かける。
 ただ、人が住まない家に蔦が絡み、冒頭に書いたような緑の家がいくつの登場してくると、なんとなくゴーストタウンへと進んでいる(退行している)気配が感じられるのである。
 特に北側には、仙石山の上の超高層建築群が立ち並んで見えて、谷底の狭い路地と低い家々を覗き込む風景が続く。それはゴジラの群れが谷に足を踏み入れて、いまや踏み潰そうとしているかに見える。

 もういちど我善坊谷の地図である。

ついでに我善坊谷の空中からの全景も見ておこう。(いずれもgoogle earth)


では、我善坊谷北側の崖の上下の対比の風景をどうぞ。消えゆく風景の記録写真である。 わたしはこういう極端な対比の風景を、あちこちで面白がって蒐集しているのだが、ここではたくさんの収穫があった。




吉田苞竹記念館に付属する由緒ありそうな木造建築と後に土蔵が見える





 落合坂を西にやってきて我善坊坂を見上げる
 我善坊坂

我善坊坂の途中から振り返って南を見ると釈迦殿と東京タワーが見える

我善坊坂から東は空き地が多くなる


桜田通り近くになると北の仙石山は低くなり、城山開発あたりが見える
突き当りは大養寺の下あたり
 大養寺の下あたりは路地から更に狭い路地が派生する

路地の奥には空き家に挟まれて稼働している町工場もある



このあたりは空き家が増えてきて、それらにこの張り紙がある

こうやって北側の風景を見てきて、崖の上には超高層建築が建ちなら巨大開発があり、崖の下に中低層の建築群の町並みが立ち並ぶ、その風景のあまりに対照的なことを楽しんだのである。
 地形が複雑な東京という都市における、都市化の変化の歴史的動きを、実にわかりやすい対比で見せてくれている。

そしてその変化をリードしている企業がいる。このあたりのディベロッパーである森ビルによる事業であるらしいのだ。崖の上の超高層ビルの多くは、江戸時代から現代に引き継いできたいくつもの大名屋敷跡の広大な敷地を種にして、それらの周りの小宅地を合わせて統合しつつ広大な用地をまとめた現代都市再開発の現れである。
 そして、崖下の街もまた森ビルによる空き家巡回警備の貼りり紙で見るように、次の変化をリードしつつあるようだ。
 この森ビル再開発のことはことは後でまた考察したい。
つづく、次は南側の崖上下の風景

◆参照麻布我善坊谷風景今昔未来譚(その1)(その2)(その3)(その4)(2013/07)