2012/11/25

693【東北被災地徘徊譚3】東松島野蒜で思う:自然と人間はどう折り合って持続する環境を維持できるのか

  ここに1枚の写真がある。広い海の風景のようである。

 今月の初め、わたしははじめて当方被災地を訪れた。小さな復興ボランティア活動に合わせて被災地を見物してきた。まさに見物であり、よく言えば見学、見て学ぶことであった。
 仙台からJR仙石線に乗って東へと向かう。途中の松島海岸駅で代行バスに乗り換える。つまり、震災でここから先が復旧していないのだ。ここまでは被災の姿が見えなかった。

 しばらくバスが走ると、あたりはまだ売れていないと見える宅地分譲地の草原になったが、そうではない、津波にさらわれてしまった街が、瓦礫塵芥がかたずいた風景である。
 バスは普通の線の跨線橋の上に上がって見晴らしがよくなった。と、海の景色が開けたと思ってとったのがこの写真である。
 だが海にしては、家が建っていたり区画が見える。あ、これは津波後に海面下になった土地なのだと覚った。

 実はそのあたりに行ったのは初めてで、土地勘が全くない。どこをバスが走っているのかさえその時はわからなかった。
 戻ってから調べた。現代は「貧者の百科事典」たるインタネットウェブサイトが充実していて、なんでも出てくる。
 そしていろいろなことが分かった。縄文遺跡、塩田開発、野蒜築港、航空自衛隊基地など、この地域には長い長い水と陸と人との戦いの歴史があったのだ。
 そしていま、この地の人々は縄文時代に戻ろうとしているらしい。これはまことに考えることが多い風景である。

このエッセイの全文は
「ー地震津波被災地を見て思う―自然と人間はどこで折り合って持続する環境を維持できるのか」
http://goo.gl/MioUb
●関連
691【東北被災地徘徊譚2】森の長城で大津波に備える市民プロジェクトが動き出した
http://datey.blogspot.jp/2012/11/691.html
・689【東北被災地徘徊譚1】石巻で映画「猿の惑星」の主人公になった眩惑に
http://datey.blogspot.jp/2012/11/689.html
・地震津波火事原発コラム
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin

2012/11/19

692相模湾の虎が暴れる前に世界遺産鎌倉の海岸に森の長城を造りたい

●鎌倉の世界遺産登録推進ワークショップ
熊五郎 ご隠居、寒くなりましたねえ。
ご隠居 この鎌倉の裏長屋にも、表のマンションにも、冬は公平にやってくるね。
熊 今年も鎌倉世界遺産登録推進の「市民ワークショップ」ってのがありましてね、行ってきましたよ。
隠 おお、そうかい、始めてからもう6年で6回目だね、市民の参加はどうだった。
熊 今年はちょっと少なかったですねえ。やはり、とうとう登録の申請が出されたってことで、市民も安心したのでしょうかねえ。
隠 いま日本から富士山と鎌倉が、世界遺産登録審査にかかってるんだったね。来年6月、どっちも登録になるか、それとも富士山だけが登録で、鎌倉は置いてけぼりを食うか、かたずをのんで待ってるってところだね。
熊 外国人への有名度じゃあ、カマク~ラダイブ~ツはフジヤ~マゲイシャにはちょっと負けるかもなあ。
隠 いまどきそういうレベルでもあるまいよ。で、熊さん、ワークショップでどんなこと言ったんだい。
熊 そうそう、それですよ、まあ、聞いてくださいよ。今回は鎌倉が世界遺産登録になった後のことを考えようってことでした。
隠 なるほど、登録されっぱなしじゃなくて、市民がそのあとどうするべきかってことだな。
熊 そうなんですよ、それで思い出したのが、ご隠居が先日行ったっていう東北のどんぐり拾いのことですよ。
隠 ああ、東北の津波被災海岸部に沿って300kmの防潮堤をつくるってんで、そこの森にする樹木の種を拾いに行ったんだな。宮脇昭先生が提唱する「森の長城」プロジェクトだよ。それがどうして世界遺産の話になるんだい。

●世界遺産鎌倉を守る森の長城を
熊 考えてみりゃ、鎌倉だって津波被災地になったかもしれないし、明日にでもなるかもしれませんよ。なんでも相模湾に虎がいて暴れると津波が来るって話でしょ。
隠 虎じゃなくてトラフだろ。でもその通りだねえ、。
熊 せっかく世界遺産登録になったとたん、地震津波がやってきて街が全部こわれちまったってことになったら、どうするんです、ねえ、ご隠居、ねえ。
隠 わたしに迫られても困るよ、相模湾のトラに聞いとくれ。でも先日、被災した石巻や七ヶ浜を見てきたが、いつの日か鎌倉もああなるかもしれないのは、だれも否定できないね。
熊 でね、あっしはご隠居の話を聞いてたからね、ワークショップで提案したんですよ、世界遺産登録になった鎌倉を津波から守るのが登録後にやることだ、だとしたら由比ヶ浜から材木座の海岸に「森の長城」を築くしかないよっ、緑の山脈が3方を囲んでいるから、海のほうにも土手の山脈を築いて常緑の森をつくって津波に対応しましょうよって。
隠 おうおう、お前も言うねえ、それで鎌倉の街は四方が緑に囲まれるんだな。考えてみれば鎌倉時代は海岸線はもっと内にあったし、一の鳥居あたりが高くなってるのは、砂丘が続いていてずっと松林だったんだろうなあ。
熊 そうそう、それを復元するんですよ、東北では松林が根こそぎ倒れたから、こんどは根の深いシイの木やタブの木などの常緑広葉樹の森にするんですよ。
隠 で、ほかの人はそれについて、どう言ってたんだい。
熊 鎌倉は街と海が続いているのが良いのに、それが森の長城でとぎれるのはどうもねえ、というお方もいましたね。
隠 もっともだねえ、海と暮らしとが密接なところが鎌倉のいいところだからねえ。それに由比ヶ浜沿いには長城を造るほどの余裕のある土地がないだろ。海の埋め立てとか宅地の買収は無理だしね。

●一石二鳥の森の長城
熊 あっしはこうしたらいいと思うんですがね、ほら、海岸を走ってる国道134号ね、こいつに丸い蓋をかけてトンネルにするんですよ、その上にこんもりと土をもって木を植えて「森の長城」にする、どうですこれは。
隠 あ、今は134号が街と海を途切れさせているのが、そうすると森でつながるね。砂浜から森の長城まで一続きのレクリエーションの場にすると、緑の環境と津波防災の一石二鳥だねえ。
熊 どうです、こいつあ、ほれぼれするほど凄いいいアイデアでしょ、えへんえへん。
隠 おまえね、威張ってるけど、もとはあたしの東北どんぐり拾いにヒントを得たんだろ。
熊 マア、そうですがね。それに国道を地下にしようってアイデアは昔からあるんですね。
隠 だからいいんだよ、そうやってみんなでいろいろ考えて、森の長城を造っていきたいね。ところで神奈川県にはすでにそうやって樹木を植えた森の長城があるんだよ、知ってるかい。
熊 え、どこなんです。
隠 その国道134号の続きの藤沢から平塚まで11㎞ちょっとの湘南海岸の防砂林だよ。松と常緑広葉樹の混交林で、植えて25年ほどだけど立派な森になっているよ。
熊 へえ、しょうなんですか、知らなかった。とにかく、鎌倉が世界遺産になろうがなるまいが、相模湾のトラが吠える前に森の長城を造りたいですね。

もしも鎌倉の由比ヶ浜と材木座の海岸に緑の長城を造ったら

湘南海岸「飛砂防備林」(藤沢~茅ヶ崎)
この緑の長城の標高は6m程度、樹高は4~8m、津波に対応できるか

●参照外部サイト、ページ
・森の長城プロジェクト
http://greatforestwall.com/

・神奈川県サイト:湘南海岸防砂林
http://morinobouchoutei.com/?page_id=169
・鎌倉市津波浸水予測図暫定版
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/sougoubousai/documents/tsunamib3.pdf
・鎌倉世界遺産登録推進協議会
http://www.kamakura-wh.org/

●参照伊達サイト・ページ
・森の長城で大津波に備える市民プロジェクトが動き出した
http://goo.gl/vK7RY
・裏長屋の世界遺産談義
http://homepage2.nifty.com/datey/kama-sekaiisan.htm
・609森の長城が津波災害を防ぐ
http://datey.blogspot.jp/2012/04/609.html
・611震災ガレキによる森づくりで思い出す
http://datey.blogspot.jp/2012/04/611.html
・578鎌倉世界遺産正式推薦へ
http://datey.blogspot.jp/2012/01/578.html

2012/11/17

691【東北被災地徘徊譚2】森の長城で大津波に備える市民プロジェクトが動き出した

●どんぐり拾いに東北へ
熊五郎 こんちわ、ご隠居、この裏長屋も寒くなってきましたね。ちょっと見なかったけど、どちらか旅だったんですか。
ご隠居 おや熊さん、いらっしゃい。ああ、ちょっと仙台から塩竈、石巻あたりに行って徘徊老人をやってたんだよ。
熊 それって、もしかして大震災被災地見物ですか。
隠 そうともいえるが、実は震災復興ボランティア活動に行ったんだよ。わたしはどうも東北にはこれまで縁がなくて、どこで何をすればよいかわからないままに、1年と8か月も過ぎたんだね。
熊 去年3月11日から、もうそんなに経ったんですね。
隠 そんな時、どんぐり拾いボランティア募集ってのを、インタネットで見つけてね、これなら徘徊老人のわたしに向いていると、被災地見物もかねて行ってきたんだよ。実は震災以来初めてなんだよ。
熊 えッ、どんぐり拾いなんて子どもの遊びでしょ。なんで震災復興ボランティアなんですか。
隠 それはね、どんぐりは冬も緑のシイの木から落ちた実だろ、これをたくさん拾ってきて、芽を出させて苗木をつくるんだな。その苗木を津波が来た海岸にずらーっと植えようってんだよ。
熊 へーっ、そんな苗木で津波を防ごうってんですか、そんなの無理無理。
隠 まあ、お聴きよ、津波の来た海岸に沿ってね、中国の万里の長城のように長い長い土手というか、土塁をつくるんだよ、、

この続きと全文はhttp://goo.gl/vK7RY
「森の長城で大津波に備える市民プロジェクトが動き出した」

2012/11/15

690後期高齢初心者になると身体が反応して縁のなかった医者にも行かせてくれる

 とうとう右手首の屈曲回転禁止となった。ギブスがはまったのだ。文字通りハンデイキャップである。指だけが動く。
11月3日の夕暮れに駅前で派手につまづき転んで、6日に医師に診てもらうとⅩ線写真から右手首の骨にひびが入っているとて、取り外し自由の添え木ギブスを付けた。

 あれから1週間、再診して早く治すにはギブスで手首を固定してしまいましょうとなった。ギブスとは石膏のことだが、いまやそんなものは使わなくて、腕に巻きつけた布にしみこませた化学物質が、コチンコチンに固まる仕掛けになっている。

 ギブスをつけるのは2週間程度だというが、手を洗うのも風呂に入るのも、濡らしてはいけないというから、面倒なことである。
 防水手袋を探したのだが、ギブスごとはいる太いものがないのに困った。無理やり伸ばして嵌めるしかない。
 右腕をひねってはいけないのでタオルが絞れないし、重いものを持ちあげるのもいけないのだが、実際は右手を使うのはあまり不自由はない。ギブスがうっとおしいだけである。

 でも、せっかくだからこれを利用して重傷を装って、あれこれと他人にもたれかかることにしよう。あ、何事も形から入るのが大切であるから、どうせなら三角巾で腕をつろうかなあ。
 同情してくれる人がいるといいけど、、。

 それにしても9月から、眼科で白内障手術で両眼にプラスチックレンズ挿入、歯科で欠けた前歯治療でブリッジ架橋、そして外科で両足の親指巻爪治療に続いてこの右腕ひび割れ治療と、連続して医者通いである。

 さすがに後期高齢初心者ともなれば、身体がきちんと反応して、これまでほとんど縁のなかった医者に、連続して行かせてくれるようになるものであるらしい。
 でも、保険料が高いから、まだ2年分くらいを取り戻した感だ。

(追記 2012.11.24)
 右手首のギブスで、水を使うときや風呂に入るときに不自由である。適当な大きさの防水手袋がないから、タオル巻いて腕カバーするなど風呂の時は面倒でしょうがない。
 でも、最近どうやら手首の痛さがほとんどなくなってきたような気がする。タオルを絞るのにも、右手もちゃんとつかんで回せる。骨のひびが治ったか。
 左と比べると若干の違和感はあるが、医者に行ってギブスを外してもらおう。
 1030、はやし整形外科にいくと、ものすごい混みようである。30人くらいが待ち、さらに入れ代わり立ち代わりである。7割がたは老婆である。
 40分ほど待たされてX線撮影4枚、また10分ほど待って診察。「もう治ったみたいです、痛くないし、タオルは普通に絞ることできるし」というと、「全然治ってないよ、子どもでも4週はかかるが、まだ2週、ほれ、この写真、折れてるでしょ」「えー、そうですかあ、よくわからないなあ」「マア、軽いけどあと2週は要るでしょ、毎週XC線撮りに来なさいよ」てなことでギブスを外してくれなかった。
 ああ、まだ半月もこのうっとおしいギブスが続くのかあ。

(追記 2012.12.03)
930、はやし整形外科、まずX写真撮影、医師「痛みはどうですか」、わたし「もう全然ありません」「これで4週間、X線写真では傷は見えません。ギブスを外しましょう」「おお、うれしい」、別室でジョキジョキ切り離す、「痛くないですね」「嬉しいです」「4週間で外せるのは通常より早いですね、傷が浅かった」「それよりも先生に治療がよかった」「風呂の中で手首を曲げる練習をするように、あまり重いものを持ち上げないように、では2週間後に診てそれでおしまいにしましょう」、ギブス後の腕を洗って終わり。460円。ほっとした。

(追記 2013.01.29)
上の追記に書いた「2週間後」に診てもらいに行くのを忘れてしまって、ずるずると正月も越してしまった。忘れるぐらいだから、それでいいんだともいえるが、完全治癒ではなくて若干の違和感がある。さて、診てもらいにいくかどうしようか。

2012/11/13

689(東北被災地徘徊譚1)石巻で映画「猿の惑星」の主人公になった眩惑に見舞われた

 宮城県の石巻は、旧北上川の河口にある港町らしい。石巻駅に降りて、観光地図を眺めたら、なんだか妙な宇宙船のような建物があるらしい。
 あ、そうか、津波被災地の写真でたびたび見た石ノ森章太郎萬画館はここにあるのか、あの風景の街はここかと気が付いた。
 なんの下調べもせずに、朝起きて急に思いたってふらりと、被災地徘徊に訪れたのである。石巻のことは全く知らない。石巻どころかほかの街のことも知らない。

 東北地方に大震災の被害が起きていることは百も承知である。せめて冥途土産に(こういう言葉を使いたい年頃である)に、被災模様を見学に行きたいと思う。
 だが、あちら方面は恥ずかしいほどに地理不案内で土地勘が全くない。知り合いもいない。特に太平洋沿岸部には、一度も行ったことがない。
 神戸の大震災の時は、土地勘あり知り合いありで、すぐに行ったし、繰り返し行った。もっとも恥ずかしながら、野次馬だったが、。
 
  もう1年と8か月もたって、仙台に用事をつくって、ようやくにして沿岸部を訪れて惨状を見る機会をもった。
 だが、どこにどうやって行けばよいか、さっぱりわからないから、とにかく仙石線で東のほうに行けば、途中で気が付くだろうと出かけた。
 仙石線は途中が被災したまま未開通で、代行バスに乗った。これは1995年の2月に訪れた神戸でもそうであった。

 さて、石ノ森章太郎萬画館である。旧北上川河口の中州にそれはあった。
 中州のかつての姿は知らないが、この萬画館があるということは、ほかにも観光的な施設が建っていたに違いない。
 それが荒涼たる荒れ野の島になり、この萬画館とそばのハリストス教会があるだけで、遠くに廃屋が2、3みえる。
 萬画館は荒野に降り立った宇宙船というか、荒れ地に生えた毒キノコの体である。
 この形ならば、津波をさらりと受け流したのかもしれない。どうやら修理中らしい。
 
 と、萬画館から下流部の中州の中に、何やら白い人の彫像のようなものが建っているのが見える。
 こちらに背中を向けて、右手を挙げて何やら赤いものを掲げているのは、もしかして「自由の女神」の像か。でも左下半身あたりが隠れている。 
 水辺に花束があるのは、だれか津波遭難者への供養だろうか。

 荒れ地の中を近づいて見ると、これはまさに自由の女神であった。立派なコンクリづくりの台座の上に立ち、左下半身を失いながらも、トーチを掲げて海のほうを見ている。
 プラスチックの裾広がりの衣類が腰まで破れて、心棒の鉄柱が丸見え、見上げるとスカートの中を覗くようで、なんだかはずかしい。
被災した自由の女神は、どんな出自でここに立っているのだろうか。もしかしてここにはラブホテルが建っていて、そのシンボルだったのか。

 振り返ると、片足女神の向こうに、宇宙船のごとき萬画館が横たわって見える。
 荒野でこの二つの取り合いの風景は、なにか異郷風景というよりも、超現実的なイメージに誘われてしまう。なんだろう、それは。
 
アッ、と気がついた。
 これは映画のシーンだ、あの「猿の惑星」のラストシーンである。
 地球を出発した宇宙船が不時着した惑星は、猿が支配する世界であった。船長(チャールトン・ヘストン)ひとりが助かって、あれやこれやとあるのだが、最後に猿の世界が立ち入り禁止とした地域に逃げ出して見たものは、荒野の中に半分埋もれた自由の女神の像であった。「帰ってきていたのだ」と船長は号泣する。
 つまり船長がどこかの惑星と思ったのは、実は進化(退化か)した地球であり、しかもここはニューヨークだったという、オチだけが面白いB級映画だった。
 なお、船長の時間と地球の時間には数千年の差があるのは、よくわからないが光速に近い航行すると宇宙船内の時間が縮まるという相対性原理トカナントカによるらしい。

 被災地徘徊でこのような幻惑にとらわれるとは、なんということだろう。被災する前にここにきていたら、同じようなこと思っただろうか。
 戻ってからインタネットで調べてみたら、どうやらここは公園であったらしく、そのなかに立ついくつかの修景施設のひとつに自由の女神もあったらしい。ほかのものは流れてしまったが、これだけが負傷しながらもけなげに耐えたらしい。
 わたしと同じように、猿の惑星のラストシーンを思いついて、BLOGなどに書いている人も発見した。

 石巻はこのような像を街に建てるのが好きらしい。
 メイン商店街らしい「マンガロード」となずけられた道沿いには、石ノ森章太郎が生み出した漫画の主人公たちの像が立ち並んでいる。
 その極彩色の像群と、被災してほとんど営業していないさびしい商店街の対比が悲しい。
 地方都市はどこも中心市街地が空洞化している問題を抱えているが、地震と津波に空洞化の後押しをされてしまったのが現状だろう。さて、これはどう復興するのか。

 駅前にいかにも大型店舗でございという姿のビルがある。だが看板に石巻市役所と書いてある。
 ああ、そうか、地震と津波で被災した庁舎をここに移したのか、多分、閉店した跡ビルなのだろうなあ、なかなかいいことだ、中心市街地活性化に役立つなあ、と、思ったのであった。
 ところが、戻って調べたら、経営不振で閉店した百貨店跡には違いないが、市役所が移ったのは震災前の2010年であった。
 2階から上が市庁舎で、1階には商店があるのはなかなかよろしい。土曜日で市役所は休みでも一階の商店はあいているから人の出入りがある。

 かつての繁華街の一角であったと思われる四つ角に、向かい合わせに奇妙なビルがあった。地方都市によくあるのだが、洋風の姿をまとう木造建築である。
 「SSビル」とあるほうは、多分、元は金融機関の建物であったろうが、左官仕事のギリシャ風のオーダーの付いた柱型がある。
 「観慶丸商店」とあるほうは、タイル張りの洋館風建物で、その名の千石船の船頭であった創業者に由来するそうだ。1930年に百貨店として建ったとパフレットにある。
 たくさんの新しい建物が失われた市街地の中で、よくまあ地震にも津波にも耐えたものである。


 
参照
・石巻の自由の女神パノラマ写真サイト
http://photo.sankei.jp.msn.com/panorama/data/2012/0328ishinomaki03/
・森の長城づくりがはじまった
https://sites.google.com/site/dandysworldg/greatforestwall
・地震被災地:人間と自然はどう折り合うのか
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

2012/11/12

688原発事故調報告を読んだアメリカのプロジェクト・マネジメント専門家が論評をくれた

 アメリカ航空宇宙局(NASA)は、月ロケットを飛ばしたアメリカ合衆国(USA)政府の宇宙開発機関であることくらいは、わたしでも知っている。いまどきは子どもでも知っているだろう。
 そこにわたしの大学同期生がいて、そのプロジェクトのマネージメントをやっていた。といっても、わたしには何のことかわからない。

 まあ、あんなものに人間を載せて、月まで送って、また戻ってこさせるには、なみたいていじゃない複雑極まるあれやこれやがあるに違いないから、その運営のマネージメントなんてものは、どえらい幅の広い積み重ねのある多様な技術や多様な人々がかかわっていて、どえらく大変なことだろうと思う。

 
 月に行く途中で故障して、月を回るだけで引き返した失敗のアポロ13号事件のことは、本で読み映画でも見たが、よくまあここまでやったものだと思った。
 それは、月往復の成功のための方法はどんどん積み上げていても、まさかの中途故障の場合の対策はできていないはずなのに、あの超難しい帰還を成功させたのは、そのまさかの「想定外」の場合(Crisis)への対応策があったからだろうかしら、と思ったからだ。

 そこで「福島原発事件」である。まさかの想定外への対応がなかったことが如実になった事件である。これがNASAだったらどうしていたのだろうか。
 そんなところに、冒頭に書いたNASAをリタイアした大竹博氏が、日本の国会と政府とのふたつの原発事故調査委会報告を読んで、その論評をくれた。彼は、プロジェクト・マネジメントの専門家として太平洋をまたいで仕事をしている。

 それらの報告書を読んで、彼は、大きく3つの問題点を指摘する。
(1)RiskとCrisisを管理する問題
(2)Responsibility(直接責任)とAccountability(最終責任)の違いと使い分けの問題
(3)リーダーとリーダーシップの問題
 なお、ここで指摘する問題点とは、原発そのものへの直接的な問題ではなく、事故調査会の報告の態度や内容への問題点であって、日本と欧米との巨大プロジェクトへの対応の違いをみることができる。
 
 ここに掲載したので、読んでほしい。
国会及び政府の原発事故調報告に対する論評  著:大竹 博Ph. D.
http://goo.gl/tNjHV

2012/11/08

687わが故郷の高梁盆地を訪ねた先輩からエッセイ「がんじい備中高梁に寄る」をいただいた

 大学の先輩のわが敬愛する建築家が、わたしの故郷の高梁盆地を訪ねて、エッセイ「がんじい備中高梁に寄る」を書いて送ってくださいました。
 この著者・松吉利記さん、つまり「がんじい」さんは、わたくしと同じ横浜市内に住んでいらして、松江市が故郷だそうです。
 その松江に法事にいらっしゃるとて、久しぶりに列車で行くから、途中で高梁に寄ってみたいとおっしゃるのです。
  わたくしは大喜びで、あれこれと訪問していただきたいところなどを、地図に書き込んで差し上げたのでした。
 故郷を出てしまったわたくしでも、たまに故郷を訪ねると、やはり内なる眼で見るのですが、いただいたエッセイを読むと、なるほど余所者の眼ではこうなるのかと面白いのです。
 暖かい心のこもった内容とともに、まことに興味ある書きぶりなので、ご了解を得てここに掲載をしました。

●松吉利記氏エッセイ全文がんじい備中高梁に寄る
https://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/ganji
●参考⇒故郷高梁盆地の風景
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#hurusato

2012/11/04

686世阿弥元清の眠くなる能と小次郎信光の面白くなる能の競演を見た

 横浜能楽堂で、能「砧」(世阿弥作)と「玉井」(観世小次郎信光作)を観た。
 能のスーパースターの世阿弥(観世元清)は1443年没、小次郎信光は1516年没だから、70年ほどの活躍の時代差がある。
 世阿弥が完成させたいわゆる幽玄なる能、早く言えば見ていて眠たくなる能に対して、信光の能は面白能、要するにスペクタクル能である。道成寺、紅葉狩、安宅などである。

 多分、戦国時代のおエライ能スポンサーたちが、言ったに違いない。
「世阿弥の能は眠くなって困る、もっと面白いものをつくれ」
 横浜能楽堂の企画は、その両方の代表作を一日のうちに並べて演じさせようというのであるから面白い。

 わたしが昨日見たのが、その2回目の企画公演で、「砧」も「玉井」も浅見真州のシテであった。シテ方の出演の顔ぶれは銕仙会のメンバーであった。
 青山の銕仙会には20年も前から何度も見に行っていたから、久しぶりに見た地謡座のあの人この人の年とった顔つきにびっくり、それはすなわちわたしのことでもあるんだよなあ、、。
             ◆◆
 で、まず眠くなるほうの「砧」である。
 実は眠くならなかった。前場がよかった。
 砧は何度か見たことがある。この能はある部分の詞章もメロディーも実に美しいのはよいが、ストーリーにどうも難があると、わたしは思う。

 前場の見せ場は砧を打つところだろうが、まずそのきっかけがおかしい。
 シテの女性が「聞こえてくるあの音はなんだろうか」と、都から戻ったばかりの侍女に聞くと、それは砧を打っている音であると答えるのだ。
 でも、おかしいよ、だって自分の家で聞いているのだし、砧を打つなんての日常的な音だから、今日初めて聞いた音のはずがない。なのに、それを知らないなんてねえ。

 下々の仕事である砧を打つ作業を、豪族?の妻が福岡県にいながらやることで、京都にいる夫にその音を聞かせて、郷愁を誘って帰ってこさせようという作戦だが、なんでそういうことをするかというと、中国での故事に倣っているのである。
 だから、あらかじめその故事を知っていないと、なんのことやら分からない。

 まあ、能は源氏物語や平家物語を知っていないと何のことやら分からない演目が多いのだが、中国のその故事までも知っていろというのは無理がある。
 わたしは何回か「砧」を見たからそれを知っている。だから前場がよかったと言えるのである。でないと眠いだけである。

 後場にも、わたしには腑に落ちないところがある。
 妻が死んだ後に戻ってきた夫が供養の席を設けるのだが、そこに妻が亡霊となって出てくる。蒼白な顔(痩せ女面)で、長々と恨みの言葉をうたい、ほったらかしにした夫に詰め寄って非難する。
「君、いかなれば旅枕、夜寒の衣うつつとも、夢ともせめてなど、思い知らずや恨めしや」
 地謡が厳しく盛り上がってきた。

 さて夫はどうこれにこたえるかと見ると、持っている数珠をちょっとあげるだけである。すると突然に地謡が調子を変えてこう謡う。
「法華の読誦の力にて、幽霊まさに成仏の、道明らかになりにけり、、」
 幽霊はよろよろしざってたちあがり、しずかに引き下がってしまうのだ。
 そりゃないでしょ、そんなに簡単に成仏してたまるもんか、と、今回も思ったのであった。肩すかしジャン。この能の終わり方が嫌いである。安易である。抹香くさい。

 立場は反対だが、能「清経」の妻が幽霊の夫に、勝手に自死したのを非難して迫るのを思い出した。この幽霊は悲しむ妻をおきざりにして突然成仏してしまう。
 どうも勝手な話なので、能「清経」は面白い演目なのだが、せっかく盛り上がった最後のところで、ひょいと肩すかしとなるのが嫌いである。
             ◆◆
 さて次は小次郎信光の面白能「玉井」(たまのい)である。
 これは小さいときに絵本で読んだことが海幸彦と山幸彦の物語である。
 もともとは古事記・日本書紀に出てくる話らしいが、今どきの子供はこんな物語を読んでいるのだろうか。

 まあ、ストーリーはどうでもよろしい、いろいろな扮装の役者がおおぜい出てきて(26人)、いろいろな演技をしてみせ、いろいろ謡い、囃子もいろいろあって、見て楽しいが、それだけの能である。
 小書きが狂言のための「貝づくし」で、アイ狂言で山本東次郎家が一家そろって出演した。6人もそろえることができるのだから偉いものである。
 その全部が狂言面を付けていたのも珍しい。

 シテが後場の後半にしか登場しないのも珍しい。
 それに対して、ワキは最初から最後まで出ずっぱりである。海幸彦のワキが、ワキツレ二人を連れて登場するのだが、もともとは彼がこの物語の主人公であるはずだのに、どうも役のしどころがないのはつまらないし、ワキに気の毒だ。
 こんな見世物づくしの能なのだから、なにかワキにも面白い演技をさせる演出をしてほしいものだ。
             ◆◆
横浜能楽堂企画公演 美の世阿弥 華の信光 2012年11月3日
●能「砧」(観世流)
シテ(蘆屋の妻・妻の霊)浅見真州、ツレ(夕霧)北浪貴裕
ワキ(蘆屋某)森常好、ワキツレ(従者)森常太郎、アイ(下人)山本泰太郎
笛:一噌隆之、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠、太鼓:小寺佐七
後見:小早川修, 浅見慈一
地謡:観世銕之丞,浅井文義,柴田稔,馬野正基,長山桂三,谷本健吾,安藤貴康,青木健一
             ◆◆
能「玉井 貝尽
シテ(海神の宮主)浅見真州、ツレ(豊玉姫)片山九郎右衞門、ツレ(玉依姫)味方 玄
ワキ(彦火々出見尊)森 常好、ワキツレ(従者)森常太郎、則久英志、
アイ(文蛤の精)山本東次郎、(鮑の精)山本則俊、(蛤の精)山本凛太郎、(赤貝の精)山本則孝、(法螺貝の精)山本則重、(栄螺の精)山本則秀、
笛:一噌隆之、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠、太鼓:小寺真佐人
後見:観世銕之丞、谷本健吾
地謡:浅井文義、清水寛二、西村高夫、岡田麗史、安藤貴康、青木健一、小早川泰照、観世淳夫

2012/11/03

685衆人環視の駅前歩道で突然に転んでしまってもう歳だなあと思うばかりの秋の夜

 徘徊老人には、今は徘徊に絶好の気持ちの良い秋の夜である。
 今夜は横浜は桜木町駅前あたり、ミーハー好みの美しい海辺の夜景の中を、わたしは能楽見物帰りで気分よく、さっそうと姿勢よく歩いているつもりであった。

 突然、グラッ、つま先がなにかに引っ掛かった、オットットット~、前のめりに上体が崩れ落ちてゆく。
 体勢をカバーしようと、両腕を伸ばして地面につけて支えたが、右手は握っているカメラを保護するべく、手の甲の側をついてしまった。でもそれじゃあグニャリと曲がって支える力にならない。
 脚も当然出ておるはずだが、これがもうまったく機敏でなくて、ヨタヨタと遅いのである。おい、なんだよこの脚は、と思いつつも出てこないのである、ああ、昔と違うなあ。
 なんだかスローモーション撮影実演をしているなあ、と、思えども止まらない。

 そしてドタ~ン、見事に歩道に伏せて転んだ。
 せっかく右手で上向きに支えてたカメラが外れてガチャン、カバンから何か飛び出してガチャン、あ、これは電子辞書だ。
 
 右手がアイテテ、右膝もアイテテ、、。

 道行く人たちが口々に「大丈夫ですか」と言ってくださるが、特に止まって起こして下さるようすもない。
 初心者とはいえわたしは後期高齢者なのだが、あたりはもう暗いし、赤い帽子をかぶり、真っ黒なフリースを着ていて、そうは見えなかったのであろう。ま、ガタイもでかいし、。
 こちらも恥ずかしいから、そそくさと起き上がる。カメラと電子辞書を拾う。

「は~い、ありがとう、大丈夫です、、、タブン、、」と、右手と右ひざの痛さをこらえ、びっこひきつつ強がりを言う。
「ダイジョウブデスカ」って、コーカソイド系のおじさんが言ってくれるので、「サンキュウ、イッツオーケイ、メイビー、」なんて。

 あれはもう15年も前であったか、長崎市中の繁華街で転んだことがある。石で舗装してあるのになぜ転んだか、わずかに舗石に高さの差があったらしく、それにひかっかかった。今回もどうやらそうらしい。
 どうも歳とると歩くときに足を上げないで、地面を擦るように歩いているらしいのだ。だから1ミリの突起でもひっかっかる。
 引っかかって前によろけたら、脚が姿勢をカバーして身体よりも前に出るはずだが、もうこれがてんで出なくなってるんですねえ、ナサケナイ。

 これはちょっと休むほうがよいなと、まことに都合のよい理由ができたので飲み屋に入った。
 右手がちょっとおかしい。コップ酒をついつい左手で握る。箸を持って肴をつまむところまでは何とかよいが、口に運ぼうと曲げるのが苦しい。
 家に帰って風呂に入るとき、右ひざ小僧を見たら、ズボンは何ともないのに、まるで小学生が転んだように、擦り傷であった。これは長崎でもそうだったが、なんだか懐かしい傷ぶりである。

 この文章は、まあ普通に両手の指で打っている。
 さて、明日の朝は忘れているだろうか。

(追記2012.11.06)
 たいしていたくもないが、どうもある方向は力は入らないし、曲げにくいし、ちょっと腫れている感じもあるので、今朝、近くの整形外科に行った。
 X線写真を撮ったのをみて医師が言う。骨が折れてはいないが、ひびが入っている可能性がある、特に手首の一部を押すと痛いのはその証拠だ。
 で、そのままだと痛みが2,3カ月続くから、ギブスで固定する。ただし、右手なのでそのままだと不自由なので、取り外し型にして、ギブスがあると困るとき、たとえば飯、風呂では外すのだ。
 ギブスを肯定するための包帯を巻くと、右手が重傷に見える。

参照→
http://datey.blogspot.jp/2012/11/690.html


 

2012/11/01

684東京駅復原出戻り譚(その5)東京駅ライトアップは昔からやってたのに急にミーハーで賑わう丸の内

なんだか東京駅あたりの丸の内が、近頃は休日も夜もにぎやからしい。
 昔は(年寄りはすぐこう言う)丸の内なんて夜は暗いし、休日はガラ~ンとしてさびしかったものだ。
 1988年に4省庁の東京駅周辺再開発レポートを出した八十島委員会での討議でも(わたしはその作業班メンバーだった)、丸の内に百貨店などを誘致してにぎわいをもたらすべきだという意見が出されていた。
 それから四半世紀後の今、こんなににぎやかになるとは、世の中は変わったものだ、と、歳よりは慨嘆というか感嘆というか、ホーッと息を吐くのである。

 噂だけではつまらない、さっそく夜の東京駅に出かけてみると、いるはいるは、お上りさんばかり、という形容はもう古いが、近くからも遠くからもミーちゃんハーちゃんがやってきて、駅の中も駅前広場もウロウロとケータイをカメラにして振り回しているのであった。
 つまり、わたしも今夜はその一人になったのである。

 ふ~ん、赤レンガ東京駅はこうなる前からライトアップしていたのに、そのころはたいして見向きもされなかった。今やディズニーランド並みである。
 前もディズニーランド風ではあったが、復元してますます磨きがかかって、こういうのをディズニーランダイゼイションというのだな、よくわかったよ。
 丸ビルも新丸ビルも東京駅も、中はまるでデパートというか、飲み屋街というか、現代版路地裏というか、たまたま土曜日だったからか、わんさと人がいて飲み食いしている。

 丸ビルから撮った昔の東京駅夜景写真を、同じアングルで今と比べてみたら、今は巨大背後霊をいっぱい従えている。そのなかのひとつは東京駅自身の身売り先であるな。
 これは只今の東京駅夜景。
こちらは2005年の夜景。

 その丸の内側の身売り先のひとつである新丸ビルからの夜景。

 駅前の二つの老舗の中央郵便局と丸ビルも、お化粧なおし山高帽子かぶり再登場。ウゥ~イ、ヒック、酔眼になってきた。