2011/08/15

474 66年目の空襲と疎開

 あれから66年、またもや空襲を逃れて疎開する日々が来ている。東日本大震災による原発事故で、核汚染物質の飛来から逃れるためである。
 太平世戦争末期の焼夷弾の空襲におびえたあの日々の死の恐怖は、どこまで次世代・次次世代に伝えられているのだろうか。
 日本全土の都市が攻撃された空爆による死者の総数は、(諸説あるらしいが)約50万人だったそうだ。そのうち半分は原爆によるから、今も死者は増加中である。
 あのときの恐怖は66年前のこの日8月15日に終わった。
 この核汚染物質の空襲におびえる日々に、8.15はいつ来るのだろうか。
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 東日本大震災の死者と行方不明者を合わせると、約2万人程度になるようだ。
 核物質汚染による被害は地域的にも内容的にも範囲を広げつつある。
 この空爆による死者は、今は出ていないのかもしれないが、その性格からして原爆のように後々に出るかもしれない。
 特に食品汚染への恐怖は、真綿で首を絞められるようにじわじわと迫る恐怖である。
 66年前のこの日、戦争による死の恐怖は去ったが、次は食糧不足による飢えの恐怖が始まったことを思い出す。
 少年だったわたしの戦争に関連しての恐怖は、日々の飢えだけであった。毎日腹が減っていたなあ。また飢えるのか。
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 この日が来ると、毎度書いているような気がするが、また書く。
 わたしの生家は岡山県の中部にある、小さな城下町の盆地にある神社であった。
 あの日の正午、その鎮守の森の中の社務所の前に、ラジオを囲んで集まったのは、大人と小学生を合わせて20名足らずだったろうか。
 大人は近所の人たちだったが、小学生たちはその社務所に遠く兵庫県から疎開してきていた女子児童たちである。当時はラジオが初期のTV程度の普及だったろうか、その疎開学級はラジオを持っていた。
 わたしはなにしろまだ8歳だから、これが終戦の詔勅放送だったとは後から聞いたのだろう。日ごろにない集まりを眺めていただけで、放送の音についての記憶はまったく無い。
 だが鮮明な記憶は、聞き終わった大人たちが、なんとなく列を作って誰も一様に黙りこくったままに、森の中から暑い日差しの町へと、参道の石段をおりて帰っていく姿である。子供心にも異様であったから覚えているのだろう。
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 その盆地は、B29空襲はこない平穏な日々であったが、空襲から疎開してきた学童たちがいたという現実に戦争の影はあった。
 その疎開児童がどこから来たのか調べいて『学童疎開の記録』(1994全国学童疎開連絡協議会)という本でわかった。芦屋市の精道小学校の学童が、岡山県上房郡高梁町(現・高梁市)の頼久寺に126名、同じく金光教会に47名が疎開したと記してある。
 わたしの生家の御前神社は出ていないが、これら2箇所と至近にあるから、どちらかの分教室であったのだろう。
 その芦屋が8月6日に空襲に遭って、学童たちの家族も被災し、親の死で孤児となった悲劇もあったようだ。
 空襲のもうこなくなった焼け野原の都市に戻っていったあの少女たちは、その後どのような人生を歩んだのだろうか。
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 わたしの父はそのころ小田原で、湘南海岸に上陸すると見られるアメリカ軍を迎え撃つ本土決戦の準備中の通信兵であった。
 小田原は8月15日の前夜半に、この戦争の最後の爆撃を受けた。父は郊外の山中で陣地構築の穴掘りをしていて、炎上する市街地の火を見ていた。
 その月末に兵役解除となって帰宅してきた。
 彼の戦争は、1931~34年と1938~41年の2度の中国、そして1943~45年の内国と、実に15年戦争の半分を兵役に送り、これが3度目の生還である。このとき35歳の老兵であった。
 参照「父の15年戦争、本土決戦」

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