2011/05/31

427不吉な11

 9・11、8・11、3・11 
 この数字の羅列は何のことか分りますか?
 そう、9・11は2001年USAでニューヨークほか同時多発テロ、
 そして8.11は2009年静岡沖地震
 つづく3・11は、ご存知2011年の東日本大震災。
 
 では、7・11は???
 
 答えは、某コンビニエンスストアの名前。

2011/05/30

426政治災害の国

日本は自然災害の国だけど、ネパールは政治災害なんですよ
 つい先月の3日、カトマンヅで会ったある市民から聞いた言葉である。わたしはちょっと震災を逃れて(?!)、ネパールに疎開観光していたのだ。
 今朝の新聞の国際面に小さな記事がある(朝日新聞東京版8面)。要約する。
「ネパールで王政廃止後の新憲法制定を今年5月末と決めて目指してきた制憲議会は、2ヶ月延期を決めた。野党の賛同を得るために2月に就任したばかりのカナル首相は、近く辞任をすると表明した」
   ◆
 ネパールでは2006年にマオイストによる10年間の内戦が終結して、2008年の総選挙で制憲議会が発足した。
 240年続いた王家を追放し、国名も王国からネパール共和国になった。
 共和制憲法を2010年5月までにつくるとした。
 だが、延々とあれこれやってきたが1年延長、それでも決らないというのだ。
 ちっとも決ることも決らず、権力争いばかり続いて、首相が8ヶ月も不在になったり、せっかく決ったらまた辞任だし、政治腐敗もはびこり、憲法をつくれない、内政も進まない。
「政治災害の国なんですよ」と、国民からも疎まれるありさま。
 これで内戦から抜け出す和平プロセスはまた停滞である。
 また内戦になるのじゃないだろうなあ。
   ◆
 あれ、これは、なんだか身近にもありそうな。
 くるくると首相が替わり、内戦のような原発大災害があっても、権力闘争ばかりが見え見え。
 まあ、国難とか、挙国一致とか、国家総動員とか、そういうのもキナ臭くてやりきれないけどねえ。
 どうすりゃいいのでしょうかねえ、なにとぞ自然災害プラス政治災害の二重苦になりませんように

●ネパール事情は毎日JPに詳しい。
http://mainichi.jp/select/world/news/20110530ddm007030083000c.html

●参照→ネパール400kmバスの旅
http://sites.google.com/site/matimorig2x/nepal2011

2011/05/28

425田植えと原発

 今年も田植えに行ってきた。中越山村の法末集落の棚田での米つくりは、これで6年目である。
 福島原発の放射線が降る地域では、田植えができないという。思い出せば、こちらでも2007年の中越沖地震で柏崎原発に事故があった。そのときに法末には来ていたのだが、原発事故については他所事と思っていた。法末集落と柏崎原発とは20キロ離れているからだ。
 だが今回の福島の事故で、あのときも場合によっては20キロ離れていたとて、田植えなんてできないことになっていたのだと知った。
 どうも、なにか身に沁みる大事故が起きないと、自分のこととして自覚しないものだと、つくづく思った。
    ◆
 日本では何か世の中が変わるのは、外圧と人柱によるしかないのだと、これまでの長い人生経験でずっと前から思っていた。
 今回は太平洋からやって来た地震と津波という外圧、そして2万人を超える人柱という外圧と人柱の両方にぶちあたったから、日本も大きく変わるに違いないと思うのだが、どうだろうか。
 原発事故によって放射線が降り注ぐのも、自然という人間の制御できない外の世界からのゆり戻しだとしたら、これも外圧かもしれない。
 願わくばその福島原発で人柱が建ちませんように。
 というわけで、原発廃止の方向に世論が大きく傾くと思ったら、新聞の世論調査ではそれほどでもないのが、どうも不思議である。
 遠くのドイツでは廃止の方向にグルッとまわって政策転換したのに、火元の日本ではそうならないのは、どういうわけなのだろうか。
    ◆
 話は戻って田植えのことである。5月の半ば2日間で、天候に恵まれて3段の棚田の手作業による田植えができた。6回目となるとさすがに上手になって能率が上がる。
 もちろんその前に、代掻きやら肥料や除草剤散布などの準備が、田の持ち主がやってくださっているからだ。
 田植えの前の日に、六角なる道具を田に転がして、苗を植える位置の印をつけておく。いい加減な位置に適当に植えても稲は育つのだが、不ぞろいだと刈るときにバインダーという半手動手刈り機の能率が上がらないのだ。
 いまや機械で植えて機械で刈り取るのがあたりまえなのに、わざわざ手で田植えするし、手で刈り取るのだのだ。6年もやっていると、これは趣味としか言いようがない。
 ここに来ると自分たちが作った米を食うのだが、自宅には法末の営農組合から毎月10キログラムを送ってもらう。精米1キロが600円の棚田米は美味い、特に冷めても美味いので、知人たちにも勧めている。
    ◆
 田植えの頃は山菜の季節でもある。わたし達の拠点の家の庭でもウドやフキノトウが生えてくる。フキノトウはもう遅い。
 ちょっと歩けば、山ウドはもちろん、ミツバアケビの新芽、サンショウの葉、ヒメタケノコ、タラの芽、ワラビ、ゼンマイが、棚田の法面、耕作放棄田、林の中で待っている。
 毎日の自炊料理が、山菜の天ぷらやら和え物である。1週間つづけたら、さすがに嫌になってきた。
 山ウドが売るほど採れるので、秋にでも食べることにして、塩漬けにした。葉を落として茎だけを適当の長さに切って、樽に塩と交互にいれ入れつつ重ね、落し蓋をして錘を載せる。
 2日目に水が上がってきたので捨て、茎をビニル袋にまた塩と共に入れて樽にいれ、また重石をしておいた。食べるときは塩抜きをする。
 この豪雪でなだれで崩れた崖面もある。山菜取りは、見つけると採らずにいられなくなって夢中になり、崖から落ちることもあるそうだが、わたしもその資格は十分にあると気をつけたのであった。
自然環境に還る人文空間

追記
 田植えから20日、苗は順調に育っていると、M田さんからの現地情報。

2011/05/26

424自然環境に還る人文空間

(最近、グーグルのブログがよく故障する。しばらくログインができなくなっていたので、新規記事掲載不可能だった。今朝はようやく直したらしい)
 むかし災害とは「地震雷火事泥棒」(泥棒をオヤジとするのは俗語)といったものだが、今では地震津波火事原発の順序でやって来たのが東日本大震災であった。
 地震、雷、津波それらに伴う倒壊や火災は自然災害となるのだろう。
 考えてみると、災害とは、地震、雷、津波が起きたときに、その影響範囲になんららかの人間の営為があった時に起きることである。
 誰も住んでないし農林漁業もやっていない山中とか海中とかで大地震が起きても津波が起きても雷が落ちて火事になっても、それを災害とは言わない。
   ◆
 自然のほうは人間がいようといまいと関係なく、ゆれたり崩れたりするだけである。
 だが人間たちは、津波が起きたら被災するだろうと分っている地域で営為を行なうし、地震が来たら崩れるだろうと分っている崖地や埋立地にも住む。
 大揺れしたら壊れそうなビルでも住んだり仕事をしていたりするし、もしも津波で壊れたら放射線が発生すると分っていても原発を作る。
 さて、どこまで自然災害で、どこから人文災害なのだろうか。この境目はあるのだろうか。
●全文は→自然環境に還る人文空間
http://sites.google.com/site/dandysworldg/nature-culture

2011/05/18

423老人は福島原発汚染地域へ

 仄聞するところでは、福島の壊れ原発から出てくる放射能の人体への影響の威力は、若い人ほど深刻になり、比較すると老人は深刻度は低いとか。
 放射線被曝によっておきる人体への影響の発現は、10年以上とか後になるらしい。
 それが本当だとしたら、ということは、つまり、私のような老人はその頃はあの世だから、どんなに影響が出ようと何の関係もないのだ。
 そこで思いついた。この思いつきは「福島第1原発を世界遺産に登録しように続く、私の第2号提案である。

 私のような古希過ぎで元気な老人は、まずは福島原発汚染地域にボランティアに出かけよう。
 放射線被曝で未来が暗くなる若者たちにとって代わるのだ。
 日頃あちこちで出しゃばって嫌われている、ありあまる時間と知恵(わたしはあまりないけど)とお金(わたしはないけど)のある老人たちは、それらのつかいどころは、まさにここにある(ように思う)。
 と、思いついたのだが、腕力・体力はないから、せめて原発汚染地域に住んで、地域の産物であるコメ、野菜、魚などを買って喰い、ガラ空きのゴルフ場(あるかどうかしらないが)やレジャー施設で遊ぶのだ。
 そうやって大勢の老人たちが、地域に金を落とせば、ゴーストタウンは復旧して生き返る(はずである)。
 で、そうやって老人たちは余生をここに住みついてしまうのだ。

 そのためには国の政策として、全国から、いや外国からも募集して、福島原発汚染地域に住みたい老人の移転促進事業をやるのだ。
 例えば年金割り増し支給、東電が補償金を支払って買い取る土地建物の超廉価貸付、医療の無料化などで、老人居住地域モデル事業とするのだ。
 評判が悪かった老人の海外輸出といわれた事業やら、老人専用の村を作る事業のようなものだが、このたびは老人しか住むことができない地域が出現してしまったという非常に特殊なことだから仕方がない。

 いってみれば国営の老人居住地域にして、地域再生を図るのだ。
 本当に正常に住むことができる地域に戻るには、何十年後か何世代後か知らないが、それまで地域を生活の場として保っておくには、そこに住む人たちが要る。そのリレー事業を老人たちが担うのだ。
 ランニング投資は必要だが、新たなイニシャルのインフラ投資は必要ないから安いものだ。
 もちろんこれはかなり特殊な事業で、これからもこんなことがあっては困るのだが、少なくとも東日本震災地域で手をこまねいてるしかない今の政策のなかで、唯一の可能になりそうなことと思うのだ。
 なんだかブラックユーモアにとられそうだが、4割くらいはそうとも思っているが、6割くらいは古希過ぎ老人の私の本音である。

 わたしは前に「福島第1原発を世界遺産に登録しよう」と提案している(これは100%本音)が、その登録がうまくいき、放射線汚染もある程度おさまったら、世界遺産観光ツアー客がやってくるだろうから、その観光ガイドが老人たちの新たな仕事になるのだ。
 さて、こんな考えはどんなもんでしょうか。
 もちろん、そういう政策が出たら、わたしは率先して行きます。

2011/05/16

422東日本大震災Before-Now

 グーグルアースが、東日本大震災地域の3月13日から4月初めまでの衛星写真を公開している。まさに今の情景である。
 場所によっては、カメラマンが入って撮った現場パノラマ写真も、グーグルアース写真からアクセスできるようになっている。
 震災以前の同じ位置の衛星写真もアクセスできる。比較してそのあまりの変わりように、息を呑む場面の連続である。
 その現地にいた人たち、今も居る人たちに思いをいたしながら沿岸地域をたどると、たまらない気持ちだが、土地利用計画はどうなっていたのだろうかと次々に疑問が湧いてきて、目を離せなくて寝不足になってしまう。
 ここに、その一部をコピーして、美しかったBefore風景と、惨禍のNow風景を並べてみる。説明は不要であろう。
●参照→東日本大震災Before-Now
http://sites.google.com/site/dandysworldg/beforenow2011

2011/05/10

421大震災被災地の画像

 google earthの衛星画像が、東日本大震災地域については、震災後の画像に入れ替わっている。
 福島原発の周辺地域はこのようなところであるのかと、しげしげと眺めると、すぐそばには津波で破壊された集落があちこちにあり、ああ、ここの人たちは地震津波放射能の三重苦に襲われて、復旧にも復興にも戻れないのだなと、ただ見つめるばかり。
 気仙沼の被災市街は、これは消滅市街と言ったほうがよいかと、これも呆然と見つめる。街であったろう跡に横たわる大きな長いもの、拡大すると船であった。鉄の船は壊れもせずに、木造家屋の成れの果てのガラクタの上に寝ているのであった。
 三陸海岸を順に見ていくと、消滅市街・集落が次々と現れる。そんな街にもカメラマンが入っていて、被災地の姿を見せてくれる。写真マークをクリックすると、なんと360度カメラ画像が登場する。空中写真とは違う迫力であり、これも呆然と見つめるばかり。
 高度情報時代だとつくづく思う。

2011/05/09

420原発から20kmの集落は今

 おお、柏崎原発から20kmだよ~、わたしが仲間と棚田米つくりをしている中越の法末集落のことである。2004年に中越地震で被災した山村だ。

 もう6年も前から行ってるのに、今頃になって気がついた、というか、気がつかされた。2004年中越地震、2007年中越沖地震とたて続けに大震災があって、柏崎原発も問題となったが、もうすっかり忘れていた。
 でもあの時、もしかして福島第一原発のようなことがおきていたら、どうなっただろうか。ことしも法末集落の田植えのシーズンがやってきた。福島ではどうしているのだろうかと思うと、中越だって現実のこととして考えざるを得ない。

2011/05/07

419万治石仏と木喰仏

 2011年4月、岡谷と上諏訪に木喰仏を訪ねた。ついでに諏訪神社春宮近くにある万治の石仏も訪ねた。
 木喰行道上人の3体の木彫(不動明王、文殊菩薩、阿弥陀如来)を拝見できたが、これらは最晩年1806~7年の作である。
 昨年6月には鹿沼市栃窪集落に木喰仏を訪ねたが、これは今回とは逆に木喰が仏像を彫り始めた1780年63歳の最初期の作品であった。昨年と今年で木喰の造仏師としての生涯の両端にある作品を見たことになる。
●参照→273木喰の風景:集落民の群像http://datey.blogspot.com/2010/06/273.html

 その四半世紀ほどの間に、木喰行道の作風がどう変わったのか。
 二つの時期の作仏を比較しての感じは、去年見た初期の仏像群は無骨にして生硬な鑿跡と表情であったのに対して、今年見た最晩年の仏像はすべてがやわらかくなっているのであった。
 わたしに仏像としての意義は分らないが、憤怒の不動明王でさえも、どこか柔和なるお顔で柔らかな炎に包まれているように見えた。鑿跡がやわらかいのである。

 その間の歳月で腕の上達もあるだろうし、作風も変化しただろうし、制作時の心情あるいは環境もあろう。あるいはさすがに最晩年ともなれば、気力体力の衰えのゆえかもしれないとも思ったりする。
 木喰行道は、上諏訪の旧中山道沿いの民家に滞在して、現存する最後の作である慈雲寺の阿弥陀如来像を彫ったあと、2年半ほど後の1810年に93歳で没している。
 
 木喰の作った仏像をあちこちで見てきて、それらは庶民のための野の仏であり家の仏であるとわたしは知った。野の仏の典型は石仏である。
 万治の石仏は、慈雲寺から近い諏訪神社春宮の奥の谷間の畑にあって、まさにこれこそ野の仏である。寝起きのモアイのように、草むらの中にむっくりとふとんの中から顔を上げている。
 この石仏ができたのは17世紀の中ごろだから、19世紀はじめに来た木喰行道はこの石仏を見ただろうか。

 畑の中にごろりと横たわる大石の前面に、仏の身体を浮き彫りにしただけで、そのほかは手をつけずにそのままにして、頭を別の石で作って載せている。
 手をつけなかった石の部分がまるでマントか布団のように、小さな頭の後ろから裾野を広げるところが、この石仏を特異な形にしている。

 いや、実は頭は小さくはないのである。正面から身体の浮き彫りを見ると、それにちょうど良い大きさなのである。それが横から後から見ると、大石全体が身体となって見えるので、相対的に小さな頭となるのである。
 もともとの制作者は、磨崖仏と同じつくり方のつもりだったのであろう。できたときから村の人々も、普通の磨崖仏として正面から拝んでいたのであろう。信州にはあちこちにある石仏のひとつに過ぎないのであった。
 それを俄かに有名にしたのは岡本太郎であったという。かれは後姿を見て異形の造型としてこれを「発見」したと声高に言ったのである。そのときから観光名所となった。
 
 たしかに近代美術の眼からすると、自然石の加工部分と自然のままの部分のとりあいの面白さを、作者の意図としてみるとき、それは美術品として登場することがよく分る。
 これは柳宗悦が、木喰仏を「発見」したことを思い出させる。そのときから木喰の木彫像は、信仰と鑑賞とが拮抗するようになったのである。
 
 この石仏が木喰仏をもうひとつ思い出させるのは、立ち木観音である。木喰行道には、立ち木をそのままに彫り込む仏像がいくつかある。
 それが畑の中の大石をそのままにして、そこに仏を彫り込み、背中のほうは野の石のままであるのは、立ち木観音と同じである。
 立ち木観音が庭先に立っていたように、元治の石仏も田畑に立ち尽くしている。 

2011/05/05

418不思議な文章

繧ら嚀縺ァ霈ェ縺ォ縺ェ繧後・諢牙ソォ縺ォ縺ェ繧後k縲・縺昴s縺ェ繝悶Ν繝シ繧ー繝ゥ繧ケ繝サ繝溘Η繝シ繧ク繝・け繧剃サ翫%縺晉屁繧贋ク翫£縺溘>縲√◎繧薙↑諤昴>縺ァ蟋九∪縺」縺溘ヵ繧ァ繧ケ縺ァ縺吶€・閠∬凶逕キ螂ウ縲√◎縺ョ霈ェ繧堤ケ九£縺ヲ縺・%縺・→縺吶k莠コ縺溘■縺碁寔縺セ縺」縺ヲ縲・縲惨HOKU-YABO~鬟滄㍽譛帙€上→縺・≧螻ア縺ョ荳ュ縺ョ繝代Λ繝€繧、繧ケ縺ァ諤昴>縺阪j繝悶Ν繝シ繧ー繝ゥ繧ケ繧呈・ス縺励∩縺溘>縺ィ諤昴>縺セ縺吶€・

 これは誰もが経験あるだろうが、いわゆる「文字化けメール」の一部である。
 昨日ある人から貰ったが、どうしてこんなことになるのか不思議なので、思いついてここにコピーしておくことにした。
 ただそれだけのこと……、今日はヒマな誕生日なので、。
 今日、故郷に住む幼馴染の同級生が逝った。