2010/02/19

241【父の十五年戦争】1945年の血なまぐさいオリンピック

 バンクーバーでオリンピックをやっているらしい。日本選手が勝たないことを願っている。
 だって、勝ったら新聞の読むところがぐ~んと減ってしまうんだもの、新聞代を負けろ!。

 ところで2008年8月にもオリンピックをどこかでやっていた。そのとき、このブログで「オリンピック作戦 operation olympic」なるコラムを書いた。
 1945年はじめ、日本はアジア太平洋戦争の敗北が続いて末期的症状にあり、4月には沖縄本島にアメリカ軍が上陸して、次は本土に上陸して戦闘になることを避けられないとして、本土決戦の準備に入る。

 一方アメリカ軍は、「ダウンフォール作戦」と名づけた日本本土上陸作戦を立案していた。
 それは二つの作戦からなり、九州上陸が「オリンピック作戦」で、関東上陸が「コロネット作戦」であった。
 実際は原爆によって、この作戦計画実行よりも早く日本が降伏したので、作戦は日の目を見なかった。

 時は移り2008年10月、わたしの母親が死んで、遺品から父親の戦争日誌が出てきて、それを解読していたら、父は「コロネット作戦」と危ない関係にあったことがわかったのだ。
 このブログに2008年8月「オリンピック作戦 operation olympic」を書いた時は、そのことをまだ知らなかった。
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 1945年1月、大本営は現実味を帯びてきたアメリカ軍の本土上陸に備える、最後の決戦に臨むことにした。4月には沖縄本島にアメリカ軍は上陸した。
 わたし父は、1944年はじめから姫路にある第84師団にいて、南方戦線のラバウル島に行く船を待機して通信隊の教育に携わっていた。
 しかし戦況は不利になるばかりで、制海権制空権は徐々にアメリカ軍に奪われてゆき、輸送船の調達も郵送そのものも難しくなる。

 では台湾へとか沖縄へとか朝令暮改するうちに、幸なことに父の師団は国内にとどまり、神奈川県松田町に移駐することになる。
 この松田町が「コロネット作戦」の中心地にあったのである。関東上陸作戦の中心地が相模湾沿岸であり、松田町は上陸後に東京に侵攻するルート上にある。

 わたしが鎌倉に住んでいた頃、海岸部の崖にたくさんの穴があり、それは戦争末期に掘ったもので、そこに砲をすえつけて連合軍上陸に備えていたのだと聞いてはいた。
 それがわたしの父親にも関連しているとは、思いもつかなかった。
   ◆◆
 1945年1月、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」で本土決戦の方針を出し、軍組織を改め、大動員をかけた。しかし、これには訓練を受けていない兵や老年兵が多く含まれ、武器もそろわず、かなり無理な計画であった。
 3月には大本営は「国土築城実施要綱」で各地に陣地を造って戦場とする準備を命令、3月には「国民義勇隊」の結成を閣議決定し、これは国民全体を本土決戦の要員としようとするものであった。

 4月に「決号作戦準備要綱」を大本営は発表して本土決戦部隊を日本各地に派遣、上陸が予想される関東や九州の海岸で重点的に、アメリカ軍上陸を迎え撃つ陣地構築が始まった。
 そして第53軍(司令官赤柴八重蔵)が本土決戦作戦の神奈川担当となり、第84師団はその編成下に入り、5月に相模湾上陸の敵に備えるために小田原に配備されて司令部を置いた。7月には松田町に司令部は移動した。

 この部隊は相模川以西の沿岸地域の担当で、海岸と後背地に陣地を構築して、ノルマンジーのように上陸してくるかもしれない連合軍と刺し違えて、止めようもない侵攻を遅延させる作戦であった。
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 第84師団に属する父の岡山201聯隊は、5月から移動して当初は沼津で陣地の構築作業をおこない、6月には松田町の松田国民学校に駐留した。
 町民や中学生も動員して陣地構築など行なった。松田山に穴を掘って司令部を移転する陣地の構築を進めた。あちこちに穴を掘って上陸軍を撃つ陣地構築も進めた。
 海岸では砂浜に兵士1人づつが入る穴をたくさん掘って、上陸してくるアメリカ軍の戦車の下に爆弾を抱えて飛び込む自爆作戦であった。

 おそらく父もそれらのどこかで穴掘りをやっていたらしく、「松田の山中で穴掘り中に終戦」と手記に書いている。
 このころは通信隊であろうが工兵隊であろうが隊の任務に関わらず、あらゆる仕事に携わっていたようである。
 部隊の食糧は自給自足であったので、田畑を作っており、これに住民たちもかりだされた。
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 コロネット作戦は、千葉県の九十九里浜と神奈川県の相模湾湘南海岸に上陸して、双方から東京に侵攻するもので、太平洋方面のアメリカ軍の総力を結集して、日本に対するとどめの攻撃となるはずであった。
 重点は相模湾側にあり、ここから北に攻め上って東京へと進むのであるから、小田原平野の北端部にある松田町はその進路のひとつにあたることになる。

 もしも本当にここで本土決戦の戦いがあったら、質量共に豊富なアメリカ軍に竹やり肉弾戦法の日本軍が勝てたはずはないから、わたしの父もここで果てたにちがいない。
 実際には、1945年6月に原子爆弾の開発が成功したことにより、コロネット作戦は保留となり、原爆の投下によって必要がなくなったのであった。
 その意味では、原爆が多くのアメリカ軍兵士の命を救ったというアメリカ流の原爆の意義解釈を、父にも適用できるかもしれない。

 それにしてもアメリカ軍上陸作戦地を日本軍がよく知っていたものであるが、諜報活動の結果か、それとも誰が考えてもそうなるのだろうか。
 8月15日敗戦、8月25日には部隊は引き上、父は郷里に8月31日に戻った。
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 ゆるゆると1年ほどかけて資料を調べながら解読した父の戦争の手記を、「父の十五年戦争」として、わたし足の解説をつけて一応のまとめを一段落した。
 1931年から1945年までの十五年戦争の、最初の年から断続して3回の召集を受けて、兵役で7年半を過ごした記録である。
 副産物として、フィリピンで戦死した叔父の戦場、悪名高いインパール作戦の生き残りの中越山村の長老の戦場のことも知ることができた。

 おかげであの戦争をはじめから最後まで、父が行かなかった南方戦線までも追うことができた。上の文は、その最後の兵役時代の要約を載せたのである。
 父の十五年戦争記録は弟たち息子たちには見せるが、ほかにどうするわけでもない。わたしの人生の宿題のひとつが、ボケないうちにできたと言うことである。次は残りの宿題にかかろう。

◎参照→父の十五年戦争

参考文献
・「相模湾上陸作戦―第2次大戦終結への道」大西比呂志ほか 有隣新書 1995
・「小田原地方の本土決戦」香川芳文 小田原ライブラリー 2008
・「茅ヶ崎市史 現代2 茅ヶ崎のアメリカ軍」茅ヶ崎市 1995
・「松田百年」松田町 2009
・「戦史叢書 本土決戦準備(1)関東の防衛」防衛庁防衛研究所 朝雲新聞社

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