2009/05/29

136【お遊び】友人の畑に作業小屋を設計施工で建てたのだが、、

 何十年ぶりだろうか、建築の実施設計図を描き、しかも初めて施工までした。
 といっても、わずか1間半×半間の物置小屋である。家具というには大きく、建築というには小さすぎる。
 韮崎に大学同期の友人Mが住んでいる。ロボット工学(情報工学かもしれない)が専門らしい国立大学名誉教授だが、自宅のそばにざっと千平米もの大農園があって、なにやら農作業もしている。
 その半分以上は雑草を育てている気配だが、その中にリンゴ、サクランボ、ナシ、クリ等の果樹が、まだ背丈くらいだがあちこちと植わっていて、その下にはてんでな方向の畝に、イチゴ、アスパラガス、トマト、チンゲンサイなどが育っている。ミョウガやフキは適当に生えてくる。てな具合の楽しい農作遊びをしているらしい。
 この3月に遊びに行ったとき、「雨水貯留装置プロジェクト」を手伝った。畑にやる水を、家の水道からバケツで運ぶのがいやなので、畑で雨水を貯留しようというのである。
 ようするに畑よりちょっと高い道端の地面に青テントを敷いて、そこに降った雨を低いほうの角に流して如雨露でタンクに流し込友人も畑にむという、不精なものである。 一応は水がよく貯まっているという。
 雨が降らないと役に立たないのが難点であるが、雨が降ると畑に水をやる必要がないという矛盾もある。
   ◆
 その次のプロジェクトは、畑の隅に肥料や農機具の収納小屋を作りたい、手伝ってくれと、Mは言い出した。
 家の裏壁に寄りかかる半間角の農具の物置があり、Mが木材と塩ビ板で自作しているのだが、どの面も長方形ではなくて平行四辺形というデザインに、少しは自覚して困っているらしい。
 そこで、昔々建築家のわたしに、既製品物置が簡単だけど、味気ないから設計しろ、という。ふん、面白そうだ、たかが物置だ、それくらいなら設計できる腕前は、まだ残っているだろう。
 で、二人でホームセンターに行って、日曜大工用品売り場をうろうろしながら、あれを使いこれを使いとアイデアを出し合った。
 それから2ヶ月くらいあれこれとメールやり取りして、設計図はできた。もちろん自分たち素人が施工するのだから、それなりの能力に見合うものでなければならない。
 建築やる者は当然に施工もやるものだと、Mは思い込んでいるらしかったが、わたしは施工なんてしたことがない。現場で施工業者に文句をつけた経験はある。
 1間半×半間の大きさにすると決まって、CADソフトなんて持っていないから、ペイントで設計図を描いたのだった。
 設計の一番のポイントは、2つの既製品スチール製棚を買い求め、これを1間半×半間の床板の上に左右両方に向かい合わせに立てて、この周りをベニヤ板で囲めば、スチール棚が定規になって、素人でも直方体がかっちりと建ち上がる、という点にあった。
 さて、基礎のブロックまではMがひとりでやって、5月27日午後、わたしとMは例のホームセンターに材料買出しである。
 ベニヤ板はコンクリート型枠用の、片面に防水コーティングしてあるものを求め、これを設計図にしたがってホームセンターで裁断してもらった。
   ◆
 次の日からいよいよ施工である。朝5時起床でとりかかる。わたしはいつもは10時頃起きているので、時計が5時間も戻った。なにしろ、オーナーのMが早起きだから、設計施工出稼ぎお遊びボランティアのこちらは泣く泣く、目ヤニをこすりながら従う。
 まず、床板をブロック基礎の上に置く。
 この上に、組み立てておいたスチール棚を持ってきて立て、3方にベニヤ板を取り付けていく。
 ここでもう、大変な見込み違いに気がついたのであった。
 そのスチール棚が定規になるどころか、なんとヘナヘナ鉄板づくりでベニヤ板のそりに負けてしまうくらいだし、直方体どころかM自作の物置なみの平行四辺形になるのだ。え、ナンだよー、おまえは鉄だろ、木に負けてどうする~。
 でもいまさらしょうがない、ヘナチョコ鉄棚をなだめすかし、ぶったたきながら、ベニヤ板をボルトで取り付けていくと、何とか納まったようである、まあ、近くによって見なければ、、。
 この治しきれないスチール棚ひずみが、後々まで響いた。この次には(そんな機会はないが)スチール棚を使わないぞ、ベニヤ板だけでやるぞ。
 そうやって片方の棚が立ち上がり、もう一方が立ちあがりそうな時に、突然の雷鳴、土砂降りになった。あわててビニールテントなどかけて、家に退避して休憩である。
 わたしの予定では1日で組立完了、次の日は補修とペンキ塗りで全部完了のはずが、この日は、昼寝(朝早いので)、雷雨で4時間あまり作業しなかったので、両方の棚を立ち上げて繋いだところで日没、床と壁はあるが屋根も扉もなくて終了となった。
 次の日も5時起きである。空が怪しい、そのうちにしとしとやって来た。いそいで屋根板を組み合わせ、乗せて取り付ける。
 雨は降り続き、雨具を着て作業である。とにかく屋根の取り付けまですれば、なんとか文字通りに雨露をしのげる。結局のところ、扉の取り付けと、細かい補修や補強を残して、昼過ぎに引き上げ、今回の工事はここまでとした。
 材料費は3万円ちょっとくらいだったから、既製品を買うよりもかなり安い。
 久しぶりの建築もどき日曜(正確には水木)大工仕事は、実に楽しかった。設計中も、久しぶりに昔のようなものづくりの知的興奮をちょっとだけ持った。
 Mも喜んでいたから、あとは畑作業の合間にぼちぼちとやるだろう。
追記:6月9日、完成したとMから写真が来た。まあまあのできである。
 関連→119桃と桜花そしてブナの森へ

2009/05/24

135【横浜ご近所探検】横浜の磯子の海岸段丘の上にあった天皇家の王子様の夢の跡

 横浜の南の東京湾沿いに磯子という地域がある。昔は高い海岸段丘の下まで海が押し寄せていて、東京の別荘地だったらしい。
 昭和天皇の義弟の東伏見宮邦英(1910-)が、1937年に磯子別邸を段丘の真上に建てたのも、海の風景を眺めるのがひとつの目的だったろう。
 だが、海は1960年代に工業用地として埋立てが進み、目の前は豪華仏壇のごとくたくさんのお灯明がちらつく工業コンビナートが広がる。もう、保養地ではない。
 もっとも、ちかごろは工場萌えなんて変なマニアが出てきて、あの風景を愛でるとかであるから、見直されてまた保養地になるか、まさか、。 
→萌える工場達http://f.hatena.ne.jp/wami/20050215040849

 海の水ばかりじゃなくて、陸の緑のほうの埋立ても進んできた。東伏見宮別邸まわりの緑の丘陵が、住宅群にどんどんと埋めつくされていくのである。その変遷の様子を、この60年の航空写真に見ると興味深い。
 その東伏見宮別邸を買い取ったのが西武の堤康次郎であったのは、猪瀬直樹の書く「ミカドの肖像」のとおりで、王子様のお屋敷だからプリンスホテルになるのである。
 そして1954年に客室4室、60年に28室の横浜プリンスホテルが開業する。もうその頃は目の前の海の埋め立てが決まっていたか始まっていたはずである。とにかく営業をするが、次第に土地の切り売りをして住宅地にしていく。
 1990年、一挙に建て直しをして440室の大ホテルになる。あんな不便で景色もよくないところに、なんと村野藤吾の設計の豪華ホテルなんて、どうして?、という感じであったことを覚えている。一度だけ、なにかの会議だったかで行ったことがある。

 それからわずか16年、2006年に営業終了、2009年の今は歴史的建築の旧東伏見の別邸の木造建築の一部だけがあるが、そのほかは村野設計の15階建ての大ホテルもなにもかも、きれいさっぱりと取り払われて巨大な空き地となっている。
 風景はどうやら半世紀前に戻ったことになる。跡地は共同住宅開発のSPCが買い取って、いまは土地利用転換のための都市計画提案を地元などに説明中であるという。
 つまり、これで磯子は海の水側も陸の緑側も、両方共に埋立てが完了するのである。
 それにしても、あの大ホテル建築、しかも名手村野藤吾の作品が、たったの16年しか寿命がなかったというのが、おかしいというか、不審というか、もったいないというか、そういうものというか、奇妙な感じがする。

●横浜プリンスホテル史
http://www.k2.dion.ne.jp/~hkg/page287.htmlから抜粋、加筆)
・1937年 東伏見宮磯子別邸が竣工(設計施工竹中)
・1945年 終戦連絡局長鈴木九万が官邸使用(~947)、GHQフランス使節が使用
・1953年 西武鉄道が買収
・1954年 横浜プリンス会館開業食堂7室・客室4室
・1960年 横浜プリンスホテル新館開業(28室)
・1964年 根岸線(桜木町-磯子間)開業
・1966年 西武鉄道が磯子台分譲
・1977年 西武不動産が日本住宅公団にゴルフ場跡地売却
・1987年 横浜プリンスホテル営業終了
・1990年 横浜プリンスホテル開業(441室)、旧館は宴会場「貴賓館」
・1993年 「貴賓館」を横浜市が歴史的建造物に認定
・2000年 西武不動産が磯子プリンスハイツ販売
・2001年 「プリンスブリッジ」開通
・2005年 横浜プリンスホテルの売却検討を発表
・2006年 横浜プリンスホテルを特定目的会社に譲渡、
     東京建物が大規模住宅開発を発表、
     横浜プリンスホテル営業終了

 東伏見宮邦英なる人のことをウィキペディアで見ると、磯子の土地を手放した頃から京都の有名な寺院の青蓮院門跡の門主となって、京都古都税問題で京都市と争ったときの京都仏教界リーダーだったそうだ。8年の抗争の末に京都市はその税の廃止をしたから、勝ったことになるのだろう、頑固坊主らしい。
 大昔に、偏屈な将軍として有名な足利義教がここの門主だった。
 わたしは学生のときに卒論研究の調査で行ったことがある。話が逸れてしまった。
 ◆横浜ご近所探検隊が行く

2009/05/23

134【能楽鑑賞】関根祥六・祥人・祥丸という三代の能楽が楽しみ

 横浜能楽堂で、狂言「武悪」(ぶあく)と能「石橋」(しゃっきょう)を観た(2009年5月23日特別公演)。
 「武悪」の演者は、山本東次郎の主、山本則直の武悪、山本則孝の太郎冠者である。

 ストーリーとしては他愛もないのは狂言の常であるからよいとしても、前場が冗長であるのは則孝の技がまだまだだからと思う。
 武悪を斬ろうとしては何度も思い直すあたりが前場の重要なところなのだが、もう少し何とかしてほしい。

 それは後場になって、東次郎と武悪の偽幽霊との掛け合いで、東次郎の演技で技の磨き方がよく分かるのだ。なんでもないことを、あの無骨な身体演技で笑いにしてしまう東次郎はすごい。
 もともと無骨に演技するのが東次郎家狂言の伝統だから、和泉流のように過剰演技はしないのだが、最近はいくぶん無骨さがはがれている感もある。

 大獅子の小書きのつく「石橋」は、関根三代の出演である。子獅子(赤獅子)が祥丸、親獅子(白獅子)が祥人、爺獅子(大獅子、白獅子)が祥六、そろって舞台に登場するのはちょっと感動的である。
 そして3獅子はそれぞれ16歳、50歳、79歳に応じて、その若さ、円熟、枯淡の演技を見せてくれて、観ていて楽しかった。
 関根祥六と祥人は、わたしは好きな能役者である。さて三代目の祥丸がどう育っていくか、楽しみである。

 笛が一噌幸弘で、この人はほんとに上手い。かろがろとあの石橋を吹いてしまう。そこが問題か、。
 もう10年以上も前になるか、東京の日枝神社境内で幸弘の演奏会に行ったことがある。沢山の笛を前において、とっかえ引き換え吹くのであった。筒ならば何でも音にして吹くって感があった。

 太鼓の観世元伯、小鼓の大倉源次郎とともに、能楽界は若い実力ある世代に変りつつある。
 ワキの森常好は、ちょっと貫禄がつきすぎである。そういえば、ちかごろワキ方の鏑木岑男をみないが、どうしたのだろうか。

関連→050能「摂待」と「安宅」   ◆能を観に行く
    ◆野村四郎師に能楽の見方をきく

2009/05/22

133【言葉の酔時記】コンピューター用語はどうして東北訛りのイントネーションなんだろうか 

 マッキントッシュのコンピューターを、ずいぶん昔にはじめてコンピューターを始めた頃に使っていた。 2年くらいでウィンドウズに買い換えたが、いまでもマックへのある種の郷愁みたいなものがある。
 なにしろMACのほうがデザインが格段によいから、格好よさにあこがれる。
 その後の長いWIN使いで慣れきってしまったし、MACも昔とはずいぶん違うから、いまさら戻れない。

 それでも未練がましく、MACサイトでWINからの乗換えなんて動画を見ていたら、その解説の日本語のイントネーションに耳が引っかかった。
 こういうのは多分標準語でしゃべるはずだろうが、コンピューターだから当然に日本語に翻訳できない?単語のカタカナ語だらけである。

 もちろん英語だから、その元のイントネーションがあるはずだが、MAC解説者のしゃべるのと違う。まあ、違ってもよいのだが、それがどういうわけか尻あがり発音になるのである。そういえば、日常聞くそれらも変なものがある。

 ウィン、ヘルプゥ、ファイルゥ、フォルダァ、メールゥ、ドックゥ、アドレスゥ、ワードォ、ブログゥ、コメントォ、ウェッブゥ、ツールゥ、アドレスゥ、プリンタァ、ーグルゥ、サーバァ、データァ、フォントォ、モデムゥ、ルータァなどがそうである。
 これらの元のアクセントは前にあるはずなのに、どれも尻あがりである。

 外来語発音に標準語があるわけはないから、元のアクセントに倣うイントネーション発音してもなにも問題ないし、RとLの区別じゃないから日本人にも発音できそうなものを、どうしてだろうか。

 で、わたしが思うに、北関東や東北地方では尻あがりアクセントが多いので、その方面の出身者が多い東京あたりでつくる解説ビデオでは、外来語発音も東北弁傾向になるに違いない。
 これが関西弁傾向だと、多分、尻下がりになるのだろうが、どうなのか大阪あたりの人に聞いてみたい。

 参照◆言葉の酔時記 (2004~) 

2009/05/21

132【横浜ご近所探検】崖地はめこみ共同住宅

 ものすごい共同住宅を見つけた。
 横浜の磯子よりの海岸段丘崖ぎりぎりに、崖地に崖の高さに応じて4段構えくらいにはまり込んでいるのである。
 下から見ると、玄関部分の1スパンは崖下まで降りていて、ここは14階建てになっているらしい。その左は11建て階らしく、更に左端には崖が4階分せりあがって建物をがっちりと支えているのであった。

 右を見ると、8階建てくらいになっているし、写真では見えないが、更に右は5階建てくらいになって続いていた。
 屋根の高さは同じだから、下から地面というか崖がぼこぼこといろいろな高さに盛り上がって、建物を支えている格好である。
 こういうのは何階建てというのだろうか。

 崖下から入ることができるが、道路から車で直接入ることができない状況だったから、多分、崖上に車アクセスの玄関があるのだろう。
 全体の半分以上は崖に背中がくっついているらしいが、風通しはよいのだろうか。

 崖地に埋没というか一体化というか、崖地との取り合いの土木的な処理はどうしているのだろうか。土木工事がえらくかかっただろうと思う。斜面緑地は当然に失われたはずだ。
 こんなに高くつくような工事をしても、名ばかりマンションは売れるものなのか、。
 それにしても、建築と崖とのデザインは、そのモンスタラスな取り合いがアートとしては面白いが、生活空間の風景としては、いかがなものか。
 安東忠雄設計の「六甲の集合住宅」を思い出した。

参照→あらかじめ発掘された遺跡   ◆横浜ご近所探検隊が行く

2009/05/20

131【父の十五年戦争】父が兵役に就いた3つの戦争の記録をつくっているので戦争情報を下さい

 父の戦争日誌解読のために、資料を漁っている。
 これまで専門(都市、地域計画)や趣味(建築史、能楽)などについては、長い間に集めた書籍資料が書棚にあるが、戦争に関してはほとんどそれらしいものはなかった。
 この3ヶ月、いちから資料をあさることをやっていて、あらためてインターネットはすごい、これにわが人生が間に合ってよかったと、つくづく思っている。情報集めの能率は、昔と雲泥の差である。
 戦争資料はもちろん山ほどあることが分かるが、問題はそこから父に関連するものを拾い出すことである。これもインターネットの検索機能に改めて感心している。 しかし、ピンポイント情報は見つからない。

   
 父の兵役については、父の書いた履歴書と兵役の日誌である程度は分かるのだが、所属隊などを正確に知るには、軍人だったものひとりひとりの「軍歴」が公的に管理されていると、これもインターネットで知った。
 市役所に行って聞くと、陸軍は除隊時に本籍のあった都道府県に、海軍は国にあるという。
 さっそく父の軍歴を岡山県庁から取り寄せて、詳しいことが分かったのであった。どうも、軍人恩給支給の元になっているらしい。
 父の自筆記録とその軍歴とでわかったことを簡単に記す。

●父・伊達真直の兵役
・1931・現役兵として岡山歩兵第10連隊第2中隊
・1932・留守隊第11中隊
・1933・満州派遣軍第10連隊第11中隊通信班、中国・熱河作戦の界嶺口戦闘、除隊、帰郷
・1938・充員召集、歩兵第10連隊補充隊、北支第7師団通信隊、中国へ、天津・保定・石家荘・順徳付近で戦闘と通信任務
・1939-40・保定、石家荘に駐留
・1941・召集解除、帰郷
・1943・臨時召集、姫路第54師団通信補充隊
・1944・第84師団通信隊、内国戦務
・1945・帝都防衛隊、神奈川県松田で終戦、召集解除、帰郷
 結局、姫路から南方戦線に送られるはずが輸送船が次々と沈没して不可能となり、敵兵上陸対策に関東に出かけていて終戦、8月31日に帰郷した。3度の兵役を生きて戻れたのは、通信兵という立場もあっただろうが、幸運だった。 わたしの近親では母方の叔父が、若妻と娘一人を残して南方戦線で没している。
   
 さて、資料であるが、これまで読んだもの、読みつつあるもの、これから読みたいものなど、自分の覚えのためにここに記しておく。

●関連WEBサイトで気になるもの
・ウィキペディアの各サイトはもちろんすごく役に立つhttp://www.wikipedia.org/・戦争を語り継ごうリンク集http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/
・はい 青木です! (岡山歩兵第110連隊)http://ww32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/index.html
・サーチナ > 中国地図 http://searchina.ne.jp/map/
・日本軍の基礎知識http://www1.odn.ne.jp/tobu7757/J_wsd/weekly/file00.htm
・新編・新編・父の青春(4)熱河作戦の中で http://www2r.biglobe.ne.jp/~kosanhp/myway/newfather004.htm
・近現代日本の写真・画像(本編)http://www5b.biglobe.ne.jp/~leaper/kingenphotoikkatu.htm
・支那事変http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/sinojapanese%20war.html
・歩兵第10連隊http://www.geocities.jp/bane2161/hohei10rentai.html
・「岡山郷土部隊」と「三光作戦」http://park17.wakwak.com/~ueba/sankousakusen.1.html

●日中戦争関係書籍
・兵隊たちの陸軍史:新潮文庫:伊藤桂一:新潮社:2008
・満州事変から日中戦争へ:岩波新書:加藤陽子:岩波書店:2007
・昭和史1926-1945:半藤一利:平凡社:2007
・日中戦争(計3巻):児島襄:文藝春秋:1984
・熱河討伐及熱河事情:世界知識増刊:新光社編:新光社:1933
・近代日本戦争史第3編満州事変・支那事変:同台経済懇話会:1995
・戦史叢書・北支の治安戦:防衛庁防衛研修所戦史室:朝雲新聞社
・アジア・太平洋戦争史:山中恒:岩波書店:2005
・皇軍兵士の日常生活:講談社現代新書:一ノ瀬俊也:2009
・昭和の遺書・十五年戦争・兵士が語った戦争の真実:仙田実・仙田典子:文芸社:2008
岡山県郷土部隊史:岡山県:1966
岡山歩兵第百十聯隊史:岡山歩兵第百十聯隊史編纂委員会編:1991年
歩兵第十聯隊史:歩兵第十聯隊史刊行会編:1974
歴史不会忘記:保定市政協文史資料委員会編:1995

 図書館はもちろんだが、重要な戦争資料のありかとして、防衛省防衛研究所 史料閲覧室がある。厖大な戦争資料があるようで、一度たずねたが、開架は少なく、書庫内資料の何を見ればよいのか検索方向がまだよく分からない。

 こう書いておくと、地球上のどなたかが役に立つ資料を教えてくださるかもしれないと期待できるのが、インターネットのすごいところである。

2009/05/19

130【老いゆく自分】新聞広告写真の手とわたしの手を比較してみたら

 おお、あの白魚のようだった指が、なんとまあ、サラミソーセージである。
 あのマシュマロのごときだった手の甲には、なんとまあ、褶曲山脈が縦横に発達している。
 今日の新聞広告(TOSHIBA)に載っている写真を見て、思わずわが手を並べて撮ったのであった。
 こうやって客観視するとわかる、70年余を生きると、わたしでもこうなるのか、。

2009/05/18

129【父の十五年戦争】戦場は実は人糞の臭いに満ち満ちているらしい

 父の戦争日誌を解読するべく、日中戦争を勉強している。
 児島襄『日中戦争vol.3』に、1937年12月の例の南京大虐殺に至る南京城攻略戦に、「糞攻め」なる話(180ページ)があり、興味を持ったので引用する。

『日本軍が難儀したのは、以上の事情のほかに、もうひとつ、いわゆる“糞攻め”なる環境があった。
 第六師団と第百十四師団が攻める雨花台は、中国軍第五十一、第五十八、第八十八師が守備するが、約四万人をこえる中国兵の排泄作用のおかげで、その陣内、陣外は糞便におおわれている。
 敵弾をさけて伏せれば鼻先に「糞の山」、鉄条網めがけてほふくしようとすれば、それは“糞海”を泳ぎわたるにひとしい。
 しかし、といって、立って歩けば間違いなく敵弾にみまわれる。
「ええ、没法子(メーファーズ)」
 やむを得ぬ、と、ほふくをつづければ鉄帽から靴の先まで“糞まみれ”になる。(以下略)』

 これは、ある兵隊の述懐をもとに書いてあるのだが、日本兵も中国兵もそれは同じであったろう。
 別のところには、屍の腐臭と糞尿臭とが入り混じった猛烈な臭いが戦場にたちこめて舞い上がり、補給物資投下に来る飛行機の操縦士たちも嗅いだことを書いている。
 通信兵だった父の1933年の日誌に、争奪戦闘中の最前線の長城に通信電線を附設する記述があるから、あるいは糞まみれ経験があったかもしれないが、それは日誌に書いてない。
 これまで気がつかなかったが、考えると大昔から戦場は糞だらけであったはずだ。だから伝染病も蔓延しただろう。
 いま思い出したむかしむかし読んだ糞攻め話、楠正成の守る千早城に攻め登りくる敵兵に、糞尿を煮え立たたせて上から浴びせて防いだ、、、さぞや臭くて熱くて、、、ウ~ップ、。

2009/05/15

128【世相戯評】海賊対処法で自衛隊派遣とは危ない危ない歴史の教訓

 5月13日の新聞に、(社)日本船主協会が「海賊対処法」案の早期成立を訴える意見広告を出している。
 ソマリア沖のアデン湾に出没する海賊退治に、自衛隊を派遣して鉄砲を打ってもよいようにしようって法律を早く成立させよ、それは海外からの輸入に頼って生きている日本人の生活を守ることなんだから、というのである。

 ちょっと待ってくれ、なんだかいつか聞いたことがあるような、、。
 そうだ、今、父の戦争を調べていて読んでいる日中戦争の出だしに似ているのである。
 日清・日露の戦争で中国東北の満州に権益を得た日本は、そこに暮らしだした日本人の生活を守るためと、関東軍・支那派遣軍を送り込み、その後はこの現地軍が日本人を守るためと暴走するのを、不拡大といいながら押さえるどころか、成り行きに任せて後追いした政府の無策、そして衆愚に陥った当時の日本人たちが、日本にも中国にも悲劇をまねいたのである。

 船主協会が日本人を人質に取っているような言は、満州の関東軍やソマリア海賊とも同じ論理となってしまう。
 それでなくても、遠い公海上の民間の商船をなぜ税金でしかも自衛隊で保護するのかって、何かがひっかる。これは地震災害出動みたいなものかしら、でも違うよなあ。

 どうもよく分からないが、やるとしても、自衛隊の派遣ではなくて海上保安庁の仕事のように思う。
 広告には、ドイツの軍艦に救われたことがあるので、日本も軍艦を派遣せよと書いているが、日本の軍艦(があるとすれば)は、憲法で他国のそれとは全く違うことを認識してほしい。
 出先での日本に関する安全を守るためと武力を繰り出すことについては、過去のことから考えて、かなり慎重になる必要がある。

 そもそも、日本人が輸入に頼らなければ生きてい行けないことにも問題がある。もちろん輸入しなければならないものもあるが、必要のないものまで輸入しているのも事実だ。
 ハケン労働者のことも大変な問題だが、ハケン軍艦はそれ以上に大変である。

2009/05/14

127【言葉の酔時記】レルラ問題ーインフラ、インフレ、インフル、、

 不景気で物が安くなるかと思ったら逆のインフレーションの気もあるとかで、そこにメキシコから強力な新型インフルエンザがやってきて、経済体制も医療体制もインフラストラクチャーが弱い日本は、もろにインフレ・インフル・インフラ問題(レルラ問題だな)に悩んでいる、ってなことかしら。
 で、残りのインフリとかインフロって、ないの?
 そもそも外国語をカタカナ表記して、こんどはそれを頭のほうの4文字だけで略語にするってのは、日本独特の文化なのだろうか。
 アングラ、アメフト、エンタメ、キャバクラ、ゲーセン、コンビに、セクハラ、デジカメ、ナンクロ、パソコン、パリコレ、パンスト、ハンスト、マスプロ、メルマガ、リモコン、ワープロなどなど、よく考えるとわけの分からない略語である。
 どうもIT系の用語が多いのは、若者言葉としての隠語的ニュアンスといい加減さが基本にあるらしい。
 ブログってのはWEB LOGの略BLOGだそうだが、「蜘蛛の巣の記録」ってどういうこと?

126【父の15年戦争】父の戦場の手記をもとに戦争の歴史を書いてみる

 これまで歴史には興味はあったが、戦史には特別に興味もなかったし、戦記の類には全く関心がなかった。
 ところが、このところ日中戦争史にはまっている。
 それは、亡父の遺品から日中戦争での日誌が出てきたので、読んでいたら、父は何故そんなところで命を賭けるようなことをしたか、がぜん、興味が湧いてきたのだ。

 1931年からの15年戦争のうちの7年半を兵役で過ごしていて、さいわいにも生きて戻ってきたのであった。その留守の間に、その父を失い、幼い長女を亡くしているのである。
 ひとりの庶民の歩兵が、初年兵入営から終戦の月までに、どのような背景の下で、そのようにもわが家を留守にしなければならなかったのか。

 一般に歴史はほとんどが俯瞰の視点から書かれているが、それをひとりの兵隊から見る虫の目の視点に置き換えて読むと、これは身近なものと感じられる。
 戦記にも興味が湧いているところだ。インタネットサイトにも沢山の庶民の戦記が載っている。
 父の日誌に出てくる用語が分からない。兵隊の制度自体から知ることから始めなければならない。

 軍歴なるものがあると知った。兵役でいつどこに行ったか、いつ除隊したかなどが書かれている個人別の履歴書で、陸軍は各都道府県で管理しているのだと分かり、父のそれを請求したら届いた。日誌と照合しつつ、旧満州国の地図を広げ、日中戦史を読んでいる。

 それにしても戦史を読むと、あの頃の戦争はなんだか成り行きで進行している感じがする。ほとんどマスタープランらしきものもなくて、あれだけの悲劇がずるずると拡大するのが、読んでいて気持ちが悪い。
 その成り行き大局のもとで、そんなことは知らない小さな歩の駒としての通信兵の父は、前線では目の前で仲間が死に、戦地の農家で食糧を挑発(略奪)し、職業の神官として戦地で死者を弔い、東京大空襲に出会い、3回もの兵役から生還した。
 ひとりの兵士とその留守家族の視点からの戦争として、それなりのノンフィクションを書けそうだ。

2009/05/10

125【くたばれマンション】共同住宅ビルをマンションというがそれは真っ赤なウソで名ばかりマンションだよ!

 この孤乱夢は2008年10月6日に書いたが、操作ミスで消えたので改めて書く

・マンションとはいったいなんだ?
 名ばかり管理職とかいって、平社員なみの権限しかないのに管理職に指名されて、残業代を支払ってもらえず、平社員より収入が少ない労働者がちかごろ話題になっている。
 新聞記事では特に安売り店舗の社員がそうらしいが、普通のサラリーマンでもいそうなものである。 でも、わたしが身をおいてきた建築とか都市のデザイナーやプランナーの世界では、大企業はごく一部でまだまだ徒弟制度の世界であって、実態的に名ばかり取締役どころか名ばかり社長さえもいるのが、普通かもしれない。
 名ばかりといえば、なんといっても「名ばかりマンション」である。これほど名ばかりに値するものは、ほかに見当たらない。
 マンションとは英米語辞書では大邸宅やお屋敷のことである。以前にアメリカ人女性から聞いたことがあるが、アメリカでマンションといえば大統領一家が住むホワイトハウスのような建物だそうである。
 日本のマンションは、不動産屋用語で3階建て以上の不燃建築の共同住宅、しかも区分所有型つまり分譲型のものを言うらしい。
 2階建てのそれはアパートというらしいが、それは分譲でないかららしい。
 では、日本語マンションは英米語ではなんと言うかというと、コンドミニアムというらしい。日本では聞かないなあ。
 とにかく、大邸宅でもなければお屋敷でもない、どんな小さなウサギ小屋でも、共同住宅ならそれをマンションというらしい。なにしろワンルームマンションなんて、ホテルなみの小部屋もあるくらいなもんである。
 これはmansionを語源としてかっぱらった和製英語らしいが、物が似て非なるものの典型でありすぎるのが困る。ほんとに名ばかりmansionである。
 らしい、とばかりいうのは、不動産業界用語で調べても明確な定義がないからである。

・法律でいうマンションとは?
 ところが調べていくうちに、マンションが日本の法律で定義されていることが分かった。
「マンションの建替えの円滑化等に関する法律(平成14年法律第78号) 」なんてのがあって、その第2条に用語の定義として、マンションとは「2以上の区分所有者が存する建物で、人の居住の用に供する専有部分のあるもの」となっている。
 つまり、持ち主が2人以上で住宅のある建物は、木造平屋貧乏長屋でも100階建て超高層でも法律上はどれもマンションである。
 となると、いまに平屋の2連戸住宅とか、今までアパートといっていたヤツを、マンションでございという住宅事業者が出てきて、混乱を招くかもしれない。
 ちょっと、どうも、そういうもんで、よいかしら、英米の常識とも、日本業界の常識らしきものとも、いずれとも乖離しているのを法律で決めてよいもんかしら。
 法律屋さんは硬いお方ばかりだろうに、まさか名ばかりマンションにおけるマンションを法律用語にしてしまうとは、どういう神経だったのだろうか。「区分所有型共同住宅建築物」とでもいうべきであったろう。
 まあ、全国に528万戸、1300万人が名ばかりマンションに住むらしいから、もう名ばかりといってもいられないと思ったのだろうか。法律は分かりやすくっていうことだろうか。
 それにしても、これだけ大量な震災危険住宅をいまだに建設の規制をしないのは大問題だと思うがなあ、。
 次の関東大震災が来て、建て替えもできず修理もできない立ち往生名ばかりマンションが林立してからようやく、名ばかりマンション規制が始まるのだろうなあ、日本は人柱と外圧でしか政策は変わらないのだ。
 そういえば、アパートってのも変である。なぜ2階建てならアパートなのか。かって野々宮アパートとか代官山アパートというのがあったが、これらはみな今で言うなら豪華マンションであった。いつから貧乏共同住宅の代名詞になったのか。
 とにかく、名ばかりマンションくらい変なものはない。その大震災における重大なる危険度も含めて、。
 参考→姉歯大震災の喚起するもの  →言葉の酔時記

2009/05/08

124【世相戯評】地デジ(血で痔)なんて汚らしい言葉を平気でよく言うよなあ

 わが家のテレビジョンがもうすぐ写らなくなるらしい。
 でも困らない、だってTV見てないんだもん。もっとも相棒は困るかも、。
 でも、一方的に見えなくするのはけしからん、 家財道具機能損失補償金をよこせ。

 それにしても「血で痔」って、誰が作った略語か、無神経である、よく口に出して言えるものだ。
 正式には「地上デジタルテレビジョン放送」だから(総務省サイト)、略語は「地デテ」だろうに、あ、「血出て」かあ、、。
 だが、この地上が分からない。地面の上をゴロゴロ転びながらかノソノソ這いながらか、TV放送の電波がやってくるのだろうなあ。となると外を歩いていると、体の中をこのデジタル電波か何かが通り抜けるのか、大丈夫かあ?

 地上があればやっぱり地下デジ、おっと地下デテとか空デテとかも当然あるのだろうなあ、何が違うのだろうか? 地下室やトンネル、飛行機や超高層ビルでTV見るときに使うのかしら。わが家は7階なので地上デテか空デテか、どっちなんだろう? 受像機は違うのかしら?

   ◆

 血で痔対応TV受像機の普及は、まだ6割くらいとかで、一番普及は7割弱の福井県、もっとも未普及は4割弱の沖縄県だそうだ。これは何を意味するのだろうか?
 福井県人はTV番組を見るのが好きなのか、ほかに娯楽が少ないのかなあ。
 沖縄県人はあまりTVに関心がないのか、ほかに娯楽がいっぱいあるからか。となると、わたしは沖縄県人に近い性格なのか、意外であるが、嬉しいような気もする。

 わたしは思うのだが、どうだろう、このまま誰もTV受像機を買い換えないで、血で痔放送開始と共にTV廃止するのである。
 あんなくだらないショウもないラチもない代物をみているのは(見ないのになぜ知っているかというと、飲食店に行くとたいていTVがあってうるさいからだ)、TVが始まって珍しいから見ていた時代から惰性であるだけなんだから、ここらでやめてもなんの問題もないどころか、利口にはならないにしても、あれを見て馬鹿になるチャンスが少なくなることは確かだ。

   ◆

 飲食店のテレビには本当にうるさくて困る。消してくれとは気が弱いからいえない。
 たまにTVをつけてないのでほっとすると、サービスのつもりでつけてくれるのには、困る。行かないようにするしかない。
 よそ様の家を訪ねると飲食店と同じように、居間にTVがつきっぱなしでやかましいのに、平気ですごしていることにたびたび出会う。
 こちらは客だから、うるさいから消してくださいと言いにくいので辛抱しているが、TV嫌いはほんとうに困惑する。

 昔昔、街頭テレビってのがあった。テレビカーという電車が走っていた。 昔、タクシーにTVがついていたこともあった。
 どれもなくなって、日本人もアメリカさんから精神年齢十二歳って言われたときからちょっとは成長したかと思っていたら、今やなんと携帯電話機でTV放送を見るのだから、馬鹿は死ななきゃ治らない。

 そういえば、イギリスさんからからもウサギ小屋といわれてからもうどれくらい経ったか、名ばかりマンションで相変わらずウサギ小屋は健在だし、不況で住宅難民が大量に出るようでは、その小屋にさえ住めない人もいる始末である。バカ政策は死んでも治らない。

2009/05/05

123【老いゆく自分】少年の頃はによく見た空を飛ぶ夢を今は見ないのが寂しい

 少年の日のことを昨日に続けて書く。なにしろ、今日はわが誕生日なのだから、。
 何回も見た怖い夢と楽しい夢があった。
 怖い夢は、球体の内部に身体ごと閉じ込められていて、周りの球体からまた球体がいくつも飛び出している。ここから出たいと、必死になってぐるぐる回りながら周りの球体を蹴飛ばすのだが、出られない、コワイ、ハット目が覚めて、まだどきどきしながらひと安心する。

 この閉所恐怖の夢は、中学生になったらもう見なかったような気がするが、このためだったかどうか閉所恐怖症はいまも残っている。 だから宇宙船にはとても乗れない。それどころかアクアラングも試したが、だめだった。 狭い乗用車で長時間ドライブも好きではない。

 怖くはないがどうにも困る夢があった。走ることができないのである。
 一生懸命に走ろうとするのだが、足がどうしてもよろよろとしか動かないのである。じれったくなり、四足になって手で走り、そのうちに目が覚め、ほっとする。この夢は40歳代になっても見たような気がする。

 これにひきかえ、空を飛ぶ夢はじつに楽しかった。
 わたしの生家は盆地の東の丘陵の中腹にある神社だったから、下の道から鳥居をくぐって長い石段を登るのである。家からは下の街の屋根の連なる家並みを見下ろすことができる。
 この石段の上から飛び出すのである。階段を低空飛行して、鳥居の上を飛び越えると上空へ、そしてまちの屋根の上を飛ぶのがフルコースの夢で、おお、やっと飛べたぞと喜んで目が覚める。

 失敗して石段で着地することも多かったが、覚めても楽しい。これも40歳代までは見たような気がする。
 だから高所恐怖は全然なくて、大学山岳部でも岩登りは好きだった。大学本館の塔の上のパラペットを歩いたこともある。いまじゃできない。
 どれもいつの間にか見なくなってしまって、見たくない夢もあるが、なんだか寂しい。

(追記)映画「E.T.」で自転車に乗って月夜の空を飛ぶ場面があったが、あれは制作者スチーブン・スピルバーグが少年の頃に見た夢に違いない。それを映像にしてひともうけとは、やるなあ、。

2009/05/03

122【老い行く自分】少年の頃に読んだ漫画にあったトマトの種を食っていいか問題がようやく解けた

 トマトを食うときにいつも心の隅をチラッとよぎる、少年の日の記憶がある。
 SF漫画だったか、火星に行った人間がトマトを種も一緒に食べて、火星人に笑われ軽蔑されるのである。
 その前後はまった覚えていないが、ここだけみょうに記憶があって、はて、この種を食っていものかと、今もチラと心をかすめる影がある。

 ところが今日(2009年5月3日)の朝日新聞朝刊に、筒井康隆が「漂流―本から本へ」の連載に書いていることに驚いた。引用する。
 http://book.asahi.com/hyoryu/TKY200905070136.html

「大城のぼるの『火星探検』は面白かったなあ」「復刻されないかなあ」 昔の話になるたび、しばしば小松左京とそう繰り返したものだが、これがやっと昌文社から完全復刻されたのは昭和五十五年、読んだときから四十年近くが経っていた。
 二年生か三年生の頃だったろうが、誰から借りて読んだかのかもうわからない。中村書店から昭和十五年に出たこの漫画のことは、同世代の多くが記憶している。
 (中略) ぼくにはキャラクターの可愛らしさと、オールカラーの童画的な上品さとモダンなタッチ、火星のトマトを種ごと食べたために腹痛を起こして、火星人たちから食いしん坊とはやし立てられるエピソードが心に残った
。(以下略)

 全く同じところを記憶している人が、広い世の中にはいるものである。おかげでわが心のかすり傷?の出所が分かったが、今となれば、なぜこんな些細なことが子供の記憶に残るのだろうか不思議である。

 筒井はわたしより3歳年上のほぼ同世代である。彼は戦中に読んだらしいが、わたしは戦後であると思う。
 わたしは筒井の熱心な読者ではないが、好きな小説家である。多彩な芸達者のようだが小説のほかは知らない。

 なお、「火星探検」の原作者は、小熊秀雄ということも紹介している。あの小樽文学館で小林多喜二や伊藤整たちと肩を並べていた詩人はこういうこともしたのか。
 そこで、青空文庫プロジェクト・小熊秀雄全集に掲載してある漫画台本「火星探検」から、そのあたりを引用する。

●小熊秀雄「火星探検」台本(トマト騒動あたりを抜粋)

「・腹痛(はらいた)
1
地球のお客さんが病気になつたのだ
どうしたのだらう
やあ 病院車がやつてきた
23
さて、みなさん あなたたちは今日なにを召上りました トマトをたべたでせう しかも種まで
ハイ 僕たちはたべました
24
それがいかんのです 種をたべたのが
地球では トマトは種までたべるんですよ
25
火星ではトマトの種はたべません 種は、ていねいに出して運河に捨てます
すると 大洪水のとき種は畑に自然にまかれる
それぢや 種をまかなくてもいいや
26
あなた方は トマトを種ごと呑んだ だからトマトが お腹に生へだしたのです
えつ? 僕たちの体の中に?トマトが生へだしたんですかあ?
ウワア! 困つた

・火星の看護婦さん
22
こりや いくらあばれても駄目だ くやしいなあ よし! ここを出たらトマトたちめ 
みんな踏みつけてやるから
わはあ 地球のお客の喰ひしん棒
種までたべたいやしん棒
ずゐぶん貴方たちは意地わるね さうのぞくもんぢやないわ
お腹にトマトが生へるとさ
うわあ、これぢや手も足も出ないや とんだ野外病院に入れられてしまつた」


 絵がないからつまらないが、思い出せばくっきりとした線に、色使いが明彩であったような気がする。
 これも大昔のことになってしまった。

(追記20140804)ウェブサイトで漫画のトマトの場面を見つけた。
http://plaza.rakuten.co.jp/shov100/diary/201301200001/?scid=wi_blg_shashinkan_thumb001